運動に於ける新たな練習理論 :(<リズム&モーション>)

2007-02-13 06:27:30 | Weblog

 これは主として特別な才能を持たない運動選手の体力と技術の底上げを目的とした練習理論である。野球で言えば、高校野球や大学野球、あるいはプロ野球の万年2軍選手に有効と思われる。

 この運動理論は最初に断っておくが、科学的根拠なし、経験からの理論付けのみ。経験からと言っても、プレーヤー、あるいはアスリートとしての経験・実績はゼロに等しいから、乏しい経験を基に頭の中で考え出した練習理論に過ぎない。既に誰かが以前から実践している理論であるとか、全然役に立たない可能性もあるが、だとしたら、悪しからずご容赦を。
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 ①<リズム&モーション>

 すべてのトレーニングに亘ってのコンセプトは<リズム&モーション>。リズムとモーションを一体化させたトレーニングを意識的、目的的に、且つ継続的に行うことで、その二つが身体に一体化して記憶され、肉体化を受ける。

 当然必要とする動きが求められたとき、身体は記憶し、肉体化していた情報に従って、リズムとモーションを一体化させた動き(<リズム&モーション>)で反応することになる。

 ダンスを考えてみれば、理解を頂けると思う。同じステップを踏み続けることで、リズムとモーションが身体に記憶され、肉体化して、逆に身体は音楽を主体とした外部からの動きの指令に従って自然とステップを踏むようになる。ダンスのステップ自体が<リズム&モーション>で成り立っている。私自身、ダンスの経験はないのだが、上達したダンサーを見ると、彼らは非常に心地よい動きをする。運動に於いても、リズムとモーションを一体化させた動きは大切で、そのことは野球の試合で解説者が好調に投げている投手を評して、「非常にリズムよく投げている」とか、勝利投手自身が「最後までリズムよく投げることができた」と勝因を分析したりする言葉が証明している。途中で崩れた投手は「リズムに乗れなかった」とか言う。

 勝利を手にしたマラソンランナーにしても、「最後までリズムよく走れた」と言うし、逆に希望したとおりに走れなかったランナーは「途中でリズムが崩れてしまった」と述懐したりする。

 かくこのようにプレーする点でリズムに則った動作(モーション)=<リズム&モーション>が重要な要素となるということなら、リズムとモーションを一体化させた身体の動きの習得を最初から目的とし、そのことを基本に据えた継続的なトレーニングが重要になる。

 ではどのような種類のトレーニングかと言うと、2種類の方法がある。第1の方法は、一般的な行動速度よりもゆっくりとしたリズムとモーションを長時間持続させるトレーニング。ゆっくりとしたリズムとモーションを一つ一つ味わい、身体に受け止めることで、逆にそのリズムとモーションを身体に確実に記憶させていきながら、それを長時間続けることで体力と精神的な忍耐力をつけていく方法。

 人間は歩く場合も人それぞれに歩くリズムとモーション(歩くスタイル)を持っている。普段歩く速度を半分にしてスーパーに行くにもコンビニ行くときも用を足せと指示されたら、目的地に着かないうちに苦痛に感じて、目的を達するには相当な忍耐力を必要とするに違いない。だが、このような指示を繰返し完遂させていったなら、逆に忍耐力がついていくはずである。

 人間の1時間当りの歩く速度は平均4キロだと言われている。健康である人間なら、4キロを1時間で歩けと言われても、さして苦にならない。ましてや何らかの運動をしている人間にとっては朝飯前に違いない。

 だが、1時間で4キロ歩くのと同じ体勢(リズムとモーション)で立ち止まらずに4キロの距離を2時間で歩けと言われたら、体力的には何らきつくなくても、心理的には相当な苦痛を強いられるだろう。人間に与えられている普段の自然な歩行速度(リズムとモーション)に反して、その半分の速度に落とし、その速度を2時間維持しつつ歩かなければならない。1時間で解放されるところを2時間も費やさなければならない。

 2時間を通して相当な忍耐が要求される。要求を完遂することによって、逆に忍耐は身についていく。忍耐を要求されたことのない人間は忍耐することを知らず、覚えることはないことの逆バージョンである。人間は学習することによって、学習した事柄が身についていく。

 しかし今までの練習はリズムとモーションを一つ一つ味わい、身体に受け止めていくと同時に体力だけではなく、忍耐力もつけていくことを目的としたトレーニングとなっているのだろうか。単に指示されたことを上手にこなす(消化する)トレーニングとなっていないだろうか。

