国会での小泉首相の言葉―「格差は悪いことなのですか

2006-04-06 06:29:39 | Weblog

 安倍官房長官がテレビで(06.4.2.HHK「日曜討論」)富める者とそうでない者との差が現実問題として著しくなっている生活格差問題で、認めたら自民党全体の責任として降りかかってくるから、自民党にしても安倍氏自身にしても政策の矛盾であることを認めていないが、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」政策の遂行を主張していた。

 機会が平等でありさえすれば、結果が平等とならなくても止むを得ないと言うことなのだろう。

 耳障りよく聞こえるが、人間が地球に住むようになって以来、神も求めることができなかった「結果の平等」である。「神は平等なり」と言いながら、神が造り給うた現実世界は平等ではなかった。ましてや人間が求めることができようがない。求めることができないことを、「求めない」と言ったのである。

 理想論からしたら、「結果の平等」こそ最善である。勿論、十働いた者が十の幸せを得、五しか働かない者は五の幸せしか手に入れることができないことを「平等」とするか、十働いた者も五しか働かない者も、十の幸せを手に入れることを「幸せ」とするか、人によってどちらを取るか違いが出るだろうが(五しか働かない者も、十の幸せを要求できる「結果の平等」を主張するだろう)、いずれのルールの「結果の平等」であっても、人類は実現させるだけの力を持っていない。当然、ましてや小泉だ、安倍だといった人間が、ということになる。

 実現させ得ないのは、人間がそれぞれに持つ利害が(利害にも強い・弱いがあって、一般的傾向として強い利害が居座り、弱い利害が片隅に押しやられる)それを邪魔しているからで、共産主義が失敗したのも、同じプロセスからのものだろう。「平等」をつくり出す力が持てず、共産主義の思想にあってはならない〝結果の不平等〟をつくり出してしまった。逆に自由主義が成功したのは、格差を必要悪としてきたからだろう。ときには必要悪を超えて、矛盾悪となる。そういった人間の限界に目を向けて、謙虚に受け止める冷静な認識能力が安倍長官には欠けているらしい。

 「機会の平等」にしても、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」云々をバカの一つ覚えのスローガンみたいに繰返すことはできても、経済的利害やメンツといった感情的利害、縄張り意識からの利害、それぞれの慣習の違いによる利害等々の衝突が障害となって、人類がこれまで実現させることができなかった難事業なのである。「機会の平等を求め」などと簡単に言ってくれるよ、である。

 大体が「機会の平等」が存在していたなら、「機会の平等を求め」る政策は必要なく、〝機会の不平等〟が現実に存在するからこそ、そうした政策を掲げざるを得ない現状があるのであって、その現状たるや自然発生したのではなく、自民党政治が、まあ、広い意味で言って、世の中が〝機会の不平等〟を放置してきたことが招いた成果物としてあるはずである。言ってみれば、日本人自体が〝機会の不平等〟をつくり出していながら、それを少しでも改めようという意識にまで行っていないといったところだろう。

 となれば、〝結果の不平等〟がこれ以上目に余る状況に至らないように、「機会の平等」の実現に努力すると素直に言えば済むことであって、「結果の平等は求めない」などと言う必要はなく、余分な一言に過ぎない。留意すべき肝心な点は留意せず、口の中で言葉が突っかかりそうになるのをこらえて澱みない言葉回しを懸命に心掛け、さも決断力があり、頭脳明晰なところを見せようと、そのことだけに気を使っていたようだが、留意せずに済ませることができる無神経さは政治家にとっては長所なのだろう。

 これもテレビの発言で、民放ではあったが、どこのテレビ局か忘れたが、「格差は差別ではない」と評論家だか何だか知らないが、そう発言していた者がいた。その説明として、幼稚園や小学校で全員が1等賞になるかけっこをするといった現実社会に即さない、子どもの個性を無視した「結果の平等」をつくり出す悪平等が行われていたことを挙げてから、みなが同じスタートラインに立ち、同じヨーイドンの合図で一斉にスタートすれば、1等の子もいれば、2等になる子もいるし、ビリになる子も出てくる。そういった「機会の平等」を出発点とした競争の当然の結果としてあるのが現実社会では避けることのできない格差であって、それを以て「差別ではない」理由としていた。

