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一生

人生観と死生観

私の経済学

2010-10-04 14:22:13 | 哲学
10月4日 雨
 驚いたことに昼からのTVで「徹子の部屋」に日野原重明氏が登場した。99歳の誕生日にあわせたもののようだ。元気な様子がよく見て取れた。いのちの授業で彼は子どもたちに、大人になったら他人のために生きることを力説された。多くの人は、仕事をするのは社会的に意味があるからやっている、そこで成功すればつまりは他人の役に立っている、それで十分だ、と考える。日野原流の生き方は疲れるだけだ、特別に使命を感じた人だけがやればよい、とも考える。日本人の平均的常識はそうであろう。それは日本の社会の活力のなさを反映していて、いつもアメリカやヨーロッパの後追いをする原因になっている。
 さて表題の私の経済学だがもちろん専門家でないものとして素朴な疑問や、浅い経済観をぶつけるに止まるだろうことを承知の上、少しばかり綴ってみることにする。経済学の祖といわれるアダム・スミスは見えざる神の手を考えていたらしい。この手が経済の流れを調整するので、この手に任せて自由な経済活動を進めることを推奨するということらしい。計画経済で厳格にやってみてもうまくゆかないのは、20世紀の共産主義の経験で明らかになったところだ。しかし市場経済に任せると変動が烈しくしばしば恐慌が生じる。このときは政府の介入は必要だがそれは限度がある。政府は神ではないからである。このときの神はスミスが思ったほど介入することがないようだ。
 考えるに、生産、流通など経済活動は結局人の役に立つ、つまり食べられ、使われ、人を豊かにするためにある。
 日本の農村ではかって食糧を生産し、衣類を調達し、時に住宅を建て替える程度でこと足りた。けれども子どもが増え、成人すると、余った子供は故郷を出なければどうにもならなかった。生産規模が小さい農村社会ではすべての人を食べさせ、生かして行く事は出来なかったからである。故郷を出て都会に出るとそこでは別のシステムが機能していた。文明社会としての種々の職業が可能になり、政治体制や商業体制、娯楽システムなどに関わることができた。田舎から出たものは下積みからでも努力すればある程度の出世はできた。そして都会の人々も人口増加に直面するとますます虚業の需要が高くなる。失業者がないように何でも良いから仕事を考える。グローバル社会というあまりわけの分からない存在におどらされる。起業家ベンチャーの必要が叫ばれる。裏社会では苦し紛れに年寄りを騙すシステムを構築するものもあらわれる。有名な振り込め詐欺は老人が対象だった。
 経済はお金に還元することができる。これは経済学の絶妙な手段だ。しかしお金の末端に人がぶら下がる。どうしても貧富の差は生じやすい。公平にと努めても完全は得られない。菅首相の言う最少不幸社会とは努力しますが、完全ではないですよということだろう。どうも深い理念が感じられる言葉ではない。もっと勉強してもらいたいものだ。

天才とは何か

2010-10-03 13:51:32 | 哲学
10月3日 晴れ後曇り
 穏やかな秋の日。夏物をクリーニングに出す。
 午後のひと時、ビートたけしの番組「ニッポンのミカタ」を見る。この人は近頃科学番組を含めあらゆるチャンネルに顔を出すといってもよいほどだ。国際映画祭で賞を取ってからは、従来のひねくれたギャグめいた(昔怒れるわかものという一群の個性派がいた)ものが減ってゆき、大家のような口ぶりになって、間髪入れず適当なコメントを入れる、その才能にはまったく感心する。もちろん専門家には意見もあるだろうが、専門家が説明に窮するところをあっさりと表現して普通人にアピールするのだ。
 こういう天才を日本人は従来あまり厚遇してこなかったことは事実だろう。天才はひらめきだという人がいる。パッとひらめいてそれが困難を打開する。上杉謙信は手取川に3倍の織田勢を破ったとき、雨を選んで夜襲をかけて勝利した。織田の鉄砲(火縄銃)は雨に濡れたら役立たずだということを知っていた謙信であった。たけしの番組に私が力を入れてきたニッポニウムが取り上げられそうになった。スタッフが私に連絡してきて再々材料集めをやった。しかし結局採用されなかったとスタッフは私に告げた。面白そうだがアカデミックでありすぎると思われたのかもしれない。私はひらめくことの重要性を知っている人間であるが残念ながら凡人の肌で、天才というわけに行かない。ただし年齢も傘寿を越え、体に故障もあるが、できることはやって、いささか世に恩返しをしたい気持ちはある。暇をもてあまさず、これからも希望を見失わずに進みたいものだ。

