涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

がんばれ若者。

2010年02月06日 | 時事・社会情勢
 最近、2歳の娘がNHK教育『ニャンちゅうワールド放送局』の「めがねのうた」をエンドレスで歌ってるので思考回路破壊されてます。それはパパが眼鏡萌えと知っての攻撃ですかそうですか。

 年末の話ですが、NHK教育テレビが「もう一度見たいETV50周年」とかそんな名前の特番組んでて(ゴールデンウィークに1回やった特集の焼き直しですが)、『おーいはに丸』だの『できるかな』だのといった昔の「名作」を放送してました。
 で、『はたらくおじさん』とか『たんけんぼくのまち』とか見ながら妻がふと、「こうやって見ると、昔の教育番組と今の番組って違うよねー」とか言い出すわけです。妻曰く、昔の教育番組は「早く大人になりたい」あるいは「どんな大人になりたいか」というメッセージが頻繁に含まれていたのに、最近の教育番組には、それがない、と。言われてみると確かに、最近の子供向け番組(娘のおかげで私もすっかり教育番組に詳しくなりました)は、子供である現在をありのままに楽しむことに主眼を置いていて、大人へ向かう一過程としての子供、という捉えられ方はされていないように思えます。

 ところで最近、涼風は通勤の車内でflumpoolの1st『What's flumpool!?』を聴きまくっております。年末の千葉テレビで『見つめていたい』のPVが流れてるのをふと耳にして、すっかり気に入って買ってきたのですが、まあ、こんな若い子たちが(とか言ってしまえる歳になってしまいました)、今時こんな古典的なバンド・スタイルの音楽を作っていることにまずはびっくり。ドラム&ベースのハードな作り込みと、だだ甘のメロディーライン&歌詞のギャップというか、危ういバランスが心地よいです。ただ、とにかくドラムが上手すぎるので、却ってこのバランスがいつまで保てるか少々不安。
 って、今回は音楽の話というより、歌詞の話なのですが。上記アルバムの最後に収録されている曲『フレイム』は、就活応援サイト「マイナビ2011」の「就活応援ソング」なんだそうです。応援ソング、なんていうフレーズからは前向き一直線な印象を受けますが、実際のところは

 走った分だけ 磨いた分だけ すべて報われるわけじゃない

 とか、平気で後ろ向きな歌詞を歌い上げています。

 所謂「リーマン・ショック」以後、就職難が再びクローズアップされています。政治家の皆様は「第二のロストジェネレーションを作らない」とか息巻いてますが、その言い方ではすっかり見捨てられたこと確定となる、第一次ロストジェネレーション真っ只中の涼風としては、何だか他人事とは思えません。
 企業が採用枠をぐっと絞ってる中で就職活動を続けるというのは、結構精神的にしんどい作業です。自分自身を商品として、誰も買ってくれない中で飛び込み営業を繰り返しているようなものです。「買わないよ、邪魔だ、帰れ」と何度も門前払いを食いながら、それでもなお「労働力いかがっすかー」と売り歩く訪問販売です。何度も拒絶され、否定されていくうちに、こうまでして働く価値があるのか、こうまでして生きている意味があるのか、みたいな「就活うつ」に陥る事例も、少なからずあるでしょう(実際、私はなりかけました)。
 そのうえ、少なくとも私が就活していた頃は、周囲もむやみに「頑張れ」を繰り返すわけです。振り返れば就活に限らず、受験でも何でも、「大丈夫だ、お前はやればできる、頑張れ」的な応援というのは涼風の身の上に繰り返されてきた出来事であって、それは重圧となって、あるいは理想と現実のギャップとなって、若かりし頃の涼風を苦しめてきた出来事であったわけです。
 そう考えると、今就活に向かう、涼風より一回り若い世代の人々は、「頑張っても上手くいかないことがあることを知っている」分だけ、涼風たちの世代より強くなれる可能性がある、のかもしれません。少なくとも、flumpoolが歌うように、拒絶され、否定され、傷つき、疲れたとしても、そんな経験もひっくるめて全部自分を肯定できるように、そっと支えて応援してくれる雰囲気があるのであれば、「第二のロストジェネレーション」などとあまり悲観しなくてもいいのかもしれません。
 『はたらくおじさん』的な将来が唯一絶対の正解ではないのだ、ということを、涼風の世代の場合はある程度大人になってから知らされてがっかりしたわけですが、今の大学生くらいの人たちは、そんなことにはずっと子供の頃から気づいてるんじゃないかと思うのです。

 指で創ったフレイムを覗きこめば
 遠くで手を振る 真っ白な僕がいる
 くたびれたリュックは空っぽのまま
 それでも微笑(わら)って Yesと答えたい
 自分で良かったと思える瞬間
 この世に出会えて良かったという瞬間
 自分で良かったと叫びたい瞬間を追いかけて歩く
 生きてゆくよ

 『フレイム』の歌詞のクライマックスを引用して終わっときます。
 頑張れ、あるいは、頑張るな、若者。

雑感(2題)。

2009年11月21日 | 時事・社会情勢
 政治・行政ネタは少し減らそうと心がけていたのですが、そうしたら書くことが何もないことに気づきました。本読め自分。

【お題その1:事業仕分け】
 事業仕分けの実態が財務省主計局主導であることは、実は大した問題ではありません。(今までほとんど注目されることのなかった予算査定作業を、公開の場で、注目を集めて行うことだけでも意義がある)
 事業廃止等の決定理由が一面的に過ぎるとか、言い分を聞いてくれないとかいうのも、実は大した問題ではありません。(公費で行う事業である以上、どの事業にも公益があり、なかなか廃止し難い事情があるのは当たり前。それを強引に選別し、経営資源を一極集中するための手法が事業仕分けなのだから、切られる側にとっては強引に・一方的に切られるのはむしろ当然のこと)
 最大の問題点は、すべての事業について行わなければ意味がない作業を、一部の事業についてだけ実施していることであって、この「仕分けを行う事業と行わない事業の選別」が必ずしも透明な手続で行われているとは言いがたいところが、今回一番まずいところです。

【お題その2:カツマーvsイケノブ】
 うん、べつに、どっちでもいいですが。
 インフレターゲット論なんて、私が大学在学中ですから、そうですね、もう十年も前に、ほとんど終わった議論だと思ってました。
 別に政策の是非を云々するんじゃなくて、単に技術論としてですが、この超低金利の状況で中央銀行が人為的にインフレ起こす手立てが何かあるのかどうか。単に紙幣たくさん刷れば貨幣価値下がる、みたいな単純な社会構造でないことくらい、さすがに素人の私でも分かります(信用取引がこれだけ高度化した社会で、実体貨幣の流通量はそんなに大きなファクターじゃない)。ジンバブエみたいに国内産業崩壊させればインフレ起こるかもしれませんが本末転倒。

