日々是好日日記

心にうつりゆくよしなしごとを<思う存分>書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ

違和感を禁じ得ない「安心・安全な〇〇」という表現

2021年06月23日 07時25分18秒 | 政治
 いつの頃からか、「安全な」を表現するのに「安全・安心な」と「安心」をくっつける。あるいは「安心な」と表現すれば十分なところに「安心・安全な」と「安全」が追っかけてくる。
 政治家や行政官に限らず多くの人々がこれをやる。わけても菅首相においては、確かめたわけではないが、二つが切り離されて単語として語られたのを聞いたことが無い。たとえば、「東京五輪を安全・安心な大会として成功させます」という調子だ。
 最終開催責任者は誰なのか?、未だにそれが判然としない東京五輪、国内的には最高権力者たる内閣総理大臣が責任者として開く大会なのだろうから、「安全な大会として成功させます」という文章はあり得る。東京五輪に関して筆者としては、この文章に賛同しないが、それはコロナウィルスが猛威を振るう中の五輪大会を「安心して観戦などできるわけが無い」と思っているからである。
 「安全」は話題の主体の状態を表現し、「安心」は客体としての受け手の心理的状態を表現する言葉。常に「・」で結ばれるべき「語」ではない。「安全」は、① (形動ナリ・タリ) 危険のないこと。平穏無事なこと。また、そのさま。② (形動) 傷ついたり、こわれたり、盗まれたりする心配がないこと。また、そのさま(「コトバンク」)。他方、「安心」は、① (━する) 心が安んじること。気がかりなことがなくて、心が落ち着くこと。② (形動) 心が安らかで心配のないこと。また、そのさま。③ (あんじん) 仏語。信仰によって、心が不動の境地に達すること。浄土教では、特に阿彌陀仏を信じて疑わないこと。④ 内心のくふうをすること。奥義に達するための心づかい(「同」)とある。
 かくのごとく、猫も杓子も「安全」についてか、はたまた「安心」についてか語る時に必ずと言っていい程に「安全・安心な」と併せて発している「言葉」が、いつの頃からこうなったかと想像するにあの「3.11東日本大震災」が起源ではなかったかと思うがどうか?  あの迫りくる巨大津波によってまるで浮き輪のように易々と家々が流されていく無数の映像が普及したスマートフォンによって撮影されて流布し、また何にもまして堅固な存在と騙されているとは知らなかった原子力発電所の原子炉容器が次々と破裂するという、「安心」などと思えるわけもない事実が、「安全」という神話の中にかくされていた事実がにわかに認識されたのが始まりだったのではなかったか?
 かくて、「安全」の保障は薄く、「安心」などできはしないこの世の森羅万象を、人はせめて「安全」と「安心」をくっつければ「安全度」が増し、「安心立命」が得られると勘違いしたのではなかったか? 爾来、安全も安心も常に分別されずくっつけて使われるようになったのである。
 「菅義偉首相は東京五輪について『安全・安心な大会を実現する』と繰り返している。安全、安心な形で開催できると思うかとの問いでは、『できると思う』は20%にとどまり、『できるとは思わない』は64%に上った」(2021/06/20毎日新聞)。
 ようやく東京にコロナ第5波の予兆が見えてきた。東京五輪は「危険・不安」な状況になってきた。
 

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