新老人の独り立ち

2010-10-02 20:24:03 | 哲学
10月2日 晴れ
 秋晴れ、気分は爽快となれば最高だが、いろいろ故障がある身の上、そうも言っておれない。しかし年よりは我慢強い。病気を持病といってあまり苦にしている様子は見せないことにしている。
 さて今日新老人の会から送られて来た会報は踊る会長日野原氏の写真入りのものであった。会長99歳目前でますます元気なのは結構というほかないが、私もこれにあやかろうとする気持ちが少しづつ冷めてきた。。丈夫な人は良いが、人間いつまでも丈夫とは限らない。
それぞれに天命があろう。天命を知ってそれに服するのも人らしさというものだ。新老人は独立の気概も必要だ。己の使命に目覚めるときそれぞれにわが道を行って欲しいものだ。かくいっても、新老人の会に反旗をひるがえしたわけではない。あまり代表にばかり頼りすぎると、いざ代表が倒れたときにうろたえるということを言いたいばかりだ。
 新老人よ、健やかにあれ。

雨の日み国を想う

2010-09-30 12:39:40 | 哲学
9月30日 雨
 雨の日しずかな午後を迎える。人生のラスト・ステージの80歳台を迎え、なおいくらかの社会的活動をつづけることのできることを感謝する。
 私の友人にカトリック教徒がいて関西の大学の医学部に進学したころ洗礼を受けた。一人っ子で母親思いであった。母親は夫に不満を持っていることがありありと分かる家庭であった。若いときの恋人を夫の留守のときに家に招き、密室で会うということを息子も許していた。私はそれ以来彼の家に行くことはなかった。その後離婚の話も聞かなかったから、何とか形の上では家庭崩壊を免れたのだろう。なにか特殊な母子関係であった。横暴な父はこの母子関係をどうすることも出来なかったに違いない。私の友人はそんな中で勉強し、大学の助教授になりその後は地方のセンターを経て、兵庫県の大学の教授になった。彼はカトリックの信者として過ごした。彼の心の中は私にはよく分からない。しかし母の影響が強くあることだけは言える。
 キリスト教にはいろいろな分派があるが、私はそれにはあまりこだわる積りはない。超教派の積りだ。しかしカトリック教会の信者には独特な感触がある。長い伝統は信者をあるパターン(といっても幅広いものだが)に育て上げることになった。上流階級に属する家庭のお嬢さんがスラムに飛び込むというのは、マザー・テレサ主題のテレビで見た。固定した社会の枠を破る勇気ある行動だ。私はキリスト教は本来そのようなものだったと思う。貧しい者、苦しむ者にも福音の光は注がれる。

二、三人でも千人でも

2010-09-29 15:39:02 | 哲学
9月29日 晴れ
 ようやく晴天が戻る。秋は静かに深み行く。10月を目前にし、今年残る行事のために計画をつめる必要があり、考えつつスケジュールの調整をおこなう。
 われわれは普通行事をおこなうとき、顧客の入りを気にするものである。大きな会場にちらほらとしか聴衆がいなければカッコウが悪いし、それだけ世の中に必要ない催しを企画した責任者の力量と、また講演者の社会的知名度が問われるということである。世間の常識というものはこれに尽きる。大きいことはよいことだ、小さいことは恥ずかしいことだと。
 しかし私どもが考えていることはこのような常識とは異なる。たとえ小さくても本当にある人びとのためになることがあれば、少数でも集まる人のためにサービスをするのである。極端に言えば二、三人のために行事をやることをあえて選ぶのである。無教会キリスト教の精神はこれである。しかしこれだけにこだわるのではない。役に立つことであれば千人の大会でも恐れずに開催するであろう。

最後の仕事?

