いいね~おいしいね~

食べたり買って良かったもの等を実体験に基づき厳選紹介!ぜひご利用頂きより良い人生や日本経済等活性化につながれば幸いです♪

「ZAGAT2013 Tokyo Restaurants」ザガットサーベイ東京のレストラン〈2013〉はとてもオススメ!

2012年11月30日 01時00分00秒 | 

<金曜は本の紹介>

「ZAGAT2013 Tokyo Restaurantsザガットサーベイ東京のレストラン〈2013〉」の購入はコチラ

 以前このブログでも紹介しましたが、ZAGATのサーベイ投票に参加したので、無料でZAGAT2013が送られてきました!

 さっそくこの本を参考に、これから美味しいお店に行ってみたいと思います。
特に新たに追加されたお店に注目しています。

 そのZAGAT2013ですが、今年のサーベイ投票参加者数は、9,849人だったとのことです。
昨年が5,035人だったのでほぼ倍増ですね。
昨年は東日本大震災の影響で参加者が少なかったのかもしれませんが、食に目を向ける人が増え、世の中が明るくなってきたのかもしれません。

 それから、今回のサーベイ結果では老舗の高級店とリーズナブル店で人気を二分する傾向が見られるようです。
 食も二局化が進んでいるのでしょうか。
たとえばフレンチのトップ5でも平均消費単価が9,500円~24,100円とばらつきがあり、和食でも元々高価なお店が多かったのですがコストパフォーマンスの優れたお店が増えているようです。

 また、アメリカに端を発するビアレストランがブームのようです。
たとえば都内に5店舗を構える「ベルジアンビア・カフェ」シリーズや東京ソラマチに出店した「世界のビール博物館」、横浜の「ベイ・ブルーイング・ヨコハマ」や「馬車道タップルーム」といったビアレストランが人気のようです。
私も東京スカイツリー近くの「世界のビール博物館」などビアレストランには行ってみたいと思いますね。

 なお、ZAGATはGoogleに買収されたと聞いていましたが、この本の中にある地図がさっそくGoogleの地図に代わっていて、思わず微笑んでしまいましたね^_^)

 このZAGAT2013で掲載されているお店の数は1、372店でした。
今回新たに追加されたお店は89店で、そのうち39店は今年開店したお店とのことです。
その追加店一覧をこの後で記します。

 また、コストパフォーマンスが高い「お値打ちレストラン」40店の顔ぶれは、昨年とほぼ変化はありませんね。

 それからサーベイで寄せられた評や編集スタッフの意見を総合し、コストパフォーマンスも大きな魅力のひとつとなっている「おすすめのレストラン」は以下でした。ぜひ行ってみたいと思います。

<おすすめのレストラン>

・アーンドラ・ダイニング
・アフェット麻布台
・アベス
・アンティカ・オsテリア・カルネヤ
・板前心 菊うら
・ヴァリノール
・ヴィノシティ
・えさき
・エミュ
・遠藤利三郎商店
・オステリア・ダ・バッボ
・想いの木
・海幸
・きらく亭
・銀座 奥田
・くろさわ 東京菜
・黒猫夜
・春草
・鮨 太一
・スパイスカフェ
・チャイニーズレストラン わさ
・とん太
・日本橋橘町 都寿司
・ビストロ間
・フェルミンチョ
・mondo
・山形田
・ラシェット・ブランシュ
・L’AS
・ラミティエ
・リコス・キッチン
・リストランテ ラ・チャウ
・リストランテ・ヤギ
・レストラン アルシミスト
・カンブーザ
・サローネ2007
・シェ・フルール横濱
・チャコールグリル・グリーン
・ヌーベルシノワ醐社羽
・ブラッスリー・アルティザン

今回追加されたお店は以下となります。
最近できた新店は【NEW】を付しています。

<ZAGAT2013 TokyoRestaurantsで追加されたお店>

・アーンドラ・ダイニング【NEW】
・アイヴィープレイス
・赤坂箪亭
・麻布 雪村
・味泉
・アダン
・アフェット麻布台
・あぶさん
・アムール【NEW】
・アンティカ・オステリア・カルネヤ
・アンティーカ・ピッツェリア・ダ・ミケーレ【NEW】
・一期
・稲水器 あまてらす
・植むら本店
・うしごろ
・宇ち多
・エスキス【NEW】
・江戸蕎麦 ほそ川
・エノテカ・ラウラ【NEW】
・恵比寿 くろいわ
・オステリア・ダ・バッボ
・オルゴーリオ・デル・カサルタ【NEW】
・神楽坂くろす【NEW】
・京ばし松輪
・銀座ハプスブルク・ファイルヒェン【NEW】
・銀座 奥田
・ぎんざ古窯
・金舌
・クラウン【NEW】
・倶楽湾【NEW】
・ケンゾーエステイト
・コード・クルック
・琥珀宮【NEW】
・さびや【NEW】
・春草
・新ばし 星野【NEW】
・鮨 三谷
・鮨 よしたけ
・スペインクラブ銀座
・晴山
・世界のビール博物館【NEW】
・築地藤田【NEW】
・辻留
・テジーノ
・てん茂
・トゥーランドット臥龍居
・とん太
・ナスカ【NEW】
・N9Y ブッチャーズ・グリル・ニューヨーク【NEW】
・馬喰町 東京ぶどう酒店【NEW】
・ばさら
・パッション
・初音鮨
・バビーズ【NEW】
・ビストロ・アンバロン
・ビストロ・ボーテ【NEW】
・日山
・フェリチェリーナ
・フェルミンチョ
・ベルジアンビア・カフェ ブルージュ【NEW】
・ボノミー
・ボン・グゥ神楽坂【NEW】
・マティーニ・バーガー
・マノワ
・味芳斎
・ムツビ【NEW】
・ヤックマン【NEW】
・山形田
・ら すとらあだ【NEW】
・ラシェリール
・L’AS【NEW】
・LA SORA SEED【NEW】
・ラ・フィネス【NEW】
・リストランテ・ベッラヴィスタ
・リストランテ・ヤギ
・リストランテ ラ・チャウ
・リベルテ・ア・ターブル・ドゥ・タケダ【NEW】
・ル・コントワール・ドゥ・レジオン【NEW】
・れい家菜
・レストラン 間【NEW】
・レストラン アルシミスト
・レストラン コバヤシ
・レストラン タニ【NEW】
・レ・フラム・ド・ラ・パッシオン【NEW】
・蓮
・ロッシ
・ロッツォ・シチリア
・罠【NEW】

「ZAGAT2013 Tokyo Restaurants」はとてもオススメです!

 

なお、以前のZAGATの紹介は以下となります♪

・ZAGAT Tokyo Restaurants 2012

・ZAGAT Tokyo Restaurants 2010


面白かった本まとめ(2012年上半期)

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マユール(立川市)でランチを堪能しました!

2012年11月28日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

 JR立川駅北口から徒歩約5分ぐらいのパチンコ屋の裏通り沿いにあるマユールでカレーやナン等のランチを堪能しまた!
 
 パチンコ屋の小さな裏通り沿いにあるお店で、ビルはギリシャのパルテンノン風の少し古いビルなので、恐る恐る店内に入ったのですが、店内は清潔感があり、店員さんから元気よく迎えいれてくれ、そして若い女性客や紳士らしき客もたくさんいて安心しました。
 繁盛していました。

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↑店構え

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↑玄関

 店内はかなり広く、席と席の間には空間があり、ゆっくりできて良いです。
 玄関近くが喫煙で、奥が禁煙の席となっていました。
 店内は、想像以上に小ぎれいで清潔感があり、またテーブルにはテーブルクロスがかけられていて、上品さがあります。
 店内は少しインド風ですかね。
 女性客が多いので味には期待できそうです。

3img_4200
↑店内

 さっそくメニューを見ます。
大きくサービスランチとデラックスランチの二つに分けられます。
それぞれ、サラダ・ナン・カレー・飲み物・デザートがあり、違いはカレーの中身ですね。その差が200円となっているようです。
また、それぞれ+300円でタンドリーチキンが追加でき、+500でタンドリーチキンとシュリンプが追加できます。

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↑サービスランチメニュー

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↑デラックスランチメニュー
 
 少し悩みますが、サービスランチでチキンとカボチャのカレーがあるのでそれを選びます。
タンドリーチキンを追加してマユールランチ(1300円)にしました。
 ちなみにサービスランチは以下のカレーから選べます。
・チキンカレー
・ポークカレー
・豆カレー
・エッグカレー

 辛さは以下の4種類から選びます。ふつうにノーマルを選びました。
・マイルド
・ノーマル
・辛口
・激辛

 またナンの大きさはノーマル(約30cm)かビッグ(約40cm)を選べます。
ノーマル+小ライスも選択でき、良心的ですね。
ここはせっかくのインド料理なので、ナンのビッグを選びました。

 それからドリンクは以下から、オレンジジュースを選びました。
・ミルク入りマサラティ(温or冷)
・ラッシー(冷)
・アイスウーロン茶
・オレンジジュース(冷)
・コーヒー(温or冷)


 さっそく、レタスサラダとオレンジジュースが運ばれます。
オレンジジュースのグラスは大きめで嬉しいです。
レタスサラダのドレッシングが少し甘くて驚きましたが、なかなかイケます。

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↑サラダとオレンジジュース

そして、タンドリーチキンがしっかり中まで焼かれていてGoodですね!このタンドリーの味付けが嬉しいです!

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↑タンドリーチキン

そして、ナンとカレーが運ばれますが、ナンが大きい!!
その大きさにはビックリ!
もちろんナンはアツアツで、そしてほんのり甘くて嬉しいです。
ナンやタンドリーチキンは窯で焼かれてそれを見ることができるようです。
カレーはカボチャが入っているのでマイルドで、チキンとも合いますね~。
これは美味しいです!
さすが女性客が多いだけはありますね。

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↑ナンとカレー

最後にバニラアイスが運ばれ、そしてその横に「さわやか吐息」があるのには驚きました^_^;)
女性客を気遣っているんですね。

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↑バニラアイスとさわやか吐息

なお、このお店は金曜夜にはボリウッドダンスやアラビアン音楽&ベリーダンスを楽しめるようで、面白い企画ですね。
店内が広いのでできるのでしょう。
19:30~と21:00~でチャージなしとは嬉しいですね。
ベリーダンスは女性の水着風で色気がありそうです。

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↑金曜夜のダンスショーなどの紹介

マユールは美味しいインド料理を楽しめ、とてもオススメです!!

インド料理 マユール
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関連ランキング:インドカレー | 立川北駅立川駅立川南駅



美味しかったものまとめ(2012年上半期)

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日暮里(御殿坂・谷中銀座商店街編)街歩きを楽しみました!

2012年11月26日 01時00分00秒 | イベント・外出
<月曜はお勧めなおはなし>

 以前このブログでも紹介した「山手線ぐるり おみやげ散歩」を見ながらJR山手線の日暮里駅周辺街歩きを楽しみました!

 日暮里(にっぽり)の地名の由来は、「日が暮れるまで散策しても飽きない里(日暮らしの里)」と言われていたようで、昔は風光明媚な場所で、江戸時代には多くの文人たちに好まれ、浮世絵や文芸作品の題材にされたようです。

 現在では、日暮里の西側には江戸時代からの寺社仏閣が多く残され、東側には大正時代からの生地織物の繊維問屋等の店が建ち並ぶようです。

 また、「谷中」という地名は、江戸時代以前からあり、上野台と本郷台の谷間に位置していることにちなみ、下谷に対してつけられたようです。
「谷中」は、江戸時代の都市計画で多くの寺院が集められて門前町として発展したようです。

 日暮里の街歩きでは、かなりのスポットを訪れたので2回に分けて紹介したいと思います。

 今回は、日暮里駅西側の「御殿坂」や「谷中銀座商店街」のオススメについて紹介し、来週は「谷中銀座商店街」突き当たりの左右にある「よみせ通り」や富士見坂でのダイヤモンド富士、諏方神社について紹介したいと思います。

 まず、日暮里駅西口から「谷中銀座商店街」方向に御殿坂を歩きます。
途中に御殿坂の案内がありました。
この御殿坂をまっすぐ歩くと、そのまま「谷中銀座商店街」となります。

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↑御殿坂の案内

 そして御殿坂の通りの左側に「谷中せんべい」がありました。
なんと大正初期創業の老舗で、商品の並べ方から、いかにも古そうなお店です。
 昔から、この透明の丸いガラスケースに入れて売っていたのでしょう・・・

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↑「谷中せんべい」の店構え

1枚1枚手で焼き上げられているようで、お値段は1枚65円からです。
秘伝のたれで焼いた「堅丸」が人気のようなので、この「堅丸」と「胡麻」「ザラメ」を買いました。
それぞれ65円です。
この老舗感の店造りが嬉しいですね~。
もちろん、せんべいは適度な堅さがあり、美味しいです!

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↑谷中せんべい

そして、「谷中銀座商店街」に向けて歩くと、右側に何だか気になるインド風のお店があります。
 インド料理&紅茶を提供するようで、店名は「ダージリン」です。

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↑ダージリンの店構え

 思い切って入ってみました^_^;)
店の玄関は1階で、中に入り、そして階段を上って2階に行きます。
 店内の本格的なインド風の調度品には驚きました。
家具やテーブル等の彫刻が美しく、結構値が張るのではないかと思います。

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↑ダージリンの店内

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↑ダージリンの店内

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↑ダージリンの店内

そしてインド人からカレーにするのか紅茶にするのか訊ねられ、紅茶と答え、メニューを持ってきてくれます。
茶葉と一緒にメニューを持ってきたのには驚きました。
紅茶にはかなり自信があるようです。

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↑紅茶の茶葉の見本

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↑TEAのメニュー

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↑セットメニュー

メニューを見ると店名がダージリンということもあり、ダージリンには自信があるようです。
ブレンドのミラジュラティーが気になりポットの値段は850円です。
そして、セットメニューを見ると、同じミラジュラティーにデザートとして以下がのいずれかが付いて750円とはお得です。

<セットのデザート>

・サモサ
・ハルワ
・スコーン
・チーズケーキ

 そのため、このTeaセット750円を注文しました。

 しばらくてして、このTeaセットが運ばれたのですが、本格的なTeaセットにはぶったまげました!^_^)

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↑Teaセット

 銅製?の本格的なポットにはアツアツの紅茶が作られ、そしてその取っ手には布がかけられています。
 Teaカップも高級なボーンチャイナで、そして重厚な銅製?のコップには水が注がれていました。
 この高級感は嬉しいですね!
 さっそく、ポットからカップへ紅茶を注ぎます。
もちろん大きな茶葉が入らないように銅製?の穴の開いたものを間に入れます。
 さすが紅茶が美味しい!!
癖がなく、そしてアツアツで美味しく頂けます。
後で知ったのですが、このお店は日本紅茶協会認定の「おいしい紅茶の店」なんですね。
さすがです!!
全国でも212店舗しか「おいしい紅茶のお店」と認定されていないようです。

またデザートとしては、チーズケーキを選んだのですが、これも手作りでしっとりしていて美味しい!
インド人もビックリ!
というか、この日本人テイストにどうやってアレンジしたのだろうかと不思議です。
谷中恐るべしです!
このダージリンというお店はとてもオススメですね!


それから「谷中銀座商店街」に向けて少し歩くと、「夕やけだんだん」がありました。

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↑夕やけだんだん

「夕やけだんだん」はただの階段!?ですが、ここから美しい夕焼けを眺めることができるようで、一般公募で命名されたようです。
昔はさぞかし綺麗な夕焼けが辺り一面に広がっていたことでしょう。
現在はビルばかりですが、想像をかき立てられて良いですね。

 そして、「谷中銀座商店街」に入り、通りの右側に「後藤飴店」が目立ちます。

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↑後藤飴店

 このお店は大正11年創業の老舗です。
店主によると、このお店は地元やお墓参りの客を大切にするため、一切テレビや有名人の取材を断っているようで、手作りの飴もこの場所以外(たとえばデパート等)では売っていないとのことです。

 また、先代が許さなかった辛目の「ニッキ飴」を20年前から売り出し、今ではこれが看板商品のようです。
当初はあまり売れなかったようですが、辛い「ニッキ飴」は徐々に人気が出たようです。
ただ「飴は甘いもの」と先入観がある方にはオススメできないようです。

 それから、「ゆず飴」が人気で、一人2袋までと制限がありました。
このお店は週末(木曜~日曜)に客が多いようで、週末にはこの「ゆず飴」が14時頃に売り切れてしまうようです。
 それから夏場と冬場では商品数が違い、またすぐ食べてもらうため乾燥剤は入れていないとのことです。

 店主はかなりこだわりがあるようで、また分かりやすく説明してくれたのは嬉しかったですね。

 「ニッキ飴」315円と「ゆず飴」399円を購入しました。
「ニッキ飴」を恐る恐る食べてみましたが、そんなには辛くはなく、さすが人気なだけはあり、また欲しくなりますね。
納得の味です。
「柚子飴」は柚子の香りとほんのり甘さが美味しい!!
最初の一口から美味しさを感じます。
さすが一人2袋と制限されるだけはありますね!
飴の形が不揃いなのも何だか良いですね。
これはとてもオススメです!!