大事なのは世襲制限じゃなくて。

2009年09月28日 | 時事・社会情勢
 一部で「史上もっとも注目されない総裁選」などと揶揄された自民党総裁選ですが、実はこっそり注目してました。正直、やる前から結果の見えてた衆議院議員選挙などより、よっぽど注目してました。それだけに、結果を見て「うん、まぁ、そんなもんか」と軽い失望を覚えたのも、まあ自業自得といったところでしょう。
 どこに注目していたかというと、河野太郎が、議員票をどれくらい取れるか、というところです。蓋を開けてみると3候補中最下位の35票という結果で、ああ、野党になったからってそんな簡単に変わるもんじゃないんだなぁ、と慨嘆するに十分でした。

 衆院選での惨敗を受けて、自民党の国会議員の年齢構成がいびつになってしまったことは、多くのメディアが指摘しているところです。派閥の領袖クラスを含むベテラン議員が、小選挙区でことごとく敗れた結果、比例区でこれらのベテラン議員ばかりが復活当選し、名簿下位の若手議員まで椅子が回ってこなかった、というお話です。
 しかし、であるからこそ、ここは国民にアピールするチャンスであったと思うのです。
 小選挙区制が導入され、世論のちょっとした動向が思いもよらぬ議席数の変動に影響する、そんな状況だからこそ、小泉純一郎はあえて、特定郵便局長という自民党最大の集票マシーンを「ぶっ壊す」ことによって自民党を延命させることに成功したのだし、その後を継いだ3人はまったく「風を読む」ことができず、旧来の自民党的なものの考え方に掴まって、ただ党勢が衰退していくのを指をくわえて見守ることしかできませんでした。
 今回自民党は衆院選で大敗し、野党になりました。前回(一時的に)野に下った時とは異なり、過半数を失っただけでなく、最大政党でもなくなったことで、政権に返り咲く展望は、短期的なスパンでは描くことができなくなっています。
 つまり、今誰が自民党総裁の座に就いたとしても、それは(河野洋平が総裁になった時と比べてもさらに絶望的なまでに)総理になる可能性の乏しい総裁です。
 もっと言ってしまえば、ここで総裁になった者が多少何かをやらかしたからといって、今の自民党に失うものなどありません。野党である自民党は、積極的にリスクを取りに行くことのできる立場です。このタイミングで、いちばん無難な候補を選んでどうするのか、と問いたい。
 河野太郎は、今の自民党の中では数少ない、「とんがった」政治家であると思います(良くも悪くも)。一国の首相としてはそれではいけないのかもしれませんが、野党第一党の党首なら、それでもいけると思うのです。
 もしかしたら、前原誠司が民主党の代表を務めたときの偽メール問題のように、派手なやらかしをしてしまうかもしれない。しかし、その時にこそ、谷垣禎一のような「無難な人材」への取替えが可能なのであって、先に無難な人材を使ってしまったら、その後反転攻勢に出ようとしたところで、そう簡単には、とんがった人材への取替えはできないと思うのです。


 私が「自民党はもう駄目かもしれない」と思ったのは、衆院選よりもう少し前、世襲制限が与野党間で話題になっていた頃のことです。この問題に対する対応は、民主・自民どちらも的外れであったと思いますが、自民党の某ベテラン議員が、世襲制限に対して、「憲法が保障する職業選択の自由に反する」と真顔で言っていたことです。

それ言うなら職業選択の自由じゃなくて参政権だろ。

 国会議員はいつから「職業」になったのでしょう。アーレント風に言えば、彼らは政治の場で活動actionをするのではなく、仕事workをするのだと明言しているのです。それはもはや公的領域の行為ではなく、当該議員自身の必然性に裏打ちされた、私的領域の出来事です。
 まさにこの議員は「政治家」ではなく「政治屋」であることを自ら告白したのであって、職業的に、自らの食い扶持のために議員であろうとしているだけであり、国家の舵取りを担う覚悟など、微塵もないことを明らかにしているのです。
 出自が世襲かどうか、など問題ではありません。世襲、即、無能、と決まったわけではない。ただわれわれは、「政治屋」ではない「政治家」にこそ、国政を託したいのです。われわれは世襲を批判しているのではなく、世襲議員が政治の世界を私物化していることを批判しているのです。

 もう少し補足すれば、世襲問題とは「世襲議員が多すぎるから、世襲の候補者が立候補できなくすべきだ」という「間口を狭める」問題ではなく、「世襲議員が多すぎるから、世襲ではない候補者がもっと選挙で戦える下地を整えるべきだ」という「間口を広げる」問題として捉えなければならなかったと思うのです。
 この問題を突き詰めると「サラリーマンが立候補できる仕組みづくり」を考えなければいけない、という話になるのですが、既に話がだいぶ逸れてきて、今回のエントリの趣旨から少し外れてきたので割愛します。

 とりあえず、野党になってもまだ、国会議員を当選回数でランク付けしたり、派閥の論理で物事が動くと思っているうちは、自民党は過去の栄光を懐かしむ敬老クラブとしての機能しか果たさない、と、あえて苦言を呈しておきましょう。今までの自民党政治の中で当たり前だった物事をいったん取り払い、自民党の骨組みを根幹から考える。野党となった自民党に求められているのは、そのような「自民党を見直す」作業であり、ここでは谷垣禎一という食事療法より、河野太郎という劇薬を投じるべきではなかったのかな、と思うのです。少なくとも、旧体制の破壊、という効能については、この劇薬はきっと効いたんじゃないかな(その後の骨格形成に効くかどうかは未知数ですが)、と思うと、つくづく、今回の総裁選の結果は残念でなりません。

3.私は、臓器を提供しません。

2009年06月30日 | 時事・社会情勢
 すっかり間が空いてしまいました。相変わらず、ブログの更新どころか、自宅でパソコン立ち上げる時間がほとんど取れない状況ですが、それに加えて最近は、時々パソコンを起動することがあったとしても、ブログ書かずに、次の小説の構想を練ったりしていたもので、気がついたらもう2ヶ月のご無沙汰です。サボりすぎや。
 ちなみに、ラノベ書こうと企んでおります。以前から構想練っていた「ガンズ&ソーサリー市民革命前夜もの」とか「腕っぷしの弱い小国の第二王子もの」とかを一旦全部お蔵入りにして、新たに「インテリジェントソードに半分乗っ取られながら殺し合う強化人間もの」みたいな殺伐としたやつを考えています。まだ資料集めの段階で、執筆に着手するまでには当分かかりそうですが。

