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一生

人生観と死生観

白人優越論は差別思想か

2010-11-01 14:44:08 | 哲学
11月1日 雨時々曇り
 11月が来た。いよいよ晩秋、冬近い。
 朝日新聞の文化欄に『銃・病原菌・鉄』の著者ジャレド・ダイアモンド(UCLA教授)の紹介が出ていたのでそれに関連する感想を書く。現代世界、特に文明社会の発展の歴史を追って独創的なアプローチを試みているのがこの人だ。壮大な視野の広がりの中で、彼は白人なのに白人が文明社会を引っ張ってきたのは白人が人種的にすぐれているからだという白人優位論を否定する。遺伝子レベルで差別は認められないから、白人と非白人の差がないというのだ。これに対して白人は心の中で反対する人が尽きない。ダイヤモンドのこの本を読んだ後でも1/4の白人読者は納得しないという。白人は確かに世界中で成功し、世界各地に植民地を作り、豊かな社会を作った。この事実は否定することは出来ない。
 白人の成功の原因について彼はいう。たまたま環境に恵まれて定住農業がうまくゆき、家畜がもたらす伝染病に免疫を持ち、鉄と銃を少し早く手に入れたからだと。要するに運が良かったということだ。
 運が良かったからだって?ちょっと待て。私は学問の世界でも画期的な発見や発明に幸運が伴っていることがあるのを知っているけれども、棚からぼた餅のような運のよさを期待して「果報は寝て待て」では駄目だといつも言っている。日本には「運・鈍・根」という言葉もある。普段からの努力が必要なのであり、いい加減な態度で学問をやっていたら、運にも見放され、何も成果はあがらない。このことを思い出した。欧米人は積極的だ。かなりしつこい。論理をふりかざしてなかなか退かない。キリスト教の長い伝統の所為か物事を前向きにとらえる習慣が根付いている。やることは徹底してやる傾向があるように思われる。
 今NHKで幕末の志士坂本竜馬を取り上げたドラマが進行中だが、日本人も捨てたものではない。薩摩や長州が尊皇攘夷から一転して開国の思想に発展したのは、実際にイギリスなどと戦争してみてもまったく歯が立たなかった経験にもとづき、頭の切り替えをして、早く欧米に追いつく努力をすることに決めたのだ。英断といってもよい。(これに比べ水戸藩はいつまでも尊皇攘夷の原理主義にこだわって出遅れた。)その根底の愛国心を捨てたのではない。欧米に学ぶことは当時の世界の先端に学ぶことであったが、世界大に考え方を拡げても、基本がしっかりしているということである。そして日本は近代化に成功したのだ。
 人種の優劣はないが、努力の優劣はあると言わざるを得ない。これからの世界と日本がどうなるか、若者の努力に負うところが大きいのだ。

喪失と再生

2010-10-28 16:15:39 | 哲学
10月28日 雨
 朝仙台S氏から電話あり、『生物科学』に投稿した原稿の査読者の意見から始まり、査読者本人の性格等について話が出た。論文はまず採用されることが大切で、それから後で批判者と議論すればよい。現在の査読システムでは批判者の意見もある程度取り入れることになるが、これは度量を示したことになるかと思う。細かいことまで喧嘩していたら、いつまでたっても論文が日の目を見ることはない。大事なことで筋を通すことでよいのだ。
 さて近頃思うことは、人生は無限ではないことは勿論だが、生きているある時点であたかも人生が無限であるかのように生きる生き方があるということだ。それは今を大切にするということ。この言葉はいろんな人がいっている。金属物理学の大家の本多光太郎は「今が大切」という色紙を残した。本多自身は無神論的だったが、本多の周りにはキリスト者が何人も出た。皮肉な現象というべきだろう。今のときは無限の時間の中の一瞬であることを忘れてはならないのだ。
 人生は順調にゆくのがむしろ例外的だ。困難や挫折はいくらでも起こりうる人生である。身の回りの幸せははかないものである。喪失を体験する人はあちこちにいる。私も息子を失ったとき、この喪失の意味するものを考えざるを得なかった。それは人の思いを超えて定められた運命であったか。人はだれでも永遠に生きることは出来ない。しかしそれを知っているがために、かえって未来に望みを託す人が出てくる。再起、再生。日野原氏はこの10月はじめに99歳になったが、後10年はいろいろな計画を持っていると仰る。驚くべきことだ。化け物みたいだと悪口を言う人もある。しかしその類い稀な人生は神の証しのためと思っている人だから、何を言われても平気だろう。私も彼とは少し違った形でこの人生を証したいものだ。

