今回起きたパリの同時多発テロは死者が127名達したと昨日2015年11月14日のインターネット記事が伝えている。パリ中心部のコンサートホール、北部のサッカー場、それらの周辺の飲食店等、計6個所が自爆と銃撃の標的となった。
11月14日、「ISフランス」名義の、「イスラム国」(IS)が通常出す犯行声明と同じスタイルを使い、アラビア語、フランス語、英語を用いた「8人の兄弟が自爆ベルトと銃でフランス首都の標的を正確に攻撃した」とする犯行声明を出したと「asahi.com」記事が伝えている。
オランド仏大統領も「イスラム国」の犯行だと言明、「国内の共犯者の支援を得て、国外から準備・組織・計画された」と指摘したと「時事ドットコム」が伝えている。
犯行理由をフランスが今年9月、それまでイラクに限定していた過激派組織「イスラム国」(IS)に対する空爆をシリア領内でも始めたことへの報復との見方が出ているようだ。
コンサートホールを襲撃したテロリストたちはアラビア語で「神は偉大なり」と叫んで銃を乱射したという。自爆したテロリストも、例え叫ばなくても、「神は偉大なり」の信念を強く持ってテロを敢行はずで、テロそのものを、例え無事生還できたとしても、偉大であるとしているイスラムの神への命の捧げを意味しているはずだ。
特に爆弾を身に着けて信管を抜くかボタンを押すかして身に着けている爆発物を爆発させると同時に自身の身体も爆破させることになって自らの命を自らの手によって瞬時に投げ出し、死の世界に誘(いざな)う自爆テロは自分たちが信じるイスラムの神の教えに狂信的でなければできない業(わざ)であろう。
考えるに、イスラムの神に身を捧げることを崇高な行為とし、捧げることによって神に近い崇高な場所に自身を置くことができると、いわば神に近づくことができると暗黙の契約によってか、明示的な契約によってか、狂信していなければできない行為に見える。
このように考えた時、戦前の日本軍も自爆テロもどきの自死戦闘行為が存在していたことを思い出した。
硫黄島の戦いや南洋などの島嶼地での米軍との戦闘で圧倒的に優勢な米軍の軍事力の前に満足に真正面から戦うことができずに身体に爆弾を巻き付けてタコツボを掘って身を隠すか物陰に潜んでいて、米軍の戦車が来るとその下に飛び込み、「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶと同時に信管を抜いて爆弾を爆発させ、自身諸共に戦車を爆破させる。
「天皇陛下バンザーイ」と叫び、「ワー」と言う歓声を一斉に上げて敵陣に突っ込んでいくバンザイ突撃も自死を覚悟した戦闘という点で自爆テロにその性格を共通させていないこともない。
戦闘が面と面との攻防でありながら、相手の圧倒的な軍事力に対して面で対抗できずに兵士数人が爆弾を身に着けて戦車の下に潜り込んで戦車諸共に自死するといった、戦局を変える力もない個の戦いで対抗しようとする、あるいは戦局に変化を与える見込みがないままにバンザイ突撃して蹴散らされる、何となく物悲しい気もするが、こういった自らの命を率先して捨てることを厭わない戦闘行為を成し得たのは天皇を絶対的存在とし、天皇に自身の命まで含めた奉仕を絶対正義としていた狂信があったからこそであろう。
「天皇陛下バンザイ」とは天皇という存在すべてに対する賛歌(褒め称えること)であって、その存在を狂信していなければ出てこない日本人の精神性であるはずだ。
イスラムの過激派が「神は偉大なり」と叫んでイスラムの神に身を捧げる自爆テロを通して自身を神に近い崇高な場所に置こうとしているとしたら、旧日本兵にとってその崇高な場所とは靖国神社と言うことになる。
戦死することでそこに祀られ、自身が英霊なる神となって、現人神たる天皇の神としての存在に対してその末席に連なる。
そのような暗黙の契約によって理不尽な戦闘行為も道理に適った崇高な戦闘行為となる。
こう見てくると、イスラム過激派の自爆テロはかつての日本に70年遅れた狂信性を纏った戦闘行為と言えないこともない。
日本軍のみならず、国民も揃って日本全体が天皇の絶対性を崇高な思いで迎え入れる狂信者の集団と化していた。
戦後、占領軍の民主化政策によって上を絶対とする権威主義の呪縛から解き放たれたが、本質のところで権威主義性を思考様式・行動様式としているゆえに国家権力等によって絶対的な存在が創り出されると、あるいは再び天皇を絶対的存在に祭り上げた場合、いつ何時、かつての戦前のような上に対する狂信的な従属性が顔を覗かせない保証はない。
「イスラム国」の凶悪残忍な自爆テロをイスラム教徒の世界のみの出来事としてはならない。