 旬を過ぎた感がありますが、臓器移植法の話などを。
 職場で臓器移植法の話題になり、そういえば自分もドナーカード持ってたナァ、と思って財布から取り出してみたところ、署名の日付欄には「平成11年3月9日」と書いてありました。カードは端っこのフィルムが少々めくれてはいますが、あと十年は戦えそうです。てか、どんだけ物持ちいいんだ自分。

 私の持っているドナーカードは、いちばん初期型のやつで、今コンビニとかに置いてあるやつとは絵柄とかは全然違うのですが、日本臓器移植ネットワークのホームページで確認する限り、裏面の記入欄の作りは、10年前も今も違いはないようです。
 そして、私のドナーカードは、表題に掲げたとおり、「3.私は、臓器を提供しません。」の欄に○印が付けてあります。繰り返しますが、署名の日付は平成11年3月9日。つまり、私はここ十年間、一貫して、死後臓器を提供する意思がないことを、宣言し続けている、ということになるわけです。

 最初、このドナーカードを持とうと思ったとき(当時私は大学生でした<歳バレ)、正直、そんなに深く考えずに、3の欄に○を付けたのでした。当時の考え方は単純で、要するに、もう少しじっくり考えてから決めたかったけれど、とりあえず、考えがまとまらないうちは、臓器を提供しないことにしておく、という判断をしたのです。そして、「とりあえず『提供しない』に○付けて持ってるからー」と、母親と当時の彼女とに報告しておいたのでした。
 さて、あれから十年。当時の彼女は今や妻になってしまいました。臓器移植法改正案衆院通過のニュースを見ながら、私は隣に座った妻に、「相変わらず『提供しない』に○付けて持ってるからー」と報告しています。この十年間、私なりに色々なことを考えた結果、1や2の欄に○を付ける、という決断には至りませんでした。
 臓器移植により助かる命があるということは理解しています。私も、もし自分の近しい人が重篤な病に冒され、命を繋ぐ道は臓器移植より他にない、と言われたときに、無事に臓器移植がされて命が助かりますように、と祈ってしまうのでしょう。また、特に子どもの臓器移植に顕著な例ですが、国内で臓器移植ができない以上海外に渡るほかなく、法外な資金を用意して移植を受ける日本人が、諸外国から批判の種になっているとすれば、それも理解できる話であり、現に海外渡航して移植を受ける以外に選択肢のない人たちが存在し、また、海外移植の道は徐々に閉ざされつつある以上、国内での移植の道を開かねばならず、それは国際的な要請でもある、ということも、もちろん理解できます。
 しかしそれらの現実に直面してもなお、臓器提供者となることを躊躇する何かが、圧倒的に不気味な何かが、私の眼前には横たわっているのです。

 この「不気味な何か」を私なりに解読してみようとするとき、私は、自分の近しい人たちの死について空想します。
 例えば、祖父の葬式を思い出します。私の母方の祖父は、見た目健康そのものだったのがある日突然心停止を起こし、ぽっくり逝っちゃいました。正直、報せを聞いて病院に駆けつけ、遺体と対面してもなお、祖父の死、ということがすとんと腑に落ちなかったことを記憶しています。通夜と葬式を終え、火葬場へ行き、火葬炉の鉄扉が閉じられる、がしゃん、という音がしたときに、ようやく、涙が出てきました。その瞬間、ああ、人が死ぬってこういうことなんだ、というのが、何となく分かったような気がしました。
 今にしてそのような体験を振り返り、喪の作業、なんていう便利なテクニカル・タームで説明してしまうのは、簡単です。しかし、その時私が感じた圧倒的な寂寥感、突然何かのスイッチが入ったように、音もなく、ただひたすら涙が流れ落ちる不思議な身体的感覚は、確かに、決定的な経験であり、ある何かと別の何かを分断する線上において起こった出来事でした。
 究極的に「固有の出来事」であり、誰とも共有することができないはずの「個体の死」が、社会化され、分有され、「個としての死」から「集団の中の死」に転換した瞬間。上手く説明できないのですが、それは私が自分の外側にあった「ある死」を、自らの内側に取り込んだ瞬間であったように思うのです。

 臓器移植をめぐる議論は、このような「他者にとっての/他者における死」の観点を欠いていて、不自然に合理的にすぎるような印象を受けます。そこでは、自らの肉体・自らの生命は自分自身のものであり、自分自身の完全なコントロール下に置かれる、という物語が、無批判で受容されているように感じられます。
 脳死状態となる前にその人がした、脳死となったときに自らの肉体をどのようにすべきか、という意思表示が、脳死状態になった後も、つまり自発的な意思表示というものが見込めなくなった後も、その人の「正しい意思」であると認められ、それを拠り所にしてその人の生命は「終わった」と判断されます。そこでは、当該本人を囲む他者たちが、他者たちにとってのその人の「死」のあり方が、どの程度省みられているのでしょうか。
 脳死に陥り、もはや快復する見込みのない一人の人間と、それを囲む近しい人々。多くの場合、脳死に至る原因は突発的な事故なのですから、家族や親族にとって、脳死は、容易に受け入れ難い事実であると想像できます。その際に、本人が、脳死となったときは臓器提供者となる意思を事前に示していたとするならば、そのことは、家族や親族にとって、彼らの大切な人の「死を急かす」ことになりはしないでしょうか。あえて過激な言い方をすれば、「どうせもう脳死で生き返りはしないんだから、早く臓器を摘出させろよ」という有形無形の圧力が、家族や親族に絶対に及ばないと、言い切れるでしょうか。