 具体的な方法を述べる。足腰の鍛錬のための長距離ランニングの場合。

 主としてランニング練習はグランドで行う。グランドで行う長距離ランニングはフェンスの内側に沿ってグランド何周とか走行距離を決めてか、大体の時間を決めて走らせたり、あるいは塁間のラインを何回も往復させてタイムを競わせるといったことをする。フェンスの内側に沿ってのランニングの場合に於ける<リズム&モーション>では走行距離も走行時間も決めず、また競争もさせずに整然と整列した集団で、口の中で1、2、1、2とリズムを取らせて電動車椅子の速度程度に決めて、その速度を最後まで一定させたゆっくりとした走りで黙々と走らせる。コーチの一人が電動椅子を運転して先導のペースメーカーを務めるか、一定の速度にセットして走らせことのできる、ゴルフ場のカートみたいな自動走行車両を利用するかしたらいいかと思う。

 これは人間の1時間で4キロ歩く歩行能力を2時間で4キロ歩かせるトレーニングの応用なのは言うまでもない。

 1、2、1、2のリズムを全員が一斉に口に出して取るのではなく、選手それぞれの口の中で取らせるのは、口に出した場合、リズムが外に向かい、それだけムダが生じるからである。口の中で取ることによって、身体がムダなく呼応し、ムダなく記憶されていく。

 選手たちは走行距離も走行時間も決められていないから、意識を最終地点に向けることができないためにどれくらい走ればいいと消化のための走りはできなくなり、逆に1、2、1、2と口の中でリズムを取ることによってリズムとモーションを一つ一つ受け止めながら黙々と、且つ延々と走ることになる。各選手は息が切れていくに従って、口の中の1、2、1、2のリズムが崩れてきて、集団から遅れてくる選手が出てくるが、口の中の1、2、1、2のリズムを可能な限り保持し、可能な限り集団についていくように前以て指示して置く。

 それでも集団は息の切れた選手からバラけてくるが、〝延々〟の距離は最後に息切れすることになる選手がもうこれ以上走れないと歩き出し、疲労を回復させてから再び口の中でリズムを取って走るといったことを2~3回繰返させるまでとする。それ以前に息切れした選手も立ち止まることを許さず、どのくらい先頭に遅れても歩いて従い、疲労が回復したところで、口の中で1、2、1、2、のリズムを再度取って、終了時間まで何度も走らせる。最後にスタート地点から終了地点までのタイムと距離を記録しておく。次回はその距離を伸ばし、逆にタイムを縮めるように仕向けていく。

 電動車椅子程度のゆっくりとした速度で口の中で1、2、1、2のリズムを取らせ、黙々と、且つ延々と走ることによって、そのリズムとモーション(=身体の動き一つ一つ)は自然と自身の身体に記憶されていく。1、2、1、2とリズムを取ることによって、否応もなしに地に足をつけた走りとなり、且つ、どのくらい走っていいのかも分からない距離を息切れしても、その息切れが直ったら、また走らせる反復はひたすら走ることを受け止めていかなければならないから、肉体的と同時に精神的な忍耐力(持久力)を養う。  

 逆に何周とか、どれくらいの時間と前以て決めておくと、何周を目的にしたり、時間を目的に走る消化の要素の入ったトレーニングになりやすい。

 急な勾配の山道を膝に手を置き、息を切らしながら一歩一歩のリズムをつけて黙々と登っていく姿を想像すれば、理解できると思う。一歩一歩のリズムを身体が受け止め、受け止めることによって登っていく姿が自然と目に焼きついていく。そういったことを通して肉体的な忍耐力(持久力)だけではなく、精神的な忍耐力(持久力)が自然と身についていく。逆にそういった山登りを何回も繰返すことで、より確実に肉体化させた山登りのリズムとより強化されることになる肉体的・精神的な忍耐力(持久力)が渾然一体となったより高度な<リズム&モーション>を獲得していくことになる。そのような山登りの長距離ランニングトレーニングへの応用でもある。

 一つのトレーニングが終了したら、5分程度の休憩を入れる必要がある。休憩を取ることによって、体力は蓄積されると同時に休憩による体力の回復が新たな力を生むからでもあるが、休むことによって精神的な余裕を持つことができるからでもある。どこかに余裕(機械で言うと〝遊び〟)がないと、疲労回復を遅らせるだけではなく、回復の遅れが常態化して、最終的には体力の寿命を縮めることになる。

