「横浜市瀬谷区の堀病院が助産師の資格のない看護師らに助産行為をさせていた事件で、横浜地検は、保健師助産師看護師法(保助看法)違反の疑いで書類送検された堀健一院長(79)ら11人を1日にも起訴猶予とする方針を固めた」(07.2. 1/読売新聞『無資格助産 院長ら11人起訴猶予 横浜地検』)
不起訴理由は無資格助産行為は個人病院の多くで行われていて、起訴した場合、産婦人科医療現場に混乱が起きると見たということらしい。
受験科目を優先させるための世界史履修無視が多くの高校で慣習化していた。一つ二つの高校だったなら、校長やそれを知っていた教育委員はそれなりの罰則を受けただろう。時間を減数した再履修で事なきを得たが、罰則で臨んだ場合、教育現場に混乱が起きたに違いない。両者とも現場の実態に行政が対応しきれない能力不足の面もあるだろう。
履修無視は政治家・行政が学力低下を言い立て、学力の向上で学校の尻を叩くが、学力が高校入・大学入試を含めたテストの成績で計る構造となっていることから受験に無関係な科目の排除・受験科目重視へと追い立てることとなった教育現場の実態に何ら手を加えることができなかった教育行政の認識不足も原因しているはずである。
同じ新聞は「内診について厚生労働省が02年と04年の2度、『看護師では違法』とした通達を出している」が、「厚労省が05年に設置した諮問機関『保助看法あり方検討会』では、看護師が内診を行っていいかどうかなどについて統一見解を示せず、医療関係者から通達の見直しを求める動きも出ている」と伝えて、「統一見解を示せ」なかったのは、「看護士では違法」、「内診」は助産師に限るとした場合、やはり検察と同様に現場に混乱が起き、出産が不可能となる恐れが出ると見たからだろう。いわば、現状追認の形で放置しするしかなかった医療行政の対応能力不足を指摘している。
言ってみれば、無資格助産行為も高校の履修不足も無能な行政の犠牲と言えないこともない。
厚労省に対しても検察に対しても上記状況に追い込んだ〝現状〟の具体的な説明を新聞は次のように解説している。
「看護師らによる違法な助産行為の背景には、助産師の雇用を巡る問題がある。国内で就業する助産師は約2万6000人おり、国は『総数は足りている』としているが、実際は助産師が公的病院に集中し、個人経営の産院には不足している“偏在”が問題になっている。
病院と個人経営の産院で扱う分娩(ぶんべん)総数はほぼ同数だが、産院などに雇われている人は18%と少なく、68%が病院で働いている」(06.8.24.「読売」『「出産数日本一」の病院、無資格の助産行為で摘発」)
助産師資格のない看護師による「内診」で手荒な処置や出産後の母親の死亡事故等が起きているとのことだが、「産院などに雇われている人は18%と少なく、68%が病院で働いている」という実態の原因は、「『待遇』を指摘する声がある。給与や福利厚生、労働条件は大病院と比べると見劣りしがちだ。人員が少ない分、責任も重くなることを敬遠する傾向もあるようだ」(06年9月6日の『読売』『(2)診療所をなぜ嫌う 産科看護師との微妙な関係』)と報じている。
待遇がいいからと、総合病院などの大きな病院に集中する。結果、排除された個人経営の医院などの小さな病院は人手不足に陥り、一人頭の責任が重くなって、なお敬遠される悪循環を窺うことができる。
これは都会の方がいい暮らしができる、さまざまな娯楽施設・商業施設も整っていて、充実した人生を送れると都市に集中し、地方を敬遠する人口偏在と軌を一にする傾向だろう。その結果の地方の過疎化と都市の過密化。その果ての東京一極集中。
しかしこれらの傾向の本質的原因は日本人の権威主義的性向が仕向けた実態化でもあろう。助産師や看護師の場合で言えば、街の医院よりも、総合病院に勤めた方がカッコーがいい、ステータスとなるからと選択する権威主義(上下に権威づけて、上の権威をより価値ありとする価値観)がそもそもの「偏在」をつくり出し、結果として総合病院の待遇をよくして、なおさら「偏在」に拍車をかけ、街の医院の人員過疎と低待遇を招く。
地方から都市への人口流出にしても、きつくて身体が汚れる肉体労働だと農業を低く見て忌避し、格好よくしていられる都会のサラリーマンを上の職業と見る権威主義が本質のところで誘因を成す現象であろう。若い女性の農家の嫁になるよりも、都会のサラリーマンの嫁志向にしても、農家の嫁を低く見る権威主義が仕向けた傾向に違いない。そのことが農村の嫁不足を生じせしめて独身者をつくり出し、せっぱ詰まって嫁探しに最初は韓国、ついで中国、さらにスリランカ、アフリカにまで足を伸ばす農村の皮肉な実態を現出せしめた。
