菅仮免の思いつきのストレステストを正当化するための保安院を悪者にする記者会見

2011-07-14 10:18:10 | Weblog

 

 昨日(2011年7月13日)夕方6時から菅仮免が首相官邸で記者会見を開いた。冒頭、「一昨日で、3月11日の大震災からちょうど4カ月目になりました」と言っているが、原子炉稼動の新しい安全基準として突然持ち出した「ストレステスト」が政府内や特に原発立地自治体に混乱をもたらし、批判を受けることになったため、「ストレステスト」指示を正当化するための記者会見となっていた。

 そしてそれらを正当化するために原子力安全・保安院を悪者にしている。

 各発言箇所は首相官邸HP「菅内閣総理大臣記者会見」から引用。 

 このことを論ずる前に冒頭発言部分で被災地の復旧・復興に申し訳程度に触れていることについて。

 菅仮免「この間、大震災に対する復旧復興の歩み、被災者の皆さんにとっては、遅々として進まないという部分もあろうかと思いますけれども、内閣、自治体それぞれの立場で全力を挙げてまいっております。そうした中で仮設住宅の建設、あるいは瓦礫の処理など復旧の分野も着実に進むべきところは進んでまいっていると、そのように認識を致しております」

 自分たちの不足部分や至らぬ点を一方に置いてそれをさりげなく打ち消す肯定的要素を対置させて自らを正しいとするレトリックは菅仮免にとって十八番のパターンとなっている。

 この冒頭発言の最後の方でも、ストレステスト導入指示によって混乱をもたらしたことを「私からのいろいろな指示が遅れるなどのことによって、ご迷惑をかけた点については申し訳ない」と至らなかった点を謝罪しているが、この謝罪だけを見ると素直に謝っているように見えるが、その前段に導入指示は「国民の皆さんの安全と安心という立場」からのものだと肯定されるべき点への言及を対置させているために差引き至らなかった点を打ち消すことになるレトリックも同じパターンを踏んでいる。

 あるいは7月12日午前の衆院東日本大震災復興特別委員会の国会答弁でストレステストの混乱に関して、「私の不十分さ、指示の遅れなどで混乱やいろんなことを招いたのは申し訳ない」と自身の至らぬ点についての謝罪を一方に置きながら、「結果として国民的にも納得していただける形で、物事が進められることはよかった」(毎日jp)と肯定要素を対置させることで、至らぬ点の打消しを図って自らを正しいとしている。

 だが、「全力を挙げて」いるからといって「遅々として進まないという部分」は打ち消していいということにはならない。あるいは自分たちの方から許していいわけのものではない。

 政府や自治体の側の不足部分や至らぬ点を打ち消すことができる、あるいは許すことができる主体はあくまでも被災者や国民の側であって、政府の側にあるわけではない。それを政府の側としているのは被災者や国民の立場に立っていないからできることである。

 あくまでも政府の立場に立ち、そこから離れれないでいるから、「遅々として進まないという部分」を打ち消したり、自ら許したりすることができる。

 実際は被災者の側のみが政府も自治体も「全力を挙げて」いるのだから、「遅々として進まないという部分」があっても仕方がないと打ち消したり許したりすることができる。決して政府の側ではない。

 主体を取り違えて何とも思わないから、「着実に進むべきところは進んでまいっている」と主体不明なことが言える。あくまでも復旧・復興の主体は政府や自治体なのだから、「着実に進めるべきところは進めている」と主体を明確にした言葉を使うべきだが、現実には「着実に進めるべきところを進め」ることができていないから、主体を誤魔化すことになる。

 この主体の誤魔化しは主体としての責任意識の欠如と相互対応している。主体としての責任意識を欠如させているから、当然の結末として被災者の立場に立つことができないことになる。

 国会答弁で菅仮免は「結果として国民的にも納得していただける形で、物事が進められることはよかった」と言っているが、NHKの最新世論調査ではストレステストの評価を聞いたところ、

