もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

最後の連合艦隊司令長官

2021年08月15日 | 軍事

 本日は終戦の日である。

 文字資料を優先する一部には、欧米に倣って「重光葵代表がミズーリ艦上で降伏文書(ポツダム宣言)に署名した9月2日」とする意見もあるようであるが、陛下の玉音放送で降伏を実感した8月15日を終戦とすることが正しいと思える。
 本日は日本海軍の終焉を見届けた連合艦隊司令長官である豊田副武大将についてである。豊田大将は1885(明治18)年に大分県速見郡杵築町(現杵築市)に生まれ、旧制県立杵築中学校を経て1905(明治38)年に卒業成績171名中26位で海軍兵学校(33期)を卒業している。1941(昭和16)年9月に海軍大将に昇進し呉鎮守府司令長官、1942年11月軍事参議官、1943年4月横須賀鎮守府司令長官、1944(昭和19)年5月3日前任の連合艦隊司令長官古賀峯一大将の殉職(海軍乙事件)を受け連合艦隊司令長官に親補された。豊田大将は当初、連合艦隊司令部を軽巡大淀に予定したが慶應義塾大学日吉校舎内に置かざるを得ないこととなったために、艦に乗らなかった唯一の連合艦隊司令長官とも称される。既に機動艦艇の大半を喪失していた連合艦隊司令長官としては、1945(昭和20)年4月6日以降の「菊水(航空機による大規模特攻)作戦」に呼応した戦艦大和を含む第二艦隊による海上特攻しか残されていなかった。この第二艦隊の喪失によって連合艦隊は事実上壊滅したとされている。1945(昭和20)年4月25日には海軍総司令長官を、5月1日には海上護衛司令長官をも兼務し海軍保有兵力の全てを指揮することとなったが、5月29日には小沢治三郎中将に連合艦隊司令長官の席を譲って軍令部総長となり、海軍軍令のトップとなり終戦を迎えることとなった。豊田軍令部総長は、8月12日に内閣や海軍大臣に諮ることなく(統帥権独立とすれば適切)陸軍参謀総長梅津美治郎大将とともに参内してポツダム宣言受諾反対を奏上するなど徹底抗戦論者とされ、降伏調印式にも出席を拒否(軍令部次長代理出席)している。
 連合艦隊は、有事において各艦隊を効果的・機能的に統合運用するために臨時編成される任務部隊であるために、司令長官も他の職との兼務で、平時にあっては編成されないこともしばしばであった。職制上では最後に親補された小沢中には既に指揮する実働可能艦艇も無く、豊田大将を以て最後の連合艦隊司令長官とすることが相応しいように思える。

 豊田大将と同じ杵築中学校出身の提督としては、山本五十六提督と肝胆相照らす仲であった堀悌吉中将(速見郡八坂町:現杵築市)も有名である。堀中将は豊田大将の1年先輩、兵学校・海軍大学校を恩賜首席で卒業した逸材で、同期生は"堀の頭脳は神様の傑作”、山本提督は”堀を失うことは1個艦隊を失うに等しい”、東條内閣の嶋田海相は”堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に対処できたのではないか”と、それぞれ評している。
 堀提督は条約派と看做されて、大角人事によって中将で予備役に編入されたが、豊田大将とは隣町であり、中学・兵学校も1年違いである。生い立ちや教育がほぼ同じ境遇にあって、思想や生き方にこれほどの違い生まれるものなのだろうか。
 奇異なる巡りあわせであろうか、降伏文書に署名した重光葵氏も杵築中学の出身である。
 大東亜戦争で散華された軍人・軍属・遺族を含めて、大きな犠牲を払った先人に感謝と鎮魂を込めて。合掌


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