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↑「ニッキ飴」と「ゆず飴」

それから通りの左側には「焼かりんとう本舗」というお店がありました。

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↑焼かりんとう本舗

 このお店の「焼かりんとう」は、沖縄の伊江島のサトウキビを原料とした黒糖を使用し、また油で揚げていないというものです。
試食もでき、少し太めのかりんとうで、そんなに固くなく、黒糖が健康に良さそうで嬉しいですね~!
1袋630円を購入しました。
サクサクで美味しいです。オススメです!

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↑焼かりんとう

それから「谷中銀座商店街」を歩くと、コロッケを1つ30円で売っている店もあり驚きましたね。

日暮里の御殿坂や谷中銀座商店街の街歩きはとてもオススメですね!
続きは次回とします。
次回は日暮里(よみせ通り・ダイヤモンド富士・諏方神社編)街歩きです。

お勧めなお話(2012年上半期)
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「利他のすすめ(大山泰弘)」という本はとてもオススメ!

2012年11月23日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「利他のすすめ(大山泰弘)」の購入はコチラ

 この「利他のすすめ」という本は、日本理化学工業(株)会長が書いた本です。

 大山泰弘氏は、1960年に養護学校から二人の知的障害者の就業体験を受け入れたことをきっかけに障害者雇用に本格的に取り組むようになり、1975年には川崎市に日本初の知的障害者多数雇用モデル工場を建設し、現在74人の社員のうち55人が知的障害者(障害者雇用割合約74%)、製造ラインをほぼ100%知的障害者のみで稼働できるよう工程にさまざまな工夫を凝らしているとのことです。

 また2000年に刊行された「日本でいちばん大切にしたい会社」で紹介され話題となり、また障害者雇用に取り組んだ経営が評価され、渋沢栄一賞のほか、東京商工会議所の「勇気ある経営大賞」を受賞したようです。

 この本は、その知的障害者とともに働くなかで、彼らに学んだ知恵をまとめたものです。

主に以下のことについて書かれています。
・人間の幸せは、人に愛されること、ほめられること、役に立つこと、必要とされること
・人のせいにしないから自分が磨かれる
・本気で相手のためを思う。それが強い絆を生む
・自分を去れば(人のために動けば)、強く生きられる
・迷ったときこそ、人のために動く
・利他の積み重ねが、幸せな自分をつくる
・人を育てるには待つことが大切
・手段にこだわりすぎるのではなくどうすれば結果を出すことができるか考え抜く
・人に役にたつことが自分の幸せで、つまり利他こそが自分のため
・子供の頃から人の役に立つ経験が大切
・「私」ではなく「公」を考えること
・神様はじっと私たちを見ていて、誰かのために頑張っている人にはいつか贈り物を届けてくださる
・別に偉い人になる必要はない。その立場立場においてなくてはならない人になる
・逆境の中でも誰かの役にたつために努力を重ねれば、周りから応援されて、100%の形ではないにせよ、自分の夢や思いを実現する道が拓ける
・利他に生きるほうがむしろ安心して生きることができる
・人の役に立つために一所懸命に働いてみること

「利他のすすめ」という本は、とてもオススメな本です!
以下はこの本のポイント等です。

・人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは次の4つです。
 人に愛されること、
 人にほめられること、
 人の役に立つこと、
 そして、人から必要とされること。
 愛されること以外の3つの幸せは、働くことによって得られます。障害をもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです」

・試行錯誤の連続でした。しかし、その課程で、私は実に多くのことを学ぶことができました。
 「人のせいにしないから、自分が磨かれる」
 「本気で相手のためを思う。それが強い絆を生む」
 「自分を去れば、強く生きられる」
 「迷ったときこそ、人のために動く」
 「利他の積み重ねが、幸せな自分をつくる」・・・
 すべて、知的障害者とともに働くなかで気づかされたことです。そして、人間が生きていくうえできわめて重要なことばかりです。「知的障害者のために」という思いで頑張ってきたつもりでしたが、実は、「与えられた」のは私のほうだったのです。

・人を育てるー。これは、実に骨の折れることです。時間はかかりますし、辛抱もしなければなりません。それでも、私は「待つ」ことを大切にしたい。人は、誰かの役に立つ幸せを求めて、必ず仕事に真剣に向き合うようになります。周りの人が、その小さな成長に眼を向け、励まし、支えることで、その人は必ず育っていくのです。そして、「待つ」ことによって、私たちは、「絆」という大きな果実を得ることができるのです。

・私は、想像します。崩れ落ちる製品を見つめながら、「君が来てくれないと、こんなに困るんだよ」と声をかけられたとき、彼は幸せを感じていたに違いない、と。ご住職の言葉を思い出してください。人の役にたち、人から必要とされるー。彼は、あのとき、この「究極の幸せ」に触れることができたのです。だからこそ、その幸せを追い求めるために頑張り始めたのです。私はここに、人間の成長の秘密を見る思いがします。人から必要とされる喜びを知ったとき、人は自らの力で成長しようとし始めるのです。幸せこそ、人を成長させる原動力なのです。

・私たちは、ついつい自分にとっての「当たり前」を相手に押しつけようとしてしまいます。そして、相手が理解してくれなければ、それを相手のせいにしてしまう愚を犯してしまいがちです。しかし、相手のせいにしても何の解決にもならないのです。他人を変えることはできません。しかし、私たちは自分を変えることはできます。そして、自分が変われば、相手も変わり始めます。この普遍的な真実を、私は知的障害者に教わったのです。

・仕事で大切なのは「結果」です。「手段」にこだわりすぎるのではなく、「どうすれば結果を出すことができるか」を考え抜く。そうすれば、きっと新しいやり方を見つけることができるはずです。これこそ、「常識」から自由になる方法なのです。

・私は知的障害者との関係に悩む社員にこう語りかけています。「君は本気で仕事に取り組んでいますか?本気で彼らのためを思っていますか?君が本気でなければ、彼らは応えてくれないんだよ」すると、ほとんどの人がわが身を振り返るようになります。そして、彼らに真剣に向き合うようになり、やがて信頼関係を築き始めます。知的障害者の正直さが、彼らを成長に導いてくれるのです。本気で生きること。そして、本気で相手のためを思うこと。それ以外に、強い絆をつくる方法はないのです。

・仕事がうまくいかないときや、障害者が言うことを聞いてくれないときには、相手のせいにするのではなく、自分の態度や指示の仕方を見直すようになります。そして、相手の立場にたって、相手に伝わるような対応をする力をつけていきます。「人のせいにしない」からこそ、自分を磨くようになるのです。知的障害者は、指示の意味をきちんと理解して、納得しっときには、全力で仕事に取り組んでくれます。その障害者の純粋な気持ちが、健常者にとってはなによりの喜びとなります。そして、彼らのためにもっとがんばろうという気持ちが生まれます。一方、障害者は「自分のために、こんなにもがんばってくれたんだ」と感謝の念を心に刻みます。そして、自分ががんばることで周りの人が喜んでくれることが嬉しくて、さらに努力を重ねるようになります。こうして、相手を理解し、思いやり、励ましながら、目標に向かって力を合わせるなかから、お互いを信頼し合う関係が生み出されます。

・皆さん、いろいろな悩みを抱えながら生きていらっしゃいます。しかし、そこで、「こんなはずじゃなかった」と悲観しても何も生み出すことはできません。気持ちがさらに落ち込んでしまうばかりです。それよりも、いまいる場所で精一杯、人のために動いてみることです。人を喜ばせために、目の前の仕事に真剣に取り組んでみることです。望んで就いた仕事ではなくても、職場の人が喜んでくれるように頑張っているうちに、その仕事の面白さがわかるようになります。それが天職になる人もいるでしょう。なかなか役に立つことができないこともあるかもしれませんが、それでも、気持ちを腐らせずに、「どうすれば役に立てるか?」「どうすれば喜んでもらえるか?」と工夫していれば、いつかコツがつかめるようになるはずです。少なくとも、そういう姿勢があれば、周りの人はあなたを応援したくなりまs。苦手な上司であっても、あなが一所懸命にその人の役に立とうと努力していればきっと味方になってくれます。それが人情というものです。小さな成長でもそれを褒めてくれる。「こうしたらいいよ」とアドバイスもしてくれる。それが励みになって、苦しい状況でも頑張れるようになります。そばにいる人のために動いていれば、小さな「ありがとう」を毎日のようにいただくことができます。その喜びを糧に、日々を生きていれば、必ずそれなりの道が拓かれるのです。

・私はより根元的なものがあると考えています。それは、「人の役に立つことが自分の幸せなんだ」ということ、つまり「利他」こそが自分のためになることを知ることです。その気持ちこそが「生きる力」の根っこになると思うのです。

・子供のうちから、できるだけたくさん「人の役に立つ経験」をさせてあげることです。そして、その喜びを追い求める心を育ててあげることが、彼らが力強く生きていく礎になっていくのです。大人になってからも同じことです。うまくいかないときこそ、そばの人を喜ばせるために全力を注いでみることです。小さなことでもいい。その人が喜んでくれたことが、私たちを元気づけてくれます。一歩ずつ歩みつづける力を与えてくれるのです。そばにいる人の役にたつー。それが、生きる原点なのです。

・「知的障害者のために」「親御さんのために」という思いで頑張っているとき、私は「自分」を去っていました。人のために動くことによって、自分のなかに渦巻いていた「怒り」「悲しみ」「無念」などの感情から解き放たれていたのです。だからこそ、私はへこたれそうなことがあっても、一歩ずつ前を向いて歩いてくることができたのです。人のために動くこおによって、私たちは「無我」になることができます。そして、本当の強さを得ることができるのです。

・まず人のために動いてみる。どうすれば人の役に立てるのかと、目の前の仕事に一所懸命に取り組んでみる。そうした努力を積み重ねるうちに、仕事が上達して、技術が磨かれ、周りから評価され、大切にされる存在になります。それが、「個性」と呼ばれるのです。神様は個性をつくったのではありません。人の役にたつことを幸せだと思う人間をつくったのです。そして、その幸せを追い求めて努力をすれば、おのずから「個性」は生み出されるのです。

・お客様のために商品の値段を安くすれば、経営が成り立たなくなるかもしれません。株主への配当を増やしすぎれば、社員が納得してくれるだけの給料が払えないかもしれません。地域への貢献も度が過ぎると、会社の利益を損ねることもあるかもしれません。つまり、多くの人の役に立つとは、こうした多様な人々の利害をどう調整するかということに行き着くのです。ここで大切なのは、「三方一両得」「四方一両得」を追求する姿勢です。一部の人が得をするのではなく、できるだけ多くの人が得をするにはどうすればよいかを考え抜くことです。時には、一部の人から不満の声があがることもあるかもしれません。そんなときには、全体の利益を最大化する観点から納得できなければなりません。一部の人に迎合することはく、全体のことを考える-。いわば、「私」ではなく、「公」を考えることです。もしかすると、これこそ成長の本質なのかもしれません。

・確かに私は、美唄市に工場をつくるときに商売上の計算もしました。しかし、そのうえで、「どちらが、世のため人のためになるか?」という観点で最終決断をしました。もちろん、美唄の地で地道に商売を続けさせていただきましたが、それ以上の見返りがあるとは思っていませんでした。ところが、長い年月を経てホタテ貝殻入りチョークという”ご褒美”をいただくことができたのです。だから、私はあのときの選択を「正しかったのだ」と思いました。そして、「迷ったときこそ、人のために動く」という信念をより強くしたのです。

・この世にはたしかに神様がいらっしゃる。そして、神様はじっと私たちを見ていて、誰かのために頑張っている人には、いつか贈り物を届けてくださるのだ、と。いつ、どのような贈り物があるのか、それは誰にもわかりません。ときには、報われない時期が続くこともあるかもしれません。しかし、それでも変わらず人のために動き続ける。そうすれば、きっと神様は見ていてくださる-。そう、私は信じています。

・賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つのことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。別に偉い人になる必要はないではないか。社会のどこにあってもその立場立場においてなくてはならない人になる。その仕事を通じて世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない。その立場立場においてなくてはならない人にある、「一隅を照らす」とはそのことだ。

・人というものは、必ずしも思い描いた人生を送ることができるわけではありません。むしろ、思い描いたとおりの人生などないといってもいいかもしれません。しかし、逆境のなかでも、誰かの役にたつために努力を重ねれば、周りから応援されて、100%の形ではないにせよ、自分の夢や思いを実現する道が拓けるのだと思います。

・利他に生きるほうが、「自分が、自分が」と我をはって生きるよりも、むしろ安心して生きることができると思います。なぜなら、日々、周りの人から「ありがとう」と感謝しえもらえるからです。一つひとつの「ありがとう」はささやかなものかもしれません。しかし、それらが、私たちの生活を幸せなものにし、生きる力を与えてくれるのです。しかも、周りの人が力を貸してくれるようになります。困ったときには、助けてくれるようになります。そして、その信頼関係こそが人生に本物の安心感を与えてくれるのです。

・人の役に立つために一所懸命に働いてみることです。信頼関係を求めるならば、まず、自分が相手のために動いてみることです。すべての人が人間脳をもっています。だから、きっと相手も私たちの力になりたいと願っているはずです。それを信じて生きたほうが、絶対に幸せに生きることができます。しかも、人のために動くとき、私たちは「無我の境地」に至ることができます。そして、小さな執着や見栄からも解放されるのです。

<目次>
はじめに
第1章 何千年たっても変わらないこと
 1 お釈迦さまの知恵。
 2 人間の究極の幸せ。
第2章 誰かの役に立ってこそ、幸せ
 3 待つことで、人は必ず成長する。
 4 幸せこそ、人を成長させる原動力。
 5 人のせいにしにから、自分が磨かれる。
 6 常識にしばられず、自由に考える。
 7 本気で相手のためを思う。それが、「強い絆」を生む。
 8 働くことで、愛までも得られる。
第3章 「利他の心」が人生を拓く
 9 人のために動くから、「働」と書く。
 10 そばにいる人の役に立つ。それが、生きる原点。
 11 自分を去れば、強く生きられる。
 12 人の役に立つことで、個性が育まれる。
 13 「私」を離れて「公」に至る。
 14 迷ったときこそ、人のために動く。
 15 周りの人に支えられて、人は生かされる。
第4章 「幸せな自分」をつくる
 16 一隅を照らす。
 17 逆境を受け入れ、それを最大限に生かす。
 18 利他の積み重ねが、「幸せな自分」をつくる。
終章 誰もが働ける、幸せな世界を
おわりに


面白かった本まとめ(2012年上半期)

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「自然薯 料理ふじ(東京 九段下駅近く)」でランチを楽しみました!

2012年11月21日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

東京メトロ九段下駅5番出口から靖国通り沿いに神保町方面へ徒歩約2分で首都高高架下にある「自然薯(じねんじょ)料理ふじ」でランチを楽しみました!
お店は改装したばかりで、店内もピカピカでかなり綺麗です。
自然薯「とろろ」が名物のお店のようです。
玄関を開けると、店員さんがすぐに店内に案内してくれました。

1img_4043
↑店構え

2img_4045
↑店内

 席に座ってさっそくメニューを見てみます。

3img_4046
↑メニュー

すぐに豆乳?と温かいお茶、温かいおしぼりが運ばれます。
いきなり豆乳とはめずらしいですよね。

 ランチメニューは「麦とろ御膳」の松(2000円)か梅(1500円)の選択で、その大きな差は本日の料理を2つ選ぶか1つ選ぶかの違いとなります。
 また松には「おみき」が付くようです。食前酒のことかな?