 私が自分の臓器提供に同意しない理由は、要するに、自分の大切な人に何かが起こったときに、その人の臓器を他人に提供したくない、という、独善的で矮小な感情が、自分の中に多少なりと惹起されるであろうことを否定できず、また、そのことを否定すべきでないと考えるからなのです。
 大げさに言えば、私が脳死や心停止に陥った際に、私の両親や妻や娘が、「そいつの肉体は放っておいても無駄になるだけだから有効活用させろ」というプレッシャーを受け、死を自分の内側に取り込んでいく十分な時間を与えられない事態に陥ることを、避けたいのです。
 臓器移植で助かる命があるということは、一般論としては歓迎すべきことでしょうし、助かる命のために自らの肉体を提供してもよいという自己犠牲の精神は、とても尊く、崇高なものです。しかしながら、私は、人間はもっと弱くて非論理的な生き物であると考えていて、そんな人間の弱さを、肯定したいと考えています。どうも、昨今の臓器移植をめぐる議論は、すべての人間に強靭な精神と論理的思考を求めているように感じられてならないのです。
 私がドナーカードの「1(脳死時の臓器提供)」や「2(心停止後の臓器提供)」に○を付けることがあるとするなら、それは、自分の死に際して、自分の近しい人たちが、このように「強靭で論理的であれ」というプレッシャーを感じることは、きっとないだろう、という確信が持てたときになります。そのように考えると、現状は、未だ時期尚早です。

言葉尻の問題なのです。

2008年08月19日 | 時事・社会情勢

「やかましい」発言で釈明 太田農相
 太田誠一農相は10日、NHKの討論番組で「消費者としての国民がやかましくいろいろ言う」と述べたことについて「(日本は)民主主義の国だから(国民が)きちんと主張できて、それに政府が応えるという仕組みのことを言っている。文脈をみてほしい」と釈明した。番組終了後、記者団に語った。
 太田氏は「わざわざ(やかましいという言葉を)使ったわけではなく、1つの弾みだ」と述べた。
(2008/8/10共同通信)



やかましい発言:麻生自民幹事長が太田氏擁護論
「やかましい」は、「よく知っている」という意味--?

 太田誠一農相が食の安全について「消費者がやかましいから徹底する」と発言した問題で、「問題視する方がおかしい」との意見が19日の自民党役員会で出席者から出た。麻生太郎幹事長も役員会後の記者会見で、太田氏擁護論を展開した。

 麻生氏は会見でまず太田氏が福岡県、太田氏の母が島根県出身と紹介。そのうえで「関西以西では、やかましいって、みんな言うだろうが。うるさい、騒々しいという意味じゃない。『あの人、選挙にやかましいもんな』って言ったら、くわしい、プロ、そういったのをやかましいと言う。『よく知っている』という意味だ」と主張した。

 これに対し、民主党の山岡賢次国対委員長は記者団に「『おれの国ではこうだ』と発言して、それがまかり通ると思っている国会議員はいないと思う。あくまで擁護のための理屈だ」と批判した。【川上克己】
(2008/8/19毎日jp)


※赤字強調は引用者によります。

 さて、政治家の舌禍事件にももはや食傷の感のある昨今ですが、最大の問題点は、発言した本人もその周囲の人間も、結局どこが問題発言なのか分かってない、というところにあります。
 「文脈を見てほしい」という釈明は、以前、厚労相が「産む機械」発言をした際にも聞いたような気がしますが(なお「産む機械」発言に対する涼風の見解はこちらを参照)、そんな釈明が火消しになる筈がない、ということに気づかないあたりに、この国の「政治」の限界が透けて見える次第です。
 問題は、文脈の問題ではなく、言葉尻の問題なのです。その発言を含む文脈が全体として立派なことを言っているからといって、文言表現の不適切さについて責めを免れるわけではありません。不適切な表現を用いたことの不見識は、発言全体の妥当性によって治癒されることはないのです。文脈で判断してくれ、言葉尻を捉えるな、というだけでは、まるで釈明になっていません。
 政治家という、言葉の力で仕事をしなければいけない職種の人々が、これだけ言葉を軽んじていることに、言葉の問題を扱う当ブログとしては、少なからぬ文学的危機を見出しているのです。いや、ほんと、マジで。

 この「やかましい」発言が、言葉尻の問題として、いかにまずいのかという点について、少し掘り下げてみる必要があるでしょう。
 前掲の共同通信の記事で、再度発言の中身を確認しますと、「消費者としての国民がやかましくいろいろ言う」というものです。このような発言をする際に、発言者のポジションは、「消費者としての国民」から一定の距離を置いたものになっています。この距離感が問題なのです。
 「消費者としての国民」を自らから距離を置いたものとして捉え、「やかましくいろいろ言う」というその行動特性を分析し、これに対し「食の安全を徹底してやっていく」というレスポンスを用意する。このように解析すると、この発言がいかに「官僚的」であるか、ということが、理解できようというものです。
 このような「官僚的発言」の中核をなす文言表現として、「やかましい」という語をチョイスしたことについては、「わざわざ使ったわけではなく、1つの弾みだ」とのことです。無意識のうちに「やかましい」という語が出てきてしまうくらいには、消費者=国民を「いかにして静かにさせていくか」という思考方法が染み付いている。
 このような発言は、おそらく霞ヶ関の官僚にとっては、ある意味本音に近いものなのではないでしょうか。そして、行政権力にはその本来的な性質として「いかに国民を喧嘩させず食わせていくか」という部分があるところは否めないので、その意味で「国民がやかましいからきっちり対応しよう」というような気持ちを行政府の職員が抱いていたとしても、それはそれで、仕方がないところもあるように思えるのです(その考えを人前で披瀝することの是非はさておき)。
 しかし、このような発言を、あるいはこのような発言の根底に脈打つ「管理」の思想を、抑制するためにこそ、三権分立という制度があるのではないでしょうか。国民の直接選挙によって選ばれた国会議員=政治家が、互選により、内閣総理大臣=行政府の長を定め、総理大臣が指名する各大臣が各行政機関の長となる、という「政治から行政への関与・抑制の仕組み」は、このような「官僚的思考」に対し緊張を強いてこそ、その役割を果たしているといえるのではないでしょうか。それが、自ら官僚的思考に取り込まれているようでは、政治家としての職務を放棄していると言わざるを得ません。国民の負託を受けた被選挙民としての自覚を欠いていると非難されても仕方のないところでしょう。

 要するに最近の政治家の舌禍事件というのは、どれもこれも、「上から目線」でものを言っているところに、問題があると思うのです。上から目線でものごとを考えるのは「お上」=行政府に任せておいて、政治家は「民意の代表」の自覚を持って、このような上から目線に対し適切な批判・抑制を加えることにこそ心血を注ぐべきだと思うのですが、その政治家が率先して官僚的発言を繰り返しているようでは、官僚の思う壺です。
 そう考えてみると、この国の三権分立は、せいぜいが「2.5権分立」くらいのもので(そう言いつつ、裁判所の独立性についても疑って然るべき部分が少なくない、という話題は、また別の機会に)、いかに「霞ヶ関-永田町」の一体的な連携がこの国のエンジンとなってきたか、という現実の一端を、これらの舌禍事件が垣間見せてくれているようにも思えてきます。高度経済成長期においてはそれでも良かったかもしれませんが、成熟した社会、成熟した政治を目指そうとするなら、そろそろ、政治と行政のもたれ合いには終止符を打って、お互い独り立ちを目指さなければならないと思うのです。


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誰が首切り役人たりえるのか?

