橋下徹大阪府知事の教職員国歌斉唱時起立義務化を考える

2011-06-19 06:57:21 | Weblog

 

 《橋下知事「大きな時代の転換点」 国旗国歌条例成立》MSN産経/2011.6.4 00:04)

 6月3日(2011年)、橋下徹大阪府知事代表の「大阪維新の会」(維新)府議団提案による府施設での国旗の常時掲揚と府内の公立学校の教職員に国歌斉唱時の起立を義務付ける全国初の条例案が府議会本会議で可決、成立した。

 同日夜の記者会見。

 橋下知事「教育行政、教育現場の大きな時代の転換点。国歌の起立斉唱だけが問題ではなく、職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のことをやらなければならない。これまでの個人商店的な教員を、学校組織の一員としてみる第一歩が踏み出せた」

 教職員が何よりも拘っているのは国歌・国旗がそこに込め、象徴している思想であろう。条例によって受入れ難い思想に敬う態度を示せと強制する。

 条例可決に対する中西正人大阪府教育長の態度。 《橋下知事「大きな時代の転換点」 国旗国歌条例成立》MSN産経/2011.6.3 23:31)

 中西教育長は府議会で「条例による義務付けは必要ない」という態度を取っていたという。可決後の記者会見。

 中西教育長「議会の判断として制定されたので重く受け止める。現段階では、条例違反をもってただちに懲戒処分することまでは考えていない」

 大阪市長の声も伝えている。

 平松邦夫大阪市長「大阪市ではすべて起立して国歌斉唱が行われ、何ら問題はない。あえて条例化する必要がないものを、数の力で(可決)できるというパフォーマンスにつなげている。数こそ力なりといっている方ならではの遣り方で、ある意味危機感を感じる」

 国歌起立斉唱の面からのみ論じていて、国旗や国歌に込められている思想について論じていない。勿論、人によって何を象徴しているか受け止め方は違う。国歌・国旗共に平和を象徴していると見る受け止め方もあるに違いない。

 どう受け止めるかの自由は憲法が保障している。憲法が保障していることを自治体の条例で強制することができるのかという問題になるが、5月30日(2011年)に最高裁第2小法廷が「校長の教職員に対する起立斉唱命令は合憲」とする初判断を示している。

 《君が代斉唱不起立:再雇用拒否訴訟 起立命令は合憲 最高裁初判断「慣例的儀礼」》毎日jp/2011年5月31日)

 この判決は卒業式の君が代斉唱時不起立を理由に東京都教委が定年後の再雇用を拒否したのは「思想や良心の自由」を保障した憲法に違反するなどとして元都立高校教諭の申谷(さるや)雄二さん(64)が都に賠償を求めた訴訟に対する決定だという。

 判決を示した上で申谷さんの上告を棄却。申谷さんの敗訴とした2審判決(09年10月)が確定した。

 裁判官4人全員一致の判断。

 裁判長「起立斉唱行為は卒業式などの式典での慣例上の儀礼的な性質を有し、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく特定の思想を強制するものでもない」

 言っていることは正しい。但し起立斉唱が慣例上の儀礼的な式典という観点から見た場合のみに限定される。慣例に過ぎない、儀礼に過ぎないのだから、個人の歴史観や世界観を否定するものではないし、特定の思想を強制するものでもないですよと言っているに過ぎない。

 国歌起立斉唱が卒業式・入学式等の慣例上の儀礼的な式典に過ぎなくても、国旗・国歌に込められていると見ている思想・信条が自身の思想・信条と相反する場合、起立斉唱の儀礼性・慣例性は意味を失い、個人の歴史観や世界観に直接関係してくるはずだ。あるいは少なくとも特定の思想に対する認知行為を強制することになるはずだ。

 判決はこのことにも触れている。

 裁判長「国歌への敬愛表明を含む行為で思想と良心の自由に間接的制約となる面がある」

 このままだと前者の判決箇所と矛盾することになるが、この「間接的制約」はすべての場合に当てはまるわけではなく、個々の状況に応じて当てはまるか否かを判断すべきこととして矛盾をクリアしている。

 裁判長「命令の目的や内容、制約の態様を総合的に考慮し、必要性と合理性があるかどうかで判断すべきだ」

 申谷さんのの場合――

 ▽教育上重要な儀式的行事で円滑な進行が必要
 ▽法令が国歌を「君が代」と定める
 ▽「全体の奉仕者」たる地方公務員は職務命令に従うべき地位にある

 以上の理由を以って「間接的制約が許される必要性や合理性がある」と結論付けて、その制約に違反したことを以って都教委が定年後の再雇用を拒否したことは「思想や良心の自由」の侵害には当らないとしたということなのだろう。

 いわばあくまでも教育上の儀式であることを最優先とさせ、法令が国歌を「君が代」と定めている、地方公務員は全体の奉仕者だから職務命令には従うべきだと、これらを補助的優先事項として、国旗・国歌が込め、象徴としていると見る思想・信条から本人が望まない形で受ける自らの思想・信条の精神的侵害を何よりも最優先に尊重されるべきだと思うが、下位事項に置いた。

 国旗に対する一礼や君が代に対する起立斉唱を求める日本人の多くは日本の国旗・国歌は平和を象徴すると言いながら、戦前を引き継ぐ日の丸であり、君が代と見ている。決して戦前と戦後で一線を画した国旗・国歌とは見ていない。

 戦前を引き継ぐ戦後のありようの最も顕著な一例が靖国思想であり、英霊思想であろう。天皇陛下のために戦わせ、お国のために戦わせて命を捧げさせた兵士を英霊として靖国神社に葬り、顕彰するというのは戦前の軍国主義時代の国家を主とし、個人を国家の下に置く国家主義から生れた思想であって、決して戦後の思想ではないにも関わらず、戦前と戦後を画することができずに戦後も引き継いでいるということは国家を個人の上に置きたい常なる衝動を密かに抱えているからこそ可能となる戦前と戦後の連続性でなければならない。

 いくら兵士が天皇陛下のために、あるいはお国のために命を捧げ、戦死したら靖国に祀られると信じて戦争を戦ったとしても、戦死した兵士の命を尊いとし、英霊と名づけて顕彰し祀るのは国家が個人をその基本的人権と自由を認めずに支配する国家と個人の関係を強制していた中での場面であって、国家が自らの支配下に置いた個人を支配下に置いたまま鼓舞する道具立てとしての奇麗事の価値しかなかったはずだ。

 問題は戦前の国家観を引き継いでいる者が現在もなお国家権力の側に多く位置していることであって、彼らは戦前と同様に戦後も日の丸に戦前の国家観に立った国家を象徴させ、天皇を賛美した戦前の君が代と同様に現在の君が代にも天皇を見ている。

 その天皇は決して戦後の象徴天皇ではなく、戦前の天皇に郷愁を持たせた天皇であって、そのことは天皇を元首の地位に就けたい衝動となった現れている。

 戦前の国家観、あるいは戦前の国家主義を担っている代表的な人物として安倍晋三元首相を挙げることができる。安倍晋三著の『美しい国へ』を参考に安倍晋三が君が代と日の丸に如何に戦前の国家を象徴させているか見てみる。

 安倍晋三は、「その時代に生きた国民の視点で歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっとも大切なことではないか」と歴史はその時代の視点で評価すべきだとする歴史観に立っている。

 戦前の軍国主義、国家が個人を支配した戦前の国家主義を肯定するためにこのような歴史観を持ち出したことは次ぎの言葉で分かる。

 戦前の日本は「たしかに軍部独走は事実であり、もっとも大きな責任は時の指導者にある」と一旦は「軍部独走」を否定するが、「だが、昭和17、8年の新聞には『断固闘うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化するなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか」とマスコミを含めた民意の多くが軍部を支持していたとすることによって「軍部独走」を肯定している。

 これがいわば「その時代に生きた国民の視点で歴史を見つめ直してみる」ということなのだ。戦前の日本を肯定している以上、当然君が代も日の丸も戦前の思想を受け継いだ戦後の形式を取っているはずである。

 しかし「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか」にはウソがある。「軍部独走」とは言っているが、「軍部独裁」とは言っていない。その軍部独裁にしても、天皇を絶対的存在と規定していた時代にあって天皇の名を利用し、その絶対性を軍部が自らに借り着させた(纏わせた)独裁であり、軍部が代表となって国家の個人に対する支配を担っていたのである。

 当然「民意の多くは軍部を支持していた」という下の上に対する関係は何者にも支配されない自由な立場に立った自発的な支持ではなく、上の下に対する直接的・間接的な支配を受けた、いわばコントロールされた、洗脳されたと言ってもいい、例えそれが熱狂的な性格のものであったとしても、歪んだ形の支持でしかない。

 国家が支配し、強制していた個人の存在性であることの実体に個人は気づかずに「断固闘うべし」を叫んでいたのであった。

 安倍晋三は〈「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国歌〉と題して君が代と日の丸について語っている。

 〈アメリカのような多民族国家においては、この国旗と国歌は、たいへん大きな意味を持つ。星条旗と国歌は、自由と民主主義というアメリカの理念の下にあつまった、多様な人びとをたばねる象徴としての役割を果たすからだ。〉

 先ずアメリカの国旗・国歌を肯定する。〈自由と民主主義というアメリカの理念の下にあつまった、多様な人びとをたばねる象徴〉だと価値づける以上、アメリカの国旗・国歌は自由と民主主義を理念としていることになる。

 では翻って、日本の日の丸と君が代にどのような理念を置いているのだろうか。

 〈歌詞は、ずいぶん格調が高い。「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」という箇所は、自然の悠久の時間と国の悠久の歴史がうまくシンボライズされていて、いかにも日本的で、わたしは好きだ。そこには、自然と調和し、共生することの重要性と、歴史の連続性が凝縮されている。〉

 いわば君が代は自然の悠久の時間と国の悠久の歴史を理念としていることになる。だとしても、ここには時間と国家の連続性を見ることができても、時間と国家の中身たる国民の連続的な存在性、どうあるべきかの理念を見て取ることはできない。

 安倍晋三は「その時代に生きた国民の視点で歴史を見つめ直してみる」歴史観に立った歴史解釈者であったはずである。だが、この君が代の歌詞の解釈は「その時代に生きた国民の視点」に立った解釈から外れている。

 「その時代に生きた国民の視点で歴史を見つめ直してみる」歴史観に立つ以上、君が代は元々は天皇代々の、あるいは万世一系の悠久の時間と悠久の歴史を謳ったものとしなければならないはずである。

 しかも歌詞を変えずに国民主権の民主主義国家となった戦後日本の国歌とする。歌詞を「時間と国の悠久の歴史」、「歴史の連続性」と解釈し、国民の連続的な存在性を一切顧慮していないことと考え併せると、戦前の天皇主義、国家主義を如何に引き継ごうとしているか、その意志を窺うことができる。

 天皇代々の、あるいは万世一系の悠久の時間と悠久の歴史を謳った天皇賛美の君が代を自然の悠久の時間と国の悠久の歴史を謳ったと言い替えて、どちらもそこに国民を存在させないまま君が代を正当化するところに戦前の天皇主義、国家主義を血としていることの韜晦を見て取ることができる。

 自らの血を隠して、〈「日の丸」はかつての軍国主義の象徴であり、「君が代」は、天皇の御世を指すといって、拒否する人たちもまだ教育現場にいる。これに反論する気にもならない。〉と言っているが、実際は次のように反論している。

 〈「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。〉

 ここでも「その時代に生きた国民の視点で歴史を見つめ直してみる」と言いながら、今の時代に生きている人間の視点で歴史を都合よく解釈している。 

 確かに天皇は戦前の絶対君主から戦後の象徴天皇にその地位を変えた。だが、「君」は絶対君主としての天皇を指していたのであり、平和天皇に姿を変えたからといって、戦前の天皇制や国家体制(=国体)に郷愁を感じている多くの日本人が存在する以上、「ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか」では済ますことはできない。

 また「この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか」と言っているが、歌詞に軍国主義に触れた箇所はなくても、天皇の絶対的存在性が軍国主義という軍部独裁の全体主義・国家主義を生む素地となったことを忘れてはならない。

 もしも「その時代に生きた国民の視点で歴史を見つめ直してみる」が正しい歴史観なら、戦前ドイツのヒトラー・ナチズムも当時のドイツ人の殆んどは熱狂的に支持したのだから、その歴史は正しいとすることになる。

 歴史の評価は「その時代に生きた国民の視点」ではなく、現在の時代に生き暮らしている国民の視点に立脚すべきはずだ。いわば解釈の対象となる時代の価値観ではなく、現在の価値観で判断すべきであろう。そうしなければ歴史から何も学ぶことはできないし、反面教師とすることもできない。正しくない歴史であっても、その時代の国民が熱狂的に支持したのだから正しい歴史だと受け継ぐことになった場合、歴史の進化・進展もないことになる。

 戦前の天皇主義・国家主義を戦後も引き継いでそのことを象徴させた君が代・日の丸としている人間が国家権力の側に多く存在する以上、君が代の起立斉唱や日の丸に対する一礼を単に君が代を国歌と法令で定めている、教育上重要な儀式的行事に過ぎない、「全体の奉仕者」たる地方公務員は職務命令に従うべき地位にあるとするだけで素直に行え、思想・信教の自由とは関係ないでは済ますことはできない。決して職務命令等で片付けていい問題でないはずだ。

 国民主権の時代である。君が代と日の丸が国民はかくあるべしとその存在性を保障する自由と民主主義を理念としたとき、誰もが思想・信教の自由に触れるとする鎧を脱ぎ捨て、敬意を持って君が代を起立斉唱し、日の丸に喜んで一礼するだろう。

 そうするためには少なくとも君が代の歌詞を変える必要がある。


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そもそもの罪は菅仮免個人にあり/21世紀臨調「現下の政治に対する緊急提言」

2011-06-17 10:12:06 | Weblog


 
 新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)が昨6月16日、広くは日本の政治に対してだが、当面の課題として菅首相に対する緊急提言を発表している。提言の核心箇所を拾ってみる。

 《「現下の政治に対する緊急提言」》(2011年6月16日)
    
 提言は最初に項目別にいくつか挙げて批判を展開。先ず第1項目は「政党政治は競争と協力の政治」と題して論じ、その冒頭次のように書き記している。

 〈日本の政治はもはや先進国の政治とは呼ぶに値しない有様になっている。先進国の政治とは競争と協力を通して眼前の課題を着実に処理しうる政治であるが、日本の政治はこの水準から確実に滑り落ちつつある。国会議員たちのこの点についての危機感の希薄さこそが、危機の深刻さの何よりの証である。〉

 日本の政治はもはや先進国の水準以下だと厳しく批判し、国会議員全体の責任、日本の政治全体の責任としているが、時の首相は菅仮免である。第一番の責任は菅仮免にあるのは言うまでもない。このことは提言の先に進めばおいおい分かってくる。

