人の死をも利用する安倍首相の冒涜行為?

2007-02-14 12:02:23 | Weblog

 昨日の『朝日』夕刊(07.2.13)『お巡りさん快復適わず 女性救助の宮本さん死去』

 「女性を救おうとして電車にはねられ、意識不明の重態だった警視庁板橋署常盤台交番の宮本邦彦巡査部長(53)=12日付で2階級特進し警部=が12日午後、入院先の東京都板橋区内の病院で死亡した。快復を願う家族や市民らの願いは届かなかった。知らせを聞いた市民らが13日朝も宮本さんの勤務先だった交番を訪れ、手を合わせた。(後略)」

 後段に、『安倍首相が弔問』の見出しで次のように伝えている。

 「安倍首相は12日夜、死亡した板橋署常盤台交番の宮本邦彦巡査部長の弔問のため、同署を訪れた。殉職した警察官に対する首相の弔問は異例だ。
 首相は記者団に宮本さんの名前を「ミヤケさん」と言い間違えながらも、『危険をかえりみずに人命救助に当たったミヤケさんのような方を私は総理として、日本人として誇りに思います』と語った。」

 実は安倍首相の弔問は13日早朝のTBS「みのもんたの朝ズバッ」で知った。そのテレビ画面では安倍首相の弔問を次のように映し出していた。

 「ミヤケさんの、亡くなられたミヤケさんのような方が街の安全をお、(と言いかけて)守っているのだと思います」

 昼前のTBSテレビは「危険を顧みず、救助に当たった。総理として、日本人として誇りに思います」と話した部分のみを報道している。

 「街の安全を守っている」で済むところを、「お守っている」と、丁寧語の「お」をつけかけた。いくら丁寧に言おうと心掛けたとしても、普通は間違えない間違えであろう。そして「宮本さん」と言うべき肝心要の名前を「ミヤケさん」と間違えている。

 どの新聞もテレビも、これらの間違い自体に焦点を当てて取り上げていなようだが、死んだ者を悪く言わないという一種の慣例から、首相の間違いに焦点を当てた場合、善行を働いた結果の〝死〟に対してもケチをつけることになるのではないかという日本人特有の当たり障りのなさを願う物怖じが働いたからかなのだろうか。

 宮本巡査部長が意識不明の重態に陥って入院して以来、勤務先の常盤台交番には近隣住民や地元小学校の児童が無事回復を祈って千羽鶴や花束を持ち寄っている。記帳台も設けられ、記帳(200人を超えたと言う)や献花に訪れる人が跡を断たなかったという。いわば街の人間の信頼を得ていた証拠の現れであろう。

 安倍首相の弔問に関しての具体的な様子を、『日刊スポーツ』のインターネット記事が次のように伝えている。

 「(前略)夜には安倍晋三首相(52)と伊藤哲朗警視総監(58)が弔問のため、板橋署を訪れた。安倍首相は、講堂に設けられた祭壇の遺影に手を合わせ、宮本巡査部長の長男に『お父さんを見習って頑張ってください』と声を掛けた。

 弔問後、首相は、同署玄関前で報道陣の代表取材に応じた。その際、宮本巡査部長の名前を『ミヤケ』と繰り返し間違える失態を演じた。『亡くなったミヤケさんのような人が日本の安全を守っている。危険を顧みずに人命救助に当たったミヤケさんのような方を、私は総理として日本人として本当に誇りに思う。そのことをご遺族に伝えた』と述べた。関係者によると、弔問は急きょ決まったというが、締まらない結末になってしまった。[2007年2月13日8時7分 紙面から]」

「弔問は急きょ決まった」。ここに名前の言い間違えと「守っている」に「お」をつけかけて「お守っている」と言いかけた原因があるのではないだろうか。

 宮本巡査部長が線路内に入った女性を助けようとして電車にはねられ重傷を負ったのは2月の6日の夜であって、回復ならずに死亡したのは6日の夜から6日間経過した12日の夜である。

 もし安倍首相が「亡くなったミヤケさんのような人が日本の安全を守っている。危険を顧みずに人命救助に当たった」(日刊スポーツ)、あるいは「私は総理として日本人として本当に誇りに思う」(同)と言っていることが心の底からの事実なら、事故に遭ってから死亡するまでの6日間、関心を持って新聞・テレビの報道に接していたに違いない。自身が常日頃言っている「美しい国」日本の一場面にしてもおかしくない人命救助でもあろう。