2007年10月09日 | 時事・社会情勢
 大変お久しぶりでございます。最近、私の住んでるアパートに光ファイバーが入りまして、これでようやくナローバンド生活とオサラバだぜ、とNTTから送られてきたCDをパソコンに放り込む→繋がらない→対策を講じるためAIR-EDGEで繋ぎ直そうとする→何故か繋がらなくなってる→いろいろ調べる→NTTのアプリケーションとウィルスセキュリティが喧嘩してることに気づく→セキュリティを切る→まさにその隙にウィルスに入られる→立ち上がらなくなる→システム再セットアップ、という遠い遠い道を回ってようやくネット世界に帰って参りました。
 ちなみに再セットアップ後NTTのCDを使わずに接続ウィザードで設定したら5分で接続完了したという罠orz

 さて、文学の看板を掲げながら政治・時事ネタに走りがちな当ブログですが、相変わらず大臣発言というのはネタのオンパレードですね。桝添厚労大臣の「市町村はもっと信用ならない」発言も興味深いところですが、よりいっそう本質的なところを衝いていて面白いのは、鳩山法務大臣の発言でしょう。

『署名なし死刑執行を』 鳩山法相、辞職後会見で
鳩山邦夫法相は二十五日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑執行について「法相が絡まなくても、自動的に客観的に進むような方法を考えてはどうか」と述べ、法相の署名がなくても執行できるように制度を変更すべきとの考えを示した。
 鳩山法相は「判決確定後六カ月以内に法相が執行を命令しなくてはならないという法律は守られるべきだ。しかし、誰も死刑執行の署名をしたいとは思わず、法相に責任をおっかぶせる形ではない方法がないかと思う」と語った。
 刑の執行は通常、検察官が指揮するが、死刑は「重大性を考慮し特に慎重を期する必要がある」とされているため、法相の命令が必要。法務省刑事局などが裁判記録を精査したり死刑囚の精神状態を検討したりするなど慎重な手続きを踏んだ上で、法相に署名するよう求めている。
 鳩山法相は会見で「わが国は三審制を採用し、最高裁裁判官の国民審査制度もある」と指摘。今回の提案は、日本の司法制度に対する信頼が前提にあるとしている。
 法相就任後の会見で「検討する」としていた刑を執行された死刑囚の氏名公表については「(死刑囚の)遺族の問題やほかの死刑囚の心情の問題があるので、公表する考えはない」と述べた。(東京新聞9/25夕刊)


 この発言を指して「馬鹿だ」とか「無責任だ」とか「法相の椅子を預かる者の発言として自覚を欠く」とか批判するのは実に簡単です。一市民ではなく法相の地位にある者の発言としては、確かに不適切だと私も思います。しかしそれはさておき、あるいは不用意な発言であるからこそ、この発言には、本質的な問題が含まれているように思うのです。

 涼風が注目したいのは、先の法相発言の中でも、次の部分です。
「誰も死刑執行の署名をしたいとは思わず、法相に責任をおっかぶせる形ではない方法がないかと思う」
 法相という地位にあっても、あるいは法相という地位にあるからこそ、自らが死刑に関与することに対し、嫌悪感を覚えます。それは理性的な、責任ある発言とは言い難いかもしれませんが、一人の人間の生理的な反応としては、おそらく自然なものなのでしょう。
 かように、相手が死刑囚であっても、あるいは相手が死刑囚であるから(国家権力の発現としてであるから)こそ、人間の命を奪うということ、そのプロセスに自らが関わるということは、非常にグロテスクな、気味の悪い出来事なのです。鳩山発言はそのことを、今一度思い起こさせてくれるのです。

 国家がその国民の生命を権力的に奪うという所作は、思えば非常に前近代的で、近代人権概念と真っ向から対立するものです。革命を経た近代国家は、国家権力に制限を課し、自由・平等・博愛のスローガンに象徴される人権を「国家権力の侵奪から守る」ことを内在的な制約としてきました。
 生存権は人権の中でももっとも基本的なものといえるでしょうから、国家権力が国民の生命を絶つことは、本来、決定的な禁じ手といえるのです。
 にも関わらず、この国で死刑制度が維持され続けてきていて、今もなお維持されているからには、おそらくわれわれは、この死刑という制度に一定のサンクションを見出してきたのでしょう。懲役刑を何百年科そうとも、死刑との間には、絶対的に超えられない壁があります。死刑はまさに終局的な刑であり、その執行後は、いかなる方法においても死刑に処せられた者を回復することはできません。
 したがって、死刑が肯定される条件としては、「国家が国民の生命を奪うという禁を侵してもなお、守られるべきものがある」ということ以外にありえません。とすれば、死刑は、他人の生存権その他の人権に、決定的な、回復不能な侵害を与える犯罪に対し、死刑をもってこれに応じることでサンクションを働かせることができ、また、それ以外に方法がない場合においてのみ限定的に肯定されるものなのです。
 付言すれば、死刑とは常に「苦渋の選択」でしかありえないのです。死刑以外の方法によってその犯罪を抑止できる場合や、その犯罪が「国家をして国民の生命を奪わしめる」という決定的な禁忌に比してなお重大とは言い切れない場合には、死刑を行ってはならないのです。

 鳩山発言に基づく「死刑自動化論議」なるものも、こうして見ると、単なる死刑肯定/否定論の枠を超えて、ポストモダン的(と、あえて言ってしまいましょう)国家のあるべき姿を夢想するプロジェクトの一部を成すものなのだ、と言えば、言い過ぎでしょうか。革命を経験した「近代国家」が、死刑に代表される国家のグロテスクさを際立たせ、注意を喚起し続けてきたのだとすれば、これに対し「後-近代国家」のひとつの有りうべき姿として、このようなグロテスクさをブラックボックスに押し込むことで、無味無臭化したものというのも、あながち想像できないわけではありません。
 しかしそれで良いのか?という問いかけには、当ブログは、もちろんノーを突きつけます。確かに、死刑という「苦渋の選択」から国家の構成員たる個々人が解放され、スイッチひとつで死刑が進めば、個々人の心理的負担はなくなります。しかしそれは、「後-近代国家」による国民の「飼育」のシステムが完成した姿でもあるのです。そのような国家の姿は、まるでジョージ=オーウェルがその代表作の中で描いたそれと、まるで変わりないのではないでしょうか。