 また日本の政治価値の下落に対して国会議員は危機感が薄いと警告を発しているが、危機感を持っているからこそ、菅降しに走っているのだろう。但し東日本大震災発生で菅降しを途中で躊躇する間違いを犯してしまった。菅仮免ではそのリーダーシップ、統治能力からして満足に対応できないことを前以て予測し、菅降しの手を緩めるべきでなかったにも関わらず野党及び民主党内反主流は国民に政争と受け取られる恐れから休戦状態を自ら作り出してしまった。

 そして案の定の震災に於ける政治の遅滞を目の当たりにして、任せていられない危機感を改めて募らせ、菅降しを再開したが、日本の政治にとっては遅きに逸した。

 提言は次に衆参の「ねじれ」を取上げて、〈制度的不具合が露出した場合、それを乗り越える鍵は政党内部の卓越したガバナンスにしかないが、政党自身の求心力は高まるどころか解体傾向を深め、政権は摩滅する一方の状態にある。〉と言い、その責任を与野党に求め、さらに、〈衆参両議長がこの危機に際し何ら建設的なイニシアティブをとろうとしない姿はまさに異様の一語に尽きる。〉と激しく批判している。

 しかし何もかも菅仮免個人のガバナンス能力を問題としなければならないはずだ。衆参の「ねじれ」をつくり出したのも菅自身であり、それを「天の配剤」だと不幸中の幸いに位置づけながら、口で言っただけのことで実質的には「天の配剤」とすることができなかった菅自信の「ガバナンス」、無能力、指導力欠如が招くこととなった衆参の「ねじれ」以降の日本の政治の衰退であり、政権の「解体傾向」だからだ。

 菅仮免は政権交代後の財務相当時からマニフェストに反して消費税増税を自らの主張としていて、そのことを背景として首相就任1カ月早々の2010年7月参院選前に消費税増税を打ち上げたのだと言う。このことは2010年7月22日のBS11の番組収録で鳩山前首相が内輪のことを明かす形で出てきた話として「asahi.com」が記事にしている。

 この記事を取上げて2010年7月24日の当ブログ――《菅首相の“消費税争点隠し”論に見る指導性・責任性の欠如 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。

 菅首相の主張「消費税で自民党と一緒の主張をすれば争点から消えるから大丈夫」

 鳩山前首相がこのことを暴露したのは参院選大敗北を招いて憤懣やるかたない気持があったからに違いない。

 いくら消費税増税を必要と考えていたとしても、一国のリーダーとしての主体性も何もない非常に不純な動機を裏に隠した、しかも他の閣僚とも党とも前以て議論し、煮詰めることはしなかった、何ら準備らしい準備もしなかった消費税増税話だった。

 争点隠しが狙いで「自民党と一緒の主張」をするために増税率を自民党が掲げていた10%を参考にしたのであり、菅自身が、あるいは菅内閣や民主党が根拠を持って算出した税率ではなかった。

 与党としての主体性、責任意識、党と内閣を纏めて各政策を打ち出していく指導力、打ち出した政策を具体化していく実行能力等々を就任1カ月経つか経たない内にこの時点で既に欠いていたことを曝け出したのである。

 ここから始まった、21世紀臨調の提言が2項目目に掲げる「政権と政党の統治に失敗した民主党」ということであろう。

 次のように書いている。〈民主党は政権と政党の統治に相次いで失敗し、マニフェスト(政権公約)の信用を失墜させ、日本国総理大臣の地位と政治主導の名を地に堕しめた。〉

 すべては菅仮免の成果である。

 そして6月2日の不信任案提出の前に鳩山前と菅仮免が確認書を取り交わしたことと、その約束不履行に対して鳩山前が「ペテン師」呼ばわりしたことを、〈まさに語るに堕ちた姿をさらけ出したというべきである。それら一連の失態は本来であれば下野に値するものといわざるを得ない。〉と厳しく弾劾しているが、これも菅仮免が約束を守るつもりもなく不信任案可決回避と退陣を取引したこと、そして実際に約束を守らなかったことがそもそもの原因で、「ペテン師」呼ばわりを批判する前に菅仮免のその資格も資質のないにも関わらず政権にしがみつくために手段を選ばない狡猾さ、不誠実を批判すべきだろう。

 提言は日本の政治の堕落からの回復策として総選挙時のマニフェストの徹底的な総括と新たな代表選出を求め、党の求心力と政策の軸の地道な回復を願い、このことを通して政党としての自律性の涵養と自己規律の回復を要求している。

 いわば菅仮免が実現できなかったこと、あるいは壊してしまったことを新代表に求めている。

 但し、〈政党としての自律性の涵養、自己規律の回復を疎かにしたまま、代表選レースや連立話ばかりを弄ぶならば、民主党はさらに失敗を繰り返すことを自ら選択したに等しい。〉と厳しく警告を発しているが、民主党内では早速のことのように既に仙谷や岡田等が代表選レースや連立話を弄びにかかった。

 十分に議論して持ち出した大連立ではなく、弄びだったから、ここに来て萎んでしまったのだろう。

 提言は大連立について、〈衆参両院の国会審議を含め「機能する政権」を実現することが眼目〉だと定義づけ、〈政策本位の視点も、政党の求心力・自己規律回復への努力も欠いたまま、無原則に多くの議員を糾合するだけの巨大政権ならば、「機能する政権」を実現することには到底ならない。〉と警告。

 そして、〈それ以前の問題として、党内をまとめきれない政党に、大連立を成し遂げるだけの力量が果たしてどこまであるかも厳しく問われねばならない。〉と糾弾している。

 要するに菅仮免は民主党さえ纏め切れなかった。党の秩序を壊した。新代表は菅仮免のようなリーダーシップを欠き、統治能力を発揮し得ない人物であってはならない、菅仮免を反面教師とした逆の人物を選択しなければならないということで、「政党の求心力・自己規律回復」を実現できるリーダーシップ・統治能力を有した人物でなければならないと人物指定をした。

 提言は民主党批判の返す刀で「無責任な野党の拒否的政治姿勢」と題して大連立を持ち出した一方の野党を激しく批判している。

 〈自民党を初めとする野党もこの非常時にいつまで拒否的政治姿勢を続けるつもりなのか、その態度を厳しく問われるべきである。先の内閣不信任案にしても、国民の多くはそんなことをしている場合かとその姿勢に疑問を禁じ得ないでいる。大地震・大津波・原発事故という未曽有の事態が眼前に横たわっている中で、被災によって総選挙は事実上不可能な局面であるにもかかわらず、代わるべき首相候補も建設的な政権構想も国民に説明しないまま、ひたすら首相の退陣のみを要求する姿は国民の理解を到底得られるものではない。〉

 「代わるべき首相候補も建設的な政権構想も国民に説明しない」点は批判できるとしても、野党及び民主党内一部勢力の首相退陣の要求は提言の要求と重なる。寸秒たりとも菅仮免に政権を任せていたなら、政治が果たすべき物事が前に進まない。勢い「ひたすら首相の退陣のみを要求する姿」となったとしても止むを得ない面がある。

 日本の政治を救うどころか、日本の政治を壊しつつある菅仮免である。一刻も早い排除をと考えるのはある意味自然な姿であろう。

 また、「与野党合作による政党政治の自滅」と題した項目は傾聴に値するが、些か矛盾箇所がある。

 〈野党は日本国総理大臣の使い捨てに加担していると言われても仕方がない。いつまでも政権批判だけに軸足を置き続けることは、党内のガバナンス上は容易かもしれないが、それこそが「野党病」の危険な誘惑ではないかという危惧を覚える。結果として、この未曽有の事態にあって、被災地を含めすべての国民をおきざりにしたまま、与野党合作で、日本国総理大臣の地位をさらに失墜させ、日本の政党政治は自滅に歩みを進めているとしか思えない。〉

 すべての政党は他党と比較した自らの政策の優位性を掲げ、訴えて国民の支持を得るべく闘う。当然野党は国民に自党の政策の優位性を訴えた手前、与党の政策を批判する義務を負う。そこに政策に対する切磋琢磨の競争原理が働く。

 もし見るべき政策が見当たらないと言うなら、政策を創造する能力が与野党とも劣るからであろう。何をか言わんやである。

 繰返しになるが、菅仮免は昨年参院選前の消費税増税提言で、増税した場合の民主党の経済政策、財政再建政策、景気回復策、雇用政策等が野党のそれらの政策と比較してどのような優位性を持ち得るか、国民の利益となるかを懇切丁寧に国民に説明し、国民の納得を得る手続きを必要とした。

 そうするためには前以て内閣と民主党との間で議論に議論を重ねて練り上げていなければならながった。だが、手続きを経ないままにマニフェスト発表記者会見でいきなり持ち出した。

 すべてはこのときの愚かさが出発点となっている日本の政治の自滅的現状であり、“機能しない政治”、「動かない政治」を結果としたということであろう。

 勿論与野党共にそれぞれに責任はあるだろうが、何よりも菅仮免の主体性欠如、リーダーシップ欠如、統治能力欠如等々の無い無い尽くしがそもその原因であるはずである。

 「日本国総理大臣の地位」を重くするも軽くするも第一義的には総理大臣自身の資質・能力、さらに人間性、人格にかかっているということである。

 そして最後に「国民の自覚」を批判の俎上に乗せている。〈われわれ国民の側も、総理大臣の一挙手一投足をあげつらっては潰し続け、政権批判をしていれば物事が前進するかのような錯覚からそろそろ卒業すべきである。政党政治がこのような惨めな姿になった責任の一端は間違いなく国民にもある。この意味で、国民の視線もまた試されている。〉

 「政権批判をしていれば物事が前進するかのような錯覚からそろそろ卒業すべきである」と言っているが、先ずは総理大臣が国民の政権批判に耐え得る体力、政治力、指導力を持つことが先決であろう。政権批判をしたくなる政権であることが問題だからだ。

 所得非余裕層に何ら配慮もなく消費税増税を持ち出し、優位性ある政策として掲げたはずのマニフェストを変更し、発言をそのときどきで変えて責任回避する。それでも批判せずに黙っていろとでも言うのだろうか。批判しなかったなら、無能をのさばらせるだけとなる。日本の政治をダメにする一方となる。

 総理大臣は一旦その地位に就いたなら、その権限は強力なものがある。強力な権限を手に入れる。愚かなリーダーがその強力な権限をバックに間違った指示を出してこうしろと言った場合、なかなか指示に反する動きはしにくい。だが、指示通りに動いたなら、組織はその秩序を保つことができるが、物事は間違った方向に進む。

 指示通りに動かなかったとしても、内閣自体が秩序を失い、混乱することになるから、物事にしてもやはり前へ進まないことになる。

 偏にリーダーの資質・能力、人間性にかかっている。

 そのいずれも菅仮免は欠いている。

 「提言」は「首相の責任」として会期末までに退陣の時期を明らかにすること、代表選挙から与野党協議、首班指名に至る手順と時期を早急に決定し、国民に示すこと、政党間協議を行う場合は代表選を通じて先ず党内合意を取り付けて、新代表のもとで公党間の正式な手続きに則り行うことを提言している。

 要するに先ずは菅仮免の退陣時期の明確化、その退陣を前提とした菅仮免に変わる新代表選出、必要とするなら与野党協議と進むべきプロセスを提示している。

 そして「代表選挙のあり方」「政策協議と国会の仕組みづくり」、最後に「連立協議について」と至れり尽くせりのああすべきだ、こうすべきだと指摘している。

 逆説するなら、ああすべきだ、こうすべきだと民間から提言を受けなければならない程に日本の政治は質の低下を招いているということであろう。勿論、前政権の自民党にも責任はあるし、現在の野党にも責任はあるが、日本の政治の中心中の中心を成すべき菅仮免個人が中心に立つ者としてのしっかりとした自律性を確保していないことがイコール指導力欠如、統治能力欠如の資質となって現れることとなっていて、そのことがそもそもの始まりとなっている現在の日本の政治の質の低下と言えるはずである。

 いわばそもそもの罪は菅仮免にあると断言できる。 

 私自身は国民は飛んでもない政治家を民主党代表に選び、首相にしてしまったと固く信じている。


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日本も原発イエスかノーの国民投票を行い、今後の政府のエネルギー政策の参考にすべき

2011-06-16 10:29:47 | Weblog

 

 原発再開の是非を問うイタリアの国民投票の最終開票結果。《原発凍結賛成は94% イタリア国民投票、開票終わる》asahi.com/2011年6月15日7時0分)

 原発凍結賛成票94.05%、凍結反対票は5.95%の脱原発の意思表示。投票率は54.79%。

 ベルルスコーニ首相(13日夜)「政府と議会は結果を歓迎する義務がある。高い投票率は、自分たちの未来に関する決断に参加したいというイタリア国民の意思の表れで、無視できない。国民投票は複雑な問題を扱うには適さないと信じてはいるが、それでも国民の意思は明らかになった」

 記事はこの発言を、〈原発の新設や再稼働を当面断念する意向〉の表明だとしている。

 だが、原発を新設するにしても再稼動するにしても、再び国民投票を経なければならないはずだ。一度目は国民の決断意思に従い、二度目は従わないでは国家権力の恣意的発動となる。

 イタリアの結果に対して枝野詭弁家と石原自民幹事長がそれぞれコメントしている。

 《官房長官 コメントする立場にない》NHK NEWS WEB/2011年6月14日 11時56分)

 枝野詭弁家「主権国家において、その国の大きな政治方針を国民投票で決めるというプロセスの結果が出たもので、日本政府としてコメントする立場にない。原子力政策に限らず、さまざまな日本の国内政策に対し、諸外国の事情や動向は一定の影響を与える」

 イタリアの今回の国民投票の結果は日本の福島原発事故が影響した国民意思表明であろう。「日本政府としてコメントする立場にない」ということはあるまい。イタリア国民が福島原発事故で受けた衝撃の大きさに比例した投票結果でもあるはずである。

 ドイツやスイスにしても福島がなければ、脱原発へと舵切りをしなかったはずだ。

 いわば、「原子力政策に限らず、さまざまな日本の国内政策に対し、諸外国の事情や動向は一定の影響を与える」と一般論化する形式性で誤魔化す詭弁家ならではの言い回しを使っているが、実際は日本の「事情や動向」が発端となって外国の「国内政策に対し」て多大な「影響を与え」る逆の事態を生じせしめたのであり、そういった経緯が新たにつくり出すことになった外国の事情や動向が今度は福島の事故と併せて地震頻発国の原発といった問題を抱えている日本に何らかのプラスマイナスのブーメラン効果が波及しないはずはなく、官房長官であるなら、このことを予測した発言まで踏み込むことが国民に対する懇切丁寧な説明責任となるはずである。

 だが、一般論化の形式性で済ませて、何も影響がないかのように装っている。

 《自民・石原氏、反原発は「集団ヒステリー」》MSN産経/2011.6.15 07:57)

