玄文講

日記

貨幣(5)「その因果1」

2005-05-17 00:36:55 | 経済
役割」、「種類」、「制御」、「真価」の次は貨幣が経済に与える影響、その因果関係について考えたいと思う。

前に書いてから随分と時間がたってしまったのは、分からないことを調べていたからである。(今でもはっきりと分かってはいないが、分かっている振りをして議論を進めることにする)
私が調べていたのは、市場における貨幣の影響について二つの異なる意見についてである。

それはケイジアンとマネタリストである。
前者は政府や中央銀行は金融政策を通して市場に介入するべきだと考え、
後者は金融政策は景気回復の足を引っ張るだけであり、政府や中央銀行は市場に介入すべきではないと考える。

これは大きな政府か小さな政府か、規制をすすめるか緩和するか、といったよくある議論の経済版である。
乱暴にまとめると、この意見の対立は市場における政府や中央銀行の役割を評価するかしないかという問題になる。

議論は同じ土俵の上に立たないと成立しない。
どの学派も共通で認めていることはある。議論はその解釈をめぐって行われているようなのだ。
だからまずは、その皆が認めていることについてから話したいと思う。


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貨幣数量方程式

市場で貨幣がどのように動いているかを表現する式がある。それはとてもシンプルなものだ。

(流通している貨幣の量、マネーサプライ M)×(貨幣の流通速度 V)
 = (価格 P)×(取引の回数 T)


全てはたったこれだけのことなのである。
この恒等式を貨幣数量式と呼ぶ。

まずはこの恒等式の意味を説明する。
この式の右辺「PT」は「どれだけの取引が行われた」を意味する。単位はP [円]、T [回/一定期間]である。

例えば100万円の車が10台売れれば、価格 P = 100万[円]、取引回数 T = 10[回/一定期間]、取引の総数 = 1000万[円/一定期間]である。

しかし実際には現実の世界における取引回数を調べるのは困難である。誰が何を何回買ったかなんて調べていられない。そして観測できない数値についての数式なんて何の意味もない。「取引総額」なんて誰にも分からないのだ。

だが「取引総額」は「生産総額」にほぼ比例するはずである。なぜなら取り引きされる物は全て生産されたものであり、取引が成立したということは生産額が上がることを意味するのだから。
そして「生産総額」は次の式で表わすことができる。

(生産総額) = (物価 P)×(生産量 Y)

生産量「Y」の単位は[円/一定期間]であり、ここでの物価「P」は単なる現在の物の価格ではなく、インフレ率も考慮したGDPデフレーターのことである。これは比例係数となり単位はない。
つまり生産量とは実質GDPのことであり、生産総額とは名目GDPのことである。そしてこれらは毎年政府により統計が発表されている観測可能な量である。

実質GDP (Y) = 名目GDP (PY) / 物価 (P)
GDPデフレーター(物価) = 今年の物価 / 基準年の物価 = 名目GDP / 実質GDP

以上より貨幣数量式の右辺は次の式で置き換えられる。

(右辺) = (物価 P)×(実質GDP Y) = 名目GDP

今後はこちらのタイプの貨幣数量式を用いることにする。



この式の左辺「MV」は「私たちの間でどれだけのお金が出回っているか」という支払いに用いられた貨幣の量を意味する。単位はM [円]、V [回/一定期間]である。

マネーサプライ「M」は以前に説明したように中央銀行や政府が発行する紙幣や通貨により供給される。
そしてこの量の調整をすることが金融政策であり、その是非が先ほど問題になっていたわけである。

流通速度「V」とは一定期間に同一の貨幣が何回所有者を変えたかを意味する。

こんな話がある。
かの有名お笑い芸人、明石屋さんま氏の体験談だ。さんま氏は、ある日、喫茶店で支払いをしようとして千円札を取り出したところ、その千円札には「さんまさんに届きますように」と書かれてあったそうだ。
さんま氏はそれを非常に喜び、周囲の人々に「どやっ!」とその千円札見せびらかして大いに自慢したそうである。

これはお金はめぐるということを如実(にょじつ)に表わすエピソードである。
この話において1枚の千円札はファンからさんま氏へと2回所有者を変えて、市場においては千円×2=2千円分の支払いに使われたのである。

もしこの世に出回っているお金の量が同じでも、この速度が大きければ経済はうるおう。
世界にお金が100万円しか存在せず、それが一年間に1回しか所有者を変えないのならば100万円は100万円でしかない。
それが年に10回所有者を変えれば、100万円はその世界で1000万円分の働きをしたことになり、生産性も前者より10倍大きくなる。

この流通速度の解釈、それが変化するのか、それとも一定なのかも議論がわかれるところである。

さて、ここまではケイジアンもマネタリスト共通して認めるところである。
ではこの両者はどこで意見が分かれるのであろうか。
どうやらそれは「私たちがどれだけ貨幣を欲っしているか?」という問題の解釈についてだそうだ。明日はそれについて考えてみる。

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古典的二分法(長期的因果と短期的因果)

ここで最後に簡単に結論だけを書いておいてしまおう。
その方が明日からの話で何に注目すればいいのか分かりやすくなる。

まず恒等式はそれだけで物事の因果関係を教えてはくれない。
どの変数をいかように制限するかで、その解釈が変わってくる。

たとえば中央銀行によってマネーサプライが調整され、その量が変化したとしよう。
その影響はどのように表われるだろうか。

PY = MV

ここでMが大きくなれば、両辺が等しいままであるためには「物価 Pが上昇する」か「生産量 Yが増加する」か「流通速度 Vが低下する」の3つの可能性が挙げられる。
Mが小さくなればその逆が起きる。

そこでマネタリストは流通速度が一定であると考える。
もし流通速度が一定であるとしたら、変化するのは物価と生産量だけだ。

そして彼らは、短期的には生産量が変化するが、長期的には生産量は元に戻り物価だけが変化すると言う。
つまり短期的には私たちの実生活に影響があるが、最終的には何もなかったのと同じことになる。給料が上がれば、物価も上がり、私たちの購買力は何も変わらず、生活も何一つ変わらない。

長期的にみればマネーサプライは実質変数に何の影響も与えない。これを名目変数と実質変数の区別という意味で「古典派の二分法」と呼ばれる。そして実質変数と貨幣が無関係であることを「貨幣の中立性」と言う。

そして更にマネタリストは全ての調整は市場が行ってくれるから、政府は金融政策なんて余計なことをしなくていいと主張する。
介入は市場を混乱させるだけで、余計なお世話だというわけだ。

一方、ケイジアンも短期的には生産量が変化し、長期的には生産量は元に戻り物価だけが変化するということを認めている。
ただしその調整はマネタリストが言うほど順調にいかないと考えている。いつまでたっても元の状態に戻らず悪影響が消えないことがある。だから政府は金融政策をして強制的に調整しないとどうにもならないと主張するのだ。

さて、現実にはどの現象が起こっているのだろうか?
どうやら流通速度は一定ではなく、長期的にも生産量への影響が残り続け政府の介入が必要とされている。
マネタリストの主張は現実と一致していないところがある。今のところ優勢なのはケイジアンのようである。