涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

痛み、孤独、その一歩先に。

2007年12月25日 | 文学
 春先からの心配ごとであった子供が無事生まれ、これで後顧の憂いなくブログの更新にいそしむ……などということができるはずもなく、日々だっこと沐浴とおむつ替えに奔走しているパパ涼風でございます。妻の妊娠・出産を経たのと、現在進行形の子育ての中で、また色々と思うところはあるのですが、それはまた、ネタに詰まったときの切り札にとっておきます。

 さて、最近涼風の車内では、BUMP OF CHICKEN の新作アルバム「orbital period」がかかりっぱなしなのですが……俺的に今年の最高傑作、いや、涼風的にはここ数年で最大のヒットかもしれません。
 もともとテレビ等のメディアで「アルエ」だの「涙のふるさと」だの「カルマ」だのの曲の一部を断片的に聴いて、わりと丁寧な仕事をしているな、という印象は持っていたのですが、いざアルバムを聴いてみると、わりと、どころか、相当に丁寧な作り込みをしていることに、感心しました。これだけ「アルバムらしいアルバム」を聴いたのは久しぶりです。
 もともと涼風は「アーティストへの礼儀として、CDはお金を出して買うべきだ(レンタルやダウンロードで済ませるべきではない)」「シングルよりもアルバムを通して聴いて評価する」という趣味の持ち主なのですが、ここ数年、どのアーティストのアルバムを買っても「ベスト盤か?」と思わせるようなまとまりの無さを感じていたところでした。
 他方でこの「orbital period」は、シングル曲を6曲も含んでいるにもかかわらず、ジャケットや同梱ブックレットも含めて、アルバムとしての一体性を失わず、全体として同じ方向を指向しているように見えます。これは、作詞作曲を手がける藤原基央の持っているイメージを、他のメンバー・デザイナー・プロデューサー等が、しっかり共有しているということなのでしょう。

 というわけで「orbital period」所収の楽曲については、完成までにバンドメンバーを始め多くの人の手がかかっているとしても、すべて単一の人物の手による楽曲であるかのように扱ってしまって支障ないものと信じているのですが(いや実際、詞とメロディーは藤原が一人で書いてるんだろうし)、コトバの問題を扱う当ブログとしては、ここで同アルバム中の楽曲の詞の部分に特に着目したいと思います。いや、詞とメロディとアレンジ/バッキングが全体として調和していることは大前提として、あえてそこは目をつぶって、特に詞だけをピックアップするという邪道な鑑賞をしてみるわけですね。
 これらの歌詞はいずれも(例えばアジカン辺りと比べて)非常にシンプルで分かりやすいものですが、同梱ブックレットと併せて、全体に通底する雰囲気を象徴的に表しているのが、7曲目「ハンマーソングと痛みの塔」だと思います。物語仕立ての歌詞になっており、溜め込んだ「痛み」を箱に詰めているうちに、誰かに気づいてもらいたいと思ってその箱をいくつも積み上げていくようになり、箱を積んでは登り、積んでは登っていくうちに、却って周囲との距離は遠くなっていく、といった内容です。ちょっと引用してみます。

  そうか これでもまだ足りないのか 誰にも見えてないようだ
  それじゃどんどん高くしなくちゃ 世界中にも見えるくらい

  どんどん高く もっと高く 鳥にも届く痛みの塔
  そのてっぺんに よじ登って 王様気分の何様

  何事かと大口開けた やじ馬共を見下ろした
  ここから見たらアリの様だ 百個目の箱積み上げた

  お集まりの皆様方 これは私の痛みです
  あなた方の慰めなど 届かぬ程の高さに居ます

  きっと私は特別なんだ 誰もが見上げるくらいに
  孤独の神に選ばれたから こんな景色の中に来た


 さて、90年代のアーティストなら、おそらくここまでで終わりです。
 椎名林檎や浜崎あゆみの名を挙げればぴんと来るとおり、90年代は「痛みを叫ぶ女の子の時代」であったのではないかな、と、涼風はわりと本気で考えているのです。そしてその流れは未だ途絶えることなく、書店ではレイプやDVや友人の自殺といった「痛いモチーフ」を使い回した、女の子のためのケータイ小説が幅を利かせています。
 そうした「痛い女の子たち」を横目に(モーニング娘。や華原朋美もまた、違った意味で、痛々しい存在であったことに変わりはないのです)、男の子たちは何をしていたのだろう、という件については、少し前のエントリで触れた(ロス・ジェネ文学としての『ラブやん』。)ところでもあるのですが、この「orbital period」に至って、ようやく、荊の城で眠る姫を救いに入る王子が現れた、と、涼風は確信しました。
 先に引用した「ハンマーソングと痛みの塔」にはオチがあって、痛みの箱を積み上げた塔のてっぺんで孤独に打ち震えている「王様」を、下から誰かが「ダルマ落とし」の要領で助けに入るのです。