 6月14日の記者会見。

 石原幹事長「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる。反原発は簡単だ。脱原発というのも簡単だ。しかし生活を考えたときどういう選択肢があるのか示さなければいけない」

 冷静な理解能力に基づいた冷静な判断能力からの投票行動ではないと言っている。

 但し枝野詭弁家官房長官とは違って、福島原発事故が多大な影響を与えた結果だとする視点だけは持ち合わせている。

 一昨日6月14日夜7時からのNHKニュースでイタリアの国民投票を取上げていた。イタリアが原発に頼らない、天然ガスや石炭、石油、水力を発電エネルギーとした電力と原発大国フランスから10%輸入している電力の現在の電力料金はドル換算で1キロワット当り日本の1.3倍だそうだ。当然、原発推進派からは原発稼動によって料金が安くなるという宣伝を受けていたはずである。このことを最大のメリットとした原発の存在意義だからだ。

 だが、NHK派遣の記者の現地からの報告は、原発事故の被害の莫大さから比較して現在の電気料金は許容範囲だとする声が圧倒的だったと解説していた。高い電気料金を承知の上で脱原発を望み、敢えて原発を再開しなくても、これまでどおりやっていけるとする声が圧倒的だったと。

 いわば、他国と比較した電気料金の高さよりも原発が与えるいつ顕在化し、甚大な被害をもたらすかもしれない潜在的な危険よりも安心を選んだというところだろう。

 また番組は、ベルルスコーニ首相は温暖化対策の必要性から自然エネルギーを推進していく方針を採っていて、太陽光発電の導入を急ピッチで進めているという。さらに火山国であることを利用して(地震国でもあると言うことにもなるが)、地熱発電の設備容量は世界最大だそうで、この拡大も目指しているという。

 こういったイタリアに於ける原発に変わる電力の様々な選択肢の模索を見ると、石原自民党幹事長が言っている「反原発は簡単だ。脱原発というのも簡単だ。しかし生活を考えたときどういう選択肢があるのか示さなければいけない」は不要な心配ということになる。

 番組はスイスが2034年までに全原発停止を閣議決定したと伝えていたが、スイスにしても原発に変わる電力を模索し、スイス国民も協力するだろう。

 イタリアの場合は現在原発を稼動していないため脱原発であっても現状移行が認容される状況にあること、取り立てて電力不足が生じないイタリアの状況と日本で原発をすべて停止した場合の電力不足が生じる状況とは異なるが、原発の段階的停止とこのことに併行した自然エネルギーその他の電力の段階的導入によって最終的な脱原発は決して不可能ではないはずだ。

 もし日本が技術大国を誇るなら、なおさらに不可能としていいはずはない。

 6月10日から12日にかけて実施した、原発に関わる世論調査記事がある。《世論調査 “原発縮小”半数近くに》NHK NEWS WEB/2011年6月14日 6時19分)

 「電力全体の3割を供給してきた国内の原子力発電所について、今後どうすべきだと思うか」

▽「増やすべきだ」   ――1%
▽「現状を維持すべきだ」――27%
▽「減らすべきだ」   ――47%(先月比+4ポイント)
▽「すべて廃止すべきだ」――18%

 「減らすべきだ」+「すべて廃止すべきだ」=65%に上る。原発の段階的廃止と併行させた他のエネルギーへの転換によって原発に否定的な両者を満足させ得る。

 記事は政府の震災対応・原発事故対応も調査している。

 「政府の震災対応を全体として評価するか」

▽「ある程度評価する」 ――32%
▽「あまり評価しない」 ――41%
▽「まったく評価しない」――20%

 「あまり評価しない」+「まったく評価しない」は先月比+13ポイント。

 「東京電力福島第一原子力発電所の事故を巡る政府の一連の対応を評価するか」

▽「大いに評価する」  ――2%
▽「ある程度評価する」 ――17%
▽「あまり評価しない」 ――44%
▽「まったく評価しない」――31%

 「あまり評価しない」+「まったく評価しない」=先月比+10ポイント。

 菅内閣の対応を評価しないが大勢を占めていながら、菅首相は瓦礫処理だ、仮設住宅入居だ、二次補正だと意欲を燃やしている。評価も期待もされていない首相が先頭に立ち続けること程迷惑ということを超えて、国益のムダはあるまい。

 調査を受けた65%もの国民が「減らすべきだ」と「すべて廃止すべきだ」を選択している。福島の事故が国内外の原発の是非に与えた影響は決して形式的な評価ではなく、実質的な意志と見るべきであろう。

 《菅原文太、政府に注文「原発国民投票を」》MSN産経/2011.6.15 11:33)

 東日本大震災被災者の移住や避難、疎開などの受け入れを表明している全国の自治体と被災者自身を、インターネットでマッチングさせるべく6月14日開設の「ふるさとから、ふるさとへ」情報センターの運営母体であるNPO法人「ふるさと回帰支援センター」(見城美枝子理事長)の記者会見。

 菅原文太同センター顧問「イタリアのように、原発の是非を国民投票したらいい。解散総選挙よりよほど重要」

 西田敏行(福島県郡山市出身)「原発事故で放射性物質は飛び散り状態で、被災者も何を頼りにしていいか分からないような状態が続いているが、こういった申し出(被災者と自治体のマッチングの申し出)は本当にありがたい」

 もし政府が再生可能エネルギーの導入を加速させるというなら、原発の是非を問う国民投票は必要となるはずである。国民の意思の所在を知ることになり、政府のエネルギー政策の強力な参考、もしくは後ろ盾となるはずだ。

 原発イエスなら、上記のNHKの世論調査からしてその可能性は低いが、そのリスクを覚悟した選択となるとしても、時代の趨勢として国は可能な限り再生エネルギーへの転換を図り、原発依存度を下げる義務を負はずだ。

 また“東海地震想定マグニチュード8クラス発生30年以内87%確率”を根拠に浜岡原発を停止させたが、予想される東海地震の規模を考えた場合、津波対策のみを以ってして放射能漏洩被害を防御できる絶対的保証はないはずだから、少なくとも浜岡原発は廃止すべきだろう。

 国民投票によって原発ノーが決断意思表示されたなら、5年とか10年年とか期限を区切って、全面的脱原発、地球温暖化防止のために火力依存も下げて、水力や風力、太陽光等の自然エネルギーへのソフトランディングを図るべきではないだろうか。


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菅仮免がどう居座ろうとも、最新の世論調査内閣不支持理由は一国のリーダーに対する致命的な存在否定宣言

2011-06-15 09:47:35 | Weblog


 
 6月14日の参院東日本大震災復興特別委員会でも菅仮免は衆院で菅内閣不信任決議案が大差で否決された事実に政権担当の正当性の根拠を置いていた。まるで口論を仕掛けんばかりの強い語調でまくし立てていたが、菅仮免にとってはその事実が既に唯一絶対の錦の御旗と化している節がある。

 だが、その大差の否決は鳩山前との確認書で退陣と交換条件に取引して得た民主党内不信任案賛成同調勢力の翻意がもたらした否決であって、無条件で獲得した大差ではなかった。

 当然、退陣を実行することによって初めてその大差の否決は正当性を得る。

 だが、菅仮免は取引を反故にした。最初からそのつもりで確認書への署名を断り、2日正午からの民主党代議士会で鳩山前から退陣表明をするようにと言われたから、「震災への取り組みに一定のメドがついた段階で、私がやるべき一定の役割が果たせた段階で、若い世代に責任を引き継いでもらいたい」とさも退陣するかのように発言したものの、時期を決して明言することはしなかったのだろう。

 翌6月3日の参議院予算委員会で間接的にだが、確認書が退陣を約束した内容でもなく、不信任案大差の否決を取引した内容でもないと答弁している。《菅首相 鳩山氏の見解を否定》NHK/2011年6月3日 19時21分)

 菅仮免「私の不十分さもあって不信任決議案が出されたが、結果としては、大差で否決していただいた。東日本大震災の復旧・復興や、東京電力福島第一原子力発電所の事故の収束こそが最優先であり、これからもこれまで以上に全力を挙げて取り組んでいきたい」
 
 代議士会で「一定のメドがついたら若い世代に引き継ぎたい」と発言したことが菅仮免のするつもりもなかった退陣表明と受け止められて一人歩きしているにも関わらず、不信任案否決によって政権担当(=続投)に正当性を得たと退陣を否定している。 

 確認書の内容について。

 菅仮免「何かの条件の下で約束したかと言えば、そういう約束にはまったくなっていない」

 退陣と不信任案可決回避を交換条件に取引などしていませんとしている。

 菅仮免「私の認識は岡田幹事長の認識と一緒だ」

 岡田幹事長は「復興基本法案の成立と2次補正の編成は退陣の条件ではない」と確認書が退陣を取引条件としたものではないと菅仮免を援護射撃していた。

 だが、不信任案大差の否決を錦の御旗に6月3日の参議院予算委員会で続投に向けて強気の発言をしたものの、鳩山前が「きちっと約束したことは守るのはあたり前だ。それができなかったらペテン師だ」(MSN産経)とペテン師呼ばわりをし、退陣が国内ばかりか世界中で一人歩きすることになったからだろう、退陣の事実自体は受入れざるを得なくなったと観念したに違いない。

 《“そう遠くない時期に退陣”の意向》NHK/2011年6月4日 19時36分)が翌6月4日、自らに近い閣僚に電話して、次のように発言した書いている。

 菅仮免「文書に書いてある思いは分かっている」

 その「分かっている」の理解は退陣と不信任案可決回避を交換条件に取引した内容となっているということを認める確認書への「思い」でなければならない。

 民主党内不信任案賛成同調勢力によって可決の状況が持ち上がっていなかったなら、菅仮免は何も鳩山前と確認書で退陣を交換条件に可決回避を取引する必要は生じなかった。

 可決の状況が出てきたから、退陣を差し出して、可決回避に漕ぎつけることができた。退陣を差し出したのは守るつもりもなかったからだろう。そのことはその後の退陣時期に関わるくるくると変わる発言が証明している。

 だが、代議士会での「一定のメドがついたら若い世代に引き継ぎたい」とその場誤魔化しで発言したつもりが退陣表明になることまで気づかなかった。

 かくして菅仮免の意思に反して退陣が一人歩きすることになった。誤魔化したつもりが自身の発言で墓穴を掘ったのである。

 墓穴を掘りながらも、尚しぶとく大差の否決を正当性の根拠に政権担当に意欲を燃やす強気の国会答弁はやめることなく続いている。

 なぜなのだろうかと考えると、辞任を求める世論が一方でありながら、野党の今回の不信任案提出対応を理解できない、評価できないとする国民の声が6、70%も占めていたことと、6月初旬の数ポイントではあるが、殆んど軒並み上昇していた内閣支持率が菅仮免を強気にした原因ではないだろうか。

 この上昇は5月の世論調査にも現れていたから、2ヶ月程続いていたことになる。

 上昇しても政権維持の危険水域とされる30%前後でしかなかったが、一旦上昇傾向を辿れば、後は辛抱して政権にしがみついていたなら、尚上昇する可能性は否定し難く、その上昇世論を味方につけることもができ、政権担当の強力な正当性となり得る。

 最も支持率を上げた6月2、3日実施の共同通信社の世論調査を見てみる。《世論は菅首相支持?内閣支持率が急上昇》スポニチ/2011年6月4日 06:00)

 菅内閣支持率――33・4%(前回5月中旬調査28・1%)

 記事は、〈驚きの結果となった。〉と書いている。

 民主党執行部と対立してきた小沢元代表支持派議員の行動
 「評価しない」――89・4%

 退陣に関して――
 「辞めるのは当然」 ――48・1%
 「辞める必要はない」――45・1%

 このような世論状況は十分に政権居座りへの強力な根拠となり得る。都合のいいところだけを根拠とし、都合の悪い世論は排除する情報操作を行うことによっても可能となる。

 野党は菅仮免が「不信任案大差の否決」を根拠に政権担当に強気の意欲を見せたなら、「大差の否決」は確認書で退陣と引き換えに取引きしたことによって得たものであって、自身の指導力や政権担当能力、あるいは党運営能力が正当に評価されたことによって得た否決ではないとなぜ一言言い返してやらないのだろうか。

 確実に菅仮免を勇気づけ、自らの味方とし、政権担当正当性の根拠としていたに違いない、ここのところの内閣支持率の僅かながらの上昇がここにきて反転を見せることになった。

 先ずは 2011年6月10日 ~6月12日実施の「日本テレビ」の世論調査。

 「菅内閣を指示する」 ――24.1%
 「菅内閣を指示しない」――60.8%

 「支持する理由」

菅総理の人柄が信頼できるから 12.9%
閣僚の顔ぶれに期待がもてるから 2.4%
支持する政党の内閣だから 13.3%
政策に期待がもてるから 1.6%
他に代わる人がいないから 50.8%
特に理由はない 7.7%
その他 9.3%
わからない、答えない 2.0%

「支持しない理由」

菅総理の人柄が信頼できないから 11.3%
閣僚の顔ぶれに期待がもてないから 4.2%
支持する政党の内閣でないから 10.7%
政策に期待がもてないから 27.6%
リーダーシップがないから 36.8%
特に理由はない 5.4%
その他 2.9%
わからない、答えない 1.1%

「菅総理は、東日本大震災の対応で一定のめどがついた段階で、総理大臣を辞めることを明らかにしました。あなたは、菅総理の決断について、辞任は適切だと思いますか、それとも辞任の必要はないと思いますか?」

辞任は適切だ 62.6%
辞任の必要はない 25.9%
わからない、答えない 11.5%

[辞任は適切だ」と答えた方へ]「辞任は適切だと思う主な理由は何ですか?」

このまま続けても政策を実行できる見通しがないから 34.3%
震災や原発事故の対応がうまくいっていないから 32.6%
野党のほか民主党内での信任も失っているから 26.1%
その他 3.9%
わからない、答えない 3.3%

[「辞任する必要はない」と答えた方へ]「辞任する必要はない思う主な理由は何ですか?」

国会で権力闘争をやっている時ではないから 74.2%
政策を実行して成果を上げているから 3.8%
他に代わるべき人が見当たらないから 16.1%
その他 4.5%
わからない、答えない 1.5%

「菅総理の辞任表明と民主党の混乱は、6月1日に自民党、公明党、たちあがれ日本が、菅内閣の不信任決議案を国会に提出したことをきっかけにしたものでした。あなたは、自民党などが不信任案を提出したことを評価しますか、評価しませんか?」

評価する 32.4 %
評価しない 56.2%
わからない、答えない 11.5%

 次に6月13日から6月15日にかけて実施した「NHK」の世論調査――

「菅内閣を支持する」 ――25%(先月調査-3ポイント)
「菅内閣を支持しない」――57%(先月調査+2ポイント)

