安倍晋三のトルコクーデターを非難、エルドアンの強権政治を「民主的体制は尊重されるべきだ」は滑稽な矛盾

2016-07-17 06:49:12 | 政治

 トルコで7月16日、国軍の一部がクーデターを試み、、国営放送局等を占拠したが、やがて鎮圧された。安倍晋三はアジア欧州会議(ASEM)出席のためにモンゴルを訪れていたが、「民主的体制は尊重されるべきだ。できるだけ速やかに事態が正常化し、秩序と平穏が回復されることを強く期待する」とのコメントを発表、トルコ政府を支持した。

 様々な記事から現トルコ大統領エルドアンの政治家像を描くとすると、次のようになる。

 2003年3月16日首相に就任、軍部の政治介入阻止等の改革を進めるが、2007年の爆弾テロ未遂事件発生をクーデター計画と見做し、軍関係者ばかりか、ジャーナリストまで100人以上を投獄。西欧諸国から報道弾圧の批判を受ける。

 この批判をエルドアンは「中傷に過ぎない」とはねつけるが、報道弾圧・言論弾圧の気質は元々自らの血に根付かせていたようだ。

 2013年12月に明るみに出た与党の大規模汚職事件ではエルドアンが息子に資産隠しを指示した会話とみられる音声データがネット上に流出すると、自身を狙った外国勢力による陰謀だと主張、音声データも、その一例に過ぎないと親子の無実を訴えるが、2014年に入ってエルドアン自身が汚職に関与しているとの投稿がネット上に広がると、オンライン検閲の手を使ってネット規制を強めた。

 その規制にも関わらず汚職関与の投稿が続くと、2014年3月にツイッターを遮断する強攻策に出た。

 3月20日の演説。

 エルドアン「ツイッターを根絶やしにする。国際社会が何と言おうが構わない」(NHK NEWS WEB
 
 この遮断にアメリカ等が批判するが、「国際社会が何と言おうが構わない」と言った通りを有言実行、ツイッターに続いて動画投稿サイト「ユーチューブ」を遮断した。

 但し憲法裁判所が4月初旬にツイッター遮断は憲法違反との判断を示したことから、遮断は解除されることになった。

 そして6月、再び憲法裁判所が「ユーチューブ」遮断を憲法違反だと判断。「ユーチューブ」遮断も解除されることになった。

 エルドアンの手による言論の自由・報道の自由の侵害に対してノーを突きつけたのは憲法裁判所であって、エルドアン自身のその体質を解除したわけではない。

 エルドアンはトルコで初めての直接選挙で大統領に選ばれることとなった2014年の大統領選挙に立候補、8月10日第1回投票で過半数の票を獲得し当選。8月28日、大統領に就任している。

 但しトルコにあっては大統領は儀礼的存在でしかない。後任の首相はエルドアンが指名、儀礼的存在でありながら、実権はエルドアンが握った。

 なぜこういう面倒な手続きを踏んだかというと、新憲法の制定によって現行の議院内閣制から自身に行政権を含めた権限を集中する新たな大統領制への移行を狙っていたからだそうだ。

 2015年10月、政府に批判的なメディア数社を接収し、国の管理下に置いた。2016年2月には同じく政府に批判的なテレビ局が放送中止に追いやられた。

 2016年3月4日にはトルコ政府は新聞社ザマンを接収、国の管理下に置いた。

 2015年11月にスパイ容疑などで逮捕され、投獄されたジャーナリスト2人に対して憲法裁判所が「表現の自由」や「報道の自由」が侵害されていると認定、釈放命令を出して2016年2月26日に釈放されたとき、憲法裁判所の決定は最終のものであり、その決定は如何なる方法であれ修正することができない規定であるにも関わらず、エルドアンはその決定に従わない姿勢を露わにした。

 このように報道弾圧・言論弾圧の気質を自らの血に根付かせているエルドアンは民主的な選挙で大統領に選出されたと言うものの、憲法改正を狙って自身に権力を集中させようとしている。

 その権力が特に何に向かうかは目に見えている。自身の保身と更なる権力の強化。そのための反対勢力の封じ込め、そのための報道弾圧、あるいは言論弾圧。

 民主的な立場からの離反を意味する。

 ヒトラーも民主的な方法で首相となりながら、最悪の独裁者と化した。

 もし全てに亘って民主的な手法で政治を行っている民主的な政権に対し民主的な選挙によらずに武力を用いてその民主的体制を倒そうとするクーデーターは非難されるべきであろう。

 だが、民主的な方法によらずに国民の民主的な活動を封じている国家権力に対してその政権を倒そうとするとき、民主的な方法は封じられているのだから、一体何を以て倒したらいいのだろうか。

 クーデターや国内テロが悪なのは民主的な方法で政権選択が可能な民主的体制を保障されていながら、その方法によらずに武力を以って政権転覆を謀る場合であって、その目的の多くは民主体制の破壊ということになるが、国民が報道の弾圧や言論の弾圧に曝され、あるいは集会の自由を侵害されていて、民主的な方法では政権選択が不可能な、民主的体制が保障されていない状況下で、それ以外の方法では政権を転覆させて報道の自由や言論の自由、集会の自由を獲得できない場合は、そのような場合のクーデターは悪とは決して断定できないはずだ。

 もし北朝鮮で自由を獲得するために軍の一部がクーデターを起こして金正恩独裁体制を倒した場合、そのようなクーデターを悪と看做すだろうか。

 このような論法を当てはまると、共産党一党独裁で、時に言論の自由を認めず、政府批判の文化人やジャーナリストを一方的な裁判で刑務所に収容する中国での新疆ウイグルやチベットの独立を目的とした武力闘争は中国政府はテロとしているが、必ずしもテロとは断定できないことになる。

 エルドアンの報道弾圧、あるいは言論弾圧等の強権的政治手法と、憲法を改正してその傾向を強める意思が見て取れることを考えると、安倍晋三のようにトルコのクーデターを一方的に非難して「民主的体制は尊重されるべきだ」と言うのは単細胞に過ぎるように見える。

 大体がエルドアンの強権政治を「民主的体制」と価値づけ、尊重の意思を示すこと自体、滑稽な矛盾を孕む。

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