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水戸の見て歩き

水戸の城下町らしい町名(2)

2018-09-20 20:32:58 | 水戸

与力町(よりきまち)
 現在の栄町1-2町目にあった町だそうです。
 町奉行の配下で、行政、司法、警察の役をになった、与力の住んだ町で、水戸藩初代・徳川頼房の時代に土地を与えられたそうです。写真は、水戸市コンベンション協会が発行している「水戸の城下町マップ 幕末版」です。

 

同心町(どうしんまち)
 旧水戸街道、吉田神社南に2つある桝形の間だそうです。
 同心は、与力の下で実務をつかさどった下級役人だそうです。同心町は、この階級の人びとが住んでいた地域だそうです。想像をたくましくすると、このあたりは、江戸時代以前にあった吉田城(今の常照寺)に近く、その時代の交易の中心地だった古宿(ふるじゅく)もあり、同心町以下大工町まで、そうしたものとの関係があった地域なのではとも考えられます。現在、同心町コーポという旧町名を残すマンションもあります。写真は明治35年の地図です。

 

大工町(だいくまち)
 薬王院入口あたりから台町信号のあたりまでだそうです。
 大工職が多く住んだことによるそうですが、その後、大工職人は上町の大工町に移ったそうです。

 

大鋸町(おがまち)
 大工町の東側の裏側にあった町だそうです。
  大鋸とは、大きなのこぎりのことで、大工町裏には、大工に製材を供給する木挽職人が住んだことによって名が付けられたそうです。

 

鍛冶町(かじちょう)
 本七町目を八町目へまがらずに、北へ向かい、十軒町へ行く道だそうです。
 湿地の下町(したまち)が埋め立てられて、田町越という上町(うわまち)からの人口移動が行われた藩政初期、頼房の時代に、鍛冶職人の集住によってできた町だそうです。天保の頃(1831-45)には鍛冶の家は1軒しかなかったようです。写真は水戸市観光協会が発行している「水戸の城下町マップ 幕末版」です。

水戸の城下町らしい町名(1)

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