場末の雑文置き場

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所謂リベラル派の無自覚な傲慢とユーロセントリズム

2015年01月25日 | 政治・社会

今、アパルトヘイト時代の南アフリカのことを描いたノンフィクション、「Cry Freedom」を読んでいる。

この本のメインは、目を覆いたくなるような黒人たちに対する酷い迫害や、差別と戦う人々の姿なんだと思う。だけど私にとって特に印象的だったのは黒人の指導者、ビコが白人の、リベラルと呼ばれる人たちの傲慢さを指摘するシーン。

あからさまな差別主義者はもちろん一番の敵なんだけど、リベラル派の人たちの考え方にも賛同できない。
彼らは基本的に、自分たち白人のような社会のありかた、物の考え方が正しい、優れているのだと思っている。そして白人たちと同じようになることが黒人たちにとっても幸せなんだと思っている。でも我々は(白人社会の良い面も受け入れつつも)我々自身でありたい、自分らしさを失いたくないんだ。

……というような感じのことをビコは言っているんだと思う、多分。

これ、わかる。欧米人はこういうナチュラルな傲慢さを未だに持っているように見える。特にアメリカ。世界をアメリカみたいにするのが正しいことだと本気で信じているような感じの人もいるし。

日本の所謂「リベラル」にも、ヨーロッパ的な価値観ばかりを高く評価して、他のアジア諸国やアフリカ諸国のことをどことなく見下している人は多い。

大学生の頃、東洋史の先生も言っていた。ヨーロッパ諸国が先進国になったのはつい最近だということをあまり認めたがらず、ヨーロッパ諸国がイスラム諸国や中国から受けた影響を軽視する人が歴史学の教授仲間にもいると。ギリシア文明が過大評価されがちなことも。

私が中学・高校時代に受けた歴史の授業を振り返っても、ヨーロッパ文明を必要以上に持ち上げているような感じがして、違和感があった。ルネサンスの三大「発明」の話も、「いやこれ全部、それより前に中国が発明してんじゃん」と思ったし。

その東洋史の先生に勧められて読んだエドワード・サイードの「オリエンタリズム」はそういった西洋中心主義に対する批判がこめられていた。

最近、ネットのどこかで「日本はアジアで唯一の先進国として~しなければならない」という、リベラル派らしき人の意見を見た。
その人の言いたかったことの趣旨は忘れてしまった。全体的には建設的な、私も賛同できるような意見を言っていたと思う。だけど、「日本はアジアで唯一の先進国」という部分がどうしても、どうしてもひっかかってしまったのね。
こんなことをナチュラルに言ってしまうような人の言うことを、それ以外の部分でいいことを言っていたとしても私はきちんと聞く気になれない。

韓国は? シンガポールは? 普通に先進国でしょ。特に韓国はOECDその他、ほとんどの基準をクリアしている。でも、このことを頑なに認めたがらない人がなぜかいる。アジアの中で日本だけは特別、と思いたい気持ちがどこかにあるからかな?

日本社会の保守性を指摘して、「日本は先進国じゃない」と言っている人も時々見るけど、そういう意見にも首をかしげてしまう。
まず先進国の基準は生活水準だとか、経済的なことがメインなわけで。先進国=国民性も立派というわけでもない。そんなもの、数字で測れるものでもないし。

口癖のように「欧米では~」と言う「リベラル」も結構よく見る。
それ以外の国からも学ぶべきことがあるはずなんだけど彼らの視界にはあまり入らないみたいだ。ひたすら欧米欧米言っているのがなんだかな、といつも思ってしまう。

だからといって日本中心主義に凝り固まるのもよくないけどね。
最近、日本すごいすごい系のテレビ番組や本をよく目にするようになってげんなりしている。そしてこういうものをありがたがる人たちがヨーロッパ中心主義に反発しているかというと、どうもそうでもないみたいなんだよね。こういう番組に登場する「日本を誉めてくれる外国人」に白人が妙に多かったりして、白人様に認められたいという強烈な白人コンプレックスを感じてしまう。

あからさまな差別主義者やネトウヨのような連中のほうがずっと偏見に満ちているのは言うまでもない。だけど、「リベラル」と呼ばれる人たちでさえアジアやアフリカを見下し、ヨーロッパを持ち上げる傾向があるのは否めないな、と私は思う。

私自身もまだそういう偏見にとらわれているかもしれない。どこかに白人コンプレックスを抱えているかもしれない。意識して、少しずつでも考えを改めていきたい。

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