薬師如来の左手の上に、薬壺の代わりにぶどうがのってるなんてめずらしい。
山梨県甲州市勝沼町にある
大善寺のぶどう薬師は秘仏なので、五年に一度の御開帳が、
ちょうどいま平成30年10月1日~14日、あと3日お目にかかれます。
国宝の薬師堂の厨子の中に安置された国指定重要文化財の薬師三尊像で、日光・月光菩薩と共にいらっしゃるそうです。
大善寺のサイトによれば
養老二年(AD718)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れました。
行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。
以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられています。
薬師如来は病気を治すということで、古くから信仰を集めてきましたし、日本各地に本尊とするお寺たくさんあると思います。
一番古いのが奈良の薬師寺です。
しかし薬師如来像はインドでは造像例が見いだせず、中国でも隋唐時代以前には、わずか一例があるだけらしい。
マニ教は、694年中国に伝来したとされ、
唐の時代には、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)と共に、摩尼教(明教)が三夷教ないし三夷寺と呼ばれていた、と高校時代の世界史で習いました。
試験に出るから単語として覚えていただけですけど。
日本の薬師寺はもともと、680年(天武9)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため発願し藤原京に創建されて、平城遷都に伴って718年(養老2)に現在地(奈良市西ノ京町)に移されました。
仏教経典一切経七千余巻の中で、薬師経の記述には、インド以外の要素が多いそうです。
「続命法」などに見られる善悪応報説と閻魔の審判はイラン起源。
それに記される7層の灯明は、オリエントの占星術世界観を継承していて、明らかにインドより西方の文化の影響を受けていることをうかがわせ、東方にあるとされる薬師仏の浄土が西方起源を示しています。
2010年9月下旬、
マニ教『宇宙図』国内に現存してたというニュースが報道されたようですが、当時目に留まることはなかった。
上部中央に光の王と呼ばれる天使が描かれ、
左下に月、右下に太陽を配置して、さらにその下には七曜や十二宮などからなる天界を表します。
薬師如来の脇侍として、日光、月光の両菩薩がいることから、薬師が天上界の仏であることは明らか。
マニ教とは、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年 - 276年または277年)が開祖。
パルティア帝国の末期に、メソポタミア平原南部のバビロニア地方ユーフラテス川沿いのマルディーヌー村で、パルティア貴族の父パテーグと、パルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムとの間に生まれ、パルティアの貴公子という出自であった。
マニが12歳のとき、初めて神の啓示を受ける。
そのころにササン朝ペルシャは建国で226年で( 滅亡 651年)、当初、ユダヤ教・キリスト教に対し比較的寛容であったが、そのいっぽうでゾロアスター教を国教と定めた。
24歳のときに2回目の啓示をうけたマニは、新しい教団の設立を決意しマニ教を開教。
バビロニア、ペルシアから船でインドにわたり、北西インドから中央アジア地方にかけての伝道の旅から始めた。
やがてササン朝ペルシャのシャープール1世兄弟を改宗させ重用されたが、次世代バハラーム1世のもとでゾロアスター教以外のユダヤ教・キリスト教に続きマニ教もまた迫害されるようになる。
276年ゾロアスターの大マグ(僧侶)のカルティールに陥れられたマニは、王命により召喚を受けて投獄され死刑に処せられた。
民族も宗教もいり混じるバビロニアで、混とんとした3世紀に生まれたマニ教は、諸教混交がマニ教の特徴となりました。
布教する先々で、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなくて、生き延びることができなかったそうです。
奈良時代までに日本にもたらされたマニ教は、きっと薬師信仰となり、今なお日本人に根付いてるのだと思います。
薬師さんとぶどう、不思議に見える取り合わせは全然不思議じゃなかった。
薬師信仰の起源は、ササン朝ペルシアのマニを開祖とするマニ教と繋がってると思います。