ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

故郷の助宗タラと闇市

2015年05月20日 19時11分20秒 | ペタンク爺さんの一日

生れた新潟の佐渡島が見える五ヶ浜は砂浜で磯船漁師もいたが、三歳までしかいなかった故郷の幼児時期の記憶は残っていないが、その後北海島に渡って室蘭の輪西に住み着いた、町の西側は日本製鉄の工場群が海岸線を全て占有していた、自由に行ける海は町並みの東側でひと山越えると砂浜が見えてくる、遥か前方には鯨半島と云う鯨に似た半島が見えてくる。

第二の故郷室蘭輪西町は海にも近く戦後一時鯨半島に沿岸に住み着いている漁師から磯船を買って預かってもらっていたこともある、商売が釣具商だったが戦後の食糧難時代に時折親父は素人イカ釣り漁師になっていた、当時は良く釣れて磯船一杯の大漁が続いたことがあった、家族総出で烏賊運び家の周りに干してスルメを作った、其れを川口市の竿職人に送ったその見返りに、出来上がった米俵に梱包された釣竿が日通便で届き、店先は梱包された釣竿の山が出来ていた、それを独占販売同様に釣具店は一気に財を蓄えて行った。

戦前及び戦後暫くは、物資や食料が乏しく配給制度我が家でも畑を買って馬鈴薯や大根作りもやってた、戦後は皆食べる事が最大の案件に、全国的にも闇市が戦後復興の力強い原動力になっている。

自由販売が普通になり、輪西の町にも近くの虎杖浜辺りから女性のガンガン部隊が個人の家に魚を売り歩くようになった、各自自分の家でも商売をしていた当時、魚屋、八百屋に買い出しする時間も惜しく、魚売りのガンガン部隊は商店の女将さん達には嬉しい存在だったと思っている、第二の故郷の輪西も海に近いいので魚類は良く食卓にあがった、今でも産地になっている虎杖浜の助宗タラは、我が家の魚と云っても過言でない。

現在と違って、当時の助宗タラは大きかった、当時でもメスの子は鱈子にするのでメスは高かったと思っている、料理はメスの場合は子を使ってこんにゃくで和えると子供達にも好評の一品に、身は殆んど味噌汁に野菜は大根で時には馬鈴薯も入っていたと思う、タチも大人の味で美味しかった、自作の沢庵は欠かせないおかずで、この他食卓には、豆腐、納豆、は町中を売りに来る人から買っていた、それに毎日配達してくれる牛乳、など町中を大声をあげて売り歩く商人の懐かしい時代でもあった。

店の金庫から小金を掠めて、闇市で食べ物を買い食いしていたことも懐かしく。

 八紘学園まで

遠藤農園にて(種から植えた野菜も芽を出して)

今日はオジヤと烏賊のつみれ

 

 

 

 

 

 



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