玄文講

日記

怪力乱神を語らず

2005-05-09 13:51:01 | 怪しい話
私は昨日、怪異なる現象を信じていると言った。しかし私はオカルトに頼る人間が嫌いでもある。

子(し)は怪力乱神を語らず

とは有名な論語の言葉である。
「怪」とは怪異。
「力」とは剛力。
「乱」とは無秩序、反乱。
「神」とは鬼神。人間以外の存在のことである。

この言葉を神秘なるものを否定した言葉と取る人もいるようだが、孔子は必ずしもそういったものを否定したわけではない。

孔子は「鬼神を敬してこれを遠ざく」とも言っており、その存在までを否定していない。
子は「存在せず」と言ったわけではなく、「語らず」と言っただけなのだ。

そして「語らず」は古代中国語では「話さない」という意味ではなく「教訓にしない」という意味である。
つまり孔子は「君子たるものが、そんなものに頼ってはいけないよ」と言っているのである。


「聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らず」

これが「怪力乱心を語らず」の意味である。
そういった力に頼ることの危険性を彼は知っていたのである。

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良い力というものは次の2つの条件を満たしていなくてはいけない。

1)制御できること

2)使いたい時に確実に使えること

軍隊が、その開発した高価な兵器を何度も誰もいないところで使ってみたり、世論の反対を無視して核実験をするのも、その兵器の確実性を高めるためである。その兵器の安定した運用ができなくては兵器は力としての意味をなさないからである。

一方で超常なる力には、そんな安定性はない。
それはいつも気まぐれだ。
博打のビギナーズラックのように何かの拍子で一度くらいは成功するかもしれない。
しかし二度は滅多にない。

だから超常なる力に実用性はない。
そんな不安定な力に頼ることは、生計を立てるのに博打を頼るようなもので破滅が約束されている。
これが怪力乱神に頼ることの危険性の一つである。

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怪力乱神が危険なもう一つの理由は、それが意志薄弱な人間、惨めな人間、無駄に自尊心が強い人間を引き寄せることである。

私は別の場所で、才能のない美大生がその埋め合わせをするかのようにオカルトにはまる例を紹介した。
そのように怪力乱神は、惨めな環境やこんなはずではなかった自分を一気に栄光の中に引き上げてくれる、人生を一発逆転するための道具のように扱われることがある。
凡人が持たない力を自分は持っている。その力があれば何でもできるようになる。
怪異は自分がエリートになるための切り札なのである。それが余計に自分を惨めにさせ、狂わせることに彼らは気がつかない。

しかも小賢しいことに、たまにうっかり一度くらいなら超常なる力の発揮に成功してしまう人がいる。
彼らはそれで自分が特別な人間であることに気がついて狂喜乱舞する。「昨日までの惨めな自分にさようなら」である。
しかしその力に安定した運用性はない。
人はたまに変なことができてしまうものなのだ。しかし常にそれができる者はいない。超心理学の無惨な現状を見ればそれは分かるであろう。
100回やって1回だけうまくいくだけの力では意味がない。

しかし彼らは1%のために99%をとりつくろわなくてはいけない。つまり嘘をつき、人を騙し、自分に力が常にあるように振る舞わなくてはいけなくなるのだ。
こうして心霊詐欺師ができあがるわけである。

この世で頼れるのは常識だけである。
頼れるのは自然科学であり、法律であり、市場の原理であり、勤勉さと地道な労働である。

私は怪異をただ、台風や自然災害ていどに恐れ、サーカスや曲芸を見るようなつもりで楽しんでいる。
それに頼るのは単にエネルギーの浪費でしかない。

「私は自然法則を頼りて怪を頼らず、政治経済を頼りて力を頼らず、法律を頼りて乱を頼らず、人付き合いを頼りて神を頼らず」である。