学校でのイジメ防止対策は個人性の無視(=シカト)は人間の自然な心理として許されるとする教育から始める

2015-11-02 07:48:17 | 教育


 2015年7月5日、岩手県矢巾町の中2男子生徒が自殺を仄めかすサインを出していながら、学校は気づかずに列車に飛び込ませて死なせてしまった事件を受けて文部科学省が実態調査を遣り直すよう全国の学校に求めたところ、昨年度確認されたイジメは18万8000件余りに上り、調査を遣り直す前に比べて3万件近く増えたことが分かったとネット記事が伝えていた、

 文科省がこのような調査を指示したのは自殺した中2男子生徒の学校が教育委員会にイジメゼロの報告をしていたためで、認知されないままのイジメが他に存在することを疑ってのことだという。

 結果、3万件も増えた。

 「いじめ防止対策推進法」は2013年6月21日に与野党の議員立法によって国会で可決・成立し、同2013年6月28日公布、2013年年9月28日に施行されている。

 法律の成立から1週間後の公布はそれだけ緊急性を要していたからに違いない。

 法律は各自治体だけではなく、勿論、学校に対してもイジメ防止の対策を求めている。第4章第22条は、〈当該学校におけるいじめの防止等に関する措置を実効的に行うため、当該学校の複数の教職員、心理、福祉等に関する専門的な知識を有する者その他の関係者により構成されるいじめの防止等の対策のための組織を置くものとする。〉と規定している。

 法律の「いじめ防止対策推進」の名前通りにイジメの予防措置を指示している。

 だが、今回文科省が求めた調査の遣り直しの結果は多くの学校がイジメの予防ではなく、イジメの顕在化を待って対策を講じるイジメ防止とは名ばかりの構造となっていることを露わにしている。

 しかもイジメが起きていながら、満足に認知できていなかった状況をも露わにした。

 クラス担任が、あるいは教科担任がクラスの全員を前にして教壇に立っていながら、クラスの誰かが誰かを陰でイジメていて、授業中であっても一方が抑圧的な支配者としての心理を維持し、一方が理不尽に支配される者として鬱屈した心理を抱えていなければならない両者の力関係が働いていることに気づかずにいる。

 要するに学校のイジメ防止は事後処理法の構造を取っている。

 文科省は「いじめの定義」を次のように定めている。

 〈「いじめ」とは、

 「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」
とする。

 なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「一定の人間関係のある者」とは、学校の内外を問わず、例えば、同じ学校・学級や部活動の者、当該児童生徒が関わっている仲間や集団(グループ)など、当該児童生徒と何らかの人間関係のある者を指す。

  「攻撃」とは、「仲間はずれ」や「集団による無視」など直接的にかかわるものではないが、心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む。

 「物理的な攻撃」とは、身体的な攻撃のほか、金品をたかられたり、隠されたりすることなどを意味する。 〉――

 イジメの場合の攻撃はイジメる側とイジメられる側の間に上下の力関係が必要となるが、イジメの発端をつくるイジメの首謀者は自身を反撃を受けない安全地帯に置く必要性から上下の力関係を確実にするために、そのことがイジメを確実にすることになるが、その多くが仲間を1人以上引き入れて多数に恃む構造を取る。

 イジメる対象者が2人とか、3人の場合、それ以上の数の仲間を組んで、イジメという攻撃を確実にする。

 つまり、そういったことができる卑怯な性格、あるいは卑劣な性格、さらには狡い性格を有していなければ、イジメの首謀者足り得ない。

 イジメの首謀者がイジメを確実に成功させ、イジメによって自己実現を図るために引き込んだ仲間がイジメに積極的に加担、首謀者の指示以上にイジメを働く者は多くの場合、それなりに主体性を持ったイジメ同調者であって、首謀者を恐れて仕方なく仲間となり、首謀者の指示の範囲を超えないイジメで終える者は主体性を持ち得ないイジメ同調者だと類別できる。

 となると、イジメに関して主体性を持とうと持たなかろうと、仲間に誘い込まれそうになった段階で仲間となることを拒否できるそれ相応の意思――自律性の育みが集団を組むことを阻む力となり得ることになる。

 直接的な身体的攻撃ではない、「仲間はずれ」や「集団による無視」といった集団性を取った心理的な攻撃はイジメとなって許されないが、ここから集団性を剥いだ個人性の無視、個人的に友達とはならない関係性は学校社会だけではなく、大人の社会にも存在する自然な人間性としてある関係であって、学校は集団性と個人性を厳格に区別して、前者はイジメとして許されないが、後者は人間の自然な心理として許されるということを明確に伝えることからイジメの防止に取り掛かるべきではないだろうか

 つまり、決して集団性を取ってはならないことを厳重な条件とすることになる。誰かを仲間に引き込む形で、「アイツを無視してやろう」とか、「アイツとは友達にならないようにしよう」と仲間外れにすることを申し合わせて、申し合わせた通りのことを仲間と共に行うことは集団性を取ることになって許されない禁止行為とする。

 もし口を利きたくなければ、自分だけで口を利かないようにして、仲間を誘って同じことをさせるようなことは決してするなと。

 逆に仲間に誘い込まれようとしても、誘い込まれれば集団性を取ったイジメになるから、断らなければならないということを教える。

 このように集団性と個人性の無視(=シカト)の違いを通してイジメに於ける集団性と個人性の区別を学習させることで集団性に陥らずに個人性を維持する自律性育成の教育とし、そこからイジメ防止対策を行っていく。

 この提案が役立つかどうか分からないが、イジメが顕在化してから手を打つ対処療法から抜け出て、前以てイジメが発生することを防ぐ原因療法をそろそろ見い出さなければならないのではないだろうか。


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