山形市に行った際に旧県庁の部屋や郷土の歴史を学べ山形県郷土館「文翔館」が良かったので紹介したいと思います♪
場所は山形市中心部にあり、山形駅から徒歩15分ほどでしょうか。
入館無料です♪
この山形県郷土館「文翔館」は、明治44年5月の大火により焼失した山形県庁舎と県会議事堂を大正5年6月に復興し完成させたもので、昭和50年まで県庁舎として実際に使用されたとのことです♪
昭和59年12月に国の重要文化財に指定され、平成7年9月に10年に及ぶ工事が完了したようです。
現地に到着して驚きましたが、かなり立派な建物で、周りの敷地もかなり綺麗に整備されていましたね♪
↑山形県郷土館「文翔館」の建物
↑山形県郷土館「文翔館」の周り
さっそく建物内を見学します♪
最初の部屋は昔は正庁だったとのことで、現在の講堂にあたるもので、訓示や辞令交付などが行われたほかに、貴族院議員の選挙、警察署庁会議等も行われたようです♪
なかなか綺麗な部屋です♪
↑正庁
そして貴賓室もありましたね♪
当時は皇室や国の高官の控え室等に使用されたようで、昭和中頃からは副知事室として使用されたとのことでした♪
↑貴賓室
そして、歴代県令(現在の県知事)の紹介が写真付きでありましたが、初代の鹿児島出身の三島通庸は、「土木県令」の名で知られ、道路や、橋などのインフラ整備に尽力し、山形発展の礎を作ったようです♪
↑歴代県令
そして、何とおぉぉ知事室は「るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編」のロケで使用されたとは嬉しかったですね♪
確かにこのシーンはあったような気がします♪
↑映画ロケの説明
↑知事室
そして歴史の説明コーナーに行きます♪
江戸時代には山形城があり、最上義光が平城を中心とした本格的な城下町の整備が行われたようですが、その城の周りは武家地で、そしてその周りが町人地で、その外側に寺社地があったようで、なかなか興味深いです♪
↑城下町の変容の説明
↑城下町の地図
それから山形市は明治時代に2度の大火があったようで、大火後に耐火の石造りやレンガ等を用いて洋風建築に変わったようです♪
↑現代都市へのスタートの説明
↑大火からの復興の説明
↑大火の地域
↑大火の様子
それから初代県令の三島通庸の県都プランの特徴の説明がありましたね。
近代的な官庁街を造ったりしたようです。
↑三島通庸の県都プランの特徴
それから山形県の殖産興業政策は、通信交通施設など経済基盤の整備に力が注がれるだけでなく、県営製糸場や勧業博物館がつくられ、勧農政策も活発に進められたようです。
↑殖産興業の説明
そのため、明治22年(1889年)には山形市の人口は28,400人だったのに大使、大正10年(1921年)には47,257人と増加したようです。
また明治30年に歩兵第32連帯が設置され、明治34年に奥羽線が山形まで開通したようです。
↑山形の発展
↑奥羽線の開通
↑最初の上り電車
また明治40年から電話事業が開始されたようです。
↑電話の普及
それから昭和の中頃までの説明がありますが、山形県は昭和61年にアメリカ合衆国のコロラド州と、平成5年に中華人民共和国龍江省、平成6年にインドネシア共和国パプア州とそれぞれ姉妹・有効の盟約を締結して、文化・経済など幅広い分野で交流が進展しているようです♪
↑国際交流の進展
そして「歴史の道 最上川」の展示も興味深かったですね♪
最上川河口の酒田は、西廻り航路や東廻り航路を利用して、南は大阪や瀬戸内、北は蝦夷地・松前など全国からの船が入港し、栄えていたようです。
江戸時代半ばには、年間約3000艘の船が入港していたとは凄いですね。
↑歴史の道 最上川
こうした繁栄は寛文12年(1672年)の河村瑞賢による西廻り航路の整備によってもたらされたようです。
この整備の目的は、最上川流域に広がる幕府領の米を安全に江戸に運ぶことにあったためです。
米の他にも、紅花や青さなど内陸の生産品が最上川を通して全国に移出され、全国の物資や情報が内陸に運ばれたようです♪
ちなみに江戸時代後期には、3月14日に大阪を出発した船は4月9日に酒田に入港し、5月3日に米を積み、5月5日に酒田を出帆して5月10日に下関に入り、6月7日に江戸の品川に到着したようです。
↑幕府料米積み出し船の日数
また雅楽や料理、仏教、服装、祭りなどの文化も運んだようですね♪
↑文化を運んだ道・最上川
そのほか、山形の工芸品もありました♪
↑山形の工芸品
↑山形の工芸品
↑山形の工芸品
そして、昔の大きな議場もありましたね♪
素晴らしいです♪
↑大きな議場
山形県郷土館「文翔館」は、「るろうに剣心」のロケ地を含めた旧県庁の部屋や、江戸時代からの山形の歴史等をわかりやすく学べ、とてもオススメです!