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一億総ピーターパン時代の政治家の資質。

2007年06月27日 | 時事・社会情勢
 最近ろくにブログ更新してないくせにたまに更新しようとするとどうも政治ネタか法律ネタに走ってしまい、このブログの本旨であるところの「文学」にまるで触れようとしないのは、ここのところ涼風が仕事以外に特に何もしていないせいでしょう。本読んでないし。
 ……あ、書きかけの小説は400字詰め原稿用紙換算で280枚を超えました。まだ完結する気配がありませんorz

 さて、ここのところの政権運営の迷走ぶりが、ここに至って参院選の期日を1週間動かすに至り、個人的にはいろいろ予定が狂ったことの恨み言を呟いておる(諸般の事情で7/28の予定をキャンセルする羽目になった)ところですが、個人的な恨みはさて置いて、はてさて、どうしてこんなことになっちゃったのかなー、と首をひねっているところです。
 参院選前の人気取りというのであれば、国民の関心が年金問題に集中している昨今、社保庁解体法案や天下り改正法案を無理強いして通したとしても、そんなものが票に結びつかないことは明白です(国民の関心事の第一は、自分が年金をちゃんともらえるかであって、社保庁という組織をどうするかではない)。むしろ、官邸主導の強引ともいえる進め方で国会の会期を延長し、同じ与党議員であるはずの参院議長などに「参院軽視だ」とお叱りを受けている様は、現政権にとってマイナスイメージに映ることでしょう。
 かように、素人目にも百害あって一利なしの会期延長・法案裁決を、与党内の反対を押し切ってまで、どうして現政権が進めたのか。安倍晋三に政治センスが欠落しているのだ、という仮説も成り立たないではありませんが、今回ふと私が思い出したのは、前・総理と共通しないこともない、ある種の「頑なさ」なのです。

 小泉純一郎という男は、実に「劇場型政治」の天才としてその名を人々の記憶にとどめていくことでしょう。「郵政民営化選挙」となった一昨年の衆院選で、自民党に圧勝をもたらしたパフォーマンスは今思い返しても鮮烈なものですが、その小泉が、例えば靖国参拝については頑なとも言える姿勢を取り続け、あるいは「人生いろいろ、会社もいろいろだ」等に代表されるいささか乱暴な発言によってマスコミに噛み付き、それでいて最後まで「民衆の心」(そんなものがあるとすればですが)を掴んで離すことがなかった。これまでの日本の総理大臣にはありえないキャラクターでした。
 同じことが、石原慎太郎にも言えるのではないかと思います。歌舞伎町の浄化作戦やオリンピック誘致等で強固なリーダーシップを見せ、そのリーダーシップは例えば「林試の森」訴訟の実質和解による解決のような、これまでの行政庁におよそなしえなかった決断をなし(そう言えば小泉にもハンセン病訴訟の和解という歴史的決断がありました。そんなところも似ています)、他方で、三宅島公道レースプランに見られるように、ほとんど無益というべき頑迷さでもって、自らのアイデアに固執するところもあります。そして石原もまた、「三国人」「ババア」「フランス語は劣った言語」等の問題発言を繰り返し、それでいて悪びれることがありません。そんな石原もこの春の知事選で圧倒的大差の勝利を収め、再選されました。

 この二人の言動には、ある種の「幼稚さ」を共通して見てとることができます。そしてそれが幼稚さであるからこそ、「まあ、あの人も言うこと過激だからなぁ」などと大らかに受け入れられ、受け流されてしまう傾向を持っているように思います。
 こうした「幼稚さ」に対し寛容な土壌というのは、つまりはわれわれ有権者もひとしく幼稚であるがゆえなのだ、と言えば、穿ちすぎでしょうか?しかし私は、特段の根拠もなく、こう確信しているのです。今やこの国(この国に限らず、先進諸国に共通した話かもしれませんが)において、われわれは「大人になる」という機会を与えられておらず、真に成熟することのない、ある種の幼稚さを常に抱いたままで、歳を重ね、老いていかざるを得ない。そのような「一億総ピーターパン化」の時代にあって、政治家が国民の信を得るためには、自らの幼稚な部分を隠すことなくさらけ出すことにより、国民のシンパシーに訴えるのが、一番の早道なのではないでしょうか。

 ……もちろん、上記のようなことを考えるからには、涼風的には「有権者の僕らももっとオトナになろうよ」というような気分でいるわけです。しかし他方で、小泉・石原的なものは単に批判し排除される存在でもない、と思うわけで、今後の「あるべき政治(家)の姿」というのがどのようなものか、というのは、未だ量りかねているわけですが。
 それにしても、似たようなことをやってもまるで国民の支持を得られない安倍晋三は、要するに「そういうキャラじゃない」のでしょう。彼が早く自分に相応しいキャラクターの見せ方に気づくことを願います。


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国民投票法成立……それが何か?