この日の「本日の料理」は以下から選ぶこととなります。

・鰆の幽庵焼き
・キングサーモンの塩焼き
・名物りゅうきゅう山かけ
・鶏の塩麹 旬の野菜(揚げ物)
・大粒カキフライ

かな~り悩みますが焼き魚が食べたかったので「鰆の幽庵焼き」にしました。幽庵って何でしょうね?
調べてみると、幽庵地(醤油・酒・味醂の調味液にユズやカボスの輪切りを入れたもの)を用いた魚の付け焼きとのことです。
「名物りゅうきゅう山かけ」を選ぶか悩みましたね^_^;)
麦とろ御膳(梅)1500円を注文しました。

そして比較的早く御膳が運ばれます。
「鰆の幽庵焼き」が大きい!
こんなに大きいとは「梅」を選択して正解でしたね。
隣の若い兄ちゃんは「松」を選択して、「キングサーモン」と「大粒」カキフライを注文していましたが、どちらも大きい!!
あんなに大きなカキフライが3つも重ねられているとはビックリでしたね!

4img_4048
↑麦とろ御膳(梅)

「鰆の幽庵焼き」は、中が柔らかく焼かれていて想像以上に鰆が美味しかったですね!
こんなに焼き魚が美味しいとは驚きました!
そして、たっぷりの「とろろ」がおいしい!
ご飯は、古代米と麦が合わせられているとのこと。
ご飯はお代わりができて嬉しかったです!
とろろご飯にして、おいしくいただきました!

それから、味噌汁は手作り味噌とのことで、これも出汁が利いていておいしい!
そして自家製手作り豆腐も美味しいです!
また小鉢の大根を甘く煮たのもGoodです!
お新香と、デザートのライチも嬉しかったですね!

想像以上にランチを楽しめました!
「自然じょ料理ふじ」はお店は綺麗だし、店員さんも優しいし、料理も美味しくとてもオススメです!!

自然薯料理ふじ
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関連ランキング:麦とろ | 九段下駅神保町駅竹橋駅



美味しかったものまとめ(2012年上半期)

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ニッケ全日本テニス選手権87th(女子シングルス決勝・男子シングルス準決勝)を観戦しました!

2012年11月19日 01時00分00秒 | イベント・外出
<月曜はお勧めなおはなし>

 以下の日程と会場等で開催されている「ニッケ全日本テニス選手権87th」の11月10日(土)の女子シングルス決勝と、男子シングルス準決勝を観戦しました!

<ニッケ全日本テニス選手権87th>
開催日 :平成24年11月3日(土)~11月11日(日)
会場  :有明コロシアム、及び有明テニスの森公園テニスコート
     東京臨海新交通ゆりかもめ 有明テニスの森駅から徒歩4分
     りんかい線 国際展示場駅徒歩6分
主催  :公益財団法人 日本テニス協会
後援  :東京都
     財団法人 上月スポーツ
     読売新聞社
特別協賛:ニッケグループ 日本毛繊株式会社

 有明コロシアムには、初めて行ったのですが、東京臨海新交通ゆりかもめ 有明テニスの森駅から徒歩4分の所にあり、駅からもよく見える大きな建物です。

1img_4410
↑有明コロシアムの建物

有明コロシアム西口入口には、大きな対戦表が置いてありました。

2img_4411
↑対戦表

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↑有明コロシアム西口

10時に開場となり、コロシアム内に入ります。
入場料は、一般席が一人1000円でしたね。
楽天ジャパンオープンなども開催される会場で、かなりの広さです。
ただ、実際にはテニスコートが大きく見え、会場は結構狭く感じましたね。不思議です。

4img_4414
↑有明コロシアム内

 女子シングルス決勝の試合開始が11時で、少し時間があったので会場を散策してみました。
 ダンロップなどのテニス用品ブースやテニスの歴史コーナー、全日本選手権の歴代優勝者の紹介、屋台などがありましたね。

 「日本のテニスはじめて物語」では、日本人のはじめての全米ダブルス優勝(佐藤次郎、布井良助)や全英ミックス優勝(三木龍喜)、全英ダブルス優勝(沢村和子)などが展示されていて、日本テニス会の歴史を学べましたね。
 沢村和子選手にはかすかに当時の記憶がありますね~。

5img_4415
↑全米ダブルス優勝(宮城淳、加茂公成)

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↑全英ミックス優勝(三木龍喜)

7img_4425
↑全英ダブルス優勝(沢村和子)

また、ロンドンオリンピックやパラリンピックでの錦織選手や国枝選手の活躍も飾られていました。
また、日本のジュニア選手が活躍しているようで、近い将来が楽しみですね。

8img_4431
↑ロンドンオリンピックやパラリンピック等

それから、全日本選手権の歴代優勝者の写真や決勝のスコア等も飾られていました。
最近5年の優勝者は以下の通りです。

<男子シングルス>
2007 鈴木貴男
2008 添田豪
2009 添田豪
2010 杉田祐一
2011 守屋宏紀

<女子シングルス>
2007 中村藍子
2008 クルム伊達公子
2009 奈良くるみ
2010 土井美咲
2011 藤原里華

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↑男子シングルス歴代優勝者の写真

10img_4436
↑女子シングルス歴代優勝者の写真

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↑男子シングルス歴代決勝

12img_4447
↑女子シングルス歴代決勝


そして、11時から女子シングルス決勝が始まりました。
高橋恵理加選手と山外涼月選手の戦いです。
高橋恵理加選手は6年前に一度この大会で優勝しているとのことでした。

試合は、お互いサービスがなかなかキープできない熱戦で、1セット目は6ー4、2セット目は3ー6で進みます。

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↑山外涼月選手のサーブ

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↑高橋恵理加選手のサーブ

 そして、3セット目2-4で15:40と大ピンチを迎えた山外涼月選手が一か八かの強打を繰り出し、そして見事このピンチを切り抜けたのには、とても感動しましたね!
 普通ピンチでは、ミスをすると終わりなのでミスを出さないように慎重に打つものですが、それでは打開できないと考え、積極的に攻撃とは本当に驚きました。
 ピンチは自分で切り抜くものだと、勇気を与えてくれる一打でした。

 試合の流れとは面白いもので、この一打で30:40となり、デュースから難なくこのゲームをブレイクしたのはスゴいと思います。

 そして5-4まで盛り返し、山外涼月選手の優勝が目前に迫ります。
しかし、ここから高橋恵理加選手が我慢強く耐え、6-5と再逆転し、そして3度目のマッチポイントを見事決めて3セット目は7-5で粘り勝ちし、優勝することができました!
 2時間21分のとても感動的な大熱戦でした!

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↑決勝スコア

こんな熱戦はあまりないかもしれませんね。
 高橋恵理加選手は足の怪我の中での粘り強さ、山外涼月選手はファーストサーブをスピンサーブに切り替えての成功やネットプレーへの挑戦、ピンチでの強打での切り抜けなどを見せてくれ、感動を与えてくれました。
山外涼月選手はこれからの活躍を期待できそうです。
本当にとても良い試合でしたね!

試合終了後は、勝利選手がサインしたボールを1つずつ四方の観客席に打ち込むサービスがありました。
そういうサービスがあるんですね。

それからセレモニーが始まります。
レッドカーペットなどが準備されます。
まず、山外涼月選手の準優勝の表彰でした。

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↑山外涼月選手が準優勝!

そして、優勝した高橋恵理加選手の表彰です。
まず優勝のジャケットを着せられ、そして丸い盾やカップを渡され、そして優勝賞金200万円の授与がありました。あとぬいぐるみも渡されていましたね^_^)

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↑優勝のジャケットを着る

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↑優勝賞金200万円!

それから、それぞれのスピーチがあり、記念写真となりました。
厳しい試合とは対照的に、両者の笑顔がとても良いですね。

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↑記念写真


それから、男子準決勝が始まりました。
伊藤竜馬選手と片山翔選手の戦いです。

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↑片山翔選手のサーブ

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↑伊藤竜馬選手のリターン

 男子選手は、球のスピードが速いですね~。
そして高速サーブを難なくリターンします!すごい!
1セット目は難なく6-1で、伊藤竜馬選手が取ります。
サーブ、レシーブとも圧倒的でした。
さすが世界4大大会に出場する実力があります。
また、その気迫が素晴らしいですね。

 2セット目も難なく終わらせるのかなと思いましたが、片山翔選手のサーブが決まりだし、またレシーブでもブレイクし4ー2と盛り返します。このままサービスを難なくキープすれば、3セット目へ突入ですね。
 しかし、伊藤竜馬選手がブレイクして4-4と戻し、それから6ー5で15:40とマッチポイントを迎え、30:40とはなりますが、見事ブレイクし、2セット目は7-5で伊藤竜馬選手が取り、勝利しました!
試合時間は1時間16分でした。

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↑試合結果

 2セット目は危なかったですが、さすが伊藤竜馬選手のこのピンチを切り抜ける精神力は凄いですね。
 世界レベルのスピードと技を見れて、とても感動しました!

 試合終了後は、同じく勝利選手がサインしたボールを1つずつ四方の観客席に打ち込むサービスがありました。
 このサインボールは欲しかったですね~。
 それから勝利した伊藤竜馬選手のサインや写真撮影会などが始まりました。

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↑伊藤竜馬選手のサインや写真撮影会

 伊藤竜馬選手は、錦織選手とは違って闘志あふれる容貌で、女性に人気が出そうですね。

 ということで、初めて有明コロシアムに行き、初めてニッケ全日本テニス選手権の女子シングルス決勝・男子シングルス準決勝を観戦しましたが、感動的な試合で、良い思い出になりましたね。
テレビで見るのと、実際に観戦するのでは印象が全然違いますね。
 また苦しい中での勇気あふれるアグレシッブな攻撃等は、観客に勇気と感動を与えたと思います。
 これからも一流プレイヤーのテニスの試合観戦をしたいと思いましたね。
 

お勧めなお話(2012年上半期)
自動車保険を安く!

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「刑務所なう。(堀江貴文)」という本はとてもオススメ!

2012年11月16日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「刑務所なう。(堀江貴文)」の購入はコチラ

「刑務所なう。(堀江貴文)」という本は、ホリエモンこと堀江貴文氏が、長野刑務所等での体験を獄中日記として主に書いたものです。

 そのほか本人の時事ネタ評論や書評、スタッフのコメント、獄中日記をマンガに表したものもあり、結構楽しめます。

 とにかく500ページ以上あり、本の分厚さには驚きます!

これで1050円は安いかもしれませんね。

 本人がボールペンで便せんに書いた原稿は、発信制限が厳しいなかスタッフや協力者に助けられてメールマガジンやTwitterで公開され、そしてそれらをこの本にまとめたようです。

 特に以下についてはへ~と思いましたね。

・刑務所では丸坊主になり山下清みたいになってしまう・・・
・食事は、ご飯は麦飯だがおかずは意外と美味しく季節感あふれるメニュー(長野刑務所は特に美味しいらしい)
・一人当たりの1日の食費は400円程度らしい
・半年以上で20kg以上痩せる
・風呂は週2回、夏期は週3回
・睡眠時間は10時間ほどで寝るのが大変
・腎臓結石の血尿や痔で苦しむ
・刑事裁判で有罪時の訴訟費用は98,830円だった。
・刑務所内の仕事は真面目に前向きに取り組む
・1ヶ月の作業報奨金は当初1000円程度だった
・天突き体操をする
・テレビっ子になってしまう
・運動会もあるが観戦するだけだった
・慰問演芸会はつまらなかった(昨年と同じ内容だったらしい)
・手紙はNGワードがあると検閲と訂正で発信が2~3日遅れる
・年忘れのど自慢大会は盛り上がる
・エロ本の差し入れは可だがダメなのもある
・知人からの手紙や写真がうれしい
・ちり紙は上1個か並2個のどちらかを選択

「刑務所なう。(堀江貴文)」という本はオススメです!
以下はこの本のポイント等です。

・結局、分類では3種類に分けられてしまった。ひとつは部屋に持ち込み可能なもの。これはパンツ3枚、靴下3枚、歯ブラシ2本、切手だけだった。弁護士からは「切手の総額に制限あり」と聞いていたがそれはないらしい。Tシャツやタンクトップ、歯磨き粉、シャンプー、リンス、電気シェーバーなどはすべてダメ。どうやら、東京拘置所の売店で買える物しかダメらしい。それらは全て領置品とされ、出所するまで出すことはできない。差し入れは本の場合、平日に一人当たり、面会でも郵送でも3冊までしか入らない。

・分類が終わるとしばらく待たされる。時計がないのでどれだけかかったかわからないが、書類にサインしてから医務のチェック。まずはパンツ(官製のものを支給される)一丁にさせられて、チ●ポを上に挙げてタマのチェック。んで、パンツを膝まで下げてお尻の穴を見せる。「尻の穴は広げろ」と言われる。唇も開いて見せて、鼻の穴や耳の穴までチェックされる。んで、レントゲン、血圧チェック、尿タンパク検査。身長は173cm、体重は95.7kgだった。

・部屋に案内されるとすぐに、「髪を切る」と言われる。懲役の人がバリカンでカットしてくれる。1型と2型の髪型があり、2型は6mmぐらいのばせるみたいだけど1型は丸坊主。モヒカンにしていたこともあり、私のばあいは1型しか選択肢はなく中学生以来の丸刈りだ。まぁ、これはこれでいいか。

・ちなみに木曜と月曜は風呂の日(7月4日から夏季なのだが、それまで週2回オンリー。夏季でも週3回のみなのだ!!)なのだが、なんと運動の時間と前後することがあるらしい!!体洗った後に汗かくのかよ!?でも部屋に帰ってから2~3分体をタオルで拭くことは許された。でも、汗臭い・・・。

・16:00から配食開始。夕食は麦ごはん、中華丼の具だけ、瓜のカス漬け、野菜汁(豆腐、人参、たまねぎ、白菜、ほうれん草)に、みかんゼリーだ。ダッシュで食べないとすぐに「カラ下げ」って器を回収しに来るので大変。まぁ、私は食べるのが早い方なんで平気だが・・・。ということで、カラ下げまでに食器洗いとハミガキを済ませておく。

・夜寝る時間は21:00。消灯といっても自殺防止対策なのかうす暗くなるだけ。しかも、夏至近くなので朝も早い。さらに起床は7:00。いったい10時間もどうやって寝ろというのだ・・・。

・移送先は・・・長野刑務所だった。車に乗り込む直前に刑務官に「気をつけ」をされ、告げられた。3時間私語禁止のドライブの後、長野に着いた。着いたらすぐに荷物を下ろし、処遇首席の説明が始まる。最初は強い口調だったので正直怖かったのだがだんだん優しく語りかけてもらったように思う。刑務所の一日が始まったのだと感じた。どうやら、最初の頃は独房で一人作業らしい。その後、教育訓練工場に送られて、2~3WEEKS研修を受け、工場の配置が決まるらしい。とにかく頑張ってやるしかない。

・東京高検から手紙が届いていた。なにかと思えば「納付通知書」である。刑事裁判で有罪になると訴訟費用を払わなければならないのだ。その額、9万8830円。もっと多いかと思ったのだが、この積算根拠は何なのだろうか?刑務所で領置金により収入印紙を買って検察に書留で送らなければならないらしい。これだけで願箋3枚コース。面倒だなぁ・・・。

・午後もいつもの作業だが突然告知が。「何だ?」と思ったら、6月の作業報奨金の告知だった。その額、なんと267円。数日間であるが、予想通り安っ!てなわけで、事前告知したとおり倍の額にあたる2万6700円寄付することに。全国的にはあまり注目されていないけど長野では時折ニュースになる栄村の震災復興に役立ててほしい、ちょうど長野県にもいることもあるしね。やっと半分くらい仮設住宅が建ったそうである。

・午前中ラジオ体操(「刑務所アレンジ第一」)と有名な「天突き体操」というものをやった。刑務所バージョンは確かに手の動きがシャープな感じ。小学校の頃にやったのんびりバージョンとは全く異なる。どうやらこれを訓練中はハードトレーニングするようだ。天突き体操はスクワットをやりながら両手を天に突くような感じ。けっこう疲れるよ。

・刑務所というのは、全体予算の7割くらいが人件費で2割ぐらいが食事とかの予算になっているらしい。んで、食事は一日あたり400円/人くらいらしい。そりゃ、スポーツドリンクとか無理っぽいよね。

・今日は面会があった。2週間に1度、30分間と短いのだが、この時間のために頑張っているようなものだ。面会では自分からテレビの話題とか出しちゃって、なんか本当にテレビっ子みたいだよ。

・午後は地獄のトイレ床掃除。高齢者が多い我々の職場では、最後に汗だくになって床を拭かなければらなない。雑巾がチン毛まみれである。作業終了後に若干の拭身の時間はあるが、今日は告知等の雑務が多く、しかも右手を濡らせないので時間がなく、体中汗まみれで気持ち悪いまま週末を迎えることとなった。ウツである。まぁ、グチを言っても仕方ない。懲役なんだから汗ベトベトも我慢の内。月曜日の風呂を楽しみにすることにしよう!

