民主党の菅直人が記者団に党代表選挙に立候補するのかインタビューされた答の中で、既に次期代表に意欲を示していた小沢一郎のことを「小沢先生」と言っていたのには失望した。古い政治手法の小沢よりも、菅の方が少しは清心な気がして、立候補するなら次の代表を期待しているのだが、その期待も萎んでしまうほどの失望であった。
実際のところは岡田克也が自分自身の中では最善と思っていたが、本人はその意志がない。
国会議員同士が相手を、国会議員でなくても、国会議員を「先生」と呼ぶ風習が理解できない。そう呼ばれれば、気持がくすぐられるだろうが、いくら優秀な政治家であっても、選挙で国民の負託を受けた地位にあることに変りはなく、それが人より上の位置に立つことになる「先生」となるのは負託者である国民の〝任せますよ〟という負託の意識から離れることではないだろうか。少なくとも与えられた地位よりも上に立つことになる。そういった感覚が当たり前となったとき、当然国民は下の位置に立つ人間に見えるようになるのではないだろうか。
「政治家の〝国民のみなさま〟は選挙用の尊称なり」と確か誰かが言っていた。
民主党は「次の内閣」の閣議で、お互いを「総理」、「大臣」、「官房長官」というふうに、政権担当している現実の閣僚同士と同様の呼び方をしていたそうだが、05年の9・11総選挙の惨敗後、責任を取って辞任した岡田克也の後を引継いで〝次期総理〟となった前原新代表の指示で、「総理」、「大臣」といった呼称を廃止して、「担当」と呼ぶことにしたそうだ。
実際に政権を担当しているわけでもないから、自分たちが主張する政策を与党政権のようには行政に反映させることができない立場を考えたなら、「総理」とか「大臣」と呼ぶのは自己満足を出ないし、野党政治家の義務として現実に手に入れて政策遂行の職務として実感しなければならない閣僚という地位を手に入れないまま呼び名だけで実感していたというのは、虚構を演ずることでお互いを慰めあっていたとしか思えない。そこに他者の視線を置いたなら、所詮ニセモノの閣議でしかない場でのママゴトとしか映らないのではないかと誰も気づかなかったのだろうか。
呼称廃止は総選挙惨敗のショックが現実の閣僚を完璧に遠のかせたことからの反省であって、与野党逆転とまで行かず、伯仲の形勢だったなら、「次の内閣」ではますます意気込んで「総理」、「大臣」と呼び合っていたに違いない。
そう言えば、バーとか一杯屋といった飲み屋でホステスに「社長、社長」と呼ばれて満更でもなくヤニ下がっている街のただの八百屋や魚屋の親父を見かけたものだが。
小沢一郎を「小沢先生」と呼ばなければならない状況とは、自分の中に一歩へりくだっている心象風景を抱えているということではないだろうか。もし小沢一郎にしても菅直人を「菅先生」と呼んでいるとしたら、お互いにへりくだっていることにならないだろうか。相手のへりくだりがお互いの気持をくすぐる。
日本人は永遠に権威主義から抜け出せないのかもしれない。