 自民党の考えと同じ「機会の平等」の存在を、少なくとも許容範囲外となっていないことを前提とした格差論である。現実社会で機会別に全員が同じスタートラインに立っていたなら、あるいは立つことができるなら、「機会の平等を求める」などと騒ぐ必要はないことに気づきさえしない。幼稚園・小学校の走る能力で順位が分かれるかけっこを現実社会で生存競争の様々な骨格を構成することとなる「機会」と格差の譬えに挙げること自体が愚かしく、自分たちが非難している全員が1等賞となるかけっこと同じく非現実的であることに気づいていない人間がテレビに出て、さも尤もらしい主義主張として全国に垂れ流している。

 すべての格差はとは言わないが、格差は差別である。男女格差は、男女差別を前提としてその殆どが占められているのではないだろうか。元々ある男女差別が収入の男女差別である男女格差を生み、生活の格差へとつながっていく。

 そのほかに学歴差別・年齢差別・容姿差別・地域差別・職業差別・収入差別が様々な格差をもたらしている。そのことに届く目を持たず、「格差は差別ではない」と言い切れる人間は単純で幸せである。

 「『経済格差』高校・大学で認識差」という朝日新聞の記事(06年2月12日朝刊)がある。調査したのは「高校生らに進路相談会を開催している『ライセンスアカデミー』(本社・東京都新宿区)」で、調査に対する回答は「高校は主に進路指導の担当の教員」で、大学は具体名は出ていないが、大学生本人ではなく、大学当局の誰かが応じている。
 
 「『大学に行きたくても行けない生徒は、学力よりも学費の制約が強くなったか』との問いに、公私立あわせた高校全体の20・5%が『とてもそう思う』」「『やや思う』の50・2%と合せて、『あまりそう思わない(25・9%)』『そう思わない(2・0%)』を大きく上回った」

 「『学費を大学選びの判断基準として考える生徒が増えている』」は、「『増えた』『やや増えた』の合計が公立で7割を超え、私立でも6割に達した」

 「『家庭の経済力によって、高等教育を受けられる格差が広がっている』と考える高校は『とてもそう思う』が37・3%、『ややそう思う』が46・1%」「『あまりそう思わない』『そう思わない』は合計6・4%」

 上記「同じ質問に対する大学側の回答は『とてもそう思う』が(10・5%)、『ややそう思う』(46・2%)と比較的低めで、『あまりそう思わない』『そう思わない』の合計も12・5%あった。
 調査担当者は、こうした『格差』への認識のズレについて、『高校に比べると、大学側は入学してくる生徒しか見えないからではないか』と分析している」が、そういったことと合せて、大学当局がカネの差――言ってみればカネの力で大学入学が決定されることを認めたくない意識も働いていたのではないだろうか。興味深い調査なのだから、調査結果を大学生に見せて、無記名で自分はどの回答に当てはまるか記入させて、それぞれの親の収入の調査も併せて行い、高校側にも同じ趣旨の調査を依頼して、両者を比較すれば、より正確な実態が浮かんだはずである。

 04年度の児童虐待死53例のうち、3分の2に当たる35例は事前に児童相談所等の関係機関が把握していて、そのうちの12例は関係機関自体が「防げた死」と考えていることが厚生労働省の専門委員会の検証で判明したという記事が新聞に載っていた。

