前回のトピックスに対して、せっかく馬頭親王様から鋭いコメントを頂いたのに、日常の瑣末な事柄に追われまくっているうちに半月以上も放置プレイ……あまりに申し訳ないので、馬頭様への返答を兼ねて、最近の東浩紀に対して涼風が思うところを少々。
とか言いつつ実際のところ、涼風は「動物化するポストモダン」から先の東浩紀の著作をろくに追いかけていません。『郵便的不安たち』が明晰な書物であり、これに比べれば『動物化するポストモダン』を始めとするその後の著作はクオリティが劣るものだと言わざるをえない、という点について、涼風は「ああ、きっとそうだな」と思える程度に同意できますし(この辺り馬頭親王様のブログ「公的自閉の場」から6月4日付け「期待すればこそ」を参照のこと)、涼風が東浩紀の著作を追っかけなくなったのは、『動物化するポストモダン』以降、さまざまな場面で「がっかりさせられてきた」からだと言って差し支えないでしょう。
さて、先日の記事で触れた『SIGHT』連載の東浩紀の記事『東浩紀ジャーナル第5回:現代思想の復活と新しい国家論』ですが、この記事は要約すると「萱野稔人と対談したら面白かったよ」というだけの超・自己満足テクストで「あーはいはい分かったから帰ってオナニーして寝てろよこのクズ野郎」と思わず言ってしまいたくなります。しかしまあ、そんな気持ちをぐっとこらえてこの記事をもう少し細かく読んでみると、要するに「福祉国家論の萱野vsリバタリアニズムの東」という議論が面白かったよ、という話です。フランス思想をホームタウンとする2人のことですから、アメリカ現代思想にはもしかしたら疎い(あるいは、興味がない)のかもしれませんが、リバ=コミュ論争の縮小再生産を今さらやってどうする。
今回、このたかだか4ページの記事から、現在の東浩紀の立ち位置というものを、随所に窺うことができます。たとえば、
現在思想の議論は、凡庸な状況認識と難解なテクニカルタームを一足飛びに結びつけ、自己満足に終わるものが多い。互いの政治的立場が異なっても、萱野氏と筆者は、そのような自己満足を避ける意志だけは共有していた。
おそらくその意志は、筆者たちがともに、二〇代にポストモダニズムの洗礼を浴びながら、その力が急速に衰えていく時代を長く見てきたことに由来している。筆者たちは現代思想の力を信じているが、それがそのまま通用するとは思っていない。というよりも、思えない。その諦念が、抽象的な議論に、独特の手触りとわかりやすさを与えている。
というような記載があります。はっきり言ってこの表現そのものが陥っている自己満足のまずさに比べれば、一般的な現代思想の言説が陥りがちな自己満足など可愛いものだ、とも思えるのですが、ともかくここから読み取れることは、東浩紀に「ニューアカデミズムの嵐とその爪痕」が常に大きな影を落とし続けているということ、そしてそれを回避しようとして、一般的な現代思想のテクニカルタームを回避しようとすればするほど、結果的にニューアカデミズムの例とよく似た陥穽に陥っているということ、であるように思えます。
したがって、ここであえて意図的に、東浩紀に同情する視線でもって再読してみると、ニューアカの負の遺産というのは、東らの世代にとっては、ほとんどアレルギーと言うべき反応が示されるところのものなのだ、ということが読み取れるのです。ともかく、ニューアカの同じ穴に転落するわけにはいかない、という気持ちが何にも増して先立つので、小手先でいろいろ細かくこね回して回避しようとするから、その手垢に塗れた分だけ、テクストが明晰さを失っていく。先日の記事で涼風が東浩紀を「策士策に溺れる」と評したのは、要するに、そういうことだと思うのです。
これと比較すれば、彼のデビュー作と言うべき『ソルジェニーツィン試論』辺りを含む『郵便的不安たち』が明晰な書物であったことは、むしろ当然のことなのでしょう。簡単に言ってしまえばそれは「若さ」なのかもしれません。姑息な計算が先に立たず、あっけらかんとしていることが、テクストに活力と明晰さを与えるのでしょう。
そのような観点からすれば、この『SIGHT』誌全体が「あっけらかんとした作り」である中で、東浩紀だけがただ一人「苦悶し、試行錯誤し、のたうち回っている」がゆえに「姑息な計算が鼻につき、活力を失し、明晰さを欠いている」という結果に陥っている、との説明も成り立つと思います。