お勧めなお話(2018年下半期)
<今日の独り言>
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場所は山形市中心部にあり、山形駅から徒歩15分ほどでしょうか。
入館無料です♪
この山形県郷土館「文翔館」は、明治44年5月の大火により焼失した山形県庁舎と県会議事堂を大正5年6月に復興し完成させたもので、昭和50年まで県庁舎として実際に使用されたとのことです♪
昭和59年12月に国の重要文化財に指定され、平成7年9月に10年に及ぶ工事が完了したようです。
現地に到着して驚きましたが、かなり立派な建物で、周りの敷地もかなり綺麗に整備されていましたね♪
↑山形県郷土館「文翔館」の建物
↑山形県郷土館「文翔館」の周り
さっそく建物内を見学します♪
最初の部屋は昔は正庁だったとのことで、現在の講堂にあたるもので、訓示や辞令交付などが行われたほかに、貴族院議員の選挙、警察署庁会議等も行われたようです♪
なかなか綺麗な部屋です♪
↑正庁
そして貴賓室もありましたね♪
当時は皇室や国の高官の控え室等に使用されたようで、昭和中頃からは副知事室として使用されたとのことでした♪
↑貴賓室
そして、歴代県令(現在の県知事)の紹介が写真付きでありましたが、初代の鹿児島出身の三島通庸は、「土木県令」の名で知られ、道路や、橋などのインフラ整備に尽力し、山形発展の礎を作ったようです♪
↑歴代県令
そして、何とおぉぉ知事室は「るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編」のロケで使用されたとは嬉しかったですね♪
確かにこのシーンはあったような気がします♪
↑映画ロケの説明
↑知事室
そして歴史の説明コーナーに行きます♪
江戸時代には山形城があり、最上義光が平城を中心とした本格的な城下町の整備が行われたようですが、その城の周りは武家地で、そしてその周りが町人地で、その外側に寺社地があったようで、なかなか興味深いです♪
↑城下町の変容の説明
↑城下町の地図
それから山形市は明治時代に2度の大火があったようで、大火後に耐火の石造りやレンガ等を用いて洋風建築に変わったようです♪
↑現代都市へのスタートの説明
↑大火からの復興の説明
↑大火の地域
↑大火の様子
それから初代県令の三島通庸の県都プランの特徴の説明がありましたね。
近代的な官庁街を造ったりしたようです。
↑三島通庸の県都プランの特徴
それから山形県の殖産興業政策は、通信交通施設など経済基盤の整備に力が注がれるだけでなく、県営製糸場や勧業博物館がつくられ、勧農政策も活発に進められたようです。
↑殖産興業の説明
そのため、明治22年(1889年)には山形市の人口は28,400人だったのに大使、大正10年(1921年)には47,257人と増加したようです。
また明治30年に歩兵第32連帯が設置され、明治34年に奥羽線が山形まで開通したようです。
↑山形の発展
↑奥羽線の開通
↑最初の上り電車
また明治40年から電話事業が開始されたようです。
↑電話の普及
それから昭和の中頃までの説明がありますが、山形県は昭和61年にアメリカ合衆国のコロラド州と、平成5年に中華人民共和国龍江省、平成6年にインドネシア共和国パプア州とそれぞれ姉妹・有効の盟約を締結して、文化・経済など幅広い分野で交流が進展しているようです♪
↑国際交流の進展
そして「歴史の道 最上川」の展示も興味深かったですね♪
最上川河口の酒田は、西廻り航路や東廻り航路を利用して、南は大阪や瀬戸内、北は蝦夷地・松前など全国からの船が入港し、栄えていたようです。
江戸時代半ばには、年間約3000艘の船が入港していたとは凄いですね。
↑歴史の道 最上川
こうした繁栄は寛文12年(1672年)の河村瑞賢による西廻り航路の整備によってもたらされたようです。
この整備の目的は、最上川流域に広がる幕府領の米を安全に江戸に運ぶことにあったためです。
米の他にも、紅花や青さなど内陸の生産品が最上川を通して全国に移出され、全国の物資や情報が内陸に運ばれたようです♪
ちなみに江戸時代後期には、3月14日に大阪を出発した船は4月9日に酒田に入港し、5月3日に米を積み、5月5日に酒田を出帆して5月10日に下関に入り、6月7日に江戸の品川に到着したようです。
↑幕府料米積み出し船の日数
また雅楽や料理、仏教、服装、祭りなどの文化も運んだようですね♪
↑文化を運んだ道・最上川
そのほか、山形の工芸品もありました♪
↑山形の工芸品
↑山形の工芸品
↑山形の工芸品
そして、昔の大きな議場もありましたね♪
素晴らしいです♪
↑大きな議場
山形県郷土館「文翔館」は、「るろうに剣心」のロケ地を含めた旧県庁の部屋や、江戸時代からの山形の歴史等をわかりやすく学べ、とてもオススメです!
お勧めなお話(2018年下半期)
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