 休憩による体力の回復は新たな力を生むと言ったが、疲れ切った状態で休みなしに次々とメニューをこなそうとすると、どうしても動きが惰性となる。当然リズムを失う。個々のトレーニングだけではなく、練習全体もただ単に消化するための義務となり、その繰返しを続けるだけとなり、惰性化したモーションとリズム喪失の状態からは満足な<リズム&モーション>は生まれるはずはないし、当然満足な形で身体に記憶されないことになる。

 ボクサーが試合で3分のラウンドの間に1分の休憩がなかったなら、回を重ねるごとにステップはリズムを失い、打ち合いの殆どは威力もないパンチを惰性でただ単に繰り出すだけとなるのは目に見えている。1分の休憩があることによって、体力の回復が可能となる。ラウンドを重ねるごとに体力の回復は遅くなるが、それでも戦っているときの体力消耗を1分の休憩が僅かでも救うことになる。

 このゆっくりとしたスピードで延々と続けるトレーニングは他のすべてのトレーニングに応用する。ゆっくりとしたスピードによって、身体への<リズム&モーション>の記憶を確実に刻み込んでいく。距離を決め、選手個々のスピードで競わせるトレーニングは、それが苦痛を伴うほどに消化が目的となる。例えば同じ足腰の鍛錬としてうさぎ跳びをホームベースからダイヤモンドを一周させるといったことをさせるが、息切れがして苦しくなると、その苦痛から逃れるために少しでも早くホームベースに辿り着こうと消化が目的となって、膝を最後までしっかりと曲げずに、中腰のうさぎ跳びとなる。結果、<リズム&モーション>を身体に受け止め、記憶する作業が疎かになる。消化が目的となっても、何度も反復することによって体力も忍耐力もそれ相応に身についていくが、一つ一つの動きなどどうでもよくて苦痛から逃れようとするのと例え苦痛であっても、一つ一つの動きを自分から全身に受け止めていくのとでは、リズムの受け止めにも違いが生じるし、記憶されることになる<リズム&モーーション>の質・強弱にも違いが生じる。当然忍耐力にも関係してきくる。

 うさぎ跳びにしても距離も時間も決めず、コーチの一定の時間を置いて吹くホイッスルに合わせて跳ばせる。ピーと吹いて一歩前進させてから腰を完全に落とした状態で停止させ、またピーと吹いて一歩前進させる反復をかなりの距離続ける。可能な限り同じリズム、同じ動き(=モーション)を維持させることによって、身体への記憶と忍耐力を確かなものへと仕向けさせる。

 ホイッスルに合わせなければならないことと最終地点が不明であることによって、苦痛から逃れるための消化とすることはできない。苦痛にギリギリまで耐えることだけが要求される。順次遅れの出る者が出てくるが、息切れした場所にうさぎ跳びの姿勢のまま休憩させ、跳べるだけの体力(=耐力)が回復したら、再び続行させる。要領のいい人間は回復しても、少しでも苦しいトレーニングから逃れるために回復しない振りをするかもしれないが、そういったことは個々の選手の判断と責任に任せる。積極的に続行する選手はそれだけ忍耐力と体力、及び<リズム&モーション>を身につけていくだろうから、そのうち、違いが出てくる。

 どのトレーニングも回数を重ねることによって、距離も時間も延ばしていくことができる。選手は常に距離も時間も知らされていない状態で一つ一つのトレーニングを続けていかなければならないから、一つ一つを消化しようとする心構えではなく、最初から耐える心構えで応じるしかない。

 今シーズンから読売巨人軍から横浜ベイスターに移籍した工藤投手がトレーニングジムで鉄棒を使って懸垂している姿をテレビで報道していたが、回数を重ねてきつくなると、最後の方は両足を撥ねて、その反動で身体を持ち上げると同時に顎をギリギリのけ反らせて鉄棒の上に持っていき、それを一回とし、それができなくなるまで懸垂に挑んでいた。これは多くの者が行う一般的な懸垂の方法となっている。

 この遣り方は苦痛から逃れるための消化運動ではなく、自分から苦痛に立ち向かって、ギリギリ耐えることができる限界まで挑んで腕力や肩の力をつけ、同時に忍耐力を養う運動となっていて、それなりの効果はあるだろうが、逆に身体のリズムは無視され、記憶されないことになる。

