「日本社会に於けるドンなる存在と日本人の自律性」

2006-04-29 01:52:05 | Weblog

4年近く前に書いた文章に偶然出会った。道路族のドンと称されている古賀誠の存在性にも関係のあることなので、少し手直して紹介することにします。

 2002年5月の北朝鮮脱北者の瀋陽日本総領事館駆込み事件のときの公館関係者の対応を批判して、自民党のドン・野中が言っている。「日本の官僚は自律していない」

 なら、日本の政治家は自律していると思っているのだろうか。人間は誰しも自分自身のことは気づかないという欠点を抱えがちである。日本の政治家が自律していたなら、建設的な相互刺激が働いて、自ずと官僚も自律の方向に進むものである。逆もまた真なり。官僚が自律していたなら、政治家も自律せざるを得ない暗黙の強制を受けるものである。相互性から生じている、それぞれの非自律性ではないのか。

 ドンと称される存在自体が、非自律の証明であろう。ドンは自律の力学とは正反対の支配・被支配の人間関係に縛られた子分という存在を必要不可欠とし、両者の依存関係を力の源泉として初めて成り立ち得る。ドンとか派閥とかが存在する限り、日本の政治家が自律していないことの証明となり続ける。

(以下手直し部分)

 国家における最高級のドンは北朝鮮のキム・ジョンイルが如き独裁者であろう。キム・ジョンイル以下の国民はキム・ジョンイルに従属した関係に押し込められる。そのような上下関係をドンとか派閥の領袖とかは日本社会の一部に持ち込んでいるのである。

 ドンとか派閥とかは親分の位置にある人間にとっては都合のいい制度だが、簡単にドンや領袖といった存在を許す社会はドン・領袖の対極に簡単に従属しやすい下位者を抱えこんだ社会でもあり、自律性を無縁とした社会でもある。戦前の軍国主義国家と国民の存在様式が縮図させた形式で今の日本の社会にも生きていることを示す。日本人が意味もなくペコペコと頭を下げるのは、従属慣れしていることの現れであり、地位が上がると椅子に踏ん反り返るのも、自己の上位者であることを誇示し、下位者に対して従属させたい意識の現れとしてある光景であろう。

 自分より立場や地位の低い人間にはペコペコしない。自分よりも立場や地位の上の人間には踏ん反り返らない。

 他人の支配を受けない、相互に自律した対等な人間関係の獲得への道は、日本の集団主義・権威主義の社会的力学が難しくしているために、21世紀の今日に於いても、果たせないでいる。

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