「支持する理由」

▽「他の内閣より良さそうだから」――47%

 「支持しない理由」

▽「実行力がないから」    ――45%
▽「政策に期待が持てないから」――28%%

 「菅総理大臣が、大震災からの復興や原発の事故の収束に一定のめどが立った段階で退陣する意向を表明したことをどう思うか」

▽「退陣は当然だ」   ――26%
▽「退陣はやむを得ない」――46%
▽「退陣する必要はない」――22%

 「総理大臣の退陣の時期はいつごろが望ましいと思うか」

▽「今月中」      ――31%
▽「8月ごろまで」   ――25%
▽「秋から年末ごろまで」――15%
▽「来年以降」     ――19%

 「菅内閣に対する内閣不信任決議案が、菅総理大臣の退陣表明を受けて反対多数で否決されるに至った、今回の与野党の一連の動きを、どう受け止めるか」

▽「満足している」        ――7%
▽「どちらかといえば満足している」――14%
▽「どちらかといえば不満だ」   ――24%
▽「不満だ」           ――45%

 「衆議院の解散・総選挙の時期について」

▽「できるだけ早く行うべきだ」     ――15%
▽「今年の年末までには行うべきだ」   ――24%
▽「来年中には行うべきだ」       ――20%
▽「再来年の任期満了まで行う必要はない」――28%

 「各党の支持率」

▽民主党  ――20.4%
▽自民党  ――21.1%
▽公明党  ――4.5%
▽みんなの党――2.3%
▽共産党  ――1.4%
▽社民党  ――0.8%
▽国民新党 ――0.1%
▽「特に支持している政党はない」――43.1%

 解散・総選挙を早い時期に置いている世論は政権交代を望む声で、遅い時期に置いている世論は民主党政権の持続を望んでいると見ることができる。

 だが、世論自体が既に菅仮免の退陣を予定表に入れている。

 例え野党の不信任決議案提出が世論の賛同を得ていないとしても、この不信任案の大差の否決が退陣を交換条件として得た動機不純な否決であることと、一旦チョッピリと上昇傾向を示した内閣支持率が内閣不信任案提出以後、世論は野党の提出に否定的でありながら、下がっていること、さらに不支持理由が「実行力がない」ことと「政策に期待が持てない」ことは前々からの傾向で大部分を占めている以上、一国のリーダーに対して致命的な存在否定を宣告する国民の声であって、もはやどのような根拠を用いようとも、続投理由は通用しなくなっていると言える。

 言い訳や責任逃れ、責任転嫁で自己保身を謀ってきた姿勢からすると、元々潔い態度は期待できないが、最後の一度ぐらいは潔い態度できっぱりと国民の存在否定宣言を真正面から受け止めるべきだろう。


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菅仮免の似た者夫婦が紡ぎ出した「決然と生きる 菅直人」座右の銘

2011-06-14 07:16:02 | Weblog



 菅仮免首相の賢夫人(けんぷじん――賢くてしっかりとした夫人)菅伸子女史がインタビューに応じた記事がある。《ザ・特集:「家庭内野党」伸子夫人に聞く 菅さんが総理になって--》毎日jp/2011年6月9日)

 「家庭内野党」を自任し、居宅としている首相公邸を「首相の社宅」と呼び習わしているという。要するにファーストレディではない、普通の人に見せようとしているということなのだろう。

 だが、鳩山前が入居の際の改修に公表で413万円もかけた「社宅」である。その前の麻生太郎が382万円、その前の福田康夫が282万円、さらにその前の安倍晋三が222万円とそれぞれカネをかけている。改築ではない。改修である。部屋の造りに合わせると改修のみでそれ相応のカネがかかるということであって、住人がどれ程普通人を演じようと、決して一般の社宅とは言えない豪華版の住いとなっているはずだ。

 要するに気の利いた呼称だと自己満足程度にとどまっている「首相の社宅」といったところではないのか。 
 
 伸子賢夫人の発言だけを記事から取り出してみる。質問は賢夫人の発言から想像してもらいたい。

 伸子賢夫人「引っ越し? ええ、決まれば、いつでも。だって、この社宅、家具はすべてちゃんとそろってたし、洋服と調味料、広辞苑くらいしか持ってこなかったもの。すぐ(東京都内の)吉祥寺の自宅に帰れますよ」

 荷物が少ないから引越しが簡単でいつでも引き払うことができるという問題ではないはずだ。本人の意志によるものではない、周囲からの強制による、いわば無理やり降ろされる任期半ばでの不本意な退陣(不本意であることは居座りにあれこれ言葉を費やしていることが証明していることだが)に対する気持を引越しの簡単さに代えてたいしたことではないと思わせようとしているところに逆に心中穏やからざる悔しさを窺うことができる。

 賢夫人は一見ざっくばらん あるいはあっけからんと振舞っているようだが、菅仮免自身のしぶとい居座りへの執念がそもそもからしていつでも引越しできるという状況に反している。

 人間には常にプライドがついてまわる。例えそれが根拠のないプライドであっても、それを失ったなら、卑屈一辺倒の人間か無気力一辺倒の人間と化してしまう。今回の強制退陣劇は相当菅仮免のプライドを傷つけているはずで、生半可ではあるはずはないその傷の痛みは賢夫人にも伝わっていないわけではあるまい。

 当然夫婦共々引越しは1カ月でも2カ月でも先延ばししたいはずだ。

 それを隠した賢夫人の引越しの簡単さに代えた退陣の気持にはどうということはないと見せかけたのと等量、あるいはそれ以上の人間に付き物の彼女自身のプライドをそこに抑え込んでいるはずで、負け惜しみが言わせた引越し云々であるはずである。

 そもそもからして菅仮免は最低衆院の任期を「一つのメド」とし、このことを自らの持論として機会あるごとに発言してきた。

 菅首相「政権を担当したら4年間の衆院の任期を一つのメドとして一方の政党が頑張ってみる。4年後に(衆院)解散・総選挙で継続するかしないか国民の信を問うという考え方がこれから政治的な慣例になっていくことが望ましいと思います」 

 それが衆院の任期が来る前に本人が望まないにも関わらず、引き摺り下ろされる。夫婦共々悔しくないはずはない。
 
 ビールを飲みだし、ワインに移ったという。

 伸子賢夫人 「アハハ、そうね。菅さんの原点はゲリラ、市民ゲリラだってこと、もっと思い出してもらわなくちゃ。昔の菅さんを知る支持者のみんなからさんざん言われるの。あと少ししかないなら、何かやってくれなきゃ。面白くないよって。私もそう思う」

 「あと少ししかないなら、何かやってくれなきゃ」と「昔の菅さんを知る支持者」から言われているということは何もやっていないから、彼らを満足させていないということであろう。

 ゲリラとは少人数の勢力で大勢力の権力の悪に権力が思いもよらない奇襲作戦で立ち向かい、その権力悪に打撃を与える、あるいは倒すことを目的とした行動を言うはずである。

 また自らが絶対と信じた正義が市民・国民から一般的に認知されて正当性を獲ち得ていることを前提としていなければ、そのゲリラはテロと化す。

 ここから汲み取ることのできるゲリラの精神とは改めて断るまでもなく権力に対する反骨精神であり、それが彼ら一人ひとりの人間性に太く逞しく貫いているというこであろう。

 【反骨】「不当な権力や世俗的風習に反抗する気概」(『大辞林』三省堂)

 菅仮免の「原点はゲリラ」と言うからには例え権力の側に身を置いても、その反骨精神は失ってはならないはずであるし、自らが信じる正義を徒手空拳で闘い取る気骨を維持した姿勢を保持していなければならない。

 だが、現在の菅仮免の政治家像から反骨精神だ、徒手空拳の気骨だといった強い意志を感じ取ることできる国民はどれくらいいるのだろうか。

 ゲリラ精神を維持していたなら、内閣不信任決議案が可決される状況になったとしても、鳩山前と確認書を取り交わし、守るつもりもなく退陣を条件に不信任案可決を回避する狡猾な策を弄することはなかったろう。

 また、ゲリラである以上、自身の能力発揮の機会を「4年間の衆院の任期」に置くのではなく、その場その場勝負に置き、その積み重ねに価値を見い出そうとしたはずだ。

 その積み重ねが国民に受入れられた場合、「4年間の衆院の任期」を自ずと獲ち取ることができる。

 だが、菅仮免は何を為すかに重きを置くのではなく、「4年間の衆院の任期」に拘った。これを以てゲリラの精神とはとても言えない。賢夫人の「菅さんの原点はゲリラ、市民ゲリラだ」は買いかぶりに等しい虚像に過ぎない。

 菅仮免が注目すべき成果を上げていないこと、何もやっていないは次の発言が証言している。

 菅仮免就任後まもなくに出版した賢夫人著作物のタイトル「あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの」

 どのような目的で出版したのか、尻を叩く意味があったのか。女房に尻を叩かれて発奮する一国のリーダーは自発性に欠け、そのことだけでリーダーとしての資格を失う。

 伸子賢夫人「大して何も変わっちゃおらんわ! ただ東日本大震災があって、浜岡原発を止めたのは大きいんじゃないかなあ。突発の思いつきなんかじゃない。菅さん、国会議員に初当選した1980年にアメリカに出かけ、風力発電を視察しているんです。風力や太陽光エネルギーこそ、次の時代の基幹エネルギーになると信じてきた。それに究極は植物によるバイオマスエネルギーも夢見ている。いろんな政党を経験してきたけど、僕の最後は植物党をつくることだって、今も真顔で言ってますから」

 浜岡原発停止のみを成果だとし、他は国を変えたり社会を変えたりする成果は何もない。このことを以って首相としての使命・責任を果たしたとされたのでは適わない。

 総体性に価値を置くのではなく、たった一つの個別性に価値を置く。その価値が国を変え社会を変える大いなる力を持つなら個別性が総体性を超えることもあり得るが、津波対策さえ済めば再稼動を認める浜岡原発停止であって、原発政策を根本から変えて、それが国の変化、社会の変化へとつながっていく停止ではないのだから、賢夫人が誇る程のことではない。

 実際にも政府の国家戦略室は原発推進の姿勢を堅持する「革新的エネルギー・環境戦略」の素案を纏めている。

 また「僕の最後は植物党をつくること」が願望だとしても、党として実際に行ってきたことは2020年までに9基、2030年までに14基以上の原発を新増設するエネルギー政策を掲げてきた。今回の原発事故でその数が減ることはあっても原発推進の姿勢が変わらない以上、「植物党をつくること」云々は単なる奇麗事の域を脱しない。

 要するに菅仮免にしても賢夫人にしても自身が口にする言葉と実態はかけ離れていて、かけ離れていること自体にも気づいていないことを示している。

 この点に於いて似た者夫婦と言える。但し夫婦共々合理的な判断能力を欠いているということの証明にしかならない。

 菅仮免が何もたいしてできなかった理由を次のように解説している。

 伸子賢夫人「うーん、やっぱり、おカネの力でものごとを動かそうとする人が強いのよねえ。あのDNAをわが民主党に残されちゃかなわん。菅さんは違う。震災の復旧・復興はほかの人でもできるけど、“政治とカネ”の封じ込めだけは菅さんじゃなきゃできないって、誰かが言ってた。それにしても、永田町の男って政局で元気になるのね。ねたみと、そねみが渦巻いて」
 
 基本的には国を動かし、社会を動かす権力は一国の総理大臣が握っている。「おカネの力でものごとを動かそうとする人が強いのよねえ」と言っているようでは、自らの握っている権力が「おカネの力でものごとを動かそうとする人」に負けていることになる。そのくせ、「“政治とカネ”の封じ込めだけは菅さんじゃなきゃできないって、誰かが言ってた」と矛盾したことを矛盾していることだと気づかずに言っている。

 小沢氏を「封じ込め」るべくして動いて何が残ったというのだろう。党内対立・党内混乱。自身の指導力欠如と相まって支持率を下げることになり、結果として自分で自分の首を絞める自縄自縛を成果としたに過ぎない。

 永田町の「ねたみ」が菅退陣策動の原動力だとしよう。だが、2010年参院選敗北も今年4月の統一選敗北も永田町の「ねたみ」が原因ではあるまい。国民が選択した審判なのだから。菅本人の指導力欠如や政権運営能力欠如から目を逸らして、永田町の「ねたみ」だとすることによって気持の納得を得ることができたとしても、逆に目を曇らせた愚かしさを演じていることになる。

 伸子賢夫人「ええ、ええ、うちの菅直人に徳なんてございません。今の政治家はみんな小粒でしょ。ペテン師? 古いわねえ。昭和の言葉でしょ。まあ、ハラが立つより、くすっと笑っちゃう。鳩山さん、憎めないのよ」

 たいしたことではないと取り合わない姿勢である。だが、内閣不信任決議案が可決される状況にあったからこそ、それを回避するために自らの退陣を交換条件に鳩山前と確認書を取り交わしたはずである。

 そして代議士会で、「一定のメドがついた段階で、私がやるべき一定の役割が果たせた段階で、若い世代に責任を引き継いでもらいたい」と発言することで確認書で交わした退陣の約束を確認書に書いてあるとおりにさも果たすかのように見せかけて不信任案を可決される状況から大差の否決へと逆転に持ち込むことに成功した。

 だが、「第2次補正予算の早期編成のめどをつけること」までとした約束した退陣時期を、代議士会とそれ以後の発言でも退陣とか辞任とかいう言葉は一切使わずに「一定のメド」に取り替えて先延ばしにし、居座る意志を見せているのである。ペテンでなくて何だというのだろうか。

 最初から守るつもりもなく、反故にするつもりで不信任案可決回避と退陣を交換条件に確認書を取り交わしたのである。「おカネの力でものごとを動かそうとする」こと以上に姑息な上、卑劣である。

 だが、夫が夫なら、妻も妻で、ペテン師と言われたことを痛くも痒くもないことだとしている。

 伸子賢夫人「そうかなあ。これまで首相がいともあっさり、簡単に辞めちゃった方が不思議ですよ。日本は、男の引き際だとか、男の美学だとかってすごく好きでしょ。江戸時代の切腹がそう。よくない」

 いつでも引越しできるという状況に反する菅仮免の退陣の先延ばしを正当化している。

 殆んどの首相がしがみつこうとしながら、追いつめられて辞任している。追いつめられなければ、誰が辞任などするだろうか。身内庇いが目を曇らせているのか、元々判断能力を欠いているからか、意味もない精神性を持ち出している。

 引き際が大切ということはこれまで十二分に発揮してきた能力が衰えていながら、そのことに気づかずに衰えた能力を惨めに曝してまで現役にしがみつき、折角築き上げた評価を台無しにしてしまうことへの警告、もしくは自戒を言うのであって、何ら能力を発揮しない場合について言うことではない。

