阪神淡路大震災1.17のつどい 神戸市広報課の写真より
今日で阪神淡路大震災から20年。
村長のよく覚えている光景は2つ、一つは当時徳山市に単身赴任していたが、土日で尾道
に帰郷 月曜朝一番の新幹線に乗ろうと駅に着くと大勢の人だかり、皆さん頭上のテレビ見
てため息。
そう村長 駅でテレビを見るまで地震のこと知らなかった、見ていても暫くは新幹線が遅
れても来ると思っていたくらいだ。
もう一つは諦めて家に帰ってテレビ見ていると、高速道路が落ちているは、街のあっちこ
っちで黒煙が上がっていたこと、それまでこれほどの規模の震災の中継を見たことなかった
ので目に焼き付いた。
まぁ その後3.11の東日本大震災でまたもや、テレビ中継見ることになるが、いずれにして
も大規模な地震が頻発しだしたものだ。
で 改めてネットで阪神・・・を検索してみると、1995年(平成7年)1月17日午前5時46分発
生、M7.3、死者6434人、負傷者43792人等々・・・と続く。
長し読みではあるが、はぁーそんなんだーと思った小さな事が見つかったので紹介すると。
広域暴力団山口組が、本拠に備蓄していた食料を被災者に配った、ただ当時あまりマスコミ
は取り上げなかった、当然暴力団のPRになると思って、これなんか扱い難しいでしょうねー
今では互換性がある卓上カセットのボンベ、当時は義務づけがなく互換の効くもの効かない
ものありで被災者者支援に齟齬、その後法律が改正され互換性が義務付けられたそうだ。
最後は米軍、この阪神の時もいち早く出動準備ができたのは米第七艦隊、米側は空母インデ
ィペンデンスを貸すとか、神戸に接岸してへりで救出する旨打診したが、日本政府は断って
いる。
まぁこれは その後3.11で教訓となり「トモダチ」作戦として実を結びますが。
随分色んなことあったでしょうし、そして今も被災者の方の心の傷は消えないと思います
が、頑張ってください。
鷹取商店街 神戸市広報課の写真より