玄文講

日記

仲良きことは美しからず

2005-05-25 23:56:50 | バカな話
「仲良きことは美しき哉」とは私の嫌いな言葉である。
日中友好。日韓友好。皆が仲のいい平和な世界。
よく使われる言葉である。そして私はそんなものが永遠に実現しないことを確信している。

いつの時代、どこの国でも隣国とは仲が悪いものである。
身近な他人は憎くなるものなのだから。

仲がいいとは同じ価値観、同じ文化、同じ風習、同じ意見を持った人間との間で成立することが圧倒的に多い。
もちろん人間同士の付き合いがあれば、異なる文化や価値観を理解して仲良くすることも可能である。だから個人レベルでは外国人と仲良くするのは難しいことではない。
しかし何千万、何億人という集団同士では人間同士のつきあいなどできるわけもなく、直接に文化と文化が対立するしかない。
国というマクロな集団同士の仲が悪くなるのは必然である。

もし無理にでも仲良くしようとすれば、相手を自分好みに改造するしかない。
相手を自分と同じ価値観、文化、風習、意見を持つ国に変えるのだ。
それは他人の精神の自由を認めない行為であり、しかもその実行には必ず戦争行為がつきまとう。しかしそれなくして世界中の人間が仲良くなるなんてことはありえないはずだ。
私はそこまでして皆が仲良くなる必要なんてないと思っている。

****************

一部の人は支那や韓国が国力をつけることを喜ばないようである。
彼らが強くなると日本の立場が脅かされるとでも思っているようだ。

しかし政情不安定な隣国を持つことほど危険なことはない。
支那や韓国が国力をつけて、政治が安定することは、結果的には日本の安定にもつながる。
支那の繁栄は私たちの繁栄でもあり、韓国の喜びは私たちの喜びでもある。

だから支那が抱えている経済問題、老人の比率の増加、内陸部との経済格差の解決のために日本は協力すべきである。
また韓国が抱える北朝鮮という問題を日本はともに考えていくべきである。もしあの国が崩壊したとき韓国には莫大な負担が生じるのだから。

私の考える良き隣国との関係とは、利害が一致する状態のことである。
そういう意味でならば私は「日中友好」も「日韓友好」も支持するし、それは可能であると信じる。

しかし「友好」の定義を「意見が一致すること」だとするならば、私はそんなものは犬にでもくれてやれと言いたい。
仲が悪くてもいいではないか。利害さえ一致すれば私たちはヘドの出るような嫌いな相手とでも生きていくことができる。

だから私は最近のニュースで日中のケンカを見て嘆いている人を見るたびに、あんなものは憂う必要のないことだと思うのである。
好きなだけケンカすればいいのだ。ケンカをさけて軽蔑されるくらいなら、とことんやって憎まれた方がいい。