馬頭親王氏のブログの9月28日付けエントリ辺りを読むにつけ、そういえば最近ウイスキー飲んでないナァ、などと遠い目をしてしまいました。
根っからアル中の涼風ですから、酒を飲んでいないわけではなくて、毎晩缶ビール1本くらいは空けるようにしているわけですが、冷静に考えてみると、ここ数ヶ月、ビール以外の酒を口にしていないような気がしてきました。
涼風はウイスキーが大好きです。いや、もちろん、ワインもブランデーも紹興酒も焼酎も大好きですが、その中でも、ウイスキーは別格です(ちなみに、ビールについては、もはや好きとか嫌いとかの次元を超えて、三度の飯を食うのと同じ感覚で、日常の一環に入り込んでいます)。
しかし、大好きだからこそ、多忙の合間を縫って飲むものじゃない、という変なこだわりがあります。ビールなら、大騒ぎする娘に夕飯食わせながら片手間で飲み干すことができますが、ウイスキーではそうはいきません。ウイスキーは、家族が皆寝静まった夜半に、一人で静かに飲むものです。普段水やジュース飲むのに使ってる3個500円の無印良品のタンブラーではなく、底がどっしりして飲み口の薄い、ロイヤルドルトンのウイスキーグラス(といっても、涼風の安月給では正規品は買えないので、気泡が1個入ってしまったB品ですが)でなければなりません。
このように考えていくと、最近ウイスキーを飲んでいない、というよりは、最近ウイスキーを飲むような心のゆとりを欠いている、ということなのかな、という気がしてきました。と同時に、ウイスキーが好き、というのは、ウイスキーの味が好きということよりも、ウイスキーを飲む、ということに付随して自分で用意するあれこれが好き、ウイスキーを飲んでいる時間が好き、という、一種の儀式みたいなものであることが理解できてきました。
学生時代、あるいは社会人になって名もない頃、小説書いたりウェブサイトに乗せる書評書いたりしていたときに、傍らにウイスキーが置かれていたころを思い返してみると、最近の自分の書き物にどうも色気がなくなってきたような気がするのは、このような「ウイスキーに象徴される余裕」を失していることによるのかもしれません。
そんなことをつらつら考えているうちに、無性にウイスキー飲みたくなってきたので、妻と娘が寝入ったところを見計らって、とっときのバランタイン(21年!)をお気に入りのロイヤルドルトンに注ぎ、ちびちび舐めながらこのエントリ書いてるわけですが、冷蔵庫を開けて気の利いたチーズのひと欠けも見当たらないことに愕然としました。日常的にウイスキー飲んでた頃なら、チーズとクラッカーとナッツ類は切らさなかったのにな。
そんなわけで今日の酒のアテはオムレツ。全然贅沢な気分になれねぇorz
根っからアル中の涼風ですから、酒を飲んでいないわけではなくて、毎晩缶ビール1本くらいは空けるようにしているわけですが、冷静に考えてみると、ここ数ヶ月、ビール以外の酒を口にしていないような気がしてきました。
涼風はウイスキーが大好きです。いや、もちろん、ワインもブランデーも紹興酒も焼酎も大好きですが、その中でも、ウイスキーは別格です(ちなみに、ビールについては、もはや好きとか嫌いとかの次元を超えて、三度の飯を食うのと同じ感覚で、日常の一環に入り込んでいます)。
しかし、大好きだからこそ、多忙の合間を縫って飲むものじゃない、という変なこだわりがあります。ビールなら、大騒ぎする娘に夕飯食わせながら片手間で飲み干すことができますが、ウイスキーではそうはいきません。ウイスキーは、家族が皆寝静まった夜半に、一人で静かに飲むものです。普段水やジュース飲むのに使ってる3個500円の無印良品のタンブラーではなく、底がどっしりして飲み口の薄い、ロイヤルドルトンのウイスキーグラス(といっても、涼風の安月給では正規品は買えないので、気泡が1個入ってしまったB品ですが)でなければなりません。
このように考えていくと、最近ウイスキーを飲んでいない、というよりは、最近ウイスキーを飲むような心のゆとりを欠いている、ということなのかな、という気がしてきました。と同時に、ウイスキーが好き、というのは、ウイスキーの味が好きということよりも、ウイスキーを飲む、ということに付随して自分で用意するあれこれが好き、ウイスキーを飲んでいる時間が好き、という、一種の儀式みたいなものであることが理解できてきました。
学生時代、あるいは社会人になって名もない頃、小説書いたりウェブサイトに乗せる書評書いたりしていたときに、傍らにウイスキーが置かれていたころを思い返してみると、最近の自分の書き物にどうも色気がなくなってきたような気がするのは、このような「ウイスキーに象徴される余裕」を失していることによるのかもしれません。