2010-09-28 16:19:25 | 哲学
9月28日 雨のち曇り
 今日は先ず耳鼻科ついで外科に行く。一日2つの科にかかる医者通いは大変だ。耳鼻科は今日で終わり、外科は応急の手当てで終わる。
 私は定年後非定型的な仕事をやってきた。予防接種の被害者のための仕事は子どもの死後10年にもなり、気持ちの上でも健康上の問題からも一区切りを付けなければならないことになった。そして化学史上見捨てられていたニッポニウムの再検討、小川正孝の復権については一応の決着が付き、ニッポニウムは元素発見の先駆的な仕事として認められるようになった。これで私の使命は果したことになる。そして東北の人にとっての歴史の再検討の仕事があった。これは東日流外三郡誌をどう評価するかという問題で、非常に難しいものであった。真偽論争がおこり、この本はほとんど偽書だということになっていた。私は自然科学の面から検討すれば偽書だといって片ずけられない部分があり、そのもとになった原本の存在は否定できないと思っている。稲作の伝播についての北方ルートはその裏付けとなるだろう。黒白論争ではなく、真実を抽出する作業こそが望まれるのである。わが最後の仕事か?

進化論の現況

2010-09-26 15:30:29 | 哲学
9月26日 晴れ後曇り
 私たち日本人は仏教的環境のもとで千年以上も暮らしてきた。神道の影響は時に強く表れ、明治初期の廃仏毀釈のような事件はあったが、概して日本の神は行事のさいに顔を出す程度であった。西洋の文明を明治時代になって積極的に取り入れるようになってから、キリスト教とどう向き合うかは重要な課題であったが、政治・社会の大勢は和魂洋才の原則でキリスト教を外来宗教として敬遠してきた。心は日本人らしくということであったが、太平洋戦争後60年もたった今「和魂洋才」は推奨する人もなく、無原則に西洋思想と立ち向かう傾向が強いように思う。無原則だからあっちへいったりこっちへ行ったりで心許ない限りである。日本人はもともと個性が強いほうではない。流されやすいのは信念を持った西洋人から見れば頼りないということである。
 進化論はダーウィンが唱え始めて約150年たつ。現在イギリスでは進化論について対立があり、激論が交わされているよし、毎日新聞の書評で知った。対立する論点は
 「生物の進化は、ランダムな試行錯誤なのか、それとも方向性をもって進むのか」
グールドは前者の論客であり、サイモン・コンウェイ・モリスは後者である。両者ともダーウィンの適者生存を否定はしない。グールドが生物の進化がランダムな試行の積み重ねで数多くの種を生み出して、淘汰によって進んできたと考える。コンウェイ・モリスは進化には方向性があるということを「収斂進化」という言葉で述べ、これは種を超えて起こっていると見ている。すなわち哺乳類のオオカミと有袋類のフクロオオカミなど、まったく異なる系統から非常に似た形態や機能が生まれることであり、それが何回も段階的に方向性を持ってある機能や形態に向かって進化を遂げるというのである。この著者の結論は生命は奇跡ということにあるようだ。科学者としてはこの世の因果関係を飛び越えたと非難されているようだが、彼自身生命の驚異に率直に対面しているのであろう。私も彼の立場に近い。科学的説明は次の説明を要求し、生命の本質はいつまでたっても科学だけで解けることになっていないのが歯がゆい。やはりこの世の次元を超えたあるものを必要とするのではないか。それをいっぺんに言うと非科学的と非難されるが、人の知恵の限界や、無力を感じるのは私ひとりではあるまい。

ここ掘れワンワン

2010-09-24 17:13:56 | 哲学
9月24日 晴れ後曇り
 犬は吠える動物だが、訓練次第でおとなしくもなる。盲導犬は人類の恩人ーいや恩犬というべきか。盲導犬は吠えはしない。こういう風に犬は人類の友として訓練できるありがたい動物なのだ。ここ掘れワンワンは犬の親切だが、それより高い犬の霊性を見つけたい。
 ところで人は生き甲斐を求めて生涯を遍歴する間に知恵を磨き、人格を高める。ゲーテの教養小説はひところ前の学生の必読書であったが、今では読書そのものが低調となり、日本人の劣化の問題として取り上げられる。それではいけないという声があるが、何となく諦めムードだ。私は戦中戦後の狭間世代を過ごした人間として、やはり心配している人間のひとりだ。
 ここで思う。犬でさえも訓練すればあの盲導犬のように、崇高といえるほどの存在になることを想起してもらいたい。人の若いときに訓練を積むよう、大学の教養システムを変えることが必要だ。読書を重んじるカリキュラムを整備してもらいたい。