2007年05月14日 | 時事・社会情勢
 国民投票法案が参院で可決され、成立しました。新聞やテレビのニュースは今日のトップニュースとしてこれを報じ、思い余ったどこかの幹事長が「参院選で各党、各候補が改憲に賛成か反対かを明らかにすべきだ」とか愉快なことをおっしゃっているのを目にしましたが、これってそんなに大騒ぎするようなニュースなんでしょうかね。……などと安易に口走ってしまう涼風@安保闘争も知らない若造でございます。
 ご承知のとおり、いわゆる国民投票法(正式名称は「日本国憲法の改正手続に関する法律」)は、実体的な権利義務関係を定めた法律ではなく、あくまで手続法です。憲法改正については、当の憲法そのものの第96条に、明確に定めがあることから明らかなように、正当な手続を踏めば、改正することができます。それにも関わらず具体的な手続を定める国民投票法が、憲法制定後60年を経た今日に至るまで制定されずに来たのは、この国民投票法の制定という行為そのものが改憲への着手と同一視されてきたことに他ならず、これは、この国の憲法にとってどちらかといえば不幸な歴史であったように思います。
 本来、憲法の改正手続が、他の法律のように立法府たる国会の単独行為で行うことができず、国民に直接問うことを求められていることは、改憲・護憲いずれの立場からも、賛同できることであるように思うのです。仮に「憲法9条の改正に反対」という立場を取るのであれば、国民投票法の成立を阻止するのではなく、国民投票法の成立後、実際に実施される憲法改正の手続の中で、衆参両院3分の2による議決の阻止、国民投票による過半数の可決の阻止のために運動すればよろしい。それなのにこの国は長年、「改憲の手続法を定めること」と「憲法9条を改正すること」を同一視してきてしまったために、肝心の国民投票法の具体的な中身について国民の興味を喚起することのないまま議論が上滑りし、何となく国民投票法が可決成立されてしまった、そんな印象を受けます。
 先の某与党幹事長の発言が象徴的なのですが、そもそも「改憲」「護憲」という対立軸そのものが幻想だと思うのです。具体的に今の憲法の何が問題で、どのように変えるのかについて示されなければ、賛成も反対もあるはずがない。例えば「9条2項の改正には反対だが、89条後段の改正には賛成」という立場だって許されていい。そして、そのような投票行動を排除しないという程度において、今回成立した国民投票法は、手続法として最低限度の機能を備えたものとして評価に値すると思います。
 同時に、一般市民ならいざ知らず、立法府たる国会の議員の皆様にあっては、各自のセンチメンタルな思い入れだけで憲法改正の論議を行うのではなく、現実的な問題を見据えていただきたいと思います。例えば「憲法9条の改正に反対」という立場がひとつ考えられますが、その場合、現実にこの国が保有している戦力をどのように説明するのか。集団的自衛権の問題を解釈で乗り越えようとする乱暴な議論に比べれば、9条の改正の是非を国民に問うことの方がよっぽど誠実な姿勢であるように思うのですが、それでも9条の改正を議論のテーブルに上げることそれ自体を否定するのであれば、それはいささか現実感に乏しい政治活動であるように思うのです。
 もちろん、具体的にどこをどう改正するのかを示さず「アメリカ押し付けの憲法だから改正すべきだ」なんてのは論外。

 涼風の個人的意見としては、9条はこの際脇に置いといて、概ね国民の誰からも反対が出なさそうな、89条後段からまず改正していけばいいんじゃないかな、と思います。だって明らかにこの国の実態に即してないし、私学助成との関係を26条との総合解釈で乗り切ろうってのも少し無理があるもん。

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※ 肝心の「日本国憲法の改正手続に関する法律」の最終案はこちら(衆議院ホームページにリンク)。

今日の「もう少しがんばりましょう」。

2007年05月09日 | 時事・社会情勢
 新聞を読んでいたら、非常に興味深い記事を発見しました。

吹田市、遊戯施設の検査基準示さず 条例ありながら放置

 大阪府吹田市のエキスポランドで起きたジェットコースター死傷事故で、同市が、遊戯施設の検査基準を市で独自に定められる条例がありながら、具体的に示していなかったことがわかった。放置せずに、日本工業規格(JIS)を条例に基づく検査基準として採用していれば、車軸の傷を超音波などで見つける「探傷試験」が現場で徹底され、事故の防止につながった可能性もある。

 建築基準法施行規則は、遊戯施設などの定期検査報告の際、必要な書類を自治体が独自に定められると規定している。これに基づき、吹田市は「市建築基準法施行細則」を条例として制定。第13条で建築設備等の状況把握に必要な書類を列挙する中で、「その他市長が必要と認める書類」と記しているが、同市は具体的な内容を定めていなかったという。

 この「市長が必要と認める書類」として「JISに基づく検査結果」とすれば、ジェットコースターの車軸の傷を調べる「探傷試験」は法的な義務となる。市も明確な根拠をもって施設側に試験実施を求めることができた。
(朝日新聞5月8日夕刊より抜粋記事(asahi.comより転載))

 これは面白そうだと思って、少しばかり調べてみました。
 調査結果は以下のとおりです。

  1. まず『吹田市は「市建築基準法施行細則」を条例として制定』は事実誤認。吹田市は「建築基準法施行条例」(平成12年条例第3号)と「建築基準法施行細則」(昭和46年規則第9号)を別個に定めている。〔参考:吹田市例規集

  2. 定期検査の添付書類について定めているのは「規則」の第13条第5項。当該規定は、建築基準法施行規則(以下「省令」という。)第6条第3項の委任により、市の「規則」で定めるべきもので、これを「条例」で定めることは省令に反する。

  3. 省令第6条第3項が市の規則に委任しているのは「報告」に際し報告書に添付する書類。申請ではなく報告なので、書類の不備があったからといって、直接に不利益処分をする法的根拠は存在しないし、報告書の受理を拒めば行政手続法に違反する疑いが強い。

  4. 当該報告の根拠となるのは、建築基準法第88条第1項で準用する同法第12条第3項。これらの規定から、検査項目について特定行政庁たる市が独自の規制を設ける余地を同法が認めているとは解しがたく、条例で独自規制を定めれば、憲法第94条及び地方自治法第14条第1項に違反する疑いが強い。


【結論】
 朝日さん、出鱈目にも程があります。


 あははははははははは(湿った笑い)。
 近年稀に見るダメ記事でした。予想通り、面白すぎ。条例と規則の区別くらいつけろよ。そして鬼の首取ったような勝ち誇った口調で憲法違反を勧めるな。
 ……まあ、このへんの「行政にいろいろ注文つける割に行政法の基礎知識を欠いている」あたりがいかにも朝日らしくて却って和んでいる俺様がここにいますが。
 今どきネットで↑くらい調べられるんだから、もうちょっと勉強してから記事書こうよ。


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※ 涼風は、かれこれ10年近く朝日新聞を愛読しています。上記は朝日新聞に対する愛のムチとご理解ください。


