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晩夏の京都御苑7 新島襄旧宅 下

2023年01月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 新島襄邸宅は、新島襄が同志社英学校を開設した際に仮校舎として借家した高松保実邸の跡地に、ボストンの友人J. M. シアーズの寄付によって建てられたとされています。設計者、施工者のいずれも明らかではありませんが、当時の同志社教員で医師および宣教師でもあったW. テイラーの助言を得ながら、新島襄が設計したとも伝えられています。

 

 なので、上図の応接間の調度や設えも、W. テイラーの助言によって実現したのかもしれません。

 

 外観はいわゆるコロニアルスタイルの洋風ですが、造りの基本は和風寄棟住宅です。間取りは日本的な田の字型であり、壁は柱を露出させる旧来の真壁造りとなっています。明治期に各地で流行した和洋折衷建築の一例とされます。

 

 御覧のように床が高く造られ、二階の三方にべランダをめぐらしています。窓には鎧戸をつけ、白い壁面に茶褐色の木部を見せています。華美な要素は一切見られず、簡素な二階建住宅の典型例として知られます。

 明治期に建てられた和洋折衷の木造二階建て住宅の遺構は全国的にみても稀で、貴重な建物です。また、同志社創立者新島襄の旧居としての価値が認められ、昭和60年(1985)に京都市指定有形文化財に指定されています。

 

 上図は東南の部屋で、書斎として使用されました。新島襄が使用していた状態のままで保存されており、奥の書棚には蔵書の一部が収められています。同行者の話では、新島襄の蔵書の殆どが洋書で、貴重なものが多いために現在は同志社社史資料センターに移して保管されている、との事でした。

 

 この机に新島襄が座っていたのですか・・・。個人的には、最期の言葉が「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」であったというのが印象に残っている人物です。

 

 東側の出入り口から廊下と二階への階段が見えました。二階は見られませんが、一階と同じく田の字型の間取りで、四つの部屋から成ります。寝室や居間など、新島夫婦の住居空間であったとされています。

 

 東側にある食堂です。奥には応接間が見えます。上画像では写っていませんが、向かって右側に台所があり、台所との間の壁にハッチ式の配膳棚が設けられています。当時の住宅としては珍しい設備であったそうです。

 

 台所は北西に位置して食堂と廊下で繋がっています。床板が張られていますが、当時の京民家の台所は土間が一般的でしたから、これも近代的な設えであったわけです。その床板の上にカマド流しが置かれていますが、このスタイルは現在の民家の台所と変わりません。

 

 なかなか面白い明治期建築でした。同行者は「私もまともに見学したの初めてかも」と笑っていました。同志社大学在学中に新島襄やここの邸宅について学ぶ機会とか講義は無かったのかね、と訊ねたら「一応あったんですけど、希望制で聴講は自由だったので・・・」と答えてきました。同行者の大学での籍は文学部で、専攻は国文学、平安期の王朝文学を中心とした分野であったため、主に神学部で履修する新島襄関連の講義とは縁が無かったそうです。

 かくして、京都御苑と新島襄旧艇の見学を終えました。その後は同行者の買い物に付き合って、言われるままに三条から四条河原町へと繰り出し、次第に増える荷物を運ぶことに専念しました。  (了)

 


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