内向き日本人について

2010-09-23 15:48:32 | 哲学
9月23日 雨
 秋分の日は雨。気温も下がり、外は今までのように半袖シャツというわけに行かない。気が変になったかというほどの猛暑も困るが、これからの季節の進みを思って老齢の身は心細い思いもある。秋の日はどこかもの悲しいのが普通の季節感である。
 さて内向き日本人の話は前にもした。アングロサクソンの外向き思考はわれわれから見ると驚異だし脅威のようにも感じられる。かれらは幕末日本に働きかけて日本人の覚醒を迫った。尊皇攘夷の旗印を掲げて外人を排斥する勇ましい薩長の志士たちは実際に彼らと戦ってあまりにも実力の差がありすぎるのに驚き、かつ悟った。それ以後彼らは開国倒幕に走り、日本の改革に情熱を注いだのだ。現実的なメリットがあったし、一時は日本も世界の先進国かつ強国の仲間入りをした。
 しかし近頃はまた内向き傾向が強くなっているようだ。若者が留学したがらない。草食系男子が増えている。夢を持つことは悪いことではないが、その持ち方がしょぼくれている。海外に出れば、日本人同士でかたまる。首相演説は国連でどれほど評価されているだろうか。自画自賛は浅い。市民から出発した菅さんだが大きなスケールの理念や思想の訓練を受けていない人はやはり国際的な尊敬を得るには遠い。留学はひとつの人格スケール・アップのひとつの手段だが、それに限らず、いろいろ試してみることが必要だ。

死のかなた

2010-09-22 16:04:30 | 哲学
9月22日 晴れ後曇り
 今日は仏教のほうでは彼岸にはいっている。明日が彼岸の中日となる。スーパーへ行くとお花やお供えの品が出ていて、幼い頃のことが思い出された。
 人が時に静かに生と死について考えることはよいことだ。しかしだれも本当に死の世界を知っている人は居ない。偉大な宗教家と言われる人でも死の世界をつぶさに見てはいない。
イエス・キリストは十字架の上で悲惨な死を遂げた。聖書によればその後彼は一種の霊体として蘇えったという。聖書のこのあたりの記述は曖昧もことしてよく分からぬという人もあるが、使徒パウロがキリスト教徒を迫害し、信徒をとらえに行くためダマスコにゆく途中、キリストに出会った記事は疑うことの出来ない迫真性がある。彼自身生涯が180度転換された事件であったので、何度も他の人に語った。裁判にかけられたときもはっきりその体験を証言している。手紙にも書いている。パウロが体験したことは彼の頭の中で起こった脳内現象に過ぎないと無神論者は言うかもしれないが、それで切り捨てられる事柄だろうか。パウロは処刑されて死ぬまでキリストに従った。他の使徒たち、信徒たちもそうであった。人間が変えられるこのような事件は迷信なのだろうか。私たちは不可知論の中に生きていても差し当たり生きることに支障はない。しかし死に近い年齢に達したとき、何かの結論を得たいというのが人間性の本質ではないだろうか。
 進化論を唱えた科学者ダーウィンは神を信じなくなったわけではないと弁解したようだ。ただ教会で教える神について信じられなくなったらしい。生物の進化は不思議だ。内村鑑三は生物学者として出発し、進化論を真理と認め、宇宙の中の神の働きに驚異の眼を向け、生物の多様性をも神のみ業の表れとして讃美している。そのような神がこの世を動かしている。正義は悪に負けているように見えながら、悪は最後には大失敗して倒れる。そんな現象はこの世の歴史の本を見れば、いたるところにある。最後の勝利は神の側にある。私はそのような神を信じたい。死の彼方には神の世界があるに違いないと、多くの信徒が信じたことは決して裏切られないであろう。