【関係条文】
 ※法令データ提供システム及び吹田市例規集より転載。赤色着色は引用者によります。

建築基準法(昭和二十五年五月二十四日法律第二百一号)
(工作物への準用)
第八十八条  煙突、広告塔、高架水槽、擁壁その他これらに類する工作物で政令で指定するもの及び昇降機、ウォーターシュート、飛行塔その他これらに類する工作物で政令で指定するもの(以下この項において「昇降機等」という。)については、第三条、第六条(第三項を除くものとし、第一項及び第四項は、昇降機等については第一項第一号から第三号までの建築物に係る部分、その他のものについては同項第四号の建築物に係る部分に限る。)、第六条の二、第六条の三(第一項第一号及び第二号の建築物に係る部分に限る。)、第七条、第七条の二、第七条の三、第七条の四、第七条の五(第六条の三第一項第一号及び第二号の建築物に係る部分に限る。)、第八条から第十一条まで、第十二条第五項から第八項まで、第十三条、第十八条(第十三項を除く。)、第二十条、第二十八条の二(同条各号に掲げる基準のうち政令で定めるものに係る部分に限る。)、第三十二条、第三十三条、第三十四条第一項、第三十六条(避雷設備及び昇降機に係る部分に限る。)、第三十七条、第四十条、第三章の二(第六十八条の二十第二項については、同項に規定する建築物以外の認証型式部材等に係る部分に限る。)、第八十六条の七第一項(第二十八条の二(第八十六条の七第一項の政令で定める基準に係る部分に限る。)に係る部分に限る。)、第八十六条の七第二項(第二十条に係る部分に限る。)、第八十六条の七第三項(第三十二条、第三十四条第一項及び第三十六条(昇降機に係る部分に限る。)に係る部分に限る。)、前条、次条及び第九十条の規定を、昇降機等については、第七条の六、第十二条第一項から第四項まで及び第十八条第十三項の規定を準用する。 【以下略】
(報告、検査等)
第十二条  【略】
2  【略】
3  昇降機及び第六条第一項第一号に掲げる建築物その他第一項の政令で定める建築物の昇降機以外の建築設備(国、都道府県及び建築主事を置く市町村の建築物に設けるものを除く。)で特定行政庁が指定するものの所有者は、当該建築設備について、国土交通省令で定めるところにより、定期に、一級建築士若しくは二級建築士又は国土交通大臣が定める資格を有する者に検査(当該建築設備についての損傷、腐食その他の劣化の状況の点検を含む。)をさせて、その結果を特定行政庁に報告しなければならない。【以下略】

建築基準法施行令(昭和二十五年十一月十六日政令第三百三十八号)
(工作物の指定)
第百三十八条  【略】
2  昇降機、ウオーターシユート、飛行塔その他これらに類する工作物で法第八十八条第一項の規定により政令で指定するものは、次の各号に掲げるものとする。
一  乗用エレベーター又はエスカレーターで観光のためのもの(一般交通の用に供するものを除く。)
二  ウオーターシユート、コースターその他これらに類する高架の遊戯施設
三  メリーゴーラウンド、観覧車、オクトパス、飛行塔その他これらに類する回転運動をする遊戯施設で原動機を使用するもの

建築基準法施行規則(昭和二十五年十一月十六日建設省令第四十号)
(建築設備等の定期報告)
第六条  【略】
3  法第十二条第三項 の規定による報告は、前項の報告書に、特定行政庁が建築設備等の状況を把握するために必要と認めて規則で定める書類を添えて行わなければならない。

吹田市建築基準法施行細則(昭和46年吹田市規則第9号)
(建築設備等の定期検査報告)
第13条 【略】
5 省令第6条第3項の規定により市長が建築設備等の状況を把握するため必要と認めて規則で定める書類は、次に掲げる書類とする。
(1) 機械室、かご、昇降路、レール、駆動装置、乗降ロビー、制御器又は安全装置を有する昇降機にあつては、当該昇降機に係る当該設備等の状況を示す書類
(2) 給気機、排気機、中央管理方式の空気調和設備、防火ダンパー、排煙機、排煙口、排気口、給気口、防煙壁、ダクト、非常用の照明装置、予備電源又は自家用発電装置を有する建築物にあつては、当該建築物に係る当該設備等の状況を示す書類
(3) その他市長が必要と認める書類

こうのとりのゆりかごに見る理想と現実。

2007年05月01日 | 時事・社会情勢
 例えば、小学校の裏手に巨大なため池があったとします。ため池の周囲は金網の柵でぐるりと囲ってありますが、小学生でも容易によじ登り、乗り越えられるものです。小学校では先生が、ため池に近寄ってはいけません、と常々注意していますが、子供たちはこのため池の周りで遊ぶのが大好きで、いつも先生の目を盗んでは、金網を越えてため池のすぐ近くで遊んでいました。
 先生も大人たちも、そんな子供たちをこっぴどく叱り付けるのですが、この街にはこのため池のほかに子供たちがのびのびと遊べる場所がないものですから、子供たちは何度叱られても、ため池の周りに遊びに行くのでした。
 ある日、子供の一人が、うっかり足を滑らせて、池に落っこちて、溺れてしまいました。子供たちは大慌てでしたが、そのうち、いちばん年長の子供が、学校のプールから救命浮き輪を借りてきて、池に浮き輪を投げて溺れた子を助けよう、と思いつきました。年長の子供は、学校に走って行って、先生にプールの鍵を開けて浮き輪を貸してくれるよう頼みました。
 ところが、先生はこう言いました。
「そもそも、あんな場所で遊んではいけないといつも言っているでしょう。ここで子供を助けるために浮き輪を使ったら、池で溺れても、浮き輪があるから助けてもらえる、という悪い前例を残します。そうしたら、子供たちが池で遊ぶのをいつまでたってもやめないじゃないですか。あのため池は、今度の職員会議の議題として、今後、埋め立てを市役所に要請する方向でいます。埋め立ててしまえば、根本的な解決になります」


 熊本市の慈恵病院が、かねてより設置の方向で調整していた「こうのとりのゆりかご」(「赤ちゃんポスト」という通称は必ずしも適切でないと考えるので、当ブログでは採用しません)の施設がこのほど完成し、熊本市保健所の検査を受けました(記事)。
 この施設については、未だに「子捨てを助長する」などという(いささか根拠に乏しい)批判が根強いようです。確かに本来は、養育が困難である生みの親に対し、相談窓口の拡充等の支援策をもって支え、生みの親が子供を手放さなくとも済むような環境を整えることが、まず第一だと思います。
 しかし現実に、支援策は人的・金銭的に不足していて、何らかの理由で子の養育が困難となり、人知れず我が子を捨てねばならない状況に追い込まれた親が、存在するのです。その現実の困難にどう対処するかを語らず、大所高所から正論ばかりを振り上げても、却って空しく響くだけなのではないでしょうか。
 普段は抽象的で観念的な議論ばかりを繰り返す当ブログの言うことですから、いささか説得力に欠けることは承知の上ですが、あえて自戒も兼ねて言わせていただけば、現在進行形の問題に対応するに当たっては、抽象的な大所高所の正論と、取り急ぎ眼前の問題に対すべき対症療法的な議論とを、同時並行的に進めていかなければならないのだ、と思います。そして、正論は時間をかけて、対症療法は間髪入れずに、実現していくことが、現実的なのではないでしょうか。

 以上のような立場から、涼風は慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」設置に賛同し、勝手に応援します。同時に、この施設が一度たりとも実際に使用されることなく、その役割を終えることを願います。


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