 危機管理とは危機の種類に応じた最悪の場面を想定し、そこに至らない万全の措置を講じることであろう。児童虐待に於ける最悪の場面とは当然ケースに応じた虐待死である。関係機関は子どもを殺させてしまってはならないという姿勢で、その一点に向けて事に当ることをしなければならない。となれば、12例だけを「防げた死」とするだけではなく、事前に把握していた残りの23例も、防がなければならなかったが、危機管理が機能せずに最悪の場面に至らしめてしまって、〝防ぐことができなかった〟としなければならないのではないだろうか。

 子どもの成長という点で「機会の平等」を与えられなければならないはずだが、他者からの物理的暴力によって生きる機会を子どものうちに奪われてしまう。この世の中には、〝生命の格差〟さえ存在する。

 大学進学に於ける「格差」問題で、大学側に高校側と比較して受け止め方に「ズレ」がある状況は、児童相談所等の関係機関が児童虐待に機能的に対応できていない状況と能動性の点で関連しあっているように思えて仕方がない。

 親の収入によっても、同じスタートラインに立つ「機会の平等」が奪われ、その延長に立ちはだかっている学歴格差からくる学歴差別が一般的には生涯的な生活の格差につながっていく。格差が差別を生み、差別が格差を生む相互循環がここに生じる。

 幼稚園・小学校のおっかけっこの1等、2等の格差にしても、それが差別を生まない保証はない。ライバル関係にあるのでなければ、自分が得意とする才能を同じく得意とする人間に親近感を持つ傾向がある。逆もまた真なり。自分が得意とする才能を不得意とする人間は敬遠しがちとなる。ときには蔑みを持つまでに至る。理科の先生が理科が好きで、その成績がよい生徒には面倒見がよくなるだろうし、逆にいくら教えても理科の成績が上がらない生徒に親しみを感じなかったとしても、人間の自然な感情(心理的利害)としてある扱いであろう。

 同じスタートラインに立ち、同じ合図で走る幼稚園・小学校のかけっこで、走ることを得意としている教師が、太ってもたもたと走って、大差でビリになる無様な子にもし親近感ではなく、蔑みを感じたなら、他の機会でも、そのことが影響しないだろうか。少しでももたついたとき、内心ドジなヤツだと腹立たしげに罵るといったことはしないだろうか。

 一見「結果の平等」に見えても、その「結果」から、不平等が生じることもある。相互循環の開始とならないとも限らない。

 厚生労働省の調査によると、平成17年6月1日現在の民間企業の障害者の実雇用率は前年に比べて0.03%ポイント上昇し、法定雇用率の1.8%に対して1.49%となったという。但し、中小企業の実雇用率は引き続き低水準にあり、企業規模別で最も低く、1,000人以上規模の企業では実雇用率は1.65%(前年比0.05%ポイント上昇)と高水準にあるが、法定雇用率達成企業の割合は33.3%と、企業規模別で最も低くなっているそうだ。

 法定雇用率とは、労働者数56人以上規模の民間企業で1.8人の採用、労働者数48人以上規模の特殊法人や国・地方公共団体で2.1人の採用を法律で義務付けている%のことだそうだ。

 国関係が法定雇用率を達成していなければ示しがつかないだろうから、前年と比較して減っている機関もあるが、法定雇用率自体はクリアしている。但し、2.1%の法定雇用率が適用される48人以上規模の特殊・独立法人関係では、平成6年は実雇用率が1.71%あったものが、1.5%減少したという。

 法定雇用率を達成していない上に前年より減少しているこの現象は、天下りに席を譲る分、障害者が外に追いやられていることから起っていることではないだろうか。そうでありながら、天下りの達成がまだ不足と考えている天下りもいるに違いない。天下りで周りを固めれば、天下りの発言力が高まるからだ。それが天下りの利害と言うものだろう。

 参考までに次のような規定があるという。「重度身体障害者又は重度知的障害者については、その1人の雇用をもって、2人の身体障害者又は知的障害者を雇用しているものとしてカウントされる。また、短時間労働者は原則的に実雇用率にはカウントされないが、重度身体障害者又は重度知的障害者である短時間労働者(1週間の所定労働時間が20時間以上30時間未満の労働者)については、1人分としてカウントされる」