・んで、運動会。大運動場に全員が集結。我々は隅っこで、さらに私は「奥にいろ」と言われたので目立たないように。我々の工場は応援のみ。ほかは段ボールに絵を描いて立て看板にしたり、メガホンやら扇子やらで、応援コール。我々は座って、ただただ観戦するだけ。行進もラジオ体操もなし。競技は160m走とかリレー、350m走、ホールインワンゲーム、一升瓶の水入れ競争など聞いたことのない競技も多々。年齢制限がある競技もあったりする(30歳未満とか40歳以上とか)
。1~4位のポイントを加算して順位が決まる方式で応援とか行進とかでもポイントが加算さえる仕組みらしい。参加している工場は一丸となっていて結構楽しそうだ。聞いたこともない「LAS COLA」というコーラだけは競技中にも飲めた。幸い天気は快晴で昼間は暑いくらいだったので久々の炭酸を堪能した。競技の中休みに(たぶん)近所の幼稚園のマーチングバンドが数曲踊りを交えて演奏してくれた。なんと、20年以上もアトラクションをやてくれているのだそうだ。こりゃ小さな子供を残して刑務所にいるお父さんたちには、グッと”クル”ものがあるだろうねぇ・・・。涙なしには観られないわ。まぁ、保母さんを見るのが目当ての邪心たっぷりの人々も大勢いるけどね(笑)。

・衛生係は何でも屋。故に慣れない針仕事もやる必要がある。ボタン付けは自分の分であれば多少醜くてもよいのだが、他人の分はちゃんとやらねばならぬ。小学校の家庭科以来だよなぁ・・・。出所することにはうまくなている気がするね。

・9月の作業報償金はやっと1ランクUPして9等工になり、1296円であった。一緒に働いている仲間たちの分も含め、この金額の10倍を長野県は栄村の震災募金にあてる。

・どうもTwitterとかでも「刑務所のメシを旨い」と言っている私が変である風に言う人がいるが、マジ旨いんだって。今日のチキンカツなんか肉は柔らかいし、ジューシーでカリッと揚げたてだ。ファミチキなんか油ギトギトなのに、たぶん刑務所のチキンカツより値段も高いはずだよ。願わくばもっと味付けを濃くして欲しいけどね。

・んで、誕生日お祝いの写真だけじゃなく、数日の検閲を経てたくさんの友人たちのメッセージが書かれたバースデイカードが届いた。数十枚にもわたるそのレターは、最初は写真が貼りつけられたり、きらびやかなシールが貼られていたのだけれども、刑務所にはそのままでは入らないのでコピーを取ってもらい、それを郵便差し入れで入れてもらったのだ。写真と一緒に眺めているとみんなと一緒に誕生日パーティをしているような気分になってきた。3畳間でたった独りのバースデイパーティ。でも、これまでの誕生日祝いのなかでもこんなに心に染み入るバースデイパーティは初めてだ・・・。なんて、こんなことを書いていたら泣けてきちゃったよ。これから面会回数が増えてみんなと面会できるようになったらいいなって思う。みんなの優しさにありがとう。

・午後は慰問園芸会。総集(全員参加)行事だが、受刑者数百人の後ろが我々の定位置。演者ははるか向こうである。いやぁ、レーシックしておいてよかったよ(笑)。青木音楽事務所というところの歌手5人が出演。妙齢の女性歌手が演歌や津軽三味線、果てはエレキギターまで演奏し、司会はオカマキャラの男性ものまね歌手。微妙な芸にどこで笑っていいか戸惑う受刑者たち。デビューしたばかりという新人女性歌手は一人でAKBの「ヘビーローテーション」を歌いながら登場。物悲しさに拍車をかけた。〆は、美空ひばりさんの「川の流れのように」。昨年の慰問演芸会も同じ青木事務所だった模様で、先輩は演目もほぼ前年と一緒だったと嘆息。施設側は我々を楽しませるためにやっているのか?それとも・・・、老人ホームの慰問と同じノリなんだろうか?私たちは社会の底辺の存在なんだから来てもらっているだけで満足せい!ということなんだろうなぁ・・・。

・作業報償金は毎月報告している通り、1000円ちょっと/月の微々たる額で、やっと最近まとまった買い物ができるようになった程度で、実質的に領置金での月1回の購入しかチャンスがないわけだ。しかも、注文して手元に届くのは約3週間後(日用品の場合)。書籍に至っては1ヶ月以上かかるので、面会の時に差し入れてもらうのが一番早いので、お願いしているのだ。しかも面会差し入れなら次の日には入るからね(まぁ、在庫があればだけど)。刑務所というのは面倒臭いところなのだよ。毎日、細心の注意を払いながら生活しないと、ものすごく不便や不利益を強いられることになる。手紙だってNGワードがあったら検閲と訂正で発信が2~3日遅れてしまうからね。

・午後は「年忘れのど自慢大会」。全員集合の行事だ。運良くストーブの近くの席だったので寒い思いをせずにすんだ。所長や歌謡クラブの先生など審査員4名に加え、ゲストの演歌歌手の3名に司会までいる。しかも、篤志面接委員の方々が用意してくれたらしいドハデな衣装に丸刈りの各工場代表が身を包み、カラオケを熱唱する姿は微笑ましいものがあります。最初に刑務官が、私語禁止、かけ声(特に大声での)の禁止、応援は手拍子のみとアナウンスしたので、司会の人が「こんにちは」と、その後にあいさつしても「こんにちは」と返せないのが悲しい囚人の性なのです。一言でも喋ろうものなら注意指導をされてしまうのではないかとビビってしまうから。「あいさつには、あいさつで返すのだよ」と諭され、刑務官達から「返していいよ」っぽいアイコンタクトをされて、やっと皆安心して「こんにちは」のあいさつをするという感じ。”年忘れ”には程遠い雰囲気だったものの、数人がパフォーマンスをして、歌のうまい人が何人か出てくると自然と手拍子も弾んでいい雰囲気になってきていた。途中、「イヨッ、大将!」みたいな感じのかけ声をかけた人がいて、刑務官が怒って犯人を躍起になって探していたが、結局見つからず。そんなハプニングもありましたが、1/3くらいの人がNHKのど自慢でも合格レベルで意外に高いレベルであると思いました。ゲストの方々も審査中にそれぞれ持ち歌を歌っていましたが、これも先日の慰問よりはるかにレベルが高く、さすが「のど自慢」というだけのイベントであったなぁと。入所以来一番楽しめたイベントだったかもしれない。ダンスパフォーマンスする人とかいたし。

・長野刑務所には様々な所から受刑者がやってくる。静岡、東拘、川越、新潟、横浜などなど。飯の話になると長野のレベルはどうやら高いとわかる。味付けはどうかというと、長野や東拘はちょうどいい感じらしい。川越は少年刑務所だからか、味が濃い目なのだそうだ。静岡は薄味らしい。いろいろと個性があるのだね。

・12月22日(木)の昼メシは、麦メシ、スパゲッティナポリタン、厚焼き卵、ほうれん草ごま和え、ミルクコーヒー、ショートケーキ。ケーキは1ピースであるがチョコレートのプレートと砂糖で出来たサンタさん付きという豪華版。ちゃんと一人一人にサンタが付いているとは芸が細かい。イベント事に対して、妙に力が入るのは官の特徴である。このケーキはクリスマスのケーキなのだろうか?それとも天皇誕生日のケーキ?頑なに「平成」の元号を書類に使う(西暦は絶対に使わない)官のメンタリティを考えると、天皇誕生日説が有力である。余談になるが食後の皆の感想は「楽しいことは一瞬で終わるね」と異口同音に。たぶんだが、ケーキは一年に一度のお祭りなのだろうな。

<目次>
堀の中から皆さんへ
モヒカン頭で報道陣にもみくちゃにされて出頭!
マンガ刑務所入門①収監準備篇
1週目 東京拘置所で丸刈りに。山下清みたいだよ・・・。
2週目 長野刑務所へ!いろいろ切ない夢を見た・・・。
3週目 ずっと一人で独房。ウツになってきた感じ・・・。
マンガ刑務所入門②しきたり篇
4週目 作業報奨金267円。安っ。100倍を寄付!
5週目 天突き体操はキツイ!体重10キロ減目前だ。
6週目 介護衛生係に配役。鈴木宗男さんと同じ!
マンガ刑務所入門③刑務作業篇
7週目 忙しいのはいいことだ。休日返上で働きたい。
8週目 なんだか今日は下の世話が多かったな・・・。
9週目 刑務所も夏休み。羽アリが大量で寝苦しい!
マンガ刑務所入門④差し入れ篇
10週目 尿検査に引っかかった!一難去ってまた一難。
11週目 ルーティンワークが苦手な私の”集中”の極意。
12週目 腎臓結石が見つかった!結構デカイらしい・・・。
マンガ刑務所入門⑤獄中メシ篇
13週目 地獄のトイレ床掃除。雑巾がチン毛まみれ・・・。
14週目 茂木健一郎さんが面会に!「修行僧のようだ」って。
15週目 グラウンド10周!久しぶりに走ってサワヤカ。
マンガ刑務所入門⑥情報収集篇
16週目 やる気が湧いてきた。出所したら事業がんばるよ。
17週目 ジョブズ死去を独房で聞いた。残念すぎる!
18週目 痔が痛い。「上」のちり紙にしようかな?
19週目 うぅっ・・・刑務所で初めての挿入体験!
マンガ刑務所入門⑦病気篇
20週目 3畳間でたった独りの誕生日パーティ。
21週目 ロシアロケットの父に倣って気合を入れねば!
22週目 慰問演芸会の”一人AKB”が物悲しい・・・。
マンガ刑務所入門⑧行事篇
23週目 オリンパス事件、あまり不平等だと心がザワつく!
24週目 イチオシメニューのメンチカツはやっぱ最高!
25週目 「金の亡者」みたいに言うのはやめてほしい。
マンガ刑務所入門⑨面会篇
26週目 受刑者の「年忘れのど自慢大会」は高レベル!
27週目 精神的豊かさのために「虚業」こそ必要になる!
28週目 田原総一朗さんが面会に。ものすごい質問攻め。
29週目 一人ぼっちの大晦日。暗黒の一年が幕を開けた・・・。
マンガ刑務所入門⑩年越し篇
刑務所図書館 堀の中の書評ベスト150


面白かった本まとめ(2012年上半期)

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RISTORANTE La Ciau(リストランテ ラ チャウ)(田町)でランチを堪能しました!

2012年11月14日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

JR田町駅の芝浦口から徒歩約5分のところにあるRISTORANTE La Ciau(リストランテ ラチャウ)でランチを堪能しました!

 このお店は食べログではJR田町駅周辺でNo1で全国でもTOP1000に入る評価のお店で、その佇まいからも高級感を感じますね。

 玄関は重厚感があり、テラス席にはたくさんの緑があり外からの視界を遮っています。
店内も綺麗で清潔感があり、また男性イケメンの店員さんから丁重な案内を受けました。

1img_4010
↑お店の外観

 平日12:15頃に訪れ予約を訊ねられたので、待つことを覚悟しましたが、ラッキーなことに予約なしで席に座ることができました。
恐らく本当にラッキーだったのだと思います。
このお店は人気店なのであらかじめ予約をすることをオススメします。

 店内は、若く綺麗で上品なマダムばかりで驚きました。さすが食べログ上位のお店ですね。

 またお店の壁にはサインがたくさん自筆で書かれていますが、外国のワイナリー経営者のサインとのことでした。

 さっそくメニューを見ます。

 ランチメニューとしては、パスタランチ1260円、Aコース1680円、Bコース2520円、Cコース3780円があります。
 時間があまりなかったのでメインがあるのは避け、ただ前菜やデザートの盛り合わせは頼みたかったのでAコース1680円にしました。
前菜盛り合わせにパスタ、デザート盛り合わせ、カフェがあってこのお値段はかなり良心的だと思います。

2img_4000
↑ランチメニュー

3img_4001
↑パスタとメインのメニュー

パスタ等はスパゲティやラザニア・リゾット等5種類から選びます。
トマトベースが食べたかったので、自家製パンチェッタと玉葱、ペコリーノチーズのトマトスパゲティを注文しました。
そして、カフェはエスプレッソ・カプチーノ・コーヒー・カフェラテ・紅茶のホットorアイスから選べ、コーヒーを注文しました。

それから、食べログから地図を印刷して持って行ったのですが、クーポンにもなっていて、ドリンク(食前酒等)が無料というのは嬉しかったですね。ワイン・シャンパン・オレンジジュースから選べ、シャンパンを選びたかったのですがぐっと我慢して、オレンジジュースを選択しました^_^;)

 すぐにオレンジジュースが運ばれ、そしてしばらくして前菜盛り合わせが運ばれます。
 前菜盛り合わせは、青森県産?のわかさぎや、ポテト、パン、生ハム2種、サラダとかなり豊富で、そして見た目も美しく驚きましたね!
 もちろん味も上質でおいしい!
 これは感動ですね!思わず笑みが広がります。

4img_4002
↑前菜盛り合わせ

 そしてパスタが運ばれます。
パスタはねっとりとフォークにからみ、そしてアツアツトマトソースに麺はしっかりとこしがあり、さすが美味しい!
これは堪りません!
あまりの美味しさに食がついつい進みます!

5img_4004
↑自家製パンチェッタと玉葱、ペコリーノチーズのトマトスパゲティ

そして、最後にデザート盛り合わせが運ばれますが、これまたきれいなお皿に4種類のケーキやアイスが美しい!

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↑デザート

この美しさと美味しさに感動ですね!
さすが、RISTORANTE La Ciauです!
コーヒーもしっかりとした味で美味しかったです。

また、支払い時にはシェフが挨拶してくれ、とても嬉しかったですね。

RISTORANTE La Ciauのランチは、綺麗で清潔感のある店内で、美しく美味しい料理を堪能でき、またコストパフォーマンスにも優れていてとてもオススメです!

ラ・チャウ
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関連ランキング:イタリアン | 田町駅三田駅泉岳寺駅




美味しかったものまとめ(2012年上半期)

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自動車保険を安くする!(2012年結果)

2012年11月12日 01時00分00秒 | 良い物・サービス
<月曜はお勧めなおはなし>

 2012年のインターネットでの各社自動車保険見積もり比較結果は以下の通りで、一番安かったのは昨年に引き続き「SBI損保」でした!

 保険金額は車をアメ車から一般大衆車^_^;)に変えたことにより、同じ条件で昨年より約12,000円も安い31,660円でしたね!
車両保険金額が高くなったにも関わらず、保険金額が安くなったのは、車種のせいなんですね・・・^_^;)
あらためて車種によって保険金額が違うことを認識しました・・・。

 なお、2位のセゾンと3位の三井ダイレクトは、1位と1000円以内の差であまり変わらない金額でしたね。
4位のソニー損保と5位のアメリカンホームは少し高目の金額でした。

 自動車保険の条件は、対人無制限、対物無制限、搭乗者障害2000万円、一般車両保険あり245万円、人身傷害無制限、身の回り品担保特約30万円、弁護士費用担保特約、ノンフリート17級などで、保険内容としてはかなり充実していると思います。
特に弁護士費用担保特約は安心です。

1位:31,660円(年額)SBI損保
2位:32,220円(年額)セゾン自動車火災保険
3位:32,520円(年額)三井ダイレクト
4位:47,990円(年額)ソニー損保
5位:59,860円(年額)アメリカンホーム

 今回は保険金額が一番安価ということと、実は事故を起こしてしまったのですがSBI損保が十分な対応をしてくれて非常に満足していることもあり、引き続きSBI損保と継続契約しました!

