だ・こーじの「いま、思い、考えること」

「目に見え心に思ふこと」をホンネのごとくフィクションとして綴ります。

会者定離……11/28(木)

2013年11月29日 | 日記

出会いがあれば、別れがある。
別れがあれば、また新たな、あるいは再びの出会いがある。

植物もコトバをかけるとそれに応えるように育っていく。
今、我が家の植物はガジュマル。勘の鋭さでは足元にも及ばない、たいちゃんが、ココっ!と決めて買い求めた鉢植えの「ガジュくん」はこの季節でもしっかりと芽を出し、葉を開かせて育っている。

今日は先々週に続いて、「労作」の時間があり、ふだん使用する校舎の周辺に新たにパンジーを植えた。
晩秋から初冬に向かう季節の中で、寒さに抗うように咲く花。自分たちの手で植えたとなると、愛おしさが加わってくる。
そんな時間を過ごしてすぐに、私の担任組では「一大事件」が(……は、ちょいと言い過ぎ)起きた。

それはクラスのなかで「ねぇさん」と慕われていたTさんが、将来の夢を実現するために、今月をもって大学を去ることとなったからだ。
数ヶ月、悩み、考えた結果の判断となれば、下手な引き止めなどは無用。力いっぱい声援して送り出していこう!と私じしんは考えていた。
そこで、クラス委員のひとりThe Mさんに相談したのが今週の月曜日。
そこから彼女の呼び掛けにクラス全員が即座に応じてくれ、昨夜は一睡もせずに20分にも渡るクラスメイトからのメッセージビデオを作ってくれた。
初めて出会った4月からわずか8ヶ月。仲間との別れを正面から受け止めた成長の軌跡を間近に見た思いであった。

夕方は会議。
夕食付きの会議だが、なぜそれがカツ丼なのか? 新しい食堂が目の前にあるのなら、連携して使えるようにすることなど考えられないというのか。
ウチの大学の本当の強みと弱みが全教職員に浸透していないと言われているようなもの。
形骸化していくことを予測してしまうのは他人事ではない。

日付が変わるころ、ようやく帰宅。
学生も卒論を抱えている者は遅くまで努力している。
そんな学生に対して教職員はどう接するべきか、当たり前だが、学生があっての大学である。
どこか、時代錯誤の感があるオトナもいるのは、いずこも同じか。

世襲議員は民意で叩かれている。なぜ叩かれるのか。
今こそ考える時のように思われてならない。
クロはクロ、シロはシロである。そして、灰色は灰色として存在することこそ、この高等機関で学ぶことであるといったら、言い過ぎだろうか。