 両足を伸ばした正しい姿勢で最後まで同じ一定の規則正しいゆっくりとした速さで腕の力だけでイーチと口の中で回数を数えながら身体を持ち上げて顎の下に鉄棒を持っていき、身体を下ろす上下運動を往復のリズムとして何回か繰り返したのち、腕の力だけで持ち上げることができなくなったら、一旦鉄棒から降りて一休止して息を整え、力を回復させてから、再び鉄棒に飛びついて往復のリズムを崩さず、腕の力だけで身体を持ち上げることができる回数まで懸垂を行うということを繰返す。

 この方法は途中途中に一息入れることになっても、回数を重ねることで体力(耐力)をつけることができるし、一定のゆっくりとした速度(往復のリズム)と同じ姿勢を最後まで保とうとすることによって、<リズム&モーション>を味わい、記憶させていくことが可能となる。<リズム&モーション>を味わうとは、自分の身体の動き、あるいは身体の流れの一つ一つを意識することを意味し、意識することによって動きとリズム(<リズム&モーション>)が記憶へと向かう。意識のないところに記憶は生まれない。意識することによって、記憶は生まれる。また自身の動きを意識し、味わうためには、自分の身体の動きを振り返る(=確認する)心の余裕がなければ不可能である。心の余裕を常に用意しておくためには、身体を無暗我武者羅に動かしたり、痛めつけたりするのではなく、一定のリズムが必要となる。

 腕立て伏せも同じ。現在では腕立て伏せは胸が床や地面すれすれに触れるくらいに腕を曲げるといったことをせず、ほんの少し曲げ伸ばしするだけのチャカチャカした速い速度で100回200回と回数をこなすものとなっているが、<リズム&モーション>を一つ一つ確実に意識して自分の身体に受け止め、味わう作業が省略されていて、実のある<リズム&モーション>獲得のトレーニングとなっていない。

 これも一定の間隔を決めて吹くホイッスルに合わせてイーチ、ニーと口の中でリズムを取らせながら胸が床や地面すれすれに触れるくらいに腕をしっかりと曲げさせ、伸ばす繰返しを、自身の身体の動きに目を向けさせ、動きとリズムを受け止め、味わわせる具合に仕向けて耐えることができる回数までやらせる。続かなくなった者は腕を伸ばした状態で休ませ、体力が回復したら、再度ホイッスルに合わせて腕立て伏せを行わせる。全員がある程度くたくたになったところで、一息入れさせて力を回復させてから再度行うことを繰返す。

 動きに一定のリズムを伴わせて、一体とさせたその動きとリズム(<リズム&モーション>)を身体に記憶させる訓練は、より躍動感を持って身体を動かすことにつながっていく訓練となる利点を持つ。先に野球のピッチャーを例に挙げたが、打者のホームランにしても、サッカー選手のゴールシュートにしても、素晴らしいプレーというものは、すべて動きにリズムが伴っているが、一体化されて記憶した動きとリズム(<リズム&モーション>)が必要とされる運動に応じて相呼応する形で反応することになるからだろう。

 逆の関係も成り立つ。実際に身体を動かしていないときでも、1、2、1、2と頭の中でリズムを取ると、リズムと動きを一体化させて記憶している全身的な動き(<リズム&モーション>)が条件反射によって身体の内側に蘇ってくる反応を生じせしめるはずである。
 
 試合が緊迫した場面で打席に立って過度に緊張してあれこれと余計なことを考えてしまったとき、それを振り払う方法として1、2、1、2と口の中でリズムを取って身体に記憶させた<リズム&モーション>を蘇らせて身体の内側に躍動感を呼び覚ますことができたなら、より積極的な姿勢で投球に向かっていくことができるようになるのではないだろうか。

②試合に於ける<リズム&モーション>の練習での実践

 グラブとボール、バットを使った練習は、実際の試合で選手個々が発揮する<リズム&モーション>を実践できる形式とし、その反復によって、<リズム&モーション>にさらに磨きをかけることを目的とする。そのためには、可能な限り実際の試合に近づけた舞台設定が必要となる。

 最近試合形式の練習が多く行われるようになったが、実際の試合(=実戦)に役立てることを目的としているものの、試合で発揮する<リズム&モーション>を重点的に学習させることを優先目的とはしていない。そこに多少のズレ、もしくは無駄が生じていないだろうか。