 ということで、自動車保険の見積もりはインターネットで無料で24時間いつでもでき、そして従来の対面の代理店と比べるとはるかに安価に契約でき、おまけに500円の商品券ももらえますので、ぜひ上記のINSWEBのサイトで見積もりをしてみてください!

 また、INSWEBでは見積もりできない保険会社もありますので、以下の見積もりサイトも利用し、できるだけ多くの保険会社から見積もりをもらい、できるだけ安くそして保障内容を良くしましょう~~!

 なお見積もりにあたっては、車検証と現保険契約書、免許証があると良いです。(基本的には現保険契約書さえあれば見積もりできます。)

 また、見積もりをしたからと言って強引な訪問や電話は今までもまったくありませんので、ご安心ください!!

 それからどこの保険会社もホームページ上で細かい条件(例えば対物を3千万円にしたり、車両保険金額を変えたり、身の回り品担保特約をつけたり等)を変えて自由に比較検討できます。

 これらの検討にあたっては、「?ボタン」などをクリックすれば、詳細説明を見ることもできますので、安心してください。
結構楽しいですよ~!

ぜひ以下のサイトから見積もりを取ってみてください!
私も以下からもいつも見積もりを取っています。





↑良かったらこちらからでも見積もりをどうぞ!(比較.com)

参考までに、
 2011年の結果についてはコチラです。
 2010年の結果についてはコチラです。
 2009年の結果についてはコチラです。
 2008年の結果についてはコチラです。
 2007年の結果についてはコチラです。
 2006年の結果についてはコチラです。
 2005年の結果についてはコチラです。
 2004年の結果についてはコチラです。


お勧めなお話(2012年上半期)
自動車保険を安く!

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「あの戦争は何だったのか(保阪正康)」という本はとてもオススメ!

2012年11月09日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「あの戦争は何だったのか(保阪正康)」の購入はコチラ

 この「あの戦争は何だったのか」という本は、太平洋戦争は何であったのか、どうして始まって、どうして負けたのかを本質的に追求して真実に迫ったものです。

 第1章では旧日本軍のメカニズムについて以下の説明が分かりやすくあり、特に「統帥」について理解を深めることができました。
・職業軍人の教育機関
・徴兵制
・帝国陸海軍の機構 等

 第2章ではは開戦に至るまでのターニングポイントとして以下について書かれています。
 特に2.26事件の影響で結果的に軍主導による国家体制の方向へ進んでしまったことがポイントかと思います。
・2.26事件
・皇紀2600年(1940年(昭和15年))
・「北進」か「南進」か
・東條内閣
・石油の備蓄と海軍
 
 第3章では、昭和16年12月の開戦から昭和18年までの出来事等として以下について書かれています。
 特にいつ戦争を終わりにするのかという想定がなかったこと、つまり勝利の想定がなかったことには驚きました。
・真珠湾攻撃
・ミッドウェー海戦
・ガダルカナル
・山本五十六の戦死
・絶対国防圏

 第4章では、その後の敗戦について以下等について書かれています。
特にポツダム宣言から8月15日までの詳細な経緯については興味深かったですね。
・インパール作戦
・あ号作戦
・サイパンの玉砕
・硫黄島、沖縄の玉砕
・和平交渉
・ポツダム宣言

 第5章では、8月15日以降の戦いについて書かれています。
 特にシベリア拘留や現在の北方領土問題に関わる侵攻などの真実には興味深かったです。
 また世界の教科書では、第二次世界大戦が終了したのは8月15日ではなく、降伏文書に正式に調印した9月2日が常識というのにも驚きましたね。

 この「あの戦争は何だったのか」という本は、太平洋戦争やこれから同じような過ちを繰り返さないことについて考えさせられる良い本だと思います。とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・陸軍の職業軍人になるための第一歩は、陸軍幼年学校から始まる。年齢で言えば満13歳の時である。高等小学校を終えた者か旧制中学の1年生修了時に、幼年学校を受けることができた。幼年学校は全国に6ヶ所、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本に建てられた。いずれも全国で6つの師団が置かれた都市であった。募集人員は年によって変わったが、全国でだいたい250名ぐらいに落ち着いた。日本各地から優秀な人材が選ばれ、入学した。学校教育は官費で金がかからないゆえ、経済的理由で進学するものも多かった。幼年学校に入るということは、地元の誉れであった。幼年学校では6つの都市で通常3年間教育が行われる(大正9年に制度改正)。そして幼年学校を終えると、今度は陸軍士官学校に進むことになる。士官学校では、幼年学校から上がってきた者以外に、一般中学を5年生で卒業、あるいは4年が終わった段階で新たに受験して入学してくる者もあった。幼年学校卒業者が士官学校入学者の過半数を占めるよう計画された。士官学校での教育期間は士官候補生時代を含めて大体が4年半で、卒業する頃には20歳そこそこの年齢となる。卒業した彼らは各原隊に赴き、そこで少尉となる。こうして将校見習いとして実地の訓練を受けるのである。ちなみに徴兵で入った一般の兵隊にとって、少尉に就くなどほとんどありえないことであった。さて、原隊に入った将校見習いたちであるが、彼らにはさらなる目指すべき上級養成機関があった。陸軍大学校(通称、陸大)である。陸大に入ることは、軍内の高級将校になる道が約束されていることを意味した。ただし陸大受験はそうとう難関であった。まず受験資格のハードルが待ちかまえている。任官2年以上(昭和期にいは任官後8年となっていた)の少中尉が対象で、自分が属する原隊の連隊長の推薦、それに30歳前の2年間だけという期限も設けられていた。試験は一次に学力、二次は口頭試問となっていた。定員はわずかに50人という狭き門である。晴れて陸大に入学すると、そこでの教育期間は3年間、卒業後はキャリア幕僚として扱われる。さらに陸大卒業時の成績上位者1割前後は「恩賜の軍刀組」と呼ばれ、参謀本部の作戦部など軍中枢部に入る特権を得た。まさにエリート中のエリートの存在である。

・陸軍の士官学校に相当する海軍兵学校の採用人数はおよそ100名前後。受験資格があるのは、陸軍士官学校と同じく、中学卒業生、あるいは4年修了時の学生であった。ただし試験科目には物理や数学などがあった。また陸軍のように幼年学校を経由してくるコースなどなく、士官学校よりもはるかに入学は難しかったようである。競争率が30から40倍になることも珍しくなかった。海軍兵学校の上には、海軍大学校があった。

・太平洋戦争開始時、日本の軍人や兵士や陸海合わせて総計で約380万人いた。そして終戦前年の昭和19年には、その数、何と800万人にも膨れ上がっていた。当時の日本の人口が約7500万人だったから、10分の1以上の国民が兵士になっていたことになる。その兵士全体のうち、職業軍人の数は陸軍の場合およそ5万人ほどと推測される。つまりそのほとんどが徴兵によって採られた一兵卒であった。

・通常の徴兵制は(戦時になると変わっていくのだが)、満20歳になると徴兵検査を受けて新兵として入隊することとなる。入隊して2年間(ただし海軍は3年間)、兵役に就かなければならなかった。除隊後も5年4ヶ月間(海軍は4年間)は予備役として登録され、ひとたび戦争が始まれば動員され、戦場に送られる状態にあった。太平洋戦争開戦後は陸軍は15年4ヶ月、海軍は12年に拡大されている。

・徴兵検査は、自分の本籍地にある徴募区、検査区で、毎年4月16日から7月31日の間に受けることになる。身体検査によって、現役として徴集する者、予備徴員とする者、兵役に適さない者、適否を判定し難い者の4つに区分された。現役に適する者は、まず身長152センチ以上(昭和15年改定後)であること、そして胸囲が身長の半分以上、筋骨が薄弱でなく、両眼の裸眼視力が0.6以上、特記する疾病その他身体または精神の異常がない者。それらの者を甲種とした。そして甲種に至らないが現役に適する者を乙種。以下、障害身体検査規則により現役に適さない者を丙種、身長145センチ未満及び疾病その他身体または精神に異常がある者は兵役に適さないとして丁種と、それぞれランク付けされた。また疾病あるいは病後などのため兵役の適否を判定し難い者は戊種として、翌年改めて検査を受けさせられた。

・徴兵検査の結果は、これも時代によって多少の差異はあったが、平均すると約4割が甲種であったという。甲種以外の、例えば身長が少々足りなかったり、ひどい近眼であるなどといった場合に、乙種に回された。つまり、ほとんどが現役に適すると判断されていた。徴集されることのない丙、丁種はほんのわずかなものだった。もっとも、太平洋戦争末期の昭和19年10月には、本土決戦に備えると称して総動員態勢が取られて、たとえ丁種であっても徴集されるようになった。

・旧日本軍「軍部」は、頂点に位置する天皇の下、大きく2つの構造からできていた。「軍令」と「軍政」である。「軍令」というのは、一言でいえば「戦争方針を決定する」部門のこと。通称「統帥部」と呼ばれた。「大本営」と言い換えてもいいだろう。「大本営」とは、戦時に設置される最高統帥機構を指している。一方の「軍政」は、陸軍省と海軍省からなる。統帥部に対して、「軍政」の陸軍省、海軍省は、陸軍大臣、海軍大臣の下、飽くまで行政機関の一つという位置づけであった。統帥部とは、天皇が持つ統帥権を付与された機関である。この統帥部は陸軍と海軍の2つに分かれていた。陸軍は「参謀本部」といい、海軍は「軍令部」と言った。参謀本部は参謀総長以下、軍令部は軍令部総長以下、一糸乱れぬ命令系統が出来上がっていた。

・参謀本部には、作戦部・情報部・運輸通信部・戦争指導班などが、軍令部には、作戦部・軍備部・情報部などがあり、大本営は全体でおよそ200人ほどの幕僚が詰めていた。大本営にいること自体、キャリア組の証しであっtが、その中でも参謀本部、軍令部ともに、ヒエラルキーのトップにあったのが「作戦部」である。作戦部にいた20人前後の幕僚は、特にエリート中のエリート、実際に軍を動かし、戦略を決定していた存在であった。いわゆる「軍部」といった時、指されるのは、彼ら「作戦部」の連中のことである。陸大、海大の成績で1番から5番までしか入れないという暗黙のルールもあった。しかもその人事は陸軍で言えば陸軍省人事局の管轄ではなく、参謀次長が握っていた。参謀本部は永田町の三宅坂にあり、作戦部はその建物の二階の一室にあった。作戦部の部屋の入り口には、24時間、衛兵が立ち、作戦部以外の者は誰も入れなかったという。たとえ、同じ参謀本部の「情報部」将校が行っても決して入れてはくれなかった。それほど徹底して秘密を厳守している少数集団だったのである。

・統帥権と統治権は両方とも天皇の大権として付与されたものであった。この2つは、簡単にいってしまえば、「軍事」権と「政治」権のことである。この二者の調整により、国策は決定されていた。昭和12年には「大本営政府連絡会議」という場が作られ、そこで両者の意見調整が行われた。会議の出席者は、大本営の側からは参謀総長、軍令部総長、政府の側からは首相、陸相、海相、蔵相、企画院総裁であった。もっとも議題によって出席者はかわった。ただし事務方は陸海軍省の軍務局が握っていた。ここで決定した議案は次に天皇の列する「御前会議」にかけられる。しかし、御前会議は飽くまで決定事項を追認する場に過ぎず、大本営政府連絡会議が、実質上の国策決定の最高機関であった。といっても大本営側は「統帥権の干犯は許さない」の名目で、軍事作戦や軍事行動計画について、一切その内容を洩らさずに独断で決定してしまうようになっていく。むしろ軍事作戦を円滑に行うためにいかに政治の側を利用するかという目的で、この会議を使うようになっていた。例えば、アメリカとの開戦を前に、東郷茂徳外相が「開戦日はいつか」と質しても、大本営は「教えられない」とつっぱねるだけであったという。戦争開始後も、どのような作戦を進めているのか、決して明かすことはなく、「政府はもっと船を造れ」「飛行機を造れ」と催促するだけになっていた。明らかに、「統帥権」は「統治権」より上だという考えが支配していったのである。「統帥権の干犯」という言葉は、いわば”魔法の杖”であったのだ。シビリアン・コントロール(文民統制)が効かなくなっている、国家として異常な状況にあったといっていいだろう。

・陸軍における隊の基本は「中隊」である。戦時には中隊が3つか4つの少隊に、少隊がさらに分隊に分けられる。「中隊」は平時100人ほどの編成だ。中隊が3つから4つ集まると「大隊」になる。これで300人規模である。この大隊が3つに機関銃隊ほか2つの中隊が加わって集まると「連隊」が構成されるのである。連隊になると、2000人余の規模となる。つまり連隊長というと、2000人の部下を持つことになる。連隊長になることは、たいへんな出世であった。戦時には中隊が250人規模になるなど、増員されることになる。さらに、連隊の上に「師団」という単位があった。連隊が4つか5つ集まって構成された。師団になると司令部やら工兵隊や高射砲隊とかいくつかの部隊も含まれるので一挙に1万人規模となる。

・太平洋戦争開戦直後の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、その総合力は何と1対10であったという。米国を相手に戦争をするに当たって、首相、陸相の東條英機が、その国力差、戦力比の分析に、いかに甘い考えを持っていたかが今では明らかになっている。「1対10」という数字自体もだいぶ身びいきがなされて出された数字だったが、データをもとに軍事課では、戦争開始以降の日本の潜在的な国力、また太平洋にすぐに動員できる地の利を考慮すれば、「1対4」が妥当な数字と判断し、改めて東條に報告がなされた。東條はその数字を、「物理的な戦力比が1対4なら、日本は人の精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、そう結論づけてしまった・・・。

・青年将校の決起自体は失敗に終わったわけであるが、結果的に「2.26事件」は、彼らが訴えていた通りの「軍主導」、とくに「陸軍主導」による国家体制の方向へと進ませることになった。岡田啓介首相も襲撃されたが辛うじて難を逃れ、その後は外相だった広田弘毅が首相となった。その際、「軍部大臣現役武官制」が復活している。この「軍部大臣現役武官制」が、軍が政治にまで介入する”伝家の宝刀”となった。つまり合法的な暴力になったのである。「軍部大臣現役武官制」とは、現役の軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれないという制度である。大正2年まではこの制度が取られていたのだが、その後は現役の軍人だけではなく、予備役の者でも大臣になれると改正されていた。それが、「2.26事件」をきっかけに、二度と同じようなことが起こらないようにするためと称して、軍の内情をよく把握している現役の将官のみが大臣に就く、と戻したのである。つまり、軍の気に入らない内閣ならば、陸軍大臣、海軍大臣を出さなければいいのだ。そうしたら組閣ができず、その内閣は潰れてしまう。軍は意のままに内閣を操れることとなり、圧倒的な権力を持つようになった。

・もう一つ、「2.26」は当時の日本のある状況に、大きな爪あとを残すことになる。それは「断固、青年将校を討伐せよ」と発言した天皇の存在である。天皇は、その後一切、語らぬ存在となったのである。まるで自らが意志表示することの意味の大きさを思い知り、それを怖れるかのように。「大本営政府連絡会議」で決まった議案が「御前会議」で諮られる際も、「君臨すれども統治せず」と、天皇はより徹底して口をつぐみ、ただ追認するだけとなった。日米開戦が決まるまで、天皇は一貫して開戦に反対であったと思われるが、そうした意向も決して表に出すことはなかった。あるいは歴史に「If」が許され、開戦前の時期、もし天皇が「断固、戦争に反対する」と語っていたらどうなっていたか・・・。のちに天皇は「昭和天皇独白録」の中で、もし自分が開戦に反対したら、「国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない」状態になっただろうと言っている。私の生命はかまわないが、「今次の戦争に数倍する悲惨事」になったとも告白している。皮肉なことに天皇の神格化は「2.26」後、ますます進んでいくことになる。天皇を神格化することで、軍部が「統帥権」の権威付けにうまく利用していったのである。各学校で「御真影」を「奉護」するよう奉安殿が設置されていくのも昭和12年のころからであった。