そんなことをつらつら考えているうちに、無性にウイスキー飲みたくなってきたので、妻と娘が寝入ったところを見計らって、とっときのバランタイン(21年!)をお気に入りのロイヤルドルトンに注ぎ、ちびちび舐めながらこのエントリ書いてるわけですが、冷蔵庫を開けて気の利いたチーズのひと欠けも見当たらないことに愕然としました。日常的にウイスキー飲んでた頃なら、チーズとクラッカーとナッツ類は切らさなかったのにな。
そんなわけで今日の酒のアテはオムレツ。全然贅沢な気分になれねぇorz
それにしても、さすが涼風氏。やはりこことぞいう時にはいいサケ飲んでますね。私の机にはいま、マッカラン12年とバランタイン12年が置いてありますが、恥かしながらウイスキーはそれ以上高いものを飲んだことはありません。あ、山崎12年飲んだことがあったっけ。まあそのへん止まりです。
とはいえ、ご存知とは思いますがもともと戦後日本では、サントリーオールドでも充分に高級ウイスキーという扱いになっておりました。バランタインどころの話じゃない。いやー本当に我々の生活は豊かになったものですね。やはり資本主義というのはちょっとやそっとじゃ否定できませんね、といまさらながらに感じます。
なんでサントリーオールドの話を持ち出したかというと、YouTubeなんかで簡単に観れると思うのですが、昔のサントリーオールドのCMが、ちょうど私や涼風様くらいのトシになると、なんだか心に沁みるように思うからです。「恋は、遠い日の花火じゃない」とかそんな感じが。
グラスは現在、安いのを使ってます。いずれバカラのを買いたいな、と思っておりましたが成程ロイヤルドルトンというのもあるんですか。チェックしておきます。
さて、あの日のBlogにはちょっと反省することがありまして、酒の話をするときぐらい、やれボードリヤールだの「様式」だのといった七面倒くさい話に繋げずに、軽い日常トークで終わらせたかったのです。どうも馬頭の頭が堅いせいかああいう話になってしまったのは、ちと風流に欠くな、と思っております。これは残りの30代の時間をたっぷりかけて、ちょっとは風流な文章の書ける風流な男になりたいと思っております。涼風様の文章もいつも参考&励みにさせていただいております。今後とも、お互いよい刺激を与えられる関係でありたいと思います。
それでは、長文&駄文失礼いたしました(っていうほど長くもないか?)。
涼風の父や叔父なども「昔はサントリーのダルマ(=オールド)なんてのが飲めればもう天国」とか「ジョニ黒が普通にそのへんで買える時代が来るなんて思わなかった」とか喋っております。
この点については、馬頭様も「やはり資本主義というのはちょっとやそっとじゃ否定できませんね」と仰っていただいているとおりで、われわれは、われわれの父親たちがわれわれと同世代だった頃より、明らかにいい酒を飲んでいる。しかしそのことをもって、われわれの世代がわれわれの父親の世代より幸福である、と直ちに言い切れない。その辺りのもどかしさが、本文中でも引用させていただいた、馬頭様の9月28日付エントリの中にも含まれているのかな、と勝手に邪推しております。
いや、実に旨いんですよバランタイン21年。妻の海外旅行のお土産で、免税店の店員に上手いこと乗せられて買わされてきた、っていう背景はさておいて、とにかく丸みのある上品な酒で、これ飲んじゃったらなかなか角瓶とかダルマとかには戻れないです。そう思いながらも、今、これを飲んでいる俺よりも、昔「ダルマを飲んで天国気分だった」親父の方が、より深い快楽を得ていたんじゃないか、という疑念が振り切れない。そう考えてしまうと、せっかくのいい酒も興ざめです。
だからこそ、ウイスキー飲むときには、グラスとかつまみとか音楽とか、ディテールにこだわって、徹底的に気取って飲まなければいけないのかもしれませんね。余計なことを考える間もないくらいに、徹底して、「いい酒を楽しむ」という世界を作りこみ、入り込む。このノイジーな高度資本主義の世界で、旨い酒を心から旨いと言えるためには、それくらいの舞台装置を面倒がってはいけないのかもしれません。
ところで、ロイヤルドルトンの食器は、バカラ辺りに比べれば、いささか「工業製品」という感が否めないものではあります(しかしまあ、B品が安く買えちゃったんだから仕方ない)。
しかし百貨店はもちろんのこと、自宅から車で10分の郊外型SCでさえ、バカラとかミントンとかウエッジウッドとかの食器が(下手をするとマイセンでさえ)買えてしまう。やはりそこには一抹の寂寞感が…いかんいかん、同じ話が循環するのは酔っ払いの悪い癖。酒飲んで寝ます。