 例えば読売ジャイアンツの原監督が3塁の守備位置にそこをポジションとする選手を何人か立たせて、捕球練習を交代で受けさせるべくバッターボックスの位置からノックをしていたが、各選手は捕球したあと、2塁ベースに入っている選手に単に素早い動作で送球して終わりの繰返しを行っていたが、そこには2塁ベースに走り込む走者がいないから、送球する選手の目の中に走者を把える必要もなく、走者の進み具合に応じて送球動作に緩急をつけるといった必要もなく、実際の試合で発揮する<リズム&モーション>と微妙にズレが生じたものとなっていたはずである。いわば実際の試合に可能な限り近づけた舞台設定となっていないから、その分、ムダな練習となっていないだろうか。

 捕球と同時に2塁送球の練習をも目的とするなら、1塁にランナーをリードする形で立たせておいて、ノックと同時に走らせ、3塁手は捕球と同時に走者を目に捉えて、その位置に応じて適確に送球を行うことをすれば、実際の試合に近い形の<リズム&モーション>で送球することになって、実際の試合の<リズム&モーション>と差がなくなってムダが生じない。

 また練習で実際の試合に近い形の<リズム&モーション>を身体に刻み付け、記憶させる反復を行うことで、それがそのまま実際の試合でも活用されることになり、やはりムダを生じさせないで済む。

 一人の選手に対して重点的に守備練習させる1000本ノックといったハードな練習は惰性、消化のための反復に陥りやすいだけではなく、ノッカーの打球を捕球しても、ランナーがいるわけでもなく、他の選手が守備についているわけでもなく、捕球してノッカーの横にいるキャッチャーに返球すれば精々済むだけで、3塁からホームに向かうランナーとキャッチャーへの返球を競う必要もなく、ランナーと返球が交錯するといった場面もなく、複数ある送球箇所のうち、どこへ送球したらいいのかの咄嗟の判断を伴わせる必要もなく、いわば試合を想定した打球・捕球・返球・送球・走塁等の遣り取りはそこにはないために(実際の試合に近い舞台設定とはなっていないために)、そこで学ぶ<リズム&モーション>は実際の試合で発揮しなければならない<リズム&モーション>と自ずと違ってくる。当然緊張感自体も試合中の緊張感とはかなり異なってくる。

 体力のつける訓練は先に挙げた時間と距離を決めないゆっくりとした速度の長距離ランニングや同じ趣旨のうさぎ跳びや腕立て伏せに任せて1000本ノックはやめ、選手全員を守備位置に着かせ、どこにノックするか告げずに、任意に三塁や二塁に難しい打球となるノックを行う。同時にベース横に立たせた走者をノックと同時に走らせる。セーフなら走者を類に残して、試合形式で難しい打球となるノックを続ける。3塁に走者が進んだなら、外野にもノックして、実際の試合と同様のタッチアップの練習をさせる。紅白試合ではなかなか難しい打球を求めにくいから、それをノックで代用させる。

 選手は打球を追って捕球し、送球するだけではなく、打球を待ち構えるときの腰を落とした自分の姿勢、打球が来たら、それを追う身体の動き、グラブを差し出し捕球する体勢、送球するときの身体の動き――それらの身体の動き一つ一つを自身の意識と身体自体で確認し、受け止めていく。そうすることによって<リズム&モーション>はより確かな形を取って発揮されることになる。

 少なくとも何ら意識することなく身体の動きだけで打球を受けたり、捕球したりするよりも、身体の動きを意識的に確認しながらプレーすることの方がリズムの獲得に早道であろうし、リズムとモーションの一体化をより早く自分のモノにすることができるはずである。

 最近紅白試合が多く行われるようになっているが、イニング数は試合と同じ9回とか、あるいは紅白試合だからと5回程度で済ましている。打席数や捕球・送球回数を増やせば、それだけ試合中と同じ<リズム&モーション>の習得に役立つはずだから、イニング数を15回、18回、あるいは21回として、実戦での<リズム&モーション>をより多く学ぶ機会とするのも一つの方法かもしれない。

 ときには両チームでメンバーを取り替えたり、野手に守ったことのない守備位置につけさせたり、変わった経験をさせたなら、より多くの<リズム&モーション>を学ぶように仕向けることができる。また打者に多くのタイプの投手を経験させるために、投手は3イニングと限定し、専門の投手だけではなく、野手にも俄仕立ての投手として投げさせたなら、より多くの球種、球の癖を学ばせることもできる。野手が投手役を買って出ることで、その肉体的しんどさ、バックの野手がエラーしたときの気持など自ら学ぶ機会となる。

 以上、頭の中で考えた<リズム&モーション>を主眼とした練習理論を展開したが、実際に役立つかどうかが問題となる。

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