・昭和15年-この年は「皇紀2600年」に当たった。「皇紀」とは、「日本書紀」に記載されている、神武天皇が即位した年を元年とする紀元をいう。神話に基づいての年数であった。日本建国2600年を祝い、日本各地で提灯行列が行われたり、奉祝会が開かれるなどお祭りムードに沸いていた。それはまるで鬱屈した空気を振り払うかのように。11月10日には、宮城前で大式典が盛大に行われている。宮城前広場には約5万人が集まり、君が代の大斉唱がなされた。私には、このセレモニーが、昭和15年の最も「変調」をきたした象徴的な出来事に思えてしまうのだ。大式典の1ヶ月前、10月12日には、近衛首相によって「大政翼賛会」が結成されている。民政党、政友会など、当時の政党はこぞって解散して「翼賛会」に吸収されていった。つまり、国家危急の時、議会で討論して何か結論を出すなどと悠長なことをやっているのではなく、今こそ、「天皇への帰一の下、国民は一致団結して国を動かすべき」としたものである。「国民は臣民となり、全てが天皇に帰一した国家システム」が最終的に作り上げられたのだ。「皇紀2600年」の大式典は、こうした「天皇に帰一する国家像」を象徴するものであった。いわば、日本は理性を失った、完全に”神がかり的な国家”に成り下がってしまったのである。

・日米交渉の努力が進められていた一方、日本国内では、昭和16年6月の「大本営政府連絡会議」で二つの軍事政策案をめぐって議論が白熱していた。日本がドイツの勝利に便乗して7月に南部仏印に進駐するか否か、つまるところ「北進」か「南進」かの問題である。「北進」とは、対ソ戦を意味した。ヨーロッパでは驚天動地なことが起きていた。「独ソ不可侵条約」を結んでいたドイツが、約束を破りソ連に電撃侵攻(6月22日)したのである。三国同盟を結んでいる日本は、今こそドイツに呼応して東からソ連に侵攻すべきではないかとの主張であった。一方の「南進」は、既に押さえている北部仏印からさらに軍隊を南下させようとする策であった。つまりは、そこにある石油が目標であった。8割近い石油をアメリカに依存している現状では、アメリカに生殺与奪の権を握られているのと同じこと。それを打開しようとの考えであった。「北進」論者、「南進」論者とも、それぞれ強い拘りがあった。「北進」論者は、主に陸軍が多かった。もともと、陸軍はソ連を仮想敵としていた。伝統的な教育として、大陸北部を想定した戦術が多く教えられていた。特に満州に駐在していた関東軍は「北進」を強く主張した。一方の「南進」論者は海軍が中心であった。海軍の仮想敵は太平洋上のアメリカである。そして海軍が「南進」に拘るのにはむ一つ大きな理由があった。軍艦は石油がなければ動かないのではないかと・・・議論百出した末、最終的に日本の出した結論は「南進」であった。しかし、「南進」と同時に、満州にも馬や兵隊、高射砲、戦車など20個師団、約40万人を動員し、ソ連にも攻め込むようなポーズを取ることに決めた。いわば目くらましの二面作戦に出たのである。このときの満州の動員を「関東軍特種演習(通称、関特演)」といった。しかし、実はこの目くらまし作戦をソ連はすっかり見抜いていたのである。日本で諜報活動を行っていたスパイ・ゾルゲのおかげであった。ゾルゲが、近衛周辺の人物から情報をとり、スターリンに日本の「南進」を報告していたからだ。その情報により、スターリンは軍隊を東部のシベリアにではなく、全て西部のヨーロッパ方面に向けることができたのであった。

・かくして、日本が南部仏印に進駐したのは、昭和16年7月28日のことであった。そこで石油、錫などの資源を手に入れることはできたが、その分、手痛いしっぺ返しを食うことになる。「日本の南部仏印進駐を絶対に許さない」と、アメリカが「在米日本資産の凍結」、それに「石油の対日輸出全面禁止」を通告してきたのである。 にわかに事態は、風雲急を告げ始めていく。アメリカで日米交渉を続ける野村大使に、以後、ハルは徹底的に厳しい条件をつけるようになる。「仏印からの軍隊の速やかな撤退」「三国同盟からの離脱」「中国から撤兵し、蒋介石政府を認めること」。この3条件を、ハルは終始一貫、変わることなく言い続けるようになった。しかし、日本にとってはどれも飲めない条件であった。9月3日、アメリカの強硬な制裁を受け、急きょ「大本営政府連絡会議」が開かれている。そこで、現状を鑑みて3つの取るべき国策が決定された。「米英に対して戦争準備を行う」、「これと同時進行して飽くまで日米交渉を続ける」、そして「10月上旬まで交渉を続けて、交渉の成果がない場合は米英に対して武力発動を辞さぜる」と。この議決は6日、「御前会議」でも決せられた。天皇はこの報告を聞き、驚くことになる。もちろん天皇にしてみれば、「戦争を辞せざる」事態などもってのほか、と思ったはずだ。だが天皇は、この時も自らの意志を発することはなかった。ただ、よほど耐えかねたのだろう。ある異例の行動に出た。やおら懐から一枚の紙を取り出し、それを読み出したのである。「四方の海いなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」それは明治天皇の御製であった。”できれば外交交渉で解決し、和平を以って収束っせて欲しい”、そう意味を込めた、精一杯の意志表示であった。

・近衛の力量では、もはや状況を収拾する限界を超えていた。東條との口論の12日後には、無責任にも内閣を投げ出してしまう。そして後継総理に収まったのは、陸軍大臣を兼ねた東條であった。東條内閣が発表されると、国際社会に衝撃が走ったという。「一番の主戦論者が首相に就き、日本はこれで完全な”開戦準備態勢”に入った」と。アメリカ海軍は、太平洋艦隊に対していつでも出動できる準備を整えるよう命令をくだした。しかし、国際世論の危惧に反して、東條は事を荒立てる様子ではなかった。海外メディアは訂正して、こう伝えた。「むしろ慎重に会議を行っているようである」。

・東條は、とにかく天皇への忠誠心に篤い男であった。それをあえて利用しようとしたのである。木戸の報告を受けた天皇は木戸にこう語ったという。「虎穴に入らずんば、虎子を得ずだね」事実、東條は木戸に「陛下は、9月6日の御前会議の議決を白紙還元することを望んでおられる。もう一度、どんな可能性があるか探ってもらいたい。それが陛下の意志である」と告げられると、その通り白紙還元の方向を目指すのである。今まで通り日米交渉を継続する一方、東條は開戦回避が可能かどうか、今一度、陸海軍省の担当者たちに命じて、基本となるデータを全て出させることにした。いったい石油の備蓄はどのくらいあるのか、他の資源はどうか、工業力はどうか、そして日米戦わば、その戦力差はどのくらいなのか・・・。10月23日から30日までの間に、大本営政府連絡会議は「項目再検討会議」を開き、日本の必要とする物資、十数項目のデータの調査がなされた。しかし、東條の下に集まってくる数字はどれも絶望的な数字ばかりであった。特に石油の備蓄はこのままだと、2年も持たないとの結論だった。また、このデータが出されると、海軍の軍令部は「このまま油がなくなったら、日本はどうなるかわからない」と執拗に迫ってきた。東條は、もはや抜き差しならぬ状況に追い込まれていた。11月2日に開かれた「大本営政府連絡会議」で、東條を始めとする出席者たちはこう結論づけた。「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし、11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」と。12月に期限をきったのは、石油の備蓄量を逆算して限界の日時であること、またその時期以降になると季節風で太平洋南方の波が荒くなり海軍に不利になると考えたからであった。戦争への歯車が、この時から確実に動き出すことになる。

・まずアメリカに対して、日米交渉の最終的な通告として「甲案」と「乙案」を提出することに決めた。「甲案」とは、日本のこれまでの主張を譲れないとした強硬案。そして「乙案」は、「甲案」後の”落としどころ”として提出する、やや引き下がったものであった。「南部仏印から日本軍の撤退、その代償に蘭領印度(現在のインドネシア)での物資獲得の相互保障をする」といった南部仏印進駐前の状態に戻すとした内容である。日本は、野村大使の助っ人として「三国同盟」の調印をんした来栖三郎を全権大使としてアメリカに送り込み、まずは11月7日に「甲案」を、そして「乙案」を20日に提出した。だが、「甲案」「乙案」ともにアメリカは全面拒否、逆に11月26日、日本に通称「ハル・ノート」と呼ばれる最後通牒をしてきたのであった。「ハル・ノート」は何のことはない、今までのアメリカの主張を繰り返しているだけの厳しい内容であった。これを受け、11月27日の「大本営政府連絡会議」、そして12月1日の「御前会議」で、正式に対米英蘭開戦が決定したのである。

・私は、10月4日に行われた「大本営政府連絡会議」に注目したい。東條に責められ、「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」と言い放ち、近衛が内閣を投げ出した”瞬間”だ。この時、東條は近衛にこう詰問していた。「9月6日の御前会議の決定通り進むべきだ」と。前述のように9月6日に行われた「御前会議」では、10月上旬まで外交交渉を行い、それで決着がつかなければ「武力発動も辞せず」と決まっていた。このことを指して東條は言っていたのである。注目してもらいたいのは、東條は、「9月6日の御前会議の決定通り進むべき」だとしかいっていないことである。決して「武力発動せよ」「戦争しろ」と、直接的には口にしていないのだ。東條は、この時点では、強硬な主戦論者であった。当然、一刻も早く戦争を始めたかったはずである。それは陸軍の「軍部」の総意を表すものでもあった。でも、東條は、いや陸軍は、と言い換えてもいいが、「武力発動」はできなかったのである。太平洋戦争において「武力発動」ができたのは、唯一海軍だけであった。いくら陸軍が、南洋諸島や東南アジアで「武力発動」をしたくても、海軍の護衛で運んでもらえなければ、始めようがない。だから、10月4日の「大本営政府連絡会議」でも、東條は「9月6日の午前会議の決定通り・・・」としかいえなかったのだ。「武力発動」の発言力を持たなかったからである。

・この会議での調査報告では、その当の石油の備蓄量は、「2年も持たない」との結論であった。結局、それが、直接の開戦の理由となった。しかし、実は、日本には石油はあったのだ。実際に私は、陸軍省軍務課にいたある人物から、こんな証言を聞いた。「企画院のこの時の調査は、実にいい加減なものだったんです。陸軍もそうでしたが、特に海軍側は備蓄量の正確な数字を企画院に教えなかった。海軍の第一委員会が、”教える必要はない”の一点張りで、企画院は仕方なく、大ざっぱなデータから数字を割り出し、計算して出した結果なのです」

・なぜ海軍は戦争を欲したのか。満州事変、日中戦争と陸軍ばかりが表面上は国民に派手な戦果を誇っているのに海軍はいっこうに陽があたらない。アメリカ依存の石油供給体制を脱し、東南アジアの油田地帯を押さえて、不安のないようにしたい。軍縮条約から解放されての建艦自由競争で大艦巨砲主義に相応の自信をもったことなどがあげられよう。だが同時に時の勢いに流されたということも指摘できるように思う。

・私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。それは、「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。当たり前のことであるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その「勝利」が何なのか想定していないのだ。例えば、それがワシントンのホワイトハウスに日章旗を揚げるでも、アメリカ西海岸の都市を占領するでも、何でもいい、何かしらの「戦争の集結」像があってしかるべきだと思うのだが・・・。開戦時の日本の「勝利」とはどのような状態を意味したのか、私は徹底的に調べてみた。ようやくそれに値するだろうある報告書に気づいた。それは、昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争集結促進ニ関する腹案」というものである。腹案には、こう書かれていた。「將界石政府を屈服させる。その上でドイツ、イタリアと提携してイギリスを屈服させ、アメリカの継戦意志を喪失せしめる」つまり、この腹案はこういうことである。日本は、極東にあるアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を壊滅させて自存自衛体制を確立する。そしてイギリスは、ドイツとイタリアによって制圧してもらう。そうすると孤立したアメリカが「継戦の意思なし」というはず。その時にこそ、この戦争は終わるのだ、と-。この腹案を読み、私は指導者たちのあまりの見通しの甘さにあきれ返ってしまった。ここに書かれている内容は、いわば全て相手の意思任せである。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するといった勝手な思い込みだけである。

・当初、日本の軍部では、アメリカが本格的に反攻に出てくるのは昭和18年の後半からだと予想していた。平時態勢から戦時態勢に切り替わり、戦車や戦闘機など戦備の生産をフル稼働しても、そのぐらいの時間はかかるだろうとの読みであった。しかし、その読みは全く甘かった。兵力はもとより、銃器類、それに空母や駆逐艦など、昭和17年の終わり頃にはもう十分の戦時態勢に入っていたのである。

・日米開戦に至る前から、実は日本の暗号電報はアメリカ側に筒抜けだったのである。アメリカ陸軍通信部に在籍したウィリアム・フリードマンは”暗号の天才”の異名を取る人物であった。彼は、日本が昭和12(1937)年以降、外交時に使っていた暗号機の暗号解析に没頭し、15年には成功していた。暗号解読機は、日本の機密文書を「紫」と呼んでいたものにちなんで「パープル」と名付けられた。そして解読された暗号文は「マジック」と呼ばれ、ルーズベルト大統領、ハル国務長官らわずかの政府首脳と、信頼できる同盟国の指導者としてイギリスのチャーチル首相にも届けられていた。日本では、昭和16年の開戦直前、最終提案である「甲案」「乙案」をはじめとして、東京の外務省から在米日本大使館に宛てられ打たれた暗号電報は、ことごとく読まれていたのである。既に開戦に向かって進んでいる日本の裏事情もアメリカ側には筒抜けだったのだ。戦時下でも日本は、暗号が読まれていると知らず悲劇を生んでいく。

・昭和18年頃、既に「大本営政府連絡会議」「御前会議」という、日本の意思決定最高機関自体が混乱し、態をなしていなかった。「御前会議」は「連絡会議」で決まったことをただ追認するだけの場であり、また「連絡会議」にしろ、たとえそこで軍部がいったことを否定したとしても、軍は天皇のところに持って行き、勝手に判をもらってしまう。そうすれば、それで「勅令」として実行してしまえるのであった。陸軍省軍事課にいた幕僚に聞いた話では、「議会が何を言おうが、関係ありません。我々が文章を作って、天皇の下にいる侍従官に強く言いおき渡しておく。それで判をもらって、”勅令”として実行すればいいだけの話だったのですよ」と平然と述懐していた。

・昭和18年春から参謀本部の情報部に籍を置いていた、堀栄三から聞いたこんなエピソードを紹介しよう。当時、彼は「日本のマッカーサー」とあだ名されていた。なぜなら、アメリカ軍が次にどこを攻めてくるかを、ことごとく当ててしまったからである。どうしてそんなことができたのか、彼に言わせると、簡単なことだという。さまざまな情報を分析するとわかるというが、たとえばこんな方法も用いた。参謀本部の情報参謀のもとには、アメリカの放送を傍受した内容が毎日のように届いた。その中には天気予報や株式市況なども含まれており、何気なく、毎日、それらの株式市況を眺めていたのだそうだ。すると、彼はある一つの法則を見出したのである。それは、アメリカ軍の新しい作戦が始まる前には、必ず薬品会社と缶詰会社の株が急騰することであった。堀は、それはたぶん兵隊に持たせるマラリアの薬と食糧を軍が大量に購入するからだ、と推測した。また、アメリカの放送は、今、どこの部隊が休暇中であるかを報道する。その休暇中の部隊がどの戦線に出てくるか、次の作戦展開の場になる地域を見抜いていたのである。「でも、確実だとわかっている情報でも、作戦部では見向きもしてくれませんでした。彼らは自分の頭の中にある考えだけが全てであり、たとえ私の持っていった情報が正しくても、相手にしませんでしたね」せっかくの堀の情報も生かされることはなかったのだ。