▽「大いに評価する」  ――3%
▽「ある程度評価する」 ――22%
▽「あまり評価しない」 ――34%
▽「まったく評価しない」――32%

 となっていて、否定的評価が合計で76%に上っている。

 朝日新聞の世論調査での「定期検査停止中の原発再開はストレステストが終わってから判断した方がいいか」といった質問に対して、

調査が終わってから判断した方がよい――66%
調査とは関係なく判断してよい   ――21%だが、

 「原発の運転再開をめぐる政府の一連の対応を見て、菅首相はきちんとかじ取りができていると思いますか。できていないと思いますか」の質問には、

かじ取りができている――9%
できていない    ――84%

 となっている。「結果として国民的にも納得していただける形で、物事が進められることはよかった」といった状況には決してなっていないにも関わらず、そうだとすることができるのは独善的観念が強いからだろう。この独善性が一国のリーダーとしての資質を欠いているにも関わらず、菅仮免を首相の座に居座らせるエネルギーとなっているに違いない。

 では「ストレステスト」を持ち出したことの正当化とその正当化するために原子力安全・保安院を悪者としている発言箇所を拾ってみる。

 菅仮免(冒頭発言)「これまで私が例えば浜岡原発の停止要請を行ったこと、あるいはストレステストの導入について指示をしたこと、こういったことは国民の皆さんの安全と安心という立場。そしてただ今申し上げた原子力についての基本的な考え方に沿って、一貫した考え方に基づいて行ってきたものであります。

 特に安全性をチェックする立場の保安院が現在原子力を推進する立場の経産省の中にあるという問題は、既に提出をしたIAEAに対する報告書の中でもこの分離が必要だということを述べており、経産大臣も含めて共通の認識になっているところであります」

 菅仮免(質問に対する応答)「私の基本的な考え方は、今回の事故を踏まえて、従来の法律でいえば、例えば再稼働については、経産省に属する原子力安全・保安院が一定のこうすべきだということをいって、そしてそれを自ら審査をして、そして自ら判断をして、最終的には経産大臣の判断で行えるという形になっております。しかし今回のこの事故が防げなかった理由は、数多くありますけれども行政的にいえばこの原子力安全・保安院が、ある意味原子力政策を推し進める立場の経産省の中にあるということが、一つの大きなチェックが不十分な原因ではないかと、これは当初から強く各方面から指摘をされておりました。そういった基本的な問題意識を持っておりましたので、そのことについてはIAEAの報告書の中でも述べて、そしてそうした保安院を近い将来、少なくとも経産省からは切り離す、このことでは海江田大臣とも全く同じ認識を持っているところであります。

 今回の問題について、私が多少指示が遅れた点はありますけれども、一番問題としたのは、そうした保安院だけで物事を進めていくことが、国民の皆さんにとって本当に理解を得られ、安心が得られるのか、この1点であります。そうした中で改めて私の方から関係大臣に指示をして、そうした国民の皆さまの立場に立っても理解なり納得が得られる、新しいルール、新しい関係者がどういう関係者かということも含めて、そういう新しいルールと判断の場を持ってどのようにすればいいかということを考えて欲しい、こういう指示を出しまして、先日官房長官からも皆さんにご報告をさせていただきましたけれども、統一的な見解を出すことになったわけであります。

 そういった意味でいろいろとご指摘をいただいておりますけれども、私が申し上げているのは、まさに経産省の中にある原子力安全・保安院だけの判断で、こうした形をとることについて適切でないという、その認識から行ったもので、それ以外の理由は全くありません」

  菅仮免(質問に対する応答)「現在の状況は、法律では保安院が単独でいろいろと基準を出して判断をしてもいいけれども、しかしそれは今のこの大きな事故があった中で、それが国民的に理解されるとは私は思えないわけです。ですからそういう国民の皆さんから見ても、このしっかりした形であればきちっとした判断ができるという、そういう形を作ってもらうために1つの統一見解を出していただきましたので、そういった統一見解に基づいて、きちっとした形での項目に沿った判断がなされて、そしてその判断が妥当なものだと、最終的には先日の4人、私を含む4人の大臣で、政治的にはその4人で最後は判断しようということで合意をしておりますけれども、そういう専門的な立場の皆さんのきちんとした提起があれば、そしてそれが大丈夫ということであれば、4人の中で合意をして稼働を認める、そのことは十分に有り得ることです」