 いわば引き際に関する「男の美学」とは能力が衰える前に前以て衰えが訪れることを察知して能力ある状態で潔く身を引き、後輩に道を譲ることを言うはずである。最近の例で言うなら、成果に毀誉褒貶はあるものの、小泉純一郎を強いて挙げることはできるかもしれないが、菅仮免の少しでも退陣を先延ばしにしようとする出処進退の遣り方を肯定するために「男の美学」を否定的例として持ち出しすこと自体がそもそもからして正当性を持ち得ないはずで、トンチンカンな判断能力を示しているに過ぎない。

 伸子賢夫人「読んでみて。菅さんも読んだ」

 塩野七生著「日本人へ リーダー篇」(文春新書)の一節を示す。タイトル「拝啓 小泉純一郎様」

 〈私があなたに求めることはただ一つ、刀折れ矢尽き、満身創痍(そうい)になるまで責務を果たしつづけ、その後で初めて、今はまだ若造でしかない次の次の世代にバトンタッチして、政治家としての命を終えてくださることなのです〉――

 賢夫人は菅仮免に対してこういう退き際を望み、菅仮免も願望としては目指しているということであろう。

 だが、このことは単に形式をなぞらえようとしているに過ぎない。なぜなら、「刀折れ矢尽き、満身創痍(そうい)になるまで責務を果たしつづけ」るには果たし続けるだけの優れた能力と責任意志、さらに意欲を有していることを条件としていなければならないからであって、この三つを備えていたなら、願望としようとしなかろうと、後からついてくる自らの実質的な生き様とすることができるからである。

 「刀折れ矢尽き、満身創痍」を目指しているということで2010年参院選に惨敗を喫しようと今年4月の統一選に敗北しようと何ら責任を取らずに首相職にとどまっているということかもしれないが、実際は責任を取って辞任し、それでも尚且つ闘い続ける姿勢を「刀折れ矢尽き、満身創痍」と言うはずである。

 だが、自己保身に走り後者の姿を取らなかった。

 自己保身は無傷であろうとすることであって、「刀折れ矢尽き、満身創痍」の状況とは無縁である。

 2010年の北海道5区補選では菅内閣発足後初の国政選挙でありながら、自党候補劣勢のため一度も選挙区入りせず、党首としての責任を果たさなかった。劣勢を挽回できなかった党首との批判を回避する自己保身優先の責任放棄だった。

 このような自己保身姿勢に「刀折れ矢尽き、満身創痍」の生き様を見て取ることができるだろうか。

 能力、責任意志、意欲、共に欠いていながら、「刀折れ矢尽き、満身創痍」の生き様を願望とする。勝手にないものねだりをしているとしか見えない。

 伸子賢夫人「もうひとり、ハマッてる作家がいる。福島のお寺の住職でもある玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さん。たまたまテレビを見ていたら、出ておられて、おっしゃった。『なりゆきを決然と生きる』。これよ、これ! この言葉だなあって。私が生まれたのもなりゆき、菅さんと一緒になったのもなりゆき、首相夫人になったのもなりゆきですから。どこへ行くかわからない。それでも決然と進んでいく。菅さんも、いいねって。ただいま現在、菅家の座右の銘でございます」

 「なりゆき」には自身が周囲の状況の変化に積極的に関わるのではなく、周囲の状況の変化に自身を任せる意味を含んでいる。だから、「どこへ行くかわからない」という言葉が出てくる。自分からどこへ行くと目指す生き方ではない。

 ここで既に闘う姿勢を必要とする「刀折れ矢尽き、満身創痍」の生き様を願望としていたことと矛盾を来たしていることになる。「刀折れ矢尽き、満身創痍」の生き様はあくまでも周囲の状況を自ら変えることを言うはずである。

 但し「なりゆきを決然と生きる」ことは可能であろう。周囲の状況の変化に従いつつ、強い意志を持ってかどうか知らないが、とにかく自身を維持して生きてゆく。

 だが、こういった自身を維持していくだけの「なりゆき」の生き方は政治家の夫人には許されても、あるいは頭数にしかならない国会議員には許されても、一国の首相には許されない「なりゆき」の生き方であるはずである。

 国や社会や国民の生活は「なりゆき」に任せるのではなく、一国のリーダーとして自らがあるべきこととしている理想の姿に決然とした意志で以て変えていくことを使命・役目としているからである。

 国や社会や国民の生活はかくあるべしと自ら思い定めて、その実現を結果として出し、それを一個の政治家としての成果とすることを使命としているはずである。

 にも関わらず、「菅さんも、いいねって」言い、菅家の「座右の銘」とし、6月11日に訪問した被災地釜石市のボランティアセンターの壁の寄せ書きに「決然と生きる 菅直人」と書き記したということだから、共鳴した生き様になっていて、そうあるべきだとしていることになる。

 選挙の敗北に責任を取らない姿勢や北海道5区補選で自党候補の応援に選挙区入りしなかった姿勢を「刀折れ矢尽き、満身創痍」の願望としている生き様に反すると書いたが、「決然と生きる」を掲げることも、「決然と生き」て来た履歴を必要とするはずだから、「決然と生きる」ことができなかった人間が掲げてもいい座右の銘ではないことになる。

 各選挙の敗北に党首としての責任から逃れたことは勿論、首相就任半年間を「これまでは仮免だった」とその政権運営の不手際・不慣れの言い訳として責任逃れをしたことも「決然と生きる」とは無縁の生き様でしかない。

 また震災対応・原発事故対応では初動から不手際を演じ、今以て満足に対応し切れず、復興の遅れを招き、内閣トップとしての責任を果たし得ていないことも「刀折れ矢尽き、満身創痍」以前の生き様であり、「決然と生きる」にも反した生き方と言わざるを得ない。

 かくかように過去に一度も「決然と生きる」ことをしてこなかったと言えるのだから、書く資格がないままにいくら「決然と生きる」と書いたとしても期待しようがないにも関わらず、「決然と生きる」と寄せ書きをし、座右の銘とする。そのようには生きてこなかった実態を言葉で装い、そうと見せかける、まさしくペテンなのは明らかである。

 記者持参の桑田佳祐のCD「いいひと」を夫人にかけてもらう。鳩山政権時代に書いた詞らしいということだから、鳩山前のことを歌った曲なのだろう。

 歌詞「お辞任(やめ)になる前に総理(ボス)よ そっとツブやいておくれ Baby!! Tweet!! Baby!! “現代(いま)”が何処(どこ)に向かって何を唱(うた)うべきかを……」

 鳩山前は在職中は盛んにTwitterで呟いていたが、最近は呟いているのかどうか。

 伸子賢夫人「へえーこんな歌、あるんだ。よく見てるわねえ」

 菅仮免帰宅。

 伸子賢夫人「桑田さんの歌、いいわよー。あなた、つぶやかなきゃ、もっと、もっと」

 桑田佳祐が歌っていることは国や社会や国民がどこに向かっているのか、それぞれの姿はどうあるべきかを辞任前に示すべきだということであろう。

 勿論、示すことができる能力を持っているかどうかが先ず最初の問題となる。次の問題として、単に呟くだけで終わらせてはいけない、実現可能能力が控えている。政策は提示した、それを国や社会に利益をもたらす形で具体化できなかったでは呟いた意味、政策を提示した意味を失う。

 だが、賢夫人は菅仮免が問題とされていることはその実現可能能力――実行力でありながら、呟くことだけを考えて勧めている。

 記事は菅仮免がどう答えたかは何も書かずに記事を終えている。

 自身では相当頭のいい女と思っているかもしれないが、理解能力も判断能力も中途半端に出来上がっているようだ。だからこそ、合理的な判断能力を欠いた菅仮免と似た者同士として夫婦していくことができるのだろう。

 最後にもう一度言う。責任から逃れ、責任を放棄してまで自己保身に執着して「決然と生きる」ことをしてこなかった人間が一国のリーダーとして「決然と生きる」ことなどできようはずはない。


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震災からの復興の先に世界を領土とする知能立国への舵切り

2011-06-12 07:30:40 | Weblog



 以下の記事は朝日新聞社が「ニッポン前へ委員会」を設立し、2011年5月10日締め切りで募集した《あすの日本を構想する提言論文》に応募した記事です。採用されなかったのだから、たいした内容ではないのだが、記録しておくためにブログ記事にすることにした。参考になるかどうかは無保証です。あしからず。

 テーマは(1)東日本復興計画私案(2)これからのエネルギー政策のいずれか、または双方を論じてください、となっていたが、「あすの日本を構想する提言」と書いてあるから、2つのテーマと併せて、“あすの日本をどうするか”まで広げて書いてみた。



 様々に復興計画が提言されている。政府の復興構想会議の被災自治体復興事業に強い権限を与える「災害復興特区制度」。民主党復興ビジョン検討チームの法人税非課税特区や農地の大規模化、基礎自治体の合併、広域連合の拡充等の提起等々。

 宮城県村井知事が提唱した「東日本復興特区」は小規模漁港の集約・再編、水産業再生必要経費の国の直接助成、水産加工場・市場・漁船等の関連施設共有化、予算・税制面の優遇措置等を掲げている。

 そして復興財源として復興税の創設、消費税増税、国債発行、特別会計からの埋蔵金活用等々。

 但しどのように復興策を講じようとも、被災地対その他地方との関係の中で把えるべきだとは誰もが承知していることと思う。確かに被災地はマイナスからの出発となるが、地盤沈下が甚だしいその他の地方も存在する。被災地の復興に合わせて、その他の地方の地盤沈下が現状維持されるならまだしも、被災地復興に日本全体のエネルギーが奪われてその他の地方の地盤沈下を一層招いたとしたら、画龍点睛を欠くことになる。

 例えば法人税非課税特区とした場合、その他の地方での事業を畳んで被災地特区に転地したなら、日本の企業が海外移転を図ることによって国内産業の空洞化を招くように地方の空洞化を加速することになる。

 法人税非課税化とするなら、震災前に立地していた企業にのみの適用とすべきである。

 と同時に被害を受けた地元企業の復興は震災前の従業員数も含めた経営規模再生を可能とする資金の無利子融資を原則とし、10年~20年の返済猶予期間を設けて、返済可能企業から順次返済していく復興策を採るべきではないだろうか。

 このことは漁業・農業も準ずることにする。従業員数を震災前の状態に回復させることによって雇用の確保となる。

 勿論、無利子で資金を得た、その資金を利子をつけて他に貸し付け、会社は計画倒産に持っていくといった不正行為に利用されるケースも考え得るゆえ、厳重な監視は必要となる。

 地方の経済的空洞化を招かない被災地の復興という構造を目指すとするなら、被災地復興補助として提案の東北自動車道や常磐自動車道の無料化は観光客の東北一極集中となった場合、経済的地盤沈下の大きな地方が打撃を受けることになる。

 震災以降発生した個人的な消費の社会現象化した、いわゆる“自粛”は被災者の生活上の困窮に対する同情と共に復興のための増税の近づく足音に備えた“自粛”も含まれていると思われるが、被災者の生活上の困窮に対する同情からの個人消費の“自粛”と同様に被災地東北の一日も早い復興への願いは国民の多くが持っている思いであろうから、東北自動車道と常磐自動車道の無料化は被災地への観光加速化と企業の輸送費軽減に一役買うだろうが、観光に限って言うと、この要件なくしても国民の思いはより東北へと向かう“自粛”と同じ動機が働き、だが“自粛”とは反対の消費志向が作用すると考えることができる。

 企業の輸送費軽減に関してもやはり被災地とその他の地方との公平性を考える必要があり、東北自動車道と常磐自動車道の無料化の費用を首都東京と地方をつなぐすべての高速道路に分割・配分して、平均して通行料を減額する方法を採用すべきだと思う。

 勿論この公平性は被災地東北のマイナスからの復興に対する有力な一助を奪う不公平性を生じせしめることになり得るゆえ、それを補う方法として東北自動車道と常磐自動車道の近くの立地のよい高台に工場団地を国と自治体の資金で造成し、そこに被災企業を集約す
ることで公平性のバランスを取り得る。

 立地場所がインターチェンジ近くになければ、立地場所近くに新たにインターチェンジを新たに設けるか、高速道近くに適当な立地場所が存在しない場合は、立地条件に適う場所の選定を優先させて、そこまで新たに連絡道としての高速道路を同じく国と自治体の資金で建設する方法もある。

 村井宮城県知事が小規模漁港の集約・再編を提唱しているが、高台に住宅、漁港に魚市場や水産加工会社等を集約し、高台の住宅から通勤という職住分離の生活形態を取るなら、東北自動車道や常磐自動車道から各地の漁港まで新たに高架道を設ける方法も全国の高速道の通行料を平等に軽減する、被災地に取っての不平等性を補う公平性の確保の一つの方法となり得る。

 漁港近くの高架道が万が一の地震・津波発生時の指定避難場所となり得る。

 復興財源が最終的には復興税創設であっても消費税増税であっても、復興が被災地方とその他の地方との公平性のバランスが必要なように増税は余裕所得層と非余裕所得層の公平性のバランスが必要となる。

 世論調査では50%を僅かに超える消費税増税及び復興増税に賛成だというが、50%を切る反対は「厚生労働省:平成21年国民生活基礎調査の概況」から判断すると、「平均所得100万未満」~「平均所得300―400万」の世帯を足すと46・5%となり、この年収世帯層がほぼ占めていると考えることができる。

 増税に関する世論調査の場合、年収も併せて調査すると、増税と生活状態との関係がより明確に現れると思われるが、賛成は増税でも十分に生活できる限りなく余裕所得層かそれに近い世帯であり、「反対」、「分からない」は生活が困難になるか、成り立たないのではないかと不安な非余裕所得層と見るべきである。

 増税賛成が60%前後を占める場合、「平均所得300―400万」の世帯13・3%のうち、その中間の350万から400万に近い世帯までが賛成に回っていると見ることができる。

 公平性のバランスを取るとするなら、消費税増税の場合は非余裕所得層救済のために食品等に対する軽減税率を設けるべきだと思う。

 現在夏の台風シーズンに備えて決壊した防波堤の復旧工事が開始されている。貞観津波は1142年前の869年の発生。研究者の間では津波を伴う地震が500~1000年間隔で発生するとされているが、従来の横長の一列壁方式の堤防を貞観津波クラスに備えて20メートル近くの高さで建設した場合、予想される500~1000年の間の貞観津波クラスの発生を考えると、その時点でのコンクリートの劣化まで計算に入れなければならない。一箇所が崩れると、横長一列壁方式の場合、連鎖的に崩壊が拡大していく。

 津波の専門家でも建築学の専門家でもなく、頭の中で考えたことだが、直径5~10メートルの円筒形のコンクリート構造体を直径の間隔を開けて等間隔に一列に並べた防波堤を円筒形の構造体を一つずつずらせた形で、船が円筒形の構造体を斜めに縫って入出港できる間隔を前後に開けて、それを二列、三列、四列、あるいは五列に重ねて設置し、防波堤が津波をまともに受け止めるのではなく、津波を通過させながらその力を弱めていく防波堤方式はどうだろうか。

