玄文講

日記

山谷に在り

2005-05-29 18:43:37 | メモ
私が五歳のときに通っていた仏教系の幼稚園には「遊女の子孫」がいた。
正確に言えば、「遊女の子孫だと噂されていた親子」がいた。

その幼稚園のある場所は昔に大色町「吉原」があった場所であり、幕末の大火災で多くの遊女とともに炭と化して消え去ったのである。
その地に遊女の子孫がいるのは不思議なことではないと思われた。もちろん根拠のない噂話に過ぎない可能性も高かった。

ただ、その母親は美しかった。五歳児でも「遊女」が何をするのかくらいは知っていた。裸を見せてくれたり、キスをしてくれる人たちだ。あの母親の先祖がもし本当に遊女だったのならば、さぞ人気があったことだろう。

そして、その息子は美しかった。紅顔の美少年という言葉があるが、それが実によくあてはまった。そして子供とは思えないほど大人びていた。

しかし、その娘は畏怖された。彼女は知恵遅れだった。その容姿はその病気特有の外見を彼女にもたらした。
彼女は母親にも息子にも似ていなかった。
常に横に大きく開いた口は言葉を発することがなく、彼女はいつもふらふらとさまよい歩いていた。目には色や輝きがなく、まるで円盤を2つはりつけたような立体感のない瞳をしていた。その目で見られても、見られているという気がまるでしなかった。

誰も彼女の相手をすることはなかった。しかし彼女に悪さをする者もいなかった。
園児たちはただその存在を畏怖したのである。幼い子供にでも日常の理(ことわり)を受け付けない何かを恐れる気持ちはあるのだ。

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私の生まれ育った地元は浅草と上野の中間にある。
近所には日本有数の貧民街であるドヤ「山谷」がある。

江戸時代において娼婦、芸能人、少数民族は卑しい人々であり、彼らは幕府により江戸から離れた僻地に追い立てられた。
その土地が今の浅草である。
しかし彼らは色と娯楽をつかさどる者たちであり、人々は彼らの元へ足しげく通った。
そうして交通の便が発達し、物売りが増え、色街「新吉原」が生まれ、講壇や芝居が盛んになり浅草は娯楽地として繁栄した。
賎民と娯楽の地としての浅草である。その伝統は現在まで引き継がれており、ロック座などの風俗店や寄席、場外馬券場とその近くでヤクザがしきる違法賭博を今でも浅草の地で見ることができる。

同時に浅草は風水で重要な役割を果たしている。北東には巨大な怨念である平将門がいる。その呪いから江戸を守るために幕府は北東の地である浅草に多くの寺や神社を建立した。
怨念からの防波堤としての浅草である。その伝統は現在まで引き継がれており、浅草寺は観光名所として名高い存在だ。

このような土地に集まるのが、何らかの形で社会から疎外された人々ばかりになるのは必然である。
季節労働者、エタ、日韓併合の後は朝鮮人などが多くやって来て浅草の目と鼻の先である山谷に住むようになった。

そして戦後、高度経済成長の時代の中で上野駅が完成し、この地は多くの東北地方からの出稼ぎ労働者が流れ込む場所となった。
彼らは金もなく浮浪者のようで、政府は彼らを山谷へと強制的に追い立てた。
こうして日雇い労働者とドヤ(安いが粗末な宿の俗称。簡易宿泊所とも言う)の街としての「山谷」ができあがったのである。

つまりこの街には「必要だけど身近には置いておきたくないもの」が集められてきた。
統治の一部でありながら、行政からは遠い場所。それはある意味では自由な地であるが、生きるのに辛い地でもある。ここの住民の平均寿命は現在でも50代後半までと言われている。

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外の住人に彼らを恐れる人は多い。
私は昔、祖父の所有するマンションへ入居希望者を案内したことがある。
そして私はいつものくせで近道を通ってしまった。それは山谷を横切る道であった。

彼らはその街を怖れた。汚い身なりでうろつく酔っぱらい。昼間から道に寝転ぶ男たち。静かだが活気のない風景。
私にはそれらはいつものことで、恐いとか嫌だという感想が存在することさえ忘れていた。彼らはスラム街の近くには住めないと思ったのだろう。彼らは丁寧に入居を辞退した。

私も山谷が安全な街だとは言わない。ケンカやゆすりくらいはよくあることだ。
しかし準備や用心を怠れば危険であることは、どの街でも同じだ。
少なくとも私は山谷で危険な目にあったことはなく、しかし用心を怠ったこともない。

山谷の住人は干渉されるのを嫌う。彼らの多くは何らかの理由で世間を捨て、社会から捨てられた人たちである。
しかし同時に彼らは話好きでもある。山谷を散歩していて声をかけられて、1時間ばかり東北地方での労働の苦労話を聞かされたりしたこともある。
彼らの話を聞けば、彼らが他の社会人と比べてバカなわけではないことが分かる。ただ生きるのが極めて下手クソなだけである。

現在の山谷の失業率はとても高い。そして住人は高齢化している。
不況の波をまっ先にかぶったのは彼らであり、仕事がなければ昼間から街をさまよい、飲んで寝るしかない。
私が見る機会の多いのも山谷のそういう風景である。

しかし山谷にはそれ以外の顔もある。私はそれを見たことがないが、たとえば根本敬氏のマンガやレポートを読めば、あそこで生きる「イイ顔」のオヤジたちの姿を知ることができる。

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私の好きな学問は金にならないことが多い。
しかし山谷は物価が安く、その日暮らしをするだけならば十分な場所である。
私は家族を持つ予定はない。印刷屋の仕事は暇で給料も安い。私は父母の面倒を見た後は山谷で暮らそうと考えている。
あの場所なら少ない給料でも生きていけるし、好きな学問も続けられる。

山谷では何かを犠牲にすれば自由を得ることができる。
それが賎と楽と聖が混じりあうこの地の魅力である。