 全て保安院を悪者としている。特に、「しかし今回のこの事故が防げなかった理由は、数多くありますけれども」と複合的要因だとしながら、「行政的にいえばこの原子力安全・保安院が、ある意味原子力政策を推し進める立場の経産省の中にあるということが、一つの大きなチェックが不十分な原因ではないかと、これは当初から強く各方面から指摘をされておりました」と直接的に悪者視している。

 事故を防ぐことができなかった原因は原子力安全・保安院が原子力行政を推進する経産省の中にあり、チェックが不十分になっていたからだ、だから原子力安全・保安院の安全判断・安全基準に代る新しい安全基準を必要とすることになったと「ストレステスト」を持ち出したことを正当化している。

 このストレステスト正当化のための保安院悪者視は昨日(7月13日)のブログにも触れたが、7月12日「KAN-FULL BLOG」でも同じ扱いにしている。

 〈原子力安全・保安院が経産省の中に存在して、“推進”と“チェック”を同じ所が担っているという矛盾は、早く解決せねばなりません。これは、既にIAEAという国際的な機関への報告書の中でも言明しており、今になって急に言い出したことではありません。この考え方に立てば当然、各原発の再稼働の判断等を、現行の保安院だけに担わせることはできません。現行法制上はそうなっていても、現実として、独立機関である原子力安全委員会を関わらせるべきだ、というのが、今回の政策決定の土台です。この決定と並行して、問題の本筋である原子力規制行政の《形》の見直しも、既に検討作業に入っています。〉と、原子力安全・保安院の立場上の役割により大きな責任を負わせている。

 確かに原発稼動の審査・判断は原子力安全・保安院が担っていたばかりか、原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は2010年5月の国会参考人答弁で「(全電源喪失は)あり得ないだろうというぐらいまでの安全設計はしている」と「原発安全神話」に立った姿勢で原発の稼動に臨んでいた。

 だが、内閣府所属の原子力安全委員会が2009年8月30日に策定した「発電用軽水炉型原子力施設に関する安全設計審査指針」「電源喪失に対する設計上の考慮」に関して、「長期間に亘る全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」と全電源喪失を想定しない指針となっていて、こういったことに対応した原子力安全・保安院の「原発安全神話」姿勢だったはずで、原子力安全委員会と原子力安全・保安院は相互責任を負っているし、東電にしても貞観地震クラスの津浪の危険性の指摘を受けながら、それを想定外とした経緯がある。

 いわば原子力安全・保安院を一人悪者にするのは公平性を欠くことになる。 

 また、事故が発生してからベントを早急に実施させることができなかった政府の対応、さらには真水注入から海水注入に切り替えるに4時間もの間があり、真水注入停止から約43分後に水素爆発を起こしたことを考えると、原子炉冷却を継続できなかったことも無視できない事故拡大の人災的要因となっていたはずで、見逃すことはできない危機対応に入れなければならないはずだ。

 こういった諸要素を無視して、菅仮免は原子力安全・保安院のみを一方的に悪者にしている。

 浜岡原発停止要請もストレステストの導入指示も国民の皆さんの安全と安心を考える立場からの、「一貫した考え方に基づいて行ってきたもの」であると恩着せがましく言っているが、そうである以上、原子力安全・保安院に対する悪者視、少なくともその稼動審査・稼動判断に対するあからさまな疑義も「一貫した考え方に基づいて」いなければならない。

 だからこそ、昨日のブログでも触れたが、2009年衆院選用の「民主党政策集INDEX2009」で経済産業省と原子力安全・保安院の分離と独立性の高い原子力安全規制委員会の創設を謳ったはずだ。

