ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

昭和は遠くなりつつ

2013年12月27日 20時06分25秒 | ペタンク爺さんの一日
テレビに三丁目の夕日が放映された時代背景と、私が20歳から30歳頃の時代と重なり本当に痺れるような感傷にも引き戻された。
其の頃もう私は故郷輪西で衣料品店を立ち上げ商人になっていた、糸編景気で物を仕入れてくると飛ぶように売れて行った、仕入れは主に大阪、岐阜で、ふた月に一度は仕入れのため当時は青函連絡船に乗り青森から汽車で往復していたが東京までで24時間も掛かっていた、まだ遊郭もそんざいしていたし映画勝新太郎の悪名と彼の生き様は私の人生に物凄く影響を与えたと思っている。
三丁目の夕日の10年近くは、一国一城の主となり結婚し子供も授かりそのうえ店の倒産(かまど返し)を経験し社会の裏社会も覗き見したり大変な経験を30歳をまえに経験した。
繁華街の街中をを一日一度はやくざが固まって闊歩していた町だった。
家を借金の抵当に入れていたので、とうとう朝鮮人のやくざ見たい人が日本刀を持ち込んで我が家に乗り込み居座ってしまった。
今だら通報するとたちまち逮捕されるが当時の敗戦国の戦後の日本では、戦前バカにしていた朝鮮人にも頭が上がらなかった。
両親も同居していて長男が誕生するとすぐ病死する、私の倒産時には親父は再婚し札幌に転出し釣具店を構えていた。
今振り返っても凄い10年間だったと思っている、脛に傷を持ってしまい大商人の夢はあっさり諦めたと思う、その後は札幌に移り住み円山地域で子育て時代に入って行く。

昭和時代が少しづつ消えてゆく、個人商店も増々少なくなったタバコ屋もなくなった其れに何処にでもあった街中の銭湯の廃業が進んでいた、何か特色がないと固定客も増えることもないので此れからもへりつづけると思っている。

久しぶりにススキの近くの山鼻温泉屯田湯に出向く、昔からの銭湯そのものだが今は温泉を掘り当て温度は低いが天然温泉なのだ、此処の銭湯の特色は入浴料は銭湯料金で他では見られない刺青の入った人たちでも入れる銭湯で、昔は近くに組み事務所がありやくざがいて出入りもあったと聞いている、現在でもその筋の人達もてい此の銭湯を利用しているが、今日久しぶりに銭湯の中で一緒になる、親分には刺青が入った若衆が二人付き必死に世話をしている姿を真近でみる此方も自然に緊張してしまった。

嬉しい事に銭湯の必需品の台場秤で体重を測ると52キロを超えていた。

骨董品に近い台場秤


サンルームは28度に

五区公園プレーパーク実践中


自治会新年会の小道具製作完了、久しぶりにこよりを作る。




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