 その間隔では大型船が航行できないなら、一箇所だけ航行できるだけの間隔を開ける。

 勿論専門家から可能・不可能の検証を受けなければならないが、津波は円筒形の構造体に達すると、左右に別れて円筒形を抜けようとするが、抜けたところで左右に分かれた波はぶつかることによって渦巻き、乱れ合ってお互いに力を殺し合う。それを構造体を設けた列だけ繰返させることによって大きな被害が出ない程度に弱める。

 津波が例え円筒形の高さを乗り超えることがあっても、それが落下するとき、左右に別れてから合流した波の上に落下することになり、三者はお互いに力を殺し合うことになるはずだ。

 津波は円筒形の間を抜けていく形を取るために構造体が受ける衝撃をそれだけ和らげることができ、一列壁方式の防波堤よりもコンクリートの劣化を相殺できる利点が想像できる。

 この方式の可能・不可能の検証のみならず、幾列に設けたら、陸地の被害を防護できるかの問題点が残る。

 今後のエネルギー政策であるが、今回菅首相がどれだけの計画性を持って発表したか些か不明だが、浜岡原発の全停止を要請した。防波堤の設置など、中長期の対策を確実に実施することが必要だとしているが、今回の東日本大震災によって太平洋沿岸の地盤が宮城県牡鹿半島で最大の1.2メートル、岩手県陸前高田市小友町西の坊で84センチ、宮城県石巻市渡波神明で78センチ、宮城県気仙沼唐桑地区で最大74センチも沈下していることを考えると、津波の高さや地震の揺れの大きさに対する備のみで万全と言うことはできなくなる。エレベータの降下のような水平を維持した地盤沈下なら問題はないかもしれないが、不規則な力が働いた1メートル前後の急激な沈下をまともに受けた場合、想定したマグニチュードや津波の高さのみの備えで収まるようには思えない。

 原子力から他のエネルギーへと漸次転換していく選択が賢明であるように思える。現在クリーンエネルギーへの転換が言われているが、その中で将来的に有望なエネルギーは各家庭が使用するだけ電気をつくり出す方式の燃料電池の一層の安価な製品の開発と普及ではないだろうか。

 全戸普及させることによって電柱と電線を不必要化できる。現在小規模ながら普及している家庭用燃料電池は都市ガスやLPガス等から取り出した水素と空気中の酸素を反応させる方式だと言うが、水道水を電気分解、酸素と水素を取り出して、その酸素と水素を再び反応させて電気をつくり出す方式が可能なはずで、理想ではないだろうか。

 国が今まで以上に補助して燃料電池の集中的な研究・開発を働きかける。例え代替エネルギーが燃料電池ではなくても、原子力に代え得るエネルギーの選定によって将来的に原子力から徐々に転換を図ることこそが地震立国に於ける国民の安心を得る最善の方法に思える。

 菅首相は記者会見で今回の震災からの「復興は従来に戻すという復旧を超えて、素晴らしい東北を、素晴らしい日本をつくっていく。そういう大きな夢を持った復興計画を進めてまいりたい」、あるいは「今回のこの大震災に対する復興は、ただ元に戻すという復旧であってはならない。新しい未来の社会をつくっていく、創造する、そういう復興でなくてはならない」と発言した。

 但し、「素晴らしい日本」、「新しい未来の社会」という、その国家全体の具体像を示したわけではない。単に被災地の住宅・住民が再度津波被害に遭わないように高台に居住地域を移し、「植物、バイオマスを使った地域暖房を完備したエコタウン」とし、「福祉都市」とする被災地復興の個別的具体像を示したに過ぎない。

 被災地をどう復興するかは当てにもならない、頼りにもならない政府と、そうではないはずの専門家に任せて、被災地の復興を超えて日本を未来に向けてどう発展させるか、“あすの日本”を構想したい。

 最近のNHKテレビで著名なテレビジャーナリストが、日本は外需型経済構造を内需型に転換する必要があると多くの人間が言っているが、内需型に変えても、国民はもう買うものはない、テレビも冷蔵庫も何もかも買い尽くしている。日本人のモノづくりの才能は優れているのだから、外国に向けて日本人がつくった優れた製品をどんどん売り込むべきだ、外需型を変える必要はないといった名言を吐いていたが、企業は省エネだ、軽量化だ、逆の大型化だ、多機能型だと次々と新製品を開発・宣伝して消費意欲を刺激し、決して国民に買い尽している状況に安住させてはいない。

 確かに日本のモノづくりの才能はアジアの新興国に足許を脅かされつつも、未だに優秀で世界をリードしていると言える。だが、モノづくりの才能は創造力よりも試行錯誤能力、あるいは改良能力により多く負っている。

 既にある製品を対象にもう少し小型にするにはどうしたらいいか、軽量化するにはどうしたらいいか、コストを下げるにはどうしたらいいかと試行錯誤であれこれと工夫し、そういった改良していく技術の積み重ねによって獲得し得る技術であり、ゆえにモノづくりは常に向上・発展の方向を取る。

 このようにモノづくりの技術が基本的に独創性を出発点としていないためにその優秀さの代償として日本には独創性を絶対的基盤とするグーグルやウインドウズ、あるいはツイッター、フェースブックはなかなか生れない。

 このままモノづくりの道を主体として未来を拓いていくのか、モノづくりの道はモノづくりの道として残して、独創性に負う分野を取り入れて、日本の経済に幅を持たせた未来を拓くのか。

 外需型から内需型への転換云々よりも、モノづくりのハード型産業優先から独創性を持った情報産業等のソフト産業への転換を今後図って、日本の経済活動の幅を広げ、と同時に日本人の経済を含めた全般的な活動を国際化へと拡大することに日本の未来を置くべきだと思う。

 日本人の活動の国際化とは断るまでもなく活動のフィールドを世界に置くということであり、当然、世界を領土とすることになる。日本人の多くが世界に出て行く、あるいは進出し、世界を活動の領土とするには、その機会を外国人に対しても日本を世界に於ける活動の一つの領土として等しく提供することによって公平性と整合性を得ることができる。

 日本人は世界に出て行く。外国人が日本に入ってくるのはお断りだでは不公平な上偏狭に過ぎる。

 この世界を領土とした日本人と、外国人の世界に於けると同時に日本に於ける活発な活動が日本の経済を活発化させない可能性は低く、経済的に豊かになった場合、少子化の問題解決の一つの方策ともなり得るはずである。

 日本人が世界を領土とする手始めの方法は全学補助金を出して海外留学を国策で奨励し、先ず学生でいる間に世界に出すことにある。例えアメリカに集中することになっても、アメリカには世界各国から留学生が集まり、人的交流の面で一種の世界を成し、世界の中での活動とすることができる。

 留学の勉学範囲(勉学対象)は無制限・自由とする。物理・化学の勉強であろうと、コンピューターの勉強であろうと、歌の勉強でもオペラの勉強でも、ハリウッドに行き映画の勉強でも、ブロードウエーで演劇の勉強でも文学の勉強であっても、語学の勉強であろうと、野球やサッカー、その他のスポーツを学ぶための留学でも構わないとし、すべて留学費用の全額を国が負担する。

 国の全学負担によって、国内で下手に高校・大学と学ぶよりも外国で学んだ方が教育費が安く上がるとする形態を取ることによって経済的な困窮家庭の子弟にも勉学の機会を広げることが可能となる。

 さらに外国で学び終えても、学んだ外国に将来とどまって、そこで学んだことを生かすもよし、日本に帰国して生かすもよし、このことも無制限・自由選択とすることによって、世界を領土とする知能立国への舵切りがそこから加速されることになる。

 財源は国家事業のスリム化による予算規模の縮小によって捻出。10年後20年後に日本を含めた世界を領土として活躍する日本人が同じく日本を含めた世界を領土とする外国人と広く世界及び日本で競い合い、あるいはチームを組んで協力し合うことでモノづくりのみならずソフト産業までを興隆させないではおかないだろうし、海外留学にかけた国家費用を補う経済貢献を行く行くは果たしてプラスマイナスプラスの利益を生み出す日が必ず訪れるはずである。

 勿論、真面目に学んでいるかどうか、留学先の教育機関から成績表を取り寄せたり、生活実態を知らせる報告書を書かせたり、あるいは在外大使館員や領事館職員が抜き打ちで私生活を調査したりの監視が必要となる。悪質な違反者にはそれまでかけた国費の全学返済の罰則を設ける方法もある。

 また海外留学を目指す姿勢は中には例外があるだろうが、自分から学ぶ姿勢を基本的に必要不可欠とする。このことは日本人の行動様式・思考様式となっている上が自らを権威として下を従わせ、下が権威と看做した上に従う権威主義の反映としてある日本の暗記教育を打破する契機となり得る。

 教師は文部省検定の教科書を権威として教科書の教えに従い、その教えを自らを権威として生徒にそのまま教え込み暗記させる。生徒は生徒で教師を権威として教師が教えることに無条件に従い、教えることを教えたなりに暗記という形で学んでいく。

 そこにあるのは権威に対する従属という形態のみである。

 よく言われる日本の統治形態となっている中央集権も中央を権威とし、地方がその権威に従属する形態を取る上下の関係性によって成り立っているもので、このことも日本人の行動様式となっている権威主義の反映としてあるものであろう。

 日本が得意とするモノづくりも無から始める独創性に負うのではなく、既にある製品に従属してその改良・発展の形を取るのも権威主義の形態を反映させた製造活動の一つと言える。 

 日本の産業形態をモノづくりの分野以上にソフト産業の分野を拡大するためには日本の教育を上から下へ教える権威主義的な従属型から生徒が自ら学ぶ自発的な拡大型に持っていく必要があり、その涵養には自ら学ぶ姿勢を欠かすことができない海外留学が役に立つ。

 自ら学ぶとは一を教えられて自分から二を知り三を知ることであるから、あるいは他から与えられた知識・情報をそのまま鵜呑みにする暗記式ではなく、自分なりに咀嚼・解釈して自分なりの知識・情報につくり変えていくことであるから、暗記教育の従属型が必要としない創造性・考える力を常に必要不可欠とする。この創造性・考える力こそが知識の自発的な拡大を生み、そこに今までにない独創的な知識を生む余地が生じる。それがグーグルやウインドウズ、あるいはツイッターやフェースブックへの可能的到達ということであろう。

 モノづくりは従属型であるゆえに、日本がかつて外国のモノ(製品)をマネし、改良・発展してきたように、その従属性は他国に容易に受け継がれてマネを受けることになる。

 他国を凌ぐ一部のモノづくりの技術でモノづくり日本の地位を保っているものの、中国や韓国、台湾といったアジアの新興国の安価な人件費を武器とした、その多くは日本発のモノづくりの技術をマネをし、発展・改良したモノ(製品)で以て日本の多くのモノ(製品)を脅かすまでになっている。
 
 他国を凌ぐ一部のモノづくり技術は維持・発展させつつ、資源のない日本が外国の安価な人件費に対抗し、日本経済の幅と経済活動の幅を広げるためにはやはり世界を領土とする知能立国への舵切りは将来に向けて避けて通ることはできない道に思える。

 舵切りが行われなかった場合、復興増税しても復興特需が日本の景気を押し上げると言うが、その特需が一段落したとき、反動としての不況と共に元の産業構造、アメリカや中国の景気に依存した日本の経済状況といった従来の進路に戻るに違いない。

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菅仮免首相は自らの責任遂行能力に太鼓判を押していることから見る2つの記事

2011-06-11 10:41:05 | Weblog

  

 1つめの記事――《被災の市町村6割、生活再建めど立たず 朝日新聞調査》asahi.com/2011年6月11日3時0分)

 調査対象――岩手・宮城・福島3県の津波被災地や東京電力福島第一原発の事故による避難対象となっている被災42市町村長。%提示は筆者。四捨五入。

 「被災者の生活課題」(複数回答)

 〈解決すべき、最も優先度が高い被災者の生活課題〉(3択)

 「雇用の確保・創出」   ――29市町村長(69%)
 「被災者のの生活資金支援」――17市町村長(40%)
 「仮設住宅など住いの確保」――15市町村長(36%)

 (福島県内の15市町村長に限定した場合――

 「原発事故の早期収束・安全確保」――13市町村長)

 「漁業・農業の再開」      ――14市町村長(33%)
 「原発事故の早期収束・安全確保」――14市町村(33%)
 「防潮堤の復旧など防災対策」  ――11市町村長(26%)
 「瓦礫の撤去・処分」      ――9市町村長(21%)

 「菅政権の震災対応に対する評価」

 「評価しない」+「あまり評価しない」――33市町村長(8割近く)
 「評価する」            ――0市町村長

 宮城県気仙沼市長「民主党内で権力闘争。(政権と被災地の思いが)決定的に乖離(かいり)している」

 福島県新地町長)「スピード、スタンスともいま一つ信頼がおけない」

 〈瓦礫撤去状況〉

 「殆んど残ったまま」――13市町村長(3割)

 〈仮設住宅整備〉

 「政権目標の8月中旬に間に合わない」――3市町村長(宮城県女川町、福島県南相馬市、広野町)

 〈復興の目標期間〉

 「10年以上」 ――2人市町村長(岩手県大槌町、南相馬市)
 「5~10年」 ――19市町村長
 「5年」   ――13市町村長
 「3年」   ――5市町村長

 記事は解説している。6月〈11日で東日本大震災の発生から3カ月。被災者支援に有効な対策を打ち出せない国への不満が根強い。 〉・・・・

 もう1つの記事――《80%近い被災者“復興進まず”》NHK NEWS WEB//2011年6月11日 4時13分)

 アンケート対象――東日本大震災の被災者およそ500人。

「震災前に暮らしていた市町村の復興が着実に進んでいますか」

▽「進んでいる」  ――5%
▽「やや進んでいる」――15% 合計20%

▽「あまり進んでいない」――29%
▽「進んでいない」   ――48% 合計77%

「復興に当たって自治体に何を重視してほしいか」(複数回答)

▽「復興のスピード」        ――38%
▽「住民の意見をよく聞いてほしい」 ――30%
▽「震災前に近い状態に戻してほしい」――30%
▽「安全性を重視してほしい」    ――28%

 災害の復興計画について詳しい人物の意見。

 室崎益輝関西学院大学教授「多くの被災者が『復興が進んでいない』と感じているのは、被災者の見えないところで、自治体の復興計画が作られていることが原因だ。被災者が復興を実感するためには、被災者を含めた多くの人が議論に参加できる場を行政側が作る必要がある」