高校の履修無視にしても素因は旧帝国大学を全身とする国立大学や私大でも歴史の古い早大・慶大を上位権威とし、その他の大学を順次下位に置く序列づけと、その序列を学制にまで広げて、高卒よりも大卒を上の権威とする教育場面での権威主義を成す学歴主義の煽りを受けた学力偏重(=テストの成績重視)が引き起こした受験科目偏重に過ぎない。さらに言えば、このような傾向は社会の大卒偏重、特に有名大卒偏重の権威主義を受けた構図としてあるものだろう。
社会の実態がそうであり、それを受けた学校の実態を認識することもできずに教育行政に関わっている。例え履修無視を行っていない高校でも、受験重視(=テストの成績重視)教育となっているはずである。そのような学歴主義の恩恵を受けて、行政に関わるそれぞれの官庁の役人は現在占めている席に座っていられるのだろう。テストの点数を力とした学歴主義の成果だから、「看護師が内診を行っていいかどうかなどについて統一見解を示せ」ない現状追認の無責任な対応しかできなかったのだろう。
厚労省は「現在、国内で就業している助産師は約2万6000人だが、日本助産師会によると、助産師免許を持ちながら、助産師としては働いていない『潜在助産師』が、やはり約2万6000人いる。国は今年度から、潜在助産師に復帰を促す研修事業を始めた」(06.8.25.『読売』『無資格助産行為、出産現場は違法日常化 “割安”看護師が代役』)ということだが、自ら働く気があれば、他人の手を煩わさずに「復帰」しているだろう。中には他から促されて、じゃあ、と思い直す人間もいかもしれないが、多くを望めるのだろうか。
尤も時間とカネをかけることになる「研修事業」を始めるについては多くを望めると計算した上でに違いない。何しろテストの成績で地位を獲得した優秀この上ない日本の役人たちである。ただ雁首を揃えているわけではあるまい。障害者が福祉サービスを利用する際の自己負担額原則1割とした06年4月から施行の「障害者自立支援法」が障害者に過剰な負担を強いる内容だと分かって1年も経たずに軌道修正するといった誤った見通しを立てるはずもない。
平成15年度の厚生省統計で国民医療費に占める割合が「36.9%」の「約11兆6,523億円」にも達している高齢者医療費の増加の食い止めと介護保険料給付費の減額を目指して(06年度は1500億円の介護保険料給付費の減額を見込んでいたという)、運動施設を国が用意し介護を必要としない老人の育成を目的とした「介護予防事業」を06年度事業費として320億円つけてスタートさせたものの、予定した参加者が集まらず、1年で見直すヘマを犯すはずもない。
日本産婦人科医会は「かつて、お産の進行度などを診断する『内診』を『単なる計測であり、看護師にもできる「診療の補助」に当たる』と解釈、会員を指導してきた。同医会は1960年代から『産科看護研修学院』という講座を各地で開催、看護師や准看護師らに研修を受けさせ(産科看護師)などと呼んで組織的に内診させていた」(06.8.24.『読売』『「出産数日本一」の病院、無資格の助産行為で摘発』)といった経緯があるという。
ドイツの自動車運転免許取得は日本のように自動車教習所内で運転を習うのではなく、いきなり一般公道に車を走らせて練習するということだが、例えエンジンをかける方法を知らない人間でも、訓練次第で満足に運転できるようになる。
このドイツの実態を産婦人科医院の看護師に当てはめるとしたら、ドイツの運転教習者以上の、既にある程度の医療知識を身につけた立場で彼らは〝公道〟に出ているのである。助産教育現場ではなく、医療現場という〝公道〟から出発したとしても、既に身につけている先行条件に助けられて、ドイツの運転教習者が習得する以上の助産技術を身につけるはずである。技術とは所詮、センスがモノを言う。有名医科大学で高度の技術を学び、国家試験に1発で合格したとしても、センスのない人間が自身の経歴を過信したら(センスがないから過信するのだが)、何らかの医療事故を引き起こすことになるだろう。
〝公道〟での訓練で資格を与えた上で、何らかの事故を犯した場合は不起訴といった現状追認の事勿れな処置ではなく、関係者共々厳しく罰してそれ相応の責任を取らせるべきではないだろうか。