・8月6日午前8時15分、広島に、続いて9日午前11時2分には、長崎に原爆が投下。さらに8日には、モスクワでモロトフ外相が佐藤尚武大使に宣戦布告の文書を渡し、翌9日未明に極東ソ連軍が満州国に侵攻した。事態はもう一刻の猶予も許さないところまで来ていた。そして、ここで「2.26事件」以来、決して意思表示してこなかった天皇が、ついにその禁を破る時が来る。天皇は、まず東郷に次のように命じた。「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることはできない。不可能である。なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸、鈴木にも伝えよ」天皇には、当初広島への原爆投下は告げられていなかった。しかし、天皇はそのことに気づき、報告を受けてこの決断をしたともいえた。

・そして「最高戦争指導会議」が開かれることになった。8月9日、最高戦争指導会議は、皇居で行われた。首相の鈴木が口火を切ることとなる。「原爆といい、ソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはありません。ついては各員のご意見をうけたまわりたい」東郷が、「ポツダム宣言受諾」を明確に主張した。しかしそれに対して、未だ反対論も相次いだ。阿南は、実は天皇の意思は充分わかっていたが、陸軍を代表する立場として軍を押さえなければならなかった。会議では、「ポツダム宣言を受け入れたら、国体護持はできない」と鈴木に反対する意見を執拗に繰り返した。参謀総長の梅津美治郎も「ポツダム宣言では戦争犯罪人の処罰も謳っている。我々、戦争責任者の裁判はどうなるんだ、賠償金だって取られてしまうのじゃないか」と感情論をぶつけてきた。議論は平行線をたどった。折りしも、会議の途中には、長崎への原爆投下の報も伝えられている。最高戦争指導会議は午前10時半に始まり、午後1時まで行われた。その後、閣議も行われたが、二つの会議とも結論を出すことはできなかった。引き続き、御前会議が午後11時50分から皇居地下にある防空壕で開かれ、日付を超えて午前2時を過ぎた。頃合と見計らい、鈴木が切り出した。「では、決を取ろう・・・」決を取ると、鈴木を除く出席者6人がちょうど3対3の半分に分かれてしまった。それで鈴木は天皇の前に進み出て奏上した。「ご覧のように、臣下は3対3の同数です。陛下のお気持ちをお聞かせください」それに対して天皇は、こう述べた。「空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲しないところである。私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えることである。・・・昨日まで忠勤を励んでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は、忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う」このときに天皇は、陸軍は本土決戦を言うが、自分が独自に調べさせたところではとうていその準備などでいていないとも話している。こうして聖断が下され、日本の「ポツダム宣言」受諾が決まった。「御前会議」の結果は、国内ではもちろん機密だったが日本の海外向け放送では流された。

・またもや政治、軍事指導者の間には混乱が生まれた。見かねて天皇は14日、再び御前会議を自ら召集している。この時の御前会議は異例で、いつものメンバーの他に、全閣僚、枢密院議長の参加も要請された。御前会議の場で天皇は、こう述べている。「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状を充分考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える」それを聞くや、出席者たちは全員、すすり泣きを始めた。中には号泣する者もあった。そして、阿南が涙ながらに、天皇にこう言った。「これを認めれば日本は亡国となり、国体護持も不可能になります」この時、「国体護持も不可能になる」という発言を聞くや、天皇は不思議な言葉を発している。「いや、朕には自信がある。国体護持には自信がある。自信があるから、泣くな、阿南・・・」また、こうも語った。「私が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ。・・・必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説き諭してもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と。阿南の言葉を受けて「国体護持には自信がある」と、この時、天皇ははっきりと語った。私は、この意味するところが、未だによくわからないのだ。なぜ天皇には「自信がある」といいきれる根拠があったのだろうか・・・。

・なぜ、こんな無謀な戦争を始めてしまったのか、なぜ、歴史的使命も明確でなく、戦略も曖昧なままに、戦争を続けてしまったのかー。誤解を恐れず結論的にいうなら、「この戦争は始めなければならなかった」のだ。戦争で亡くなった310万人(戦後の戦病死を含めると500万人になるだろうが)のことを考えると、本当に気の毒としかいいようがない。しかし、日本はやはり戦争に向かう”必然性”があったのだと思う。たとえ、昭和16年12月8日に始めなくても、遅かれ早かれ、軍の暴発は起こっていたはずだ。他に選択肢がなかったのだから。今でいう”逆ギレ”のようなものだろう。緻密な戦略を立てる前に”手が出てしまった”という感じだった。もっとも、始めたはいいが、”どう収めるべきか”ということを全く考えていなかったのは、お粗末というしかなかった。明治以降、日清、日露戦争と来て、いつの間にか”夜郎自大”となってしまっていた。こういう言い方をしたら語弊があるかもしれないし、乱暴かもしれないが、明治期以降の日本はいったん”ガス抜き”が必要であったのだろう。そして、誰も「なぜ戦っているのか」という疑問も持たず、無為無策のまま戦争を続け、本土決戦まで持ち込まれる寸前までいった。「1億玉砕」などという事態にもなりかねなかったこういう言葉も誤解を招くかもしれないが、あえて使わせてもらうと「原爆のおかげで終戦は早まった」のだ。戦争継続なら8月15日以降、空襲はもっと激しさを増していただろう。皇居や京都にだって爆弾を落とされていたかもしれない。あるいは、アメリカ軍の日本本土上陸作戦が実行されていたら、果たしてどうなっていたか・・・。もし昭和20年8月9日にソ連が満州に侵攻し、そのっま攻められ続けていたら、間違いなく「東日本社会主義人民共和国」なる国家が生まれていただろう。

・”勝ち戦”に乗じて日本の領土が欲しかったスターリンは、トルーマンに「我々は関東軍を掌握し、北海道方面に侵攻している。ソ連の制圧地域として北海道を認めて欲しい」と要求していた。しかし、トルーマンは、決してそれを認めなかった。スターリンはもう一度、「北海道が欲しい」と重ねて訴えるが、やはり断られてしまう。ならばと、「領土の代わりに、関東軍の兵を労働力としてもらう」と勝手に決めてしまった節があるのだ。こうして「シベリア拘留」が行われた。多くの日本兵が、極寒の地で強制労働につかされた。

・ソ連軍は8月15日以降も、国家の意思として攻撃の手を緩めなかった。樺太、千島列島に侵攻を続けていたのである。8月18日、激しい砲撃の末、千島列島北端の占守島、幌延島に侵攻。さらに28日には択捉島、9月4日には歯舞、色丹島を占領している。そして今でも北方領土は日本に還ってきていない。「日ソ中立条約」を破り、8月15日以降も侵攻、それどころか9月4日までも侵攻を続けていたのである。これは、いったいどういうことか。ソ連のある外交官に質した時に、彼は次のような言い分を繰り返した。「我々にとっては、日ソ中立条約よりヤルタ会談の”秘密議定書”の方が国際的に見て意味が大きかった。それに我々ソ連は、日本が降伏文書に署名したその日(9月2日)が戦争の終わりであり、それまでは戦争状態だったのだ」”戦後”も戦争は続けられていたのである。

・「戦争が終わった日」は、8月15日ではない。ミズーリ号で「降伏文書」に正式調印した9月2日がそうである。いってみれば8月15日は、単に日本が「まーけた!」といっただけにすぎない日なのだ。世界の教科書でも、みんな第二次世界大戦が終了したのは、9月2日と書かれている。8月15日が「終戦記念日」などと言っているのは、日本だけなのだ。

・忘れてならないのは、日本軍がいなくなった後、マレーはイギリスに、インドネシアはオランダに、ベトナムはフランスにと、また支配されていった事実である。なんのことはない。西欧列強の植民地主義が復活したのだ。それぞれの国々では、その地に住む人々による民族独立運動が、再び起こっていたのだ。そうした民族義勇軍の中には、一部の日本兵たちも加わった。彼らは、日本人であることを捨てて、あえてそうした民族独立運動の戦いの中に身を置いていったのである。インドネシアでは、現地の独立義勇軍に、武器を持って参加した日本兵たちがおよそ3000人近くもいた。その内、1000人が独立運動で命を失い、1000人は、その後、日本に帰国した。インドネシアでは、戦死した1000名を国立英雄墓地に葬り、今でも英雄として扱っている。そして、3000人の残りの1000人は、現地に住み着き、現地人の妻を娶り、インドネシア人として生き続けていた。

<目次>
はじめに
第1章 旧日本軍のメカニズム
 1 職業軍人への道
  陸軍士官の養成機関
  「統帥」の教え
  海軍の教育機関
 2 一般兵を募る「徴兵制」の仕組み
  「国民皆兵」の歴史
  2年の兵役、5年の予備役
  兵役免除、お目こぼし、徴兵逃れ・・・
 3 帝国陸海軍の機構図
  「大本営」とは何か
  「統帥権の干犯を許さない!」
  戦略単位としての「師団」と「艦隊」
第2章 開戦に至るまでのターニングポイント
 1 発言せざる天皇が怒った「2.26事件」
  「天皇機関説」から「神権説」へ
  「大善」をなした青年将校たち
  もはや誰にも止められぬ「軍部」
 2 坂を転げ落ちるように-「真珠湾」に至るまで
  「皇紀2600年」という年
  「北進」か「南進」か
  逆転の発想「東條内閣」
  真の”黒幕”の正体・・・
第3章 快進撃から泥沼へ
 1 「この戦争はなぜ続けるのか」-2つの決定的敗戦
  果たして「真珠湾攻撃」は成功だったのか
  ”勝利”の思想なき戦争
  完全に裏をかかれた「ミッドウェー海戦」
  無為無策の戦場「ガダルカナル」
  誰も発しなかった「問い」
 2 曖昧な”真ん中”、昭和18年
  ”狂言回し”としての山本五十六
  アッツ島の「玉砕」はなぜ起きたか
  大本営が作った空虚な作戦「絶対国防圏」
  開き直る統帥部
  ”とりつくろう”とした年
第4章 敗戦へ-「負け方」の研究
 1 もはやレールに乗って走るだけ
  「軍令」「軍政」の一線を超えた東條
  無能指揮官が地獄を招いた「インパール作戦」
  「あ号作戦」、サイパンの玉砕、東條の転落
  軍令部の誤報が招いた”決戦”の崩壊
  硫黄島、沖縄の玉砕
 2 そして天皇が動いた
  鈴木内閣の”奇妙な二面策”
  「例の赤ん坊が生まれた」-
  阿南泣くな、朕には自信がある
第5章 8月15日は「終戦記念日」ではない-戦後の日本
  「シベリア拘留」という刻印
  太平洋戦争はいつ終わったか?
  名もなき戦士たちの墓標
【基礎知識】
 恩賜の軍刀
 大東亜共栄圏、八紘一宇
 軍人勅諭
 大鑑巨砲主義
 マジック
 軍神
あとがき
太平洋戦争に関する年表


面白かった本まとめ(2012年上半期)

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「珈琲舎 蔵(東京 神保町)」でコーヒー等を楽しみました!

2012年11月07日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

 食べログで評価が4.00でTOP5000に入っている東京の神保町にある「珈琲舎 蔵」へ行ってきました!
 お店のは神保町の大通りから外れた小道沿いにあり、階段を上がって2階になります。

1img_3773
↑店構え

 店内は、広い空間に高級感と清潔さが漂い、右側にはかなり大きなテーブルとその上に大きく花が生けられビックリします。
 中央正面は6人ほど座れるカウンター席となっていて、その壁面にはたくさんのウェッジウッド等の高級カップ等が並べられています。
 入って左側には4人掛けのテーブルが2つほどありました。
店内は高級感があり、BGMは静かなジャズが流れ、落ち着くことができるのはとても良いと思います。さすが、食べログで高得点ですね。

 そして、最も驚いたのは、正面右側にある大きな絵画!
天使の羽根を纏った若い女性が素足を露わに座り、こちらを見つめていて、ドキッとしてしまいます。
 男心をくすぐる絵だなぁ~と感動しましたね!^_^)
細部までよく描けています。
舟木誠一郎氏が描いた絵で「沈黙」という題名が付けられていました。
その大きさと美しさには感動します。

2img_3776
↑「沈黙(舟木誠一郎)」という絵画

 お店の入口近くにも少し小さな絵が掲げられていますが、こちらも薄い露わな衣服を纏った若い女性が涙目でこちらを見つめていて、色気を感じます^_^)
 これら存在感のある絵は凄いなぁ感動しましたね。
 先日「画廊喫茶ミロ」という喫茶店に行ったのですが、あらためて、良質な絵画のある喫茶店は良いなぁと思います。

3img_3777
↑店内

 どこに座るか迷いましたが、大きなテーブルの席に座り、メニューを見て注文します。
 店内はカウンターに一人男性客が店主と会話を楽しみ、ボックス席には若い女性が座っていました。
メニューはシンプルで、珈琲などの飲み物と、ケーキ(300円)だけとなります。食事メニューはありません。
ケーキはチーズケーキかシフォンケーキを選べます。
オーソドックスにブレンド珈琲700円とチーズケーキ300円を注文しました。

4img_3774
↑メニュー

 しばらくしてブレンドコーヒーが運ばれますが、綺麗なウェッジウッドの器にコクのある美味しいコーヒーが美味しい!
 そして、誤ってシフォンケーキが運ばれましたが^_^;)快くチーズケーキに代えてくれました。
チーズケーキはチーズがかなり濃厚でしっかりとした固さがあり、これは美味しいです!大満足です!
 静かなジャズも流れ、美味しいケーキと珈琲を頂きながら、ひとときの至福の読書を楽しむことができました。

5img_3779
↑ブレンドコーヒーとチーズケーキ

 それから会計を済ませますが、名刺をもらいました。次回その名刺を見せると100円引きになるとのことです。
また、店主が入口まで見送ってくれて、その心遣いは嬉しかったですね。


 「珈琲舎 蔵」は高級感のある空間で、綺麗な絵と静かなジャズを楽しみながら美味しいケーキや珈琲を堪能でき、とてもオススメなお店です!!

珈琲舎 蔵
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美味しかったものまとめ(2012年上半期)

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日影沢キャンプ場(高尾山近く)はとてもオススメ!

2012年11月05日 01時00分00秒 | イベント・外出
<月曜はお勧めなおはなし>

 高尾山の山頂から下山したところにある日影沢キャンプ場で、キャンプを楽しみました!

 この日影沢キャンプ場は、林野庁が管理しているキャンプ場で、なんと無料で利用でき、しかも高尾山の山頂につながる道もあるので、高尾山登山を楽しむことができます。

 もちろん水道やかまどが整備されているのでバーベキューを楽しむことができ、また簡易トイレも完備され、そして平面の広場には余裕でテントが建てられ、駐車場もあるのでキャンプを楽しめます!

Img_3985
↑かまどでカレーや飯ごうでのご飯を作る

 また近くにはきれいな小川があり、川遊びをすることができます。
子どもたちは、その川でカニを捕まえたり、夜に罠を仕掛けて魚を捕ったりして楽しんでいましたね。

 それから夜には綺麗な星空も堪能できます!

 一例としては、以下のように日影沢キャンプ場で過ごしてみてはいかがでしょうか?
(1)朝に車で日影沢キャンプ場に到着
(2)午前中に高尾山登山を楽しむ
(3)午後に下山してテントを立てる
(4)近くの小川で川遊びをする
(5)夕方にかまどで料理やバーベキュー
(6)夜に星空を楽しみテントで泊まる
(7)翌朝朝食を楽しみ川遊びなど

なお、日影沢キャンプ場近くには徒歩約10分のところにバス停(日影停留所)があり、JR高尾駅から約18分(大人片道220円)でバスを利用することもできます。(土日昼間は1時間に3本程度)

それから、10月上旬にこの日影沢キャンプ場を利用しましたが、標高があるので、夜はさすがに寒かったです^_^;)
この時期は防寒具が必要です。ただ蚊など虫はいなくて良かったです。

 日影沢キャンプ場は無料でキャンプや高尾山登山をすることができ、とてもオススメです!


お勧めなお話(2012年上半期)
自動車保険を安く!

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「なぜか、人とお金がついてくる50の習慣(たかの友梨)」という本はとてもオススメ!