 「被災者の見えないところで、自治体の復興計画が作られていること」のみが「復興が進んでいない」と感じている理由ではあるまい。復興は被災者にとって深刻・切実な問題である。自身の将来がかかり、自身が住む街の将来がかかっている。当然被災者は地方地方の新聞・テレビからの情報を注視しているはずで、政府の復興計画を含めて自身が所属する自治体の情報をそれぞれが自分事として受容しているだろうから、ある程度の復興の進み具合、あるいは自治体の復興計画の概要程度は把握していると見るべきだろう。

 また被災者の議論参加は必要だとしても、瓦礫撤去にしても避難所から仮設住宅への生活転換にしても、あるいはそれ以前の避難所での生活支援の進み具合にしても、それぞれが復興の一環としてあるプロセスの一つ一つであって、その一つ一つの次に向けたスピードの遅さを被災者は実感として感じ取っていて、「復興が進んでいない」と見ている側面もあるはずである。

 少なくとも瓦礫撤去が完全に片付かないことには最終的な復興局面としてある企業及び漁業と農業の再生と、これらの再生が保証することになる雇用の回復と生活再建を伴った都市建設へは進まない。いわば瓦礫撤去のスピードが復興の進展を物語ることになるのだから、瓦礫撤去の進み具合自体が復興のバロメーターとも言える。

 その瓦礫撤が遅れている状況にあるということは復興自体が遅れていることの証明であって、被災者はそれを日々目にし、耳に聞いて「復興が進んでいない」と感じ取っているということであろう。

 「NHK NEWS WEB」記事は菅政権の震災対応に対する直接的な評価は解説していないが、「asahi.com」記事は、「評価しない」+「あまり評価しない」のマイナス評価を8割近くの33市町村長が挙げている。

 そして「評価する」とプラス評価を上げた市町村長はゼロ。

 だが、菅仮免は4月25日の参院決算委員会で、統一地方選挙の前半戦の民主党の大敗は震災対応の不備が反映した結果ではないかと岡田広自民党議員の追及に菅仮免は次のように答弁している。

 菅仮免「私は、この大震災に対する対応について、そのことが今回の結果に直接に大きく響いたという、いわゆる選挙ですから、色んな要素がありますけれども、少なくとも震災対応については、私は政府を挙げて、やるべきことはしっかりやってきていると、そのように考えておりまして、ま、そういう意味で今回の結果は、結果として真摯に受け止めなければなりませんけども、震災の復旧・復興、そして原子力、発電所事故の何としてもこれを抑えるということに今後も全力を挙げて取り組んでまいりたいと、このように考えております

 勿論、このようにスムーズに的確に答弁したわけではない、「あー、いー、うー、えー」を適宜頻繁に加えた、例の如くのつっかえ、つっかえの答弁であった。

 この震災対応と原発事故対応に関する、「私は政府を挙げて、やるべきことはしっかりやってきている」の主張と同じ趣旨の発言を菅仮免は機会あるごとに繰返している。首相としても内閣としても責任を果たしているとする宣言である。

 自らの責任遂行能力に自ら太鼓判を押したのである。あるいは太鼓判の評価を下したのである。

 だからこそ、ここのところの国会質疑で、6月中の退陣を求める野党の追及に対して不信任案大差否決と自らの責任遂行能力を根拠に6月退陣を拒否しているのだろう。

 6月9日(2011年)の震災復興特別委員会。

 菅仮免「仮設住宅に入居した人が生活できるようにするほか、がれきの処理、さらに、東京電力福島第一原子力発電所の事故の収束に、一定のめどがつくまで、責任をもった仕事をさせていただきたい。がれき処理は8月中に生活している地域からの搬出を目標に頑張っており、その後の2次処理や3次処理につなげていくことも含めて私の大きな責任だ」(NHK NEWS WEB

 「私の大きな責任だ」とは自身の責任遂行能力に対して太鼓判の評価を下しているからこそ言うことができ、その責任遂行能力を根拠として自身の使命だとする、仮設住宅入居だ瓦礫処理だといった数々の言挙げであろう。

 これまで満足に責任を果たしてこなかったなら、いわば責任遂行能力を満足に発揮できていなかったなら、決して言えないこれこれを使命としますの宣言であるはすである。

 もう一つの続投根拠としている内閣不信任決議案大差の秘訣に関しては――

 菅仮免「(菅内閣不信任決が案が)大差で否決されたということは、私に東日本大震災に対して一定のめどがつくまではしっかりやれという議決だ」

 この「大差」の否決に関しては既にブログに書いているから繰り返しになるが、鳩山前と「確認書」で見せかけの退陣を交換条件に取引し、獲得した否決であって、菅首相の政治能力に対する信頼や求心力を根拠とした否決では決してないのだから「大差で」と偉そうに言う資格はない。続投の根拠にすること自体が居座りの証明でしかない。

 確認書での取引がなかったら、不信任案は可決する状況にあったから、取引したはずである。確認書を守ると見せかける必要から代議士会で退陣という言葉は一切使わずに「一定のメドがついたら若い世代に責任を引き継ぎたい」と退陣を匂わせた。うまく謀ったつもりが、「責任を引き継ぎたい」が退陣意思と多くから受け止められた上にマスコミがこぞって「退陣表明」と報道したものだから、墓穴を掘ることとなった。

 10日の参院予算委員会でも同様の趣旨の答弁を行っている。

 菅仮免「仮設住宅に入居した人が生活できるようにするほか、がれきの処理、さらに、東京電力福島第一原子力発電所の事故の収束に、一定のめどがつくまで、責任をもった仕事をさせていただきたい。がれき処理は8月中に生活している地域からの搬出を目標に頑張っており、その後の2次処理や3次処理につなげていくことも含めて私の大きな責任だ」(時事ドットコム

 菅仮免「自民党の谷垣総裁は、党首討論で『あなたが辞めれば、党派を超えて新しい日本のために団結をしていく道はいくらだってできる』という認識を示していたが、最近では『あなたが辞めようが辞めまいが、そう簡単に協力はできない』という話をしている。国会が一体となって協力する態勢に引き継げるのかということも考えている」(NHK NEWS WEB

 与野党協調態勢の構築まで自身の使命に付け加えた。構築できる責任遂行能力を備えていることの宣言でもある。

 一国の総理は出処進退に潔くなければならないといった追及を受けたのか。

 菅仮免「潔いということばは決して嫌いではないが、それよりも最後の最後まで自分の責任を全うすることが、政治家としては必要だ。これから先の生活の展望が見えてこない人たちに対して道筋をきちんと示し、一定のめどがつくまでは、責任を果たしていかなければならない」(同NHK NEWS WEB

 すべての発言が最初に挙げた発言同様に自身の責任遂行能力に対する太鼓判の評価となっている。その評価たるや100%評価と断言できる。

 こうまで自身の責任遂行能力に自信を持って100%評価の太鼓判を押すことのできる政治家は菅仮免を措いて他には存在しないのではないだろうか。勿論、最初に見たとおりに被災者や被災自治体の市町村長の評価とは裏腹で、180度の違いはあるが、それが例え仮構の100%太鼓判評価の責任遂行能力であっても、何と言っても菅仮免本人自らが太鼓判を押し、自信を過剰に持つことが必要不可欠なのだろう。何と言っても日本の総理大臣である。

 特に「職に恋々とする」場合は。居座りを決め込むときには。


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菅無責任には「仮設住宅入居と瓦礫処理と原発収束まで責任を持って仕事を」と言う資格なし

2011-06-10 09:43:09 | Weblog


 
 昨日のブログにも書いた“資格なし”で、内容が重なるところもあるが、改めて6月9日の国会答弁。

 《菅首相、8月までの続投になお意欲》asahi.com/2011年6月9日22時53分)

 菅仮免「(8月中旬までの完成を目指している)仮設住宅に入った人が生活ができるようにすること、がれきの処理、原発の収束に一定のめどがつくまでは責任を持って仕事をさせていただきたい。・・・がれき処理も8月中に生活地域からの搬出を目標に頑張っているが、その後の2次処理、3次処理につなげていくことも含めて私の大きな責任だ」

 退陣に伴い衆院議員をやめる可能性を問われて――

 菅仮免「やるべきことは責任を持ってやり抜く。やり抜いた後は、私の中でしっかり考えてみたい」

 言っていることはそもそもからして鳩山前と取り交わした確認書の、「〈1〉復興基本法案の成立」、「〈2〉第2次補正予算の早期編成のめどをつけること」を超える契約違反である。

 いわば6月中の退陣を約束することで、不名誉な内閣不信任決議案可決を回避でき、「〈1〉復興基本法案の成立」と「〈2〉第2次補正予算の早期編成のめどをつける」花道を用意して貰った。

 そのことに満足すべきを、契約破棄はマニフェストでも演じている慣れたその延長でしかないのか、確認書の契約を破った上に契約の一方の当事者である鳩山前の了解も得ずに退陣時期を自分一人で設定し、8月までを自分の独断で決めて任期とする資格はない。

 大体が「仮設住宅入居、瓦礫処理、原発収束まで責任をもって仕事をさせていただきたい」と欲張ること自体が菅仮免の能力の程度を超えた不遜な要求でしかない。

 仮設住宅建設とその入居は遅れに遅れ、今持って10万人近い被災者がプライバシーを満足に維持できない不自由な避難所生活に閉じ込められている。

 政府は5月中に3万戸完成を約束していたが、約束の責任を果たすことができず、6月を1週間超えて、形式上3万戸の完成にこぎつけることができた。形式上とは純粋に完成とは言えない戸数を含んでいたからだ。《仮設住宅ようやく3万戸 目標から1週間以上遅れ》MSN産経/2011.6.8 21:34)

 国土交通省が6月8日発表の仮設住宅完成戸数。3万57戸。このうち2741戸は水道などのライフラインを整備中で、被災者の入居に時間がかかり、純粋に完成とは言えない状態だという。

 完成とはいつでも入居できて、入居と同時に普通の生活ができる状態のことを言うはずである。2741戸から57戸を差引くと、2684戸を水増しした3万戸の、しかも1週間遅れの約束ということになる。

 現在仮設住宅の最終的な必要戸数は全体で約5万2千戸ということだが、民間のアパートやホテル、旅館、あるいは自治体の公営住宅に入居が進んで振替えることができた結果減ることとなった約5万2千戸ということであって、この場合の完成進捗率は50%を少し超える。

 だが、当初必要と計算した戸数は7万2000戸であって、7万2000戸を建設目標として進めていたうちの6月8日時点での3万57戸-半完成の2741戸=27316戸数の完成なのだから、8月半ばのお盆までを目標期限とし、残す日数はあと2ヶ月しかないというのに、震災発生から3カ月近く経過しながら目標の半数にも満たない進捗率約38%という計算になる。

 要するに順次順調に責任を果たしてきた者だけが言う資格がある引き続いての責任でありながら、仮設住宅建設で満足に責任を果たしていないにも関わらず、「仮設住宅に入った人が生活ができるようにすること」を自らの役目上の責任とする矛盾を図々しくも平気で犯している。

 満足に責任を果たすことができなかった者が以後の責任を満足に果たし得ると期待できるだろうか。果たすだけの能力を持っていなかったからこその不満足な結果であって、人間が変わらない以上、その能力は引き継がれるはずで、満足に責任を果たすことができない同じ場面が繰返される。

 瓦礫処理にしても、政府は責任を果たしていると言えない。処理の役目は自治体にあるが、負い切れない膨大な量の瓦礫なのだから、復興への歩みを加速するためにも積極的な政府支援を必要としているはずであり、だからこそ、瓦礫処理が一定のメドがつくまでと自らの役目としたのだろう。

 だが、政府支援がその責任を果たしていない。昨6月9日の夕方7時半からのNHKクローズアップ現代「ガレキがなくならない」の番組内容は次のように案内メールに書いてある。

 〈家の残骸、打ち上げられた船、壊れた車・・・。東日本大震災によって発生したがれきの推定量は被災3県合計で2000万トンを超える。阪神・淡路大震災の約1.7倍に相当する量だ。しかし、これまで撤去されたのは全体のわずか18%にとどまる。遺体や思い出の品の捜索、地盤沈下による冠水など現場には様々な困難がたちはだかる。また三陸沿岸は平地が少ないため仮置き場にする土地の確保も難しい。さらに塩分を含んだがれきは焼却炉を痛めるため、処理する施設を見つけるのも困難だ。粉塵による肺炎などの健康被害も広がっている。

 震災から3か月、がれきの撤去が進まない被災地の課題を伝える。〉――

 2000万トンの瓦礫量に対して18%のみの処理量。

 番組の中で漁師がなかなか片付かない海中の瓦礫について怒りを込めて次のように言っていた。

 漁師「日本の一次産業はこの辺は海だよ、ね。その海がさ、この状態だよ。これで復興もクソもあるかい!」

 菅仮免の耳には届かない怒りの声であるに違いない。

 仮置場に集められ、相当高い山と積まれていたが、そこでも木材や鉄、プラスチック等に分別して、それぞれの種類に分けて最終処分場に運搬しなければならない。仮置場自体が不足しているから、ダンプで仮置場に運んできて、重機で山と積み上げていく。このことに必要とする時間以上にその分別は何倍もの時間がかかるに違いない。

 なぜ派遣切り等で失職しているフリーター等を全国から集めて、瓦礫が元々ある現場現場に張り付かせ、ハサミ重機が一掴みさせて空いた場所に置いた瓦礫にパン屑に群がるアリのように取り掛からせてその場その場で分別し、それをダンプに積んで仮置場に運び、そこで種類ごとに山積みしておくといったことをしないのだろうか。

 あるいはダンプが仮置場に運んできて降ろした一山分の瓦礫をその場で種類別に分別させて、重機が種類ごとに山と積み上げていく方法でもいい。失業対策にもなるし、そうして置けば後々の処理がスムーズに進むはずだ。

 現状では瓦礫処理自体に遅滞が生じていて、政府は早急な復旧・復興の責任を果たしていないのだから、仮設住宅建設と同様に以後の責任を満足に果たし得ると期待できるはずはなく、瓦礫処理にしても「一定のめどがつくまでは責任を持」ちたいとすること自体が厚かましいと言わざるを得ない。

 原発の収束にしても同じことが言えるはずである。東電の暫定発表では1号機の燃料損傷は地震発生の3月11日午後2時46分から5時間後の3月11日午後8時前後から始まり、メルトダウンは地震発生から16時間後の3月12日午前7時前後としていたが、原子力安全・保安院は独自の解析結果として東電が燃料損傷開始時間としていた地震発生当日3月11日午後8時頃と公表。

 当然、原子炉内の圧力を下げるベント作業は一刻も争う初動対応であったはずだ。だが、海江田経産相が東電に対してベント指示したのは3月12日午前1時30分頃。東電が指示に従わなかったために法的拘束力のあるベント命令に切り替えたのがベント指示から5時間20分後の3月12日午前6時50分。