いのちの尊厳について

2010-10-25 18:33:31 | 哲学
10月25日 
 仙台でのいのちの尊厳を考える会の役員会を終わり、いわきにかえる。
 いのちの尊厳ということは人間について普遍的に用いられる。これを認めないとすべての道徳・倫理の概念が狂ってくることは、第二次世界大戦中のナチ党のユダヤ人600万人の虐殺など、おぞましい事件を考えてみるだけでも分かる。これは多数の問題であるばかりでない。少数者であるからといって対応をおざなりにしてはならない。人一人ひとりの価値自体が重いのである。私たちはいのちの尊厳を問題にしたのは、予防接種禍で犠牲になった子どもたちのことであった。彼らはは少数であるということで以前は無視されていた。医者が及び腰であったこの課題はわれわれの訴訟において責任は国家・自治体にあるとされた。われわれに道理があった。いまこの問題は幼年期に注射器打ちまわしの不潔な予防接種を受け、肝炎に感染し、肝機能障害や肝臓がんに苦しむ人々の問題に発展した。その数は何百万にも及ぶという。予防接種は多数のものの利益のために少数者の犠牲があってもやむを得ないといっていたワクチン学者たちよ。君たちは現場のこんな荒っぽいやり方に盲目であったではないか。多数のものが予防接種のために苦しむこの現実をどう見るのか。無責任な建前論は破綻しているではないか。
 人は生き甲斐を求め、職のない老年者はそのために模索する。新老人の会においてもいろいろなグループがあって、中にはフラダンスを楽しむというのもある。仲間と話し合い、人生の晩年をできるだけ楽しく過ごそうという人たちにけちをつけることはないが、生き甲斐にもいろいろなバラエティーがあり、本当にいのちの意味を考えたら、もっと役に立つ身の処し方がありそうなものだ。内戦に苦しむアフリカでは多くの子どもたちが死んでゆく。ユニセフの募金に応じる程度しか出来ない私は、これくらいで申し訳ないと思いながらやっている。いのちの尊厳を考える会の活動も決して大きなものではないが、ことの大小を問うのではなく、その本質あるいは精神が大切なのだと私は思っている。

民主社会のリーダーは?

2010-10-21 15:53:09 | 哲学
10月21日 曇り後雨
 今朝S先生追慕の文集が届いた。S先生は体は小さいが気持ちは大きい方であり、地位ある外国人との付き合いでも対等の立場で話をされたとのこと。決して高ぶらず、主張すべきは主張されたようだ。日本が国際化する中で努力された尊敬すべき先達である。
 さてこの人生ままならぬことが多い。理想に向かって前進するのは格好がよいかも知れないが、このために多くの摩擦が生じる。民主党が政治主導を掲げ、官僚と対立するのは、今までの官僚の振舞いに大いに問題があったからで、スローガンとしては理解できるが、実際に官僚が身動きが取れないようでは政治は動くまい。私たちが個人生活の中で、自分の理想のために他人をどこまで動かせるかはその人の力量によるが、あまり無理をすると反動が来るものである。はじめは良いがあとで疲れきってしまい、人は動かなくなる。大体人を動かそうと思って行動を続けるのは、どこかに無理を生ずるもので、その人の自発性を呼び起こすやり方が一番よいのである。リーダーはまとめたり、あるいは方向性を無理なく示したりするのがよい。ただ長続きするためにはリーダーに信念が必要なことは確かである。その点リーダーは平凡なようで平凡でない素質が望まれるのである。民主主義の世はリーダー的素質をもった人がつぎつぎに輩出するべきである。

夢の中の慈悲

2010-10-20 09:17:28 | 哲学
10月20日 曇り
 今日は皇后美智子さまの誕生日に当たるという。神話的古代はいざ知らず、歴代皇后のうちで民間から皇后になったのは光明子をもって最初とする。光明子は藤原氏の娘だから貴族的といえばそのとおり。美智子さまは会社社長の娘だから平民といっても庶民的ではない。失礼を顧みずにいえば、いま天皇を立てる理想的な皇后を演じているようだ。しかしこの人の本来もっているものはすぐれた才能である。それをもっと発揮してもらいたいものだ。歴代皇后の中でも指折りの才媛なのだから。今朝の談話(ただしメモ)の中には人並みに老人性の物忘れがはじまったと告白された。
 さて今朝は不思議な夢。私は崖の前に立っている。つまり崖のような切り立った背景があってそこにいる。私のわきには誰か二三人はいる。私の見ているのは崖の前の立て看板だ。そこには統計図表があって、動物を殺した数の経年変化が載っている。口蹄疫で沢山の牛を殺したばかりだというのに、日本はあと一息で世界一の動物を大切にする国になれるという。なんだか変だなと思っているが、崖の上からは風のような、息のような、言葉にもならない言葉が吹いてくる。「日本は法の国、ドウジョウホの国だ」というのだ。日本は仏教国だったから牛や豚などの肉食はしない国であったことは確かだ。それが明治の文明開化で崩れ去り、今では沢山の動物を犠牲にして飽食した結果、メタボ人間まで大勢いるではないか。
 ドウジョウホという言葉だけが目覚めた私の心に響いている。広辞苑には仏教語で堂上は堂頭=どうちょうに同じとあり、堂頭は方丈=禅宗寺院で住職の住まい、またその住職とあった。補が付いた堂上補という言葉があるかどうかは分からないが、仮にあるとすると、住職の下働きということになろうか。こんなことを調べているうちに時が経った。私の夢は、私も良く理解できない独創的な夢なのか。ハハ。 

