玄文講

日記

私の仲間について

2005-05-20 01:17:28 | 会の案内や連絡
私はものを書く時は、たとえそれが私的なものであっても、仮想の読み手を想像しながら書いている。
その読者が理解できるように、楽しめるように、その相手の姿を心の中に思い浮かべながら書いている。

実際にその人が読んでいるかどうかは分からないのだが、私はそれでもその人に語りかけるように書く。
誰かに楽しんでもらうという意志のない文章はひどくつまらないものになってしまうからだ。
娯楽なければ書くべからず、である。

このサイトはもとは仲間うちの間だけで読まれればいいと思って立ち上げた。
だから当初は、その仮想の読み手も仲間だけを想定しながら書いていた。

しかし最近は一面識もないネットの中のお客さんを想定しながら書く機会も増えてきた。
私は今まで何度も「仲間」という言葉を説明もなく使ってきた。
何故なら仮想の読み手はその仲間なのだから「仲間」の意味について説明する必要などあるわけがなかったのだ。

しかし最近は外からのお客さんも増えてきたことであるし、仮想の読み手にも仲間以外の人間を想定する機会も増えてきた。
そこで「仲間」とはいったいどこの誰のことなのかについて簡単に説明しておこうと思う。

まず仲間とは親族や研究室や職場の同僚のことではない。
彼らは生活をともにしているだけの人々であり、親しみを感じたり親切にはするが、何も期待はしていない。

私にとって仲間とは同じ会のメンバーである。
もっとも会と言っても大袈裟なことは何もない。
私たちの活動は会員同士で酒を飲んだり、食事をしたりなど、大学生のサークル活動のようなこともするのだから。
ここでは親睦会、交友会とでも言っておこう。
しかし交友会がただのサークルだったならば、人付き合いにも娯楽にも深い関心を抱いていない私がそれにこだわるわけがない。

組織の存在意義とは個人でできないことを集団の力で行うところにある。
組織の機能とはその集団の力が最大限に発揮できるように、制御し、増幅し、調整するところにある。

私にとっても、その会の存在意義はそこにある。
彼らは私にできないことを私の代わりにやってくれる人たちだ。だから貴重でありがたい。

会員には重要無形文化財保持者もいるし、在日韓国人もいる。右や左、国籍の区別はない。
奇人、変人、悪人たちもいるので善悪の区別もない。ただ見苦しい人間はいない。
普通の暮らしをしていたのでは知り合えないような多種多様な人間のプールが私たちの同好会である。


私には夢がある。
私は現実主義者ではなく理想主義者である。
そして私の理想を一歩でも現実に近付けるためには彼らの協力が必要不可欠なのだ。



そして私の仲間には夢がある。
それが何なのか私は全てを知らない。
しかし彼らの夢を一歩でも現実に近付けるためには私の協力が必要不可欠なのだ。



「玄文」は元は会のために私が作った小班の名前である。役割は会の連絡係などの雑用であった。

会は仲良し団体ではない。共同体でもない。政治団体でもなければ、営利団体でも、NGOでも、市民グループでもない。
会は組織の存在意義により忠実であらんとする組織なのである。

だから会そのものに目的はない。
会の仲間の各自が目的を持ち、各自がその実現のために会を利用しようとしているのである。
「個人の力でできないことを集団の力で行う」。そのために私たちは会を維持し、拡大させている。

彼らは信頼できる人間である。自分の夢を託せる他人が存在するのは心強いことである。
つまり仲間とは交友会の会員のことを指している。