ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の「薬」(2)

2018-09-28 21:15:32 | 水戸

 

鍼灸
 自身のためと藩政のために健康に気を使った徳川光圀は、鍼医(はりい)を身近において治療を受け、隠居して西山荘に住むようになってからは、灸を月に3回すえたそうです。また、病気をして薬を飲む前にも灸をすえたそうです。写真は徳川ミュージアムにある光圀像です。

 

 

斉昭の調剤
 桜田門外の変をおこした首謀者の一人だった高橋多一郎が、嘉永2年(1849)に「舌疳」を病んで50日近く寝込んだとき、徳川斉昭は自分で薬を調合して、その使用法とともに多一郎に与えたそうです。この時期、斉昭は幕府から受けた謹慎が解かれてすぐ後ですが、多一郎はまだ幽閉の身で、これは異例のことだったそうです。写真は偕楽園公園にある、斉昭・七郎麻呂(慶喜)父子像の斉昭の部分です。

 

 

医学館製造の薬
 馬口労町の大高家は、7代織衛門のとき、呉服太物を扱う豪商だったそうですが、藩校・弘道館の医学館でつくられた紫雪、救命丸などの薬を一手販売したそうです。7代は初代の水戸商業会議所会頭になった人だそうです。常陸山との交流もあったようで、その寄進による鳥居がある神力宇賀大妙神は、元は自宅の庭にあったものだそうです。写真は神力宇賀大妙神(末広町2)です。

 

 

三光丸と刻まれた石仏
 神崎寺旧本堂脇に、三光丸と刻まれた石仏がありました。基壇には日月星の商標マークもありました。三光丸は、その前進が鎌倉時代につくられて、後醍醐天皇によって名づけられた胃腸薬で、現在の奈良県御所市にある三光丸で現在も作られているそうです。同じ奈良県の特約店によってこの石仏は作られたようです。今も年に1回、花が供えられているそうです。

 

 

薬膳料理
 中国人・朱舜水らが光圀の師となり、中国料理を伝え、光圀の命で編纂された、薬草などを紹介した「救民妙薬」がある水戸ですから、薬膳料理の店があって当然でしょう。東会芳(住吉町10-17 本当は「会」の字の上にくさかんむりがあるようです。)は素材や調味料にたいへん気をつかった和風薬膳の中国料理店だそうです。

水戸の「薬」(1)

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