 東電がベント準備に着手しのが命令から2時間24分後の3月12日午前9時04分。そして実際のベント開始がさらに1時間13分後の午前10時17分。

 海江田経産相が最初にベント指示を出した3月12日午前1時30分頃から8時間47分も経過している。

 官邸のベント指示に対して、なぜ東電は直ちにベント準備に着手しなかったのだろう。なぜ官邸は東電に対して自らの指示を直ちに機能させることができなかったのだろうか。

 東電がベント作業にかからないからと命令に切り替えたが、ベントを実際に開始することができたのは命令から3時間半経過してからである。

 政府にしても東電にしても、初動に於ける責任を果たしていなかった。その責任は厳しく追及されるべきだが、今度発足した原子力「事故調査・検証委員会」は「責任追及を恐れ原因究明の動作ができなくなる」からと責任追及は目的としないとしている。

 最初から菅仮免や東電、その他の関係者に免責を与える調査・検証となっている。

 だとしても、ベント作業に関して官邸も東電も責任は果たしていなかった事実は事実として残る。当然、責任を果たしていない人間が原発事故の収束に関しても、「一定のめどがつくまでは責任を持って仕事をさせていただきたい」などと言う資格はない。
 
 菅仮免は「やるべきことは責任を持ってやり抜く」と言っているが、これまでやるべき責任をやり抜いていないのである。有言実行内閣を掲げながら、有言不実行で終わっている責任であって、「責任」なる言葉すら口にする資格はないはずだ。

 責任を果たす能力を欠いていながら、8月まで責任を果たさせてくれと矛盾したことを言う。所詮、身の程知らずの往生際の悪い居座りに過ぎない。


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菅仮免は契約違反の正当性のないウソをついてまでして「職に恋々として」居座ろうとしている

2011-06-09 15:22:17 | Weblog



 今日6月9日午前の衆院復興特別委員会で、周囲が、お前では物事が順調に前に進まないからと6月中の退陣を求めているのに対して先延ばしの8月退陣を答弁で示唆したという。

 その答弁で言っている先延ばしの続投要請に正当性があるかどうか検証してみる。

 次ぎの記事から全文を参考引用させてもらう。 

《菅首相の答弁=衆院復興特別委員会》時事ドットコム/2011/06/09-12:34)

 菅直人首相が9日午前の衆院復興特別委員会で、自らの進退に関して答弁した内容は次の通り。

 菅仮免「6月2日の民主党代議士会では、東日本大震災に対するいろいろな努力に一定のめどが付いたところで、責任を若い世代に引き継いでいきたいと言うと同時に、それまでは私に責任を持ってやらせていただきたいと言い、民主党の大多数に了解していただき、衆院本会議で大差で内閣不信任決議案を否決していただいた。私に、めどが付くまではしっかりやれと議決をいただいたので、仮設住宅に入った人が生活できるようにすること、がれきの処理、さらには原発(事故)の収束について一定のめどが付くまでは責任を持って仕事をさせてもらいたい。

 私の内閣は、役割分担の中で全力を挙げて(復旧・復興に)取り組んでいる。一定のめどが立った段階で引き継がないといけない。(復旧・復興を)終わらせるわけにはいかない。だからちゃんと引き継ぎたいと言った。仕事をやめるのではない。やらないといけないことは続いていく。だから、がれきの処理は8月中には、生活している地域から搬出することを目標に今、頑張ってもらっているが、その後の2次処理、3次処理まで確かに時間がかかるだろう。それにつなげていくことも含めて私の大きな責任だ。

 いろんな首相が任から外れた後の行動を見ている。細川護煕元首相は、今は陶器を作るなど別の分野で活躍している。私ももともとは、発明家にでもなりたかったのに違う方向に来ているが、やるべきことは責任を持ってやり抜く。やり抜いた後は、今の(退陣後は政界から引退すべきだとの)言葉を含め、私の中で考えたい。

 退陣後の活動について代議士会ではお遍路の再開を言っていたが、記事にある限りの発言の中では触れていない。今始まったことではないが、言ったり言わなかったり、発言が当てにならず、どこに信用を置いていいのか分からない。

 6月2日の菅内閣不信任決議案の大差の否決を以って、「私に、めどが付くまではしっかりやれと議決をいただいた」としている。

 ここに明らかなウソ・誤魔化しがある。

 民主党内に反乱が起きて、6月1日野党提出の不信任決議案が可決の情勢にあった。そこで菅仮免は6月2日午後採決の午前中に鳩山前と会談、守るつもりもない退陣を交換条件に民主党内氾濫組の賛成から反対への態度変更を取引し、その内容で契約は成立した。

 守るつもりがなかったから、署名を求めらながら、署名にも応じなかったのだろう。

 守るつもりはなかって点については、あくまでも本人の誠意・姿勢の問題であって、契約は契約である。破棄されるものではない。

 契約の内容は次ぎのとおりである。

 ▽民主党を壊さないこと
 ▽自民党政権に逆戻りさせないこと
 ▽大震災の復興並びに被災者の救済に責任を持つこと
 〈1〉復興基本法案の成立
 〈2〉第2次補正予算の早期編成のめどをつけること

 菅仮免は当初確認書を退陣を取り決めたものではないと薄汚く強弁していたが、6月4日になって自身に近い閣僚に電話し、「文書の思いは分かっている」(NHK)と述べて、確認書が不信任案可決回避の身代わりに退陣を差し出した取り決め契約であることを認めている。

 退陣を守るつもりもなく、退陣時期を先延ばし先延ばしして契約自体を最終的に無効にするつもりでいたから、自身の退陣を交換条件とすることができたのだろう。してやったりと思っただろうが、“菅首相退陣”のマスコミ報道が全世界を駆け巡る方が早かった。

 契約の無効意思はその後の時期を言い換える発言や態度が証明している。

 不信任案否決が「私に、めどが付くまではしっかりやれ」という「議決」だとするのは真っ赤なウソ、その前提が崩れる以上、あるいは自らの退陣と引き換えに獲得した不信任案否決が事実も事実、そのことを前提としている以上、仮設住宅全員入居にも、瓦礫処理一次処理完了にも、さらには原発事故収束にも取り組みたいとする続投要請も自ずから崩れることになる。

 このことは確認書の内容も証明している。菅仮免の役目は「第2次補正予算の早期編成のめどをつけること」までであって、それ以降の仮設住宅入居に関しても、瓦礫処理に関しても、原発事故収束に関しても一切契約事項の中に入っていないし、一切触れてもいない。

 いわば菅内閣不信任決議案否決が「私に、めどが付くまではしっかりやれと議決をいただいた」云々はウソ八百の正当性のない言い分に過ぎなく、そうである以上、仮設住宅入居等の8月までの、それ以降も何だかんだと理屈をつけて居座る可能性が捨て切れないとしても、それらすべてを含めて続投要請自体も当然正当性はないことになる。

 「職に恋々としない」、「一日でも長く(首相を)やる気はない」と言いながら、契約違反の、正当性のないウソまで持ち出して続投要請をする。言っていることとは異なる、その有言不実行は往生際の悪さをも証明して有り余る。

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【菅首相 無能】鳩山「確認書」が教えた不信任案可決を最も恐れた菅仮免首相

2011-06-08 10:45:12 | Weblog


 
 ポータルサイトの検索欄に「菅首相 有能」と入れると、「菅首相 無能の間違いではありませんか」と警告文字が出るそうだが、と言うことは、記事題名に「菅首相 無能」の文字を入れると、検索でより多くヒットすることになるということであろう。

 それで試しに記事題名に「菅首相 無能」を入れてみた。今まで「無能」という文字を入れた記事題はあったが、「菅首相 無能」と直接的に露骨に入れるのは初めてである。例えヒットしたとしても、読んで貰える保証はないし、政治家が支持率狙いのみの政策を行うように邪道かもしれないが、菅仮免を取り上げた記事の内容自体は一貫してその無能を扱っているから、関連がないわけではなく、少なくとも内容にヒットする検索文字と言える。

 野党が例え不信任案を提出しても十分に否決できると高を括っていた菅仮免とその一派だったが、採決直前になって不信任案賛成に向けた小沢氏とそのグループ、さらに鳩山氏とそのグループの動きから、菅派の読みは採決直前の土壇場で可決へと逆転した。

 殊更断るまでもなく、確認書を取り交わさなければならなかったことがそのことを証明している。

 時系列を遡ると、6月2日午後採決。正午から民主党代議士会。午前中の首相官邸での確認書の取り交わし、1日の野党不信任案提出だったのだから、まさしく最後の土壇場になって可決と読まざるを得なかった。

 だが、菅首相とその一派は不信任案が提出されて可決されたなら、解散・総選挙に打って出ると機会あるごとに宣言してきた。これは菅とその一派がそうすると申し合わせていたからこそできた共同歩調であろう。

 だとすると、採決直前の土壇場になってだろうと何だろうと、可決される情勢となったとしても、これまで宣言してきたとおりに粛々と解散・総選挙の準備に入る心構えで不信任案の審判を待てばよかったはずだ。そうすることが自分たちが発してきた言葉に対する責任となる。

 菅仮免が実際に取った行動は不信任案可決回避の交換条件に退陣を約束する確認書の取り交わしだった。

 その策が成功し、賛成意思を見せていた鳩山前等が否決意思に変え、鳩山グループからの援軍がなければ小沢グループのみでは野党と併せても可決できるだけの数を確保できないために小沢氏は自主投票を選択、自身は欠席にまわり、小沢グループでは最初の意志どおりに賛成票を投じたのは松木謙公議員一人のみであった。

 菅仮免の不信任案否決後の行動を見ると、退陣するつもりはさらさらないままにその意思を隠して不信任案可決回避のみを目的に、そのために署名を求められながら応じなかった、菅仮免からしたら退陣を匂わせただけということになるのだろう、その程度の確認書の取り交わしに応じたことが分かるが、鳩山前との会談後の正午からの代議士会で、多分、無署名の不確かさを補って確認書の取り交わしを事実だと思わせる必要上からではないか、「一定のメドがついた段階で、若い世代に責任を引き継ぎたい」と発言したことが命取りとなった。

 但し菅仮免本人は「一定のメド」なる言葉に自身の判断一つで決めることができる恣意性を持たせていたに違いない。だが、“退陣”という言葉が一人歩きすることとなって既成事実化し、当然時期が問題となる。時期が定まって初めて“退陣”という事実に向けてスケジュ-ル化する。

 野党、その他から時期はいつだと迫られたが、「職に恋々としない」と言いながら、言質を取られまいと「退陣」と言う発言を封じて、原子炉事故収束工程表ステップ2完了時の来年1月と言ったりしてはぐらかしていたが、基本的には信服(信頼して従う)も心服(尊敬して従う)も結節点としていない関係だったのだろう、閣内からも反旗が翻り、それが一人増え、二人増えて、「社会保障と税の一体改革をまとめ、今年度の第2次補正予算案を来月、国会に提出するなど、やるべきことをやったうえで、常識的に判断したい」と「一定のメド」を8月に前倒しすることになった。

 但し、「職に恋々としない」も、「一定のメド」も、「常識的に」も具体性を一切示す言葉ではないから、8月が9月に先延ばしされない保証はなく、直ちに反撃を受けて、「6月中の退陣」を求める声を却って強めることとなった。

 確実と読んだ内閣不信任決議案可決を回避するために退陣すると思わせ、念を入れて署名までしなかった確認書を取り交わしたことが逆にアダとなって、そのしっぺ返しを食らうこととなった。

 政権への執着があまりに過度であったために却って反発の磁力が働いたといったところか。やっとのことでしがみついた枝がたわんで、後は枝が折れて落ちるのを待つばかりの状態に身動き取れなくなったとも形容できる。

 すべては不信任案が可決されたら解散・総選挙に打って出ると公言してきたことを守る責任を果たし得なかったことにそもそもの原因がある。

 勿論、解散・総選挙に打って出たとしても、民主党大敗、政権喪失の場面は予想されていて、実際には打って出ることはできない単なる威し、牽制の類だろうと疑いの目を向けられていた。だが、疑いは疑いであって、破れかぶれの解散・総選挙ということもあるから、それなりの効果はあったが、確認書の取り交わしによって解散・総選挙がこけ威しであったことが明確に判明した。

 解散・総選挙を恐れていたのは何よりも菅仮免自身であり、菅以下のその一派であった。敗戦の予想が予想通りに事実化した場合、長年の苦労の末にやっとのことで実現した歴史的な政権交代を短日月に手離した愚かな首相として歴史に名を刻むことも次の事実として十分に予想されていたからだ。

 解散・総選挙を回避するためには不信任案可決を回避しなければならない。

 要するに不信任案が提出されても否決が確実な状況の場合のみ通用した解散・総選挙の威しであり、牽制であった。

 寺田学元首相補佐官の「もし首相退陣を求めるなら、選挙で勝った人間がやらないと、国民に対しての示しがつかない。私は衆院を解散して総選挙すべきだと思う」(MSN産経)にしても、「選挙で勝った人間がやらないと、国民に対しての示しがつかない」いうのは白々しい強がりに過ぎないのはさて措いて、安住国会対策委員長の「不信任決議案が万が一可決された場合は、菅総理大臣に衆議院の解散を進言する」(同MSN産経)にしても、岡田の「不信任案が可決すれば首相は絶対に解散する」にしても、枝野の「解散はひとえに総理の専権事項だ」にしても、条件付きの威し・牽制の類いに過ぎなかった。

 条件付だから、その条件が崩れると、発言が約束していた行動の一貫性を失い、当然、責任まで失うことになる。

 元々菅仮免は「やるべき一定の役割が果たせた段階」としての「一定のメド」の期間を衆院任期の4年間に置いていた。

 2010年11月8日の衆院予算委員会。

 菅首相「わたし自身どこまで頑張りきれるか分からないが、物事が進んでいる限りは石にかじりついても頑張りたい。・・・。政権を担当したら4年間の衆院の任期を一つのメドとして一方の政党が頑張ってみる。4年後に(衆院)解散・総選挙で継続するかしないか国民の信を問うという考え方がこれから政治的な慣例になっていくことが望ましい」 

 しかしこの主張は一国の首相が身につけていなければならない資質・才能を無視した、そのことに目を向けない単に法律上の衆院任期に首相の任期を願望として機械的に重ねた主張に過ぎない。資質・才能についてくるものとしての任期であるという視点を一切欠いてkる。

 一国の首相が常に問題とされるのは指導力、リーダーシップの有無・程度であり、政権担当能力や統治能力、さらに実務能力如何である。

 岡田幹事長は参院野党多数のねじれ国会では誰がやってもうまくいかないと言っていたが、参院選敗北を招いた原因は菅自身の能力にあることを忘れてはならない。菅仮免の能力が作り出した参院選敗北である以上、どう転んでも常に首相の資質・能力が問われることになる。

 野党に不信任案提出を誘導させる動機にしても、首相の資質・能力に対する疑問・不信をキッカケとする。


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