かような事態を打破するために、東浩紀にはどこかで「軽やかさ」を身に付けていただきたい、と、涼風は願います。ここで「軽やかさ」と言うときに、涼風の脳裏によぎる第一の人物は柄谷行人で、第二の人物はアガンベンです。思い返せばデリダにも、時空を自由自在に泳ぎ回るような、ある種の軽やかさが常に伴われていたのではないでしょうか。願わくば、東浩紀もそのような「軽やかさ」の方向へ足を踏み出してもらいたいものです。現代思想のテクニカルタームを毛嫌いして遠ざけるのではなく、手懐けて使いこなしてこそ、道が開けるのではないでしょうか。ハイカルチャーもサブカルチャーも、政治も思想もエロもオタクも、分け隔てなくごった煮にして語っていただきたいものです。
補足。
リバタリアニズム批判については、涼風の専門分野ですので大いに語りたいところですが、ここでは簡単に以下の2点を指摘するにとどめます。
1:リバタリアニズムはその前提として、ロック由来の「自然人」のイメージを描いており、これは「真に自律的な主体」という幻想を抱いているものと批判できる。現代思想のテクニカルタームを用いれば「主体≒現存在の被投性」を無視した架空の議論であり、したがって実験室の実験と同様、特定の条件の下で特定の帰結をもたらすことの観察としては興味深いとしても、現実の社会の分析に当てはめるには、不適切なツールである。
2:ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』がロールズ『正義論』の批判として記された経緯から、両者は「自由至上主義的リバタリアニズム」と「福祉国家的リベラリズム」の正典であるかのように扱われ、種々の(往々にして不毛な)議論を呼んだが、そもそも自著がこのような運動を引き起こすことは、ノージックの本意だったのかどうか。読み方を変えれば同著は「ロックの自然状態からスタートするもっとも極端な仮定から論を展開しても、やはり『最小国家』としての国家を否定できない」という、国家擁護論として採用することも可能なのではないか。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。
とか言いつつ実際のところ、涼風は「動物化するポストモダン」から先の東浩紀の著作をろくに追いかけていません。『郵便的不安たち』が明晰な書物であり、これに比べれば『動物化するポストモダン』を始めとするその後の著作はクオリティが劣るものだと言わざるをえない、という点について、涼風は「ああ、きっとそうだな」と思える程度に同意できますし(この辺り馬頭親王様のブログ「公的自閉の場」から6月4日付け「期待すればこそ」を参照のこと)、涼風が東浩紀の著作を追っかけなくなったのは、『動物化するポストモダン』以降、さまざまな場面で「がっかりさせられてきた」からだと言って差し支えないでしょう。
さて、先日の記事で触れた『SIGHT』連載の東浩紀の記事『東浩紀ジャーナル第5回:現代思想の復活と新しい国家論』ですが、この記事は要約すると「萱野稔人と対談したら面白かったよ」というだけの超・自己満足テクストで「あーはいはい分かったから帰ってオナニーして寝てろよこのクズ野郎」と思わず言ってしまいたくなります。しかしまあ、そんな気持ちをぐっとこらえてこの記事をもう少し細かく読んでみると、要するに「福祉国家論の萱野vsリバタリアニズムの東」という議論が面白かったよ、という話です。フランス思想をホームタウンとする2人のことですから、アメリカ現代思想にはもしかしたら疎い(あるいは、興味がない)のかもしれませんが、リバ=コミュ論争の縮小再生産を今さらやってどうする。
今回、このたかだか4ページの記事から、現在の東浩紀の立ち位置というものを、随所に窺うことができます。たとえば、
現在思想の議論は、凡庸な状況認識と難解なテクニカルタームを一足飛びに結びつけ、自己満足に終わるものが多い。互いの政治的立場が異なっても、萱野氏と筆者は、そのような自己満足を避ける意志だけは共有していた。