2012年11月02日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「なぜか、人とお金がついてくる50の習慣(たかの友梨)」の購入はコチラ

 この「なぜか、人とお金がついてくる50の習慣」という本は、エステティックサロンを設立した「たかの友梨(ゆり)」さんが、その人生経験を基に、人生や事業を成功させる秘訣について50の習慣にまとめ、分かりやすく説明したものです。

 特に以下のことについて書かれています。

・感謝することが大切
・照れずにゴマをすりまくれ
・わかりやすい説明ができる人は仕事ができる人
・ウソをつかず信頼を高めること
・たくさん遊び、面白い人間になること
・お金は貯めるものではなく使うもの
・夢を持ち本気で頑張れば応援される
・面白そうだと感じたら掘り進めてみること
・即決して、走りながら考えること
・有能な人は人に教えることを厭わない
・電話やメールのレスポンスは最優先すべき
・1000日を越える繰り返しがあって成長を実感できる
・笑顔が肝心
・はじめてのことにいつも挑戦すること
・夢や目標は遠慮せずにどんどん口にすること
・ハングリーな人には最初に甘い言葉をかけないほうがぐんぐん伸びる
・苦境を乗り越えたところは以前より高い場所である
・中途半端はダメ

また、たかの友梨さんも、矢沢永吉さんの「成りあがり」を読んで育ったということに嬉しく思いましたね^_^)

この「なぜか、人とお金がついてくる50の習慣」という本は、とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・ビジネスを成功させるために絶対に欠かせない要素を、たった一つ挙げろと言われたら、「感謝」と答えます。つまり、どんなビジネスも、一人の力だけでは成し得ないと認識するということです。

・私は、ビジネスを成功させるうえでも、偉大なるイエスマン、大いに結構だと思っています。あなたにアドバイスしたいのは、「照れずにゴマをすりまくれ」ということ。ゴマすりというのは、営業ノウハウそのものであり、営業能力が高い人が市場を制するのですから。

・わかりやすい説明ができるということは、仕事ができる人の証明です。お客様や取引先、上司や部下に対して、自分がどういう話し方をしているか、いま一度振り返ってみましょう。あなただけの専門知識を基準に話してはいませんか?

・ウソをつくことで、一時的に何かがうまく回るかもしれません。しかし、ウソをついたという事実は、人々と自分自身の記憶の中に残ります。その記憶は、想像以上にあなたのビジネスをやっかいなものにします。苦しいときにもウソをつかずいやっていると、いつの間にか「信頼貯金」が増えていきます。そして、その貯金は、いざというときにとても役立つのです。

・理想のリーダーになるにはどしたらいいのでしょうか。・一口に言えば、たくさん遊んで、面白い人間になることです。部下たちが、一人のリーダーに本気でついていくとしたら、そのリーダーについていけば、自分の知らない世界に連れて行ってくれると感じるからです。そんな魅力的なリーダーでなければ、もはや人は引っ張れません。

・お金は貯めるものではなくて使うもの。私が、20代の頃に衣食住を節約してまで貯金をしたのは、使う目的があったからです。当時は「日本一の理容師になること」を目的としていましたから、そのために使うお金を準備していたのです。結果的には、フランスでエステティック技術を学ぶために使うことになるのですが、全額使い果たして、ちっとも惜しいと思いませんでした。

・いま私は、当時とは逆に、夢を追う若い人たちを応援する立場になりました。その立場になってわかるのは、夢を持ち本気で頑張っている人のことは、多くの人が損得抜きで応援するのだということ。あなたが、ビジネスの資本金に恵まれていなくても、そんなことで挫ける必要などちっともありません。あなたに熱意さえあれば、動いてくれる器の大きい人が必ず出てきます。

・信頼回復のためにエステティック業界が行ったことは、倒産した会社のお客様を分担して引き受けるということでした。このとき私は、どこの社よりも多くのお客様を引き受ける決意をしました。サロンそのものも数店引き継ぎ、そこでは、前売りチケットの払い戻しにはすべて、理由は一切聞かずに応えました。つまり、よその会社がつくった借金を黙って返すということをしたのです。その金額は数十億円に上りました。しかも、業界の将来性に不安を持った銀行からは担保を凍結され、預金を引き出すことができません。ただでさえ売り上げが激減する中で、いったいどうやってお客様の払い戻し希望に応えたかといったら、会社の資産のみならず、私の個人的な財産も持ち出したのです。それらは、私が懸命に築いてきたものです。他社の失敗によって自分の財産が吸い取られていくことは言葉にできぬ痛みがありましたが、あのときに「お客様を裏切ってはいけない」という信念を曲げずによかったと思っています。それからの数年はエステティック業界にとって厳しいものでしたが、一人ひとりのお客様に誠意をもって対応しているうちに、やがて、去ったお客様が少しずつ戻ってきてくれました。そして、倒産した会社から引き受けたお客様の多くが、いまでは私のところの常連になってくれています。「あのときの、たかの友梨の対応には感激したわ。今後エステに行くとしたら、たかの友梨しかないと思ったもの」こう言ってくれるお客様がいたと知ったとき、私は涙が止まりませんでした。やはり、わかってくれている人はいるのだと。どんな業界でもそうですが、同業他社はライバル。負けるわけにはいきません。しかし一方で、業界そのものの繁栄や信頼はさらに大事です。そうした大きな視野でお金を使うことも、ときには必要。そして、そのときは、並大抵でない覚悟も必要なのです。

・好きな人がいるなら、玉砕覚悟でアタックすべき。「すごく素敵な人がいるけれど、きっと彼もいるだろうし、僕には不釣り合い」こんなふうに思って、自分の気持ちを伝えることにストップをかけたら、実際につき合うことになった人に納得できず、結婚してからも引きずることでしょう。「本当に自分がつき合いたかったのは、この人ではない・・・」自分が傷つくのが恐くてアタックできなかったという記憶は、アタックして玉砕した記憶よりも、実はずっと後を引きます。いつまでも未練たらしくグジグジするしかないところで、人は自分を磨くことができません。あなたは何にアタックしたいのですか?本業さえ大事にしていれば、何だって気の済むまでチャレンジしていいのです。普通の会社員が歌手を目指したって、全然おかしくありません。その代わり、本気でアタックして玉砕したらあきらめる。これこそ人生の醍醐味です。自分の強みを発見したいなら、まずは、本当に自分が切り開きたいと思う道にアタックすること。玉砕を恐れずにアタックすること。そして、玉砕せずに手にすることができたなら、本気でぶつかった分だけ、すごい強みになります。もし、玉砕したならば、その道よりももっといい道があると知ることです。それは、玉砕した者だけが得られる、最高の道標なのです

・私自身のビジネスにおいても、これまで、たくさんの決断をしてきましたが、どれもじっくり考えている時間などありませんでした。エステティックサロンの一号店をオープンするときも、事業拡大するときも、いつも即決してきました。いまも、新しいことを始めるときはまず走り出して、走りながら考えるような状況。立ちどまって考えていては、そのチャンスはあっという間に私の目の前を過ぎ去ってしまいます。いいと思ったことは、すぐにやって、そして走りながら考える。

・本当に有能な人は、人に教えることを厭いません。なぜならば、下の人間が何もわからずグズグズ悩んでいたり、間違った行動をするよりも、正しくさっさと動いてくれたほうが、ずっと自分に得だということをわかっているのです。私は、スタッフからの質問は大歓迎。どんどん質問してくる人は、成長意欲のある証拠だと思っています。彼らはハングリー精神を持っていて、わからないことは一刻も早く解決して、次のステップに登ろうとしているのです。

・予定にはないけれど突発的に入ってくるものの代表格に、電話やメールがあります。これらに対するレスポンスは、どんなときにおいても最優先すべきです。

・どんな分野においてもそうですが、自分が成長できたという手応えは、少なくとも3年は続けないと得られません。1000日を越える繰り返しがあって、成長を実感できる。この時間は大変な財産であり、その後、何をやっていくにも、ブレない拠り所となってくれます。成功を焦ると、つい基礎を疎かにして何か突飛なことをやりたくなりますが、基礎のできていない人に大きな成功はありません。

・「この人についていったら楽しそうだし、いいことありそうだ」こう思ってもらえる人になりましょう。なれなくても、装いましょう。装っているうちに、本当にそういう人になっていきますから。それには、まずは外見から。単純なことですが、笑顔が肝心。笑顔を絶やさずに幸せそうな表情を演出してください。

・小さなことに幸せを感じられる幸福グセのある人には、大きな幸せもついてきます。逆に、小さなことにいちいち不運を感じていたら、大きな不運がついてきます。だから、不運を感じるクセは徹底して排除していく必要があります。

・当時はまだ日本ではめずらしかったクレー射撃や、ダンスクラブ、会員制バーなどに連れて行ってくれました。こうした、高級な大人の遊びを知ることで、私のレベルはワンランクアップしたと思っています。自分よりもお金を持っていたり、自分よりものを知っている人と接するときには、素直に甘えるのが一番。必ず自分の血肉になるのですから、何でも経験させてもらえばいいのです。卑屈になってはいけません。

・ビジネスにはルーティンワークが多いため、気づかぬうちにワンパターンに陥ってしまい、ロングセラー頼みになっていきます。それを避けるためにも、ビジネスが忙しいときほど、未知の世界にチャレンジしましょう。私は「ファーストな体験」と称して、スタッフにも日頃から意識的に新しい経験を積むようすすめています。スカイダイビング、クルージング、グリーン車に乗る、ふぐを食べる、カジノに行く・・・何でもいいけれど、ワクワクドキドキするようなはじめてのことに挑戦するのです。

・あなたも、夢や目標は、遠慮せずにどんどん口にしていきましょう。言葉にすれば、自分が変わり、周囲が変わり、人生が変わります。どんな内容でも、口にした瞬間から自分に現実事としての覚悟ができる。そして、周りの人は、あなたがやりたいことを理解し、情報をくれます。人生は、あなたが口にした小さな一言から大きく変わっていくのです。

・ハングリーな人たちにとっては、どんな重労働も苦労もすべて学びの場。いちいちへこまず、自分の成長材料にできるようです。面白いことに、ハングリーな人たちは、最初に甘い言葉をかけないほうがぐんぐん伸びるという特徴を持っています。だから私は、ハングリーな人には、あえて甘い言葉をかけずに遠くから見守っています。そして、高いところに登ってきたときにはじめて褒める。すると、さらに高いところを目指して頑張ってくれます。

・「ニキビの方、集まれ!タダで治してさしあげます」すると、翌朝早い時間から、店の前に長蛇の列ができました。その日から、私とスタッフは明けても暮れてもお客様のニキビと格闘。潰したニキビから飛び散る血と膿で、白衣が染まる毎日を送ることになりました。しかも、そこまでやっても、キャンペーン期間中は無料ですから、ほとんど売り上げは伸びません。しかし、私は確信することができました。「いま、できる限りのことをすれば、このお客様は必ずまた来てくれる」そして、実際に、その通りになったのです。ビジネスが袋小路に入ってしまうと、単純なことがわからなくなりまs。自分がお客様だったら何をしてほしいのか。ビジネスの答えは、すべてここにあります。その答えを見いだせないままにマス広告などを打っても、空振りに終わる危険性大なのです。

・「世の中には、平気な顔をして、こんなひどいことをする人がいるんだ」それは悔しい思いをしました。けれども、その経験によって、私は同じ騙しの手口には乗らなくなりました。そしてこうも思うことができました。「私は、あんなことは絶対にやらない。反面教師にしよう」つらい経験をするたびに、私は、経営者としても人間としても、一つステージを上げることができたと思っています。実際に苦境にある最中には、なかなか私の言うことは信じられないかもしれません。しかし、あなたが苦境を乗り越えたところは、以前よりも高い場所であることは間違いありません。だから、その結果を楽しみに、苦しいときほど笑顔でいてください。

・社内で企画が潰されたり、取引先との交渉が契約にいたらず頓挫したりするのは、そのやり方が中途半端だからです。何事も中途半端はダメ。中途半端にやるくらいなら、何もしないほうがましです。

・私にとって「座右の書」とも言えるのが、矢沢永吉さんの「成りあがり」と、藤田田さんの「ユダヤの商法」。どちらも、30年以上前に出版された本で、いまでも何かあると手にとって開くためボロボロになっています。「成りあがり」は矢沢さんが28歳のときに書いたもの。暴走族からビッグスターになり、道をはずしそうになった人たちの希望の星であり続ける矢沢さんは、いまも私の心の支えです。私自身、成りあがりと言われることはちっともイヤじゃない。むしろ誇りに思っています。「ユダヤの商法」には、「女と口を狙え」という一文があり、美容の道を歩む決意を固いものにしてくれました。化粧品販売員をしているときに、一ヶ月分のお給料に値するような高価なクリームを買っていく女性たちを目にしていて、これからは女性が消費の中心になると私も感じていたからです。

・本から何かを学ぼうとする人とそうでない人がいますが、学ぼうとする人になったほうが絶対に得です。本を読むには、自分で字面を追い、理解するという作業が必要になります。そうした面倒な作業を経て得たものは深く身につくはず。また、何度でも読み返すことができ、そのときの自分の成長度合いによって、理解に違いがあるから面白いのです。それに、本を通してなら、どんな大人物とも好きなときに対峙できます。私は、中村天風さんからも、藤田田さんからも、矢沢永吉さんからも、そのほか、数多くの成功者たちからも、本を通して勝手に教えを請うています。自分が気に入った箇所に線を引き、気に入った言葉を口にして、迷ったときにはまた読み返す。こんな都合のいいことにつき合ってくれるコーチは、なかなかいません。

<目次>
はじめに
第1章 優秀であるより面白くあれ~人間関係がうまくいく10の習慣~
 習慣1  何はともあれ、まずは感謝の心
 習慣2  人に執着せずに、でも縁は大事に
 習慣3  ゴマすり、イエスマン、大いに結構!
 習慣4  誰についていくかは好き嫌いで決める
 習慣5  人に好かれるのは、人生の基本
 習慣6  話がわかりやすい人を信用する
 習慣7  信頼を貯金する方法
 習慣8  好き嫌いはしない。好かれる努力をするほうが得
 習慣9  リーダーは遊べ!
 習慣10 上手な褒め方、叱り方
第2章 「オール・イン」せよ~お金に悩まない9の習慣~
 習慣11 「お金がない、ない」という人たちの共通点
 習慣12 お金を貯める以前に必要なこと
 習慣13 背伸びをすれば背が伸びる
 習慣14 ときには「オール・イン」せよ
 習慣15 仕事は他人の金でやれ
 習慣16 お金を出してもらえる人とは?
 習慣17 お金、人脈、何もない人が成功する
 習慣18 大きな視野でお金を使う
 習慣19 帳尻は必ず合う
第3章 会社にしがみつかない働き方~仕事で稼ぐ13の習慣~
 習慣20 「帰属しない強み」を持つ
 習慣21 語学は学ぶな
 習慣22 自分の強みの見つけ方
 習慣23 戦うには「きび団子」がいる
 習慣24 昼と夜、二つの顔を持て
 習慣25 スピード!走りながら考えろ
 習慣26 10年先と今日の夕飯を一緒に考える
 習慣27 考え込まずに成功者に聞く
 習慣28 逃げずに結果と向き合う
 習慣29 手帳から自由になる
 習慣30 ひと言だけでも、とにかくレスポンスする
 習慣31 自分の「選択」に執着しない
 習慣32 基礎が肝心、そこで粘れ
第4章 一生、”初体験”し続ける~思考で現状を変える9つの習慣~
 習慣33 楽しそう、幸せそうな「顔」をする
 習慣34 数珠は隠せ
 習慣35 自分の幸運度をかさ上げする
 習慣36 卑屈になると人生はストップする
 習慣37 失敗は生活習慣病
 習慣38 「ファーストな体験」を楽しむ
 習慣39 願いは口に出せば叶う
 習慣40 苦しいときほど贅沢が必要な理由
 習慣41 「美・華・鬼」の三要素を持つ
第5章 苦しいときをどう生きるかで人生は変わる~挫折で人生を飛躍させる9の習慣~
 習慣42 注目されていないときがチャンス
 習慣43 自分を追い込んで強くする
 習慣44 打開策は自分の体験にある
 習慣45 なぜ、私は逆境に強いのか?
 習慣46 中途半端が勝つことはない
 習慣47 「100匹目の猿」を待て
 習慣48 いつでもつき合ってくれるコーチを作る
 習慣49 何があってもパニクらない
 習慣50 人生はかけ算。自分を大きく
おわりに

面白かった本まとめ(2012年上半期)

<今日の独り言> 
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