歴史の中の聖書

2010-10-17 16:21:58 | 哲学
10月17日 晴れ後曇り
 バイブルの記述は一から正しいとはいえないが、非常に深い含蓄をもっている。ユダヤ人は先祖のアブラハムが族長として、偉大な事蹟を残したといわれるが、人間として良い素質を持っていたと察せられるけれども特別偉いとまでは感じられない。王侯の前で都合によって偽りを言って、後で責められたりしているのは人間的といえるだろう。偉いといえばその曾孫のヨセフこそが偉い人間のように思える。頭の良いヨセフだが、生意気言って兄弟たちに憎まれ、奴隷に売り飛ばされる。しかし彼はやがて頭角を現し、エジプトの宰相の地位にまで上り詰める。飢饉のときに避難してきた兄弟を、そして後には父を、ヨセフはしっかりと世話したのだ。これこそ人間的にも立派な振舞いである。最初は鼻持ちならぬ高慢ちき坊やだったが、後にはいろいろな苦労をして人間的に成長し、本当に神に愛され知恵を授けられた人という印象を受ける。確かノーベル賞作家のトーマス・マンもこれを題材に小説を書いた。
 エジプトの王朝はその後代替わりし、ヨセフ一族に辛く当たる王(ファラオという)の時代になり、この一族は奴隷のような労働を強いられた。そしてついにモーセの指導の下にエジプトを脱出するのである。多くの奇跡がおこったと記されているが、これは潤色されているかもしれないので、バイブルの記事をそのまま受け取ることは出来ない。しかしモーセが偉い指導者であったことは明らかである。この指導者も荒れ野の生活の中で大変な苦労をし、民衆に恨まれるが、なんとか安住の地を望み見るところまでやってきた。彼は後継者を育て、そのうちの若手のホープのヨシュアがカナンの地を占領するのである。民族の国としてのイスラエルはこうして始まる。
 モーセやヨシュアたち指導者に率いられたイスラエル民族は土着の民にとって迷惑至極な人たちであったに違いない。しかしこれはあった歴史である。歴史は人間の悪や罪を含んだままダイナミックに動いてゆくものである。国や民族の関わる歴史でまったく理想的で正しいなど言うものはないと見える。尊敬されているバイブルの中にさえこのような記事がある。これは旧約聖書の記事だから新約聖書は関係ないとは言えない。ただし新約と旧約の間には断絶があって、一種の歴史的飛躍が見られるのである。こうしたことを正しく理解したいものである。
 昨日の竜巻についての話だが、後で調べると日本でも1990年代から死者の出る竜巻は何件か発生している。今年の館林の竜巻では21名の負傷者がでたよし、訂正しておく。

終わりある人生

2010-10-11 19:44:44 | 哲学
10月11日 晴れ
 今日は体育の日の休日だ。晴れて気持ちのよい朝だったが日中は暑くなり、いわきでも29度近い温度になり閉口した。温暖化現象はいろんなところで生物に影響している。
 さて池部良の訃報が放送された。92歳だったよし。もっと若いと思っていたが90歳をこえていたのだ。北朝鮮から南へ亡命した黄氏がお風呂場でなくなっていたという報道も入った。87歳だった。
 近頃思うのだが、80歳を超えた私はいつお召しがあってもおかしくない、その準備をしておくことが必要だと思い、整理すべきものは整理することにした。残されたものが困らないようにしておくのだ。
 それにつけても死とは何か、生とは何かという問いが胸をよぎる。生物学的な生と死はいろいろな定義があるようだ。心臓の停止をもって死とするのは普通の死だ。近頃脳死の概念が出てきて、脳波がでなくなれば人の死とするようになってきた。臓器提供がスムーズにおこなわれるための法律改訂があった。日本でも家族は臓器の提供に前向きになってきた。臓器が誰かの体で生き続けることは慰めになるという。それにしても永遠に生きるわけではない。Man is mortal は侵すべからざる真理である。
 終わりある人生はしかし人にとって祝福である面もある。長く生き過ぎたという人もある。私個人としてはこの地上の生を超えた希望を持ちたい。この世はいろいろな制約のもとにある。高次の世界がその先にあると信じれば心は軽くなるであろう。