 さらに言うなら、支持率を気にしている手前、マスコミが自分のことをどう報道しているか、新聞・テレビを仔細に眺めることを日課としているだろうから、そのついでに目に入ってしまう程度の関心ではなく、注意を持って眺めていたはずである。

 当然の結果として、宮本巡査部長の顔と名前は否でも安倍首相の記憶に張り付く。安倍内閣の支持率・非支持率の数字に優るとも劣らないインパクトで記憶に張り付いていたとしても不思議はない。

 だが「宮本巡査部長の名前を『ミヤケ』と繰り返し間違える失態を演じた」(日刊スポーツ)。

 安倍首相の記憶には「宮本巡査部長」という名前は張り付いていなかったのである。「宮本巡査部長」という名前の代わりに「ミヤケ」なる名前が張り付いていた。親しくしている女性の名前でないことを願うだけである。

 記憶に張り付いていなかったと言うことは、人命救助と入院後の経過を献花や記帳した近所の児童や成年男女程には強い関心を持って眺めていたわけではないことを証明して余りある。

 「弔問は急きょ決まった」ことも関心を持って眺めていたわけではないことを証明している。日本国の首相が持つ情報収集力を頼まずとも、どの程度の確率で助かるか病院に問い合わせるくらい簡単なことで、関心の程度で「弔問」は前以て予定に入れることもできる。しかし予定にも入れていなかった。

 では、なぜ「弔問は急きょ決まった」のか。「殉職した警察官に対する首相の弔問は異例だ」と『朝日』が報じている「異例」の「弔問」なのである。これはテレビ・新聞、特にテレビの報道頻度と無関係ではあるまい。マスコミは世間の関心を考慮して報道頻度を決めるが、報道頻度を自ら高めることで世間の関心を焚きつける場合もある。ある特定の食品に特定の健康効果があるとする番組を報道して、視聴者がその食品に飛びつくという構図はマスコミ側が焚きつける世間の関心の典型例であろう。その効果を利用しようとするあまり、捏造番組に走ることになる。

 「常盤台交番には13日朝までに約60束の花束が届けられ、記帳する人は200人を超えた。出勤途中や近所の人たちが交番の前で足を止め、手を合わせて宮本巡査部長の冥福を祈った。」(北海道新聞/2007/02/14 07:13)

 「宮本巡査部長が一昨年2月に配属された常盤台交番には、7日朝から近隣住民や地元小学校の児童らが千羽鶴や花束を持ち寄った。8日も別の小学校から千羽鶴が届き、駅の利用客らも、交番の同僚に「自分より、都民を守ろうとする姿に感動した」「早く良くなって」と声をかけていた。」(2007年2月9日3時12分 読売新聞)

 6日夜に事故が発生し、その次の「7日朝から近隣住民や地元小学校の児童らが千羽鶴や花束を持ち寄った」のである。如何に人望があったか物語って余りある。

 テレビも新聞が報じる光景を連日のように報道していた。マスコミの関心も世間の関心も同情と回復を祈る方向で集まっていた。そこに安倍首相が「弔問」の形で顔を見せる。宮本巡査部長の勇気ある行為に思いを馳せつつ切に回復を祈り、その祈りも空しく死を知って残念に思う世間の人々と同じ位置に立って自分を重ねる。どれ程に深い気持ちで回復を願ったか、だが、その祈りも空しく、どれ程に残念に思っているか。だが、その殉職行為は「総理として日本人として本当に誇りに思う」。

 それが事実なら、世間は何と素晴しい首相だろうと思うに違いない。世間がそのように受け止めたなら、支持率低下の逆境に見舞われている安倍首相にしたら、間違いなく一服の支持率回復剤になるに違いない。

 しかしそれは名前の言い間違えがウソだと教えている。名前の言い間違えだけではなく、言葉の使い方に意識を過剰に働かせること自体、本心からの言葉でないことを証明している。「お守っている」と敬語の「お」までつけかけたおまけつきまで犯してしまった。捕らぬ狸の皮算用とまで行かなくても、かなりのヘマを演じたことになる。

 いわば「異例」の「弔問」は支持率回復の計算を働かせたパフォーマンスだったと考えられないこともない。そう疑われても仕方がない名前の言い間違いであり、言いかけた「お守っている」ということだろう。周囲から勧められたのか、自分から買って出たのか。

この推測が当たっているとしたら、安倍首相の行為は自身の人気回復のために宮本巡査長の死をも利用した、「弔問」の形を取った一個の死に対する冒涜行為となり下がる。 

コメント (1)
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