絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

理想の母親像

2006年05月20日 23時41分32秒 | 子ども
はなのすきなうし

岩波書店

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これは、見てのとおりずいぶん昔に出版された絵本ですが
わたしがこの本を知ったのは長男が生まれた頃、
いまから20年位前のことでした。
この本が2,3日前の日本経済新聞の夕刊のコラムに出ていました。
(小さい頃すきだった本のひとつとして)

本の題名のとおり「フェルディナンド」という名まえの主人公の牛は
闘牛用の牛としてはふさわしくない「ただ花の匂いをかいでいるのが好きな牛」
なのです。どんなにけしかけても、闘牛の役目を果たそうとはしません。
ついにみなはあきらめて「フェルディナンド」はすきなだけ花の匂いをかいで
おだやかに暮らせることになります。

はじめてこの本を読んだとき(正しくは子どもに読んであげたとき)
泣けてきました。涙するような劇的な内容ではないのですが。
「フェルディナンド」が闘牛場に連れて行かれてかわいそうだ、とか
平和に暮らせてよかったね、とかそういうことではなくて
途中この牛のお母さん牛が出てくるのですが、
たぶん、そのお母さん牛の「フェルディナンド」に対する深い愛情(慈愛)に
日頃の自分の親としてのあり方を反省させられたかなんかで
泣けてきたのでしょう。。。

子どもの牛が闘牛用として役に立たない性質であっても
「あの子はただ花の匂いをかいでいたいんです」と
子どものありのままの姿をまるごと受け入れ、愛し、支える母の姿勢は
当時の自分の気持ちに突き刺さりました。
子どもはまだ小さかったけれど、「こうあってほしい」みたいなことを
すでに子どもに対して思い始めていたからかもしれません。
そんなものは母の愛でもなんでもないのだと、この本は教えていました。
(そう自分には思えたのでした)

あれからずいぶんと時が経ちました。
子どもの本もどれくらいか数え切れないくらい読んだと思うのですが
この「はなのすきなうし」のことを忘れたことはありません。
たぶん、この本の中に、私にとっての理想の母親像があるからでしょう。
子どもの持って生まれた資質を、たとえそれがいかなるものであっても
大切にして愛していく姿勢というのは、自分にとってかなえることの出来ない
『悲願』のようにも思えます。