今日は一日中ちまちまと依頼されたイラストを作成して過ごした。
寺社は作るのは大変だが、できあがると綺麗なので好きである。
ところで日本人はなぜか神道が嫌いなようだが、あれはなかなか興味深いものである。
私は物事をなるべく合理的に考えるようにしているが、合理主義者なわけではない。
怪異や鬼神としか言いようのない現象のあることを私は知っている。
それらは再現性が乏しいため、検証や科学のまな板にそれらをのせづらい。
それら超常なる現象が、私たちの知識不足のためにそう見えるだけなのか、もしくは根本的に人の理解を受け付けない存在なのかは分からない。
いたずらに恐れ、妄信するでもなく、かたくなに拒み、否定するでもなく、懐疑的な立場で中立を保ちたいと私は思っている。
しかしそれはとても難しいことだ。将来、どちらかに偏ってしまうことはおおいにありえる。
偏見のない思考などというものは、何も考えていない人間にだけ可能なことなのだから。
私は偏(かたよ)る時は、科学と合理主義の側に傾こうと決めている。
それは科学を学んだ者としての意地であり、博士号まで取らせるべく指導して下さった先生方に対する義理である。私が神秘の側に行ってしまっては、先生方に申し訳が立たない。
寺社は作るのは大変だが、できあがると綺麗なので好きである。
ところで日本人はなぜか神道が嫌いなようだが、あれはなかなか興味深いものである。
私は物事をなるべく合理的に考えるようにしているが、合理主義者なわけではない。
怪異や鬼神としか言いようのない現象のあることを私は知っている。
それらは再現性が乏しいため、検証や科学のまな板にそれらをのせづらい。
それら超常なる現象が、私たちの知識不足のためにそう見えるだけなのか、もしくは根本的に人の理解を受け付けない存在なのかは分からない。
いたずらに恐れ、妄信するでもなく、かたくなに拒み、否定するでもなく、懐疑的な立場で中立を保ちたいと私は思っている。
しかしそれはとても難しいことだ。将来、どちらかに偏ってしまうことはおおいにありえる。
偏見のない思考などというものは、何も考えていない人間にだけ可能なことなのだから。
私は偏(かたよ)る時は、科学と合理主義の側に傾こうと決めている。
それは科学を学んだ者としての意地であり、博士号まで取らせるべく指導して下さった先生方に対する義理である。私が神秘の側に行ってしまっては、先生方に申し訳が立たない。