窮すれば通ず

2010-10-10 20:59:28 | 哲学
10月10日 雨のち曇り後晴れ
 よく知られているが、窮すれば通ずということわざがある。辞書には「行き詰まって困りきると、かえって活路が見出される」とある。これは行き詰まると必死になって考え、努力するという人間の性質をよく洞察したことわざである。普通は人間なかなか必死なって物事にぶつかることはしないものである。難局に直面してはじめて本当にその人の真価があらわれる。
 私はどちらかといえばあまり積極的に人を引っ張ってゆく性格の人間ではない。しかしいざとなればやらざるを得ないから、そのときには自分でも思いがけない行動にでることができるのである。世界の歴史はかならずしも原理原則である方向に流れるというものではない。人の思いでコントロールできない偶然に支配されることが大変多い。しかしだからといって、成り行きまかせで何の努力もしない人には決してよい結果が来ることはない。私の生涯を振り返ってみると、真剣になって、事態を打開しようと試みて初めて道が開けた。窮すれば通じたわけである。若い人たちに説教しようとは思わないが、経験というものは大事にして後の人たちに伝える必要があり、むしろそれは貴重な体験をしたものの義務とさえ言うべきかもしれない。

人の計画の頼りなさ

2010-10-07 20:15:11 | 哲学
10月7日 晴れ時に曇り
 人生なかなかままならぬもの。成り行き任せにして何の計画も立てないと、そのために大きな失敗をする。そこである仮説を立てて、未来に一定の投資をすることにした王様がいた。王子のためにできることなら何でもするという姿勢であったとか。そうして何年かがたった。計画は運よく進みそうであった。王様は喜んだ。大臣を呼び寄せて、この分なら自分が老齢になるまでに国は富み、民は王子の言うことを聞いて、国はよく治まると言った。。大臣は王様のやり方に心服し、そして民の代表を呼び、王様と王子を祝福するように申し付けた。民の代表は喜び、村々町々に帰って、民に報告し、国を挙げて大きな祭りを持つことになった。
 ところが南に暴風が発生した。この暴風は徐々に北上し。まず海上の船を襲い、難破させた。そして半島の先にある養殖のための池を襲ってこれを壊滅させた。また豊かに稔る田畑を襲った。ここにも大きな被害が発生した。また人々の住む家は倒壊した。そして王様の宮殿も風雨にさらされ、窓は壊れ戸は吹き飛んだ。王様と王子は地下室に逃げた。そこに大量の氾濫した水が流れ込んだ。彼らは命からがら回廊を伝って脱出、雨に打たれながら国の要塞に逃げ込んだ。
 夜が明けると事態はいっそうはっきりした。国は壊滅的打撃を受けた。計画は失敗した。国が豊かになるどころか、これから先どうしたらよいか分からなくなった。
 人々の計画は思いがけない自然の猛威にひとたまりもない。地球温暖化がどのように進むかわれわれは完全に予測することが出来ない。CO-2削減の理想的な計画を立てた積りでも、発展途上国は必ず反発し、自分勝手なことを言い出す。そのうちに先ず、太平洋島国の沈没が始まるのだ。インド洋でも同じこと。また砂漠は拡大し、アフリカ諸国が音を上げ、お互いに略奪を繰り返し始める。略奪の余波はしだいに先進国にも広がる。
 こんなひどい夢を見る。人類の未来はよほどしっかりやらないと大変なことになる。どうか神よ、助けたまえ。

ノーベル賞の騒ぎ

2010-10-05 21:24:41 | 哲学
10月5日 晴れ薄曇
 ノーベル賞の季節になり、マスコミはその話題で大騒ぎする。まったくノーベルの意思に沿わない馬鹿騒ぎである。今年は医学生理学賞にだれがなるか、京都大学の山中教授辺りかということで、山中氏はずい分と迷惑であったことであろう。結果は英国のロバート・エドワーズケンブリッジ大学教授になった。この人は体外受精技術の開発を行い、不妊症の女性たちに朗報をもたらした人である。1978年に最初のベービーが誕生したことは、今でははるか昔のことのように思える。あの当時は大変なことであった。試験管ベービーなどといわれた赤ちゃんももう32歳にはなったはず。この技術が不妊症の女性に明るい希望を作ったことは計り知れない人類への貢献としてノーベル委員会に評価されたのだ。ヒューマニズムと科学的技術的労作の合体がここにあるのだ。日本のマスコミがノーベル賞出世主義で大騒ぎしているのと訳が違う。マスコミの人たちはこの機会にもう一度よく勉強して、ノーベルの切ない気持ちを汲んで欲しい。