 法律が定めたこととは言え、民間企業で56人以上規模の民間企業と1000人以上規模の企業の法定雇用率が1.8人と同じで、国と地方公共団体及び特殊・独立法人関係で、48人以上規模と1000人以上規模とが2.1人と同等なのは、最低限の雇用であった場合、残数の割合も法定雇用率にほぼ一致して一見平等のように見えるが、それぞれの予算規模(民間企業の場合は資本規模)を考慮に入れると、経営に与える余裕と障害者が障害者向きの仕事に遭遇できる機会を用意できる余裕(機会創出の余裕)に違いがあるはずで、その点、小規模事業体と大規模事業体の間で格差・差別を生じさせていると言えるのではないだろうか。

「格差のない社会はない。格差はどこの国にもある」

 これは小泉首相が国会で述べた言葉だが、一般雇用に対する障害者雇用の格差や小規模事業体と大規模事業体との間の資金的余裕と障害者への機会創出の余裕の格差は、小泉首相が言っている織込み済みの格差であって、問題にするに当らない事柄なのだろう。そう言えば小泉首相は厚生大臣を務めたことがあり、厚生族出身であった。

 小泉首相は「競争に敗れた者が再チャレンジできる仕組みが必要だ」と、「再チャレンジ」制度の創設を人質に生活格差(〝結果の不平等〟)の正当性を図っている。他の閣僚・党役員も右へ倣えの猿マネで口を揃えて同じことを言い、格差が競争社会に於ける許容範囲内のものだとする主張の理論武装の一つとしているが、「再チャレンジ」とは「格差」(=〝結果の不平等〟)の救済措置以外の何ものでもない。救済措置を設けなければならないのは、「格差」(=〝結果の不平等〟)が許容範囲外であることと、それが「機会の平等」が存在していて、そこから生じたものなら、「再チャレンジ」に何ら障害とならないから、救済措置を設けるまでもないことで、〝機会の不平等〟から生じた「格差」(=〝結果の不平等〟)を救済する「再チャレンジ」制度が実態となる。

 いわば再チャレンジ」制度の創設は「機会の平等」も「結果の平等」も放置できない状況に達していることを暴露するものであろう。

 断っておくが、「機会の平等を求める」と言うのと、〝機会の不平等〟を是正すると言うのでは意識上のニュアンスも違えば、それが違えば、当選取組む姿勢も違ってくる。「機会の平等を求める」には〝機会の不平等〟をおおっぴらに認めまいとする意識が働いている。

 となれば、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」はなおさらにキレイゴトとなる偽善に満ちた宣言となる。

 「機会の平等」は制度や法律だけでは片付かない。男女雇用機会均等法が1986年の施行、1997年の改正、そして1999年の改正男女雇用機会均等法の施行と続いているが、男女格差・男女差別がなくならないのは、日本社会の男尊女卑の風習を引きずった、その名残りからの影響もあるだろうからである。

 男尊女卑は例え名残り程度であっても、日本人の男にとって経済的にも心理的にも自分に有利となる利害だから、そのことが家事をしない夫の存在を育み、子育て・家事の負担が女性である妻の側に偏って、保育所入所問題や産休といった問題などとも絡んで子どもは1人で十分という意識が少子化の問題にもつながっている。

 学歴差別にしても、学歴で人間の価値に違いをつける日本人が持つ権威主義の働きから生じている価値観であって、男尊女卑にしても権威主義を原理とした男女間の上下意識なのだから、〝機会の不平等〟のより公平な方向への是正は男女を含めた日本人自体の意識の根本的な変化を待たなければ、いくら制度・法律をいじったとしても、対処療法で終わる可能性が高いのではないだろうか。

 日本型の権威主義が〝機会の不平等〟をつくり出しているバックボーンとなっていること、〝結果の不平等〟の誘因ともなっていることに留意すべきだろう。

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