  下から順にダルマ落とし 誰かが歌うハンマーソング
  皆アンタと話したいんだ 同じ高さまで降りてきて


 これは、90年代にはなかなか有り得なかった展開だと思うのです。
 痛みと孤独を叫ぶ楽曲は、数多く歌われてきました。浜崎あゆみがその代表格であるように、そうした痛みは「共有される」ことによって幾許かの癒しを得てきました。
 BUMP OF CHICKENは(というより藤原は)こうした痛みや孤独を直視しながらも、それを共有しようとしません。傷を舐め合い、二人きりで安全な場所に引きこもるのではなく、自らが開かれた世界への架け橋になろうと試み、孤独の殻に閉じこもった少女に声をかけ続けるのです。
 これこそが、痛みと孤独、さらにそれを紛らすための(往々にして安易な)「癒し」を超えて、次へ進んでいくための、もっとも誠実な姿勢なのではないでしょうか。

 個人的な話をすれば「孤独」を克服するための「出会い」の重要性、というテーマは、涼風が10代から20代前半にかけて、追いかけ続けてきたものでした(文学界新人賞に初めて投稿した『ゼリィ・フィッシュの憂鬱』という小説が、まさにこのテーマに沿っています)。不可能なことですが、もしこの頃の涼風が「痛みの塔とハンマーソング」を聴くことができたなら、ひょっとしたらその後の人生違ったんじゃないか、とさえ思えてきました。……考えすぎ?

 さて、「痛みの塔とハンマーソング」から読み取ってきた「痛みと孤独を直視し、それを超えるために、出会おうとすること」という基本姿勢は、「orbital period」所収の多くの楽曲に共通して見られるものです。
 このような観点から聴くと「傷付ける代わりに/同じだけ傷付こう/分かち合えるもんじゃないのなら/二倍あればいい」と言い放つ「メーデー」や、「あなたが花なら/沢山のそれらと/変わりないのかもしれない」と平然と言ってのける「花の名」の凄みも、また違った形で伝わるというものです。
 もちろん、このアルバムの真のクライマックスは、「星の鳥」のテーマのリプライズに続いて14曲目に収録された「カルマ」であると信じて疑わない俺がここにいます。シングルで聞いたときと明らかに印象違います。アルバムの曲を頭から順に聴き、歌詞カード兼ブックレットのページを繰りながら、終盤でこの曲に行き着くと、真剣に「すげー」と思います。ほんとはここで「カルマ」の歌詞全部引用して終わりたいくらいですが、何と言うか無駄な労力だし、著作権関係も若干うるさいらしいので、上のリンクから各自歌詞参照して終わっといていただければ幸いです(ぉぃ


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【メッセージ】

2007年12月06日 | 日記・身辺雑記
 ひどく生きにくい時代だ。資本は労働に牙を剥き、老人は若者に牙を剥き、弱い者たちは夕暮れにさらに弱い者へと牙を剥く。実に単純な行動原理が連なって実に複雑にこの世界のメカニズムを蝕み、緩やかなアポトーシスへと向かわせている。
 誰かが公的年金制度は崩壊したと叫び、別の誰かが石油はあと68年で枯渇すると訴え、また別の誰かがヤンバルクイナはもうすぐ絶滅すると悲嘆にくれる。テレビのニュースは今日も凶悪な殺人事件があったことを伝え、僕らはそれらの声を鳥の声が絶えた春のBGMとして聞き流すことにすっかり慣れ、声の主の怒りに同調し、悲しみを共有し、あるいはそうしているふりをしながら、チョコレート掛けのバナナチップに舌鼓を打つ。
 自らの足を食する蛸のようであるという点において、僕らは皆分け隔てなく、愚かだ。かつてこれほどまでに、自分たちの愚かさを思い知らされる時代があったろうか?僕らはドミノ倒しを眺める無力で無責任な傍観者の視点でもって、この世界の緩やかな崩壊が現在進行形の確実な出来事であることを知り、また、自分は並べられたドミノの牌ではないものと根拠もなく思い込んでいる。
 パンドラの箱は既に空いているのだと認めざるを得まい。あらゆる災いは既にこの世に振り撒かれた後なのだ。しかしその箱の底に、果たして、最後の希望は残っているのか?

 こんな時代に君を送り出すに当たって、もちろん僕は、多大な責任を負っているのだ。その責任から生ずる義務を忠実に果たそうとするのなら、僕はこの世界の、僕の手が届く限りのほんの小さな一部分について、ほんの少し、本当にほんの少しでも、今よりよいものにして、君にバトンを手渡す必要があるのだ。
 しかし僕は目の前でドミノ倒しが既に進行していることを知り、その中で、僕自身も一枚のドミノの牌であると認識しているとしても、僕一人が流れに抗おうとしたところで、多くのドミノが押し流されるように倒されていく中で、僕もどちらかの方向に早晩なぎ倒されてしまうのだ、という諦念を抱かざるを得ない。
 だから僕は、ドミノ倒しの巨大なうねりに抵抗するたった一つの方法として、君に、無償の愛があることを伝えたいのだ。それこそがパンドラの箱の一番の奥底から最後に飛び出した、小さく儚い希望の欠片なのだ。僕が父であり、君が子であるという、とても素朴な事実あるいは物語が、どれほど「僕」が「僕」の内側で完結しようとする矮小な可能性を打ち砕くのか、僕らのプリミティブな孤独(≒死)の恐怖を振り払う灯火となるのかを、示そう。僕が君にできることといえば、結局のところ、それだけなのだ。

 ――本日、長女誕生。母子ともに健康。


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