おそらくその意志は、筆者たちがともに、二〇代にポストモダニズムの洗礼を浴びながら、その力が急速に衰えていく時代を長く見てきたことに由来している。筆者たちは現代思想の力を信じているが、それがそのまま通用するとは思っていない。というよりも、思えない。その諦念が、抽象的な議論に、独特の手触りとわかりやすさを与えている。
というような記載があります。はっきり言ってこの表現そのものが陥っている自己満足のまずさに比べれば、一般的な現代思想の言説が陥りがちな自己満足など可愛いものだ、とも思えるのですが、ともかくここから読み取れることは、東浩紀に「ニューアカデミズムの嵐とその爪痕」が常に大きな影を落とし続けているということ、そしてそれを回避しようとして、一般的な現代思想のテクニカルタームを回避しようとすればするほど、結果的にニューアカデミズムの例とよく似た陥穽に陥っているということ、であるように思えます。
したがって、ここであえて意図的に、東浩紀に同情する視線でもって再読してみると、ニューアカの負の遺産というのは、東らの世代にとっては、ほとんどアレルギーと言うべき反応が示されるところのものなのだ、ということが読み取れるのです。ともかく、ニューアカの同じ穴に転落するわけにはいかない、という気持ちが何にも増して先立つので、小手先でいろいろ細かくこね回して回避しようとするから、その手垢に塗れた分だけ、テクストが明晰さを失っていく。先日の記事で涼風が東浩紀を「策士策に溺れる」と評したのは、要するに、そういうことだと思うのです。
これと比較すれば、彼のデビュー作と言うべき『ソルジェニーツィン試論』辺りを含む『郵便的不安たち』が明晰な書物であったことは、むしろ当然のことなのでしょう。簡単に言ってしまえばそれは「若さ」なのかもしれません。姑息な計算が先に立たず、あっけらかんとしていることが、テクストに活力と明晰さを与えるのでしょう。
そのような観点からすれば、この『SIGHT』誌全体が「あっけらかんとした作り」である中で、東浩紀だけがただ一人「苦悶し、試行錯誤し、のたうち回っている」がゆえに「姑息な計算が鼻につき、活力を失し、明晰さを欠いている」という結果に陥っている、との説明も成り立つと思います。
かような事態を打破するために、東浩紀にはどこかで「軽やかさ」を身に付けていただきたい、と、涼風は願います。ここで「軽やかさ」と言うときに、涼風の脳裏によぎる第一の人物は柄谷行人で、第二の人物はアガンベンです。思い返せばデリダにも、時空を自由自在に泳ぎ回るような、ある種の軽やかさが常に伴われていたのではないでしょうか。願わくば、東浩紀もそのような「軽やかさ」の方向へ足を踏み出してもらいたいものです。現代思想のテクニカルタームを毛嫌いして遠ざけるのではなく、手懐けて使いこなしてこそ、道が開けるのではないでしょうか。ハイカルチャーもサブカルチャーも、政治も思想もエロもオタクも、分け隔てなくごった煮にして語っていただきたいものです。
補足。
リバタリアニズム批判については、涼風の専門分野ですので大いに語りたいところですが、ここでは簡単に以下の2点を指摘するにとどめます。
1:リバタリアニズムはその前提として、ロック由来の「自然人」のイメージを描いており、これは「真に自律的な主体」という幻想を抱いているものと批判できる。現代思想のテクニカルタームを用いれば「主体≒現存在の被投性」を無視した架空の議論であり、したがって実験室の実験と同様、特定の条件の下で特定の帰結をもたらすことの観察としては興味深いとしても、現実の社会の分析に当てはめるには、不適切なツールである。
2:ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』がロールズ『正義論』の批判として記された経緯から、両者は「自由至上主義的リバタリアニズム」と「福祉国家的リベラリズム」の正典であるかのように扱われ、種々の(往々にして不毛な)議論を呼んだが、そもそも自著がこのような運動を引き起こすことは、ノージックの本意だったのかどうか。読み方を変えれば同著は「ロックの自然状態からスタートするもっとも極端な仮定から論を展開しても、やはり『最小国家』としての国家を否定できない」という、国家擁護論として採用することも可能なのではないか。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。