 だが、謳ったにも関わらず、分離・創設に動かなかった。

 このことだけでも「一貫した考え方に基づいて」いるとは言えないが、震災発生19日後の3月30日に社民党の福島瑞穂党首と首相官邸で会談。福島党首が原発建設を推進してきた経産省に原子力施設を規制する保安院が付属している問題点を指摘、いわば経産省の外局という身内意識から安全面のチェックが甘かったのではないかということなのだろう、分離を要請したのに対して、菅仮免は「今後、議論になる」(毎日jp)と答えていながら、しかも2009年マニフェストで政策としていながら、約3カ月半経過しているが、経産省と原子力安全・保安院の分離は今後の課題としていることも「一貫した考え方に基づい」た姿勢とは決して言えない。

 勿論、「国民の皆さんの安全と安心という立場」に立った行動とは言えない。

 この取り掛かりの遅さは原子力安全・保安院に対する悪者視、少なくともその稼動審査・稼動判断に対する露骨な疑義に反するスピードとなっている。

 また海江田経産相が6月18日に「原発の対策は適切」だと再稼働へ向けて打ち出した「安全宣言」は原子力安全・保安院の稼動審査・稼動判断に基づいた行動であり、その翌日の6月19日に菅仮免が「きちんと安全性が確認されたものはですね、順次稼動をしていこうじゃないか。あるいはいただきたいと。まあ、そういう趣旨のことを経産大臣が言われたわけであります。ですから、私もそこはまったく同じですね」と「安全宣言」を追認した時点では原子力安全・保安院に対して悪者視、その稼動審査・稼動判断に対する露骨な疑義は持っていなかったことになる。

 この追認は2009年マニフェストで経産省と原子力安全・保安院の分離を謳い、尚且つ3月30日の福島社民党党首との会談で福島党首から分離を要請されながら、実際行動に移さなかったスピードの遅さに対応しているはずだ。

 原子力安全・保安院の判断に厳格に疑義を持ち、悪者視していたなら原子力安全・保安院の判断に基づいた「安全宣言」は追認などできなかったろう。

 要するにその当時は原子力安全・保安院に対して身内意識から安全面のチェックが甘かったのではないか程度に見ていたに過ぎなかった。

 だが、事ここに至って原子力安全・保安院に対する一方的な悪者視、少なく見積もっても、稼動審査・稼動判断にあからさまな疑義を呈することになっている。しかもこの悪者視・疑義は「ストレステスト」指示と殆んどの場合対応させて発言している。

 これは一方に自分たちの不足部分や至らぬ点を持ってきて、それをさりげなく打ち消して肯定要素と対置させるレトリックと同じ構造を取った、その最大級のレトリックであろう。

 この相互関係からすると、「ストレステスト」指示を突然持ち出したことに対応させて原子力安全・保安院に対する一方的な悪者視、あるいは稼動審査・稼動判断に深い疑義の突然の提示ということになる。

 このことを逆説するなら、「ストレステスト」指示を突然持ち出さなかったなら、決して口にして言い出さなかった原子力安全・保安院に対する一方的な悪者視、あるいは稼動審査・稼動判断に対するあからさまな疑義だと言える。

 「ストレステスト」指示を突然持ち出す前までは、そういう関係にあった。特に6月19日の時点では、保安院だけを取上げて公言して憚らない形で悪者視することはなかった。

 いわば「ストレステスト」を突然言い出して混乱を招いた失態を打ち消し正当化の補強とする保安院に対する悪者視という関係しか見えてこない。

また、記者会見が「ストレステスト」を思いつきで突然言ったことの正当化を図ることを主眼としていたからこそ、「原発に依存しない社会を目指す」、「計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもきちんとやっていける社会を実現していく」と言いながら、具体的な時期や具体的な削減の形を伴った具体的なスケジュールを、本来なら逆の構造を取らなければならなかったにも関わらず示し得なかったのだろう。


 
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