藤野から世界へ

神奈川県の北端、藤野町に住み始めた夫婦が山里の暮らしの中で感じたり、考えたりしたことをつれづれに綴ります。

ラダックその4 ダーとラマユル

2010-09-29 18:49:00 | 海外
 さて、ゴンパ巡りはこれ位にして、下ラダックの村について報告しておきたい。

 下ラダックを貫く唯一の幹線道路を走り続けると、カルシで2つに分岐する。一方はダーやハヌーなど花の民と呼ばれるドクパの人達が住む地域。もう一方はラマユルを経てカルギルなどイスラム教徒が多く住む地域に通じている。そして、カルシでチェックポイントがあり、外国人はILPを提出しないと通行することができない。



 写真でいうと右側の道を進むとハヌーを経てダーまでは行ける。走ることレーから5~6時間でダーに至る。この地域に住んでいる人達は、アーリア系で、チベット系のラダック人とは違う。時々、青い目の人もいるとのこと。宗教も、チベット密教が入ってきたのは2~300年前のことで、それ以前のアニミズムもまだ色濃く息づいている。
 花の民と呼ばれるのは、女性が花や毛糸、リボンやコインで髪を飾る習慣から来ている。この写真はダーではなく、ダライラマ法王が9月13日にレーに来た時のもの。



 ダーは30軒程の小さな集落で、狭いながらも至る所に畑がある。気候も温暖なので、短い夏の間に2回も収穫ができることで有名である。
 これは野菜類。



 雑穀のようである。



 村の中は、石を積み上げた道や塀で細かく仕切られている。



 杏を干している。ダーに限らず、ラダック全体では杏が主要な作物の1つである。



 小さいながらも豊かそうな村に思えた。なかなか居心地はよい。



 一路ラマユルに向かう。ラマユルは「月の世界」と呼ばれるユニークな地形で知られていて、行った人に話を聞くと「美しかった」というのだが、実際に見てみるとびっくり、こんな感じである。



 ラマユルには、「湖が干上がった」という伝説が残されているが、実際にこの黄色い土地は、数万年前にここにあった湖が干上がった時の湖沼堆積物のようである。



 これがラマユルで、中央の岩山に聳え立つのがラマユル・ゴンパ。ダーは岸壁のテラスにちょっと間借りしたような小さな集落だったが、ラマユルは谷底で、比較的広い土地に麦畑が延々と広がる。



 ともかく、異次元に彷徨い込んでしまったかのような不思議な気分になること請け合いである。



 村は丁度収穫期で、麦の刈り取りを人力でやっていた。この村は、ラダックを取り上げた「懐かしい未来」の著者でもあるヘレナさんが設立したISECというNGOの研修も受け入れているようで、旅の途中でも「ラマユルで1ヵ月位援農していた」というポーランド人と知り合った。持続可能な社会に関心を寄せる人達からも注目されている村のようだ。



 ダーとラマユルは見かけは違うが、居心地はどちらもとても良く、村人も親しげに話しかけてくる。良い村だと思った。そして、ちと大それた構想かも知れないが、私達もそんな村を作るのに参加してみたいと大いに話が弾んだのである。


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ラダックその3 下ラダックのゴンパ

2010-09-28 21:13:00 | 海外
 上ラダックに対して、インダス川下流域を下ラダックという。上ラダックを端まで行くと、外国人旅行者はILPという許可証が必要になる。そして更に行くと、中国側が実効支配(今流行の言葉?)しているアクサイチンに突き当たる。下ラダックを端まで行くと、またILPが必要になり、今度はパキスタンとの軍事境界線に突き当たる。

 上ラダックの有名なゴンパはいずれもレーから近いため、ILPは必要なかった。次に、下ラダックのゴンパと村を回ろうということで、2泊3日の車の旅に出かけたのだが、村の方に行くためにILPが必要となった。ラダックは、レーの空港に着くと、外国人の場合は入域証みたいな書類を書かされる。いずれも、現時点では形式的なもののようだが、軍事的緊張感が高まると、旅をするのも厳しくなるということも充分あり得る。下ラダックを旅していると、ひたすら続く山々と点在する村、そして時々軍事施設が立ち現れてくる。

 編集の都合上、下ラダックのゴンパをまとめて紹介したい。

 まずは初日に訪れたリキル・ゴンパ。ヘミス・ゴンパと並んで、ラダックでは最も権威のあるゴンパである。バカンというお堂のチューチグザル像(千手観音)が見事で、連れ合いが痛く感動していた。



 壁画も結構見事だったのだが、髑髏が至る所に書かれていて、例えばこの髑髏からは目が飛び出している。他にも、髑髏に、さいころの入った袋がぶら下がっている絵などがあり、「悪い」ことをするとこういう目に遭いますよ、という戒めなのだろうか。


 
 憤怒尊(日本では不動明王とか仁王?)が髑髏を鷲づかみにしている。



 ラマユルでは、有名なラマユル・ゴンパよりも村の中にある小さなセンゲガンというお堂が良かった。壁画の痛みが激しいのが残念だが、13世紀の頃のものと見られている。





 印象的なゴンパとして、リゾン・ゴンパを上げたい。藤原新也の「全東洋街道」にも現れる寺として有名だそうだが。

 リゾン・ゴンパの特徴は、まずその位置付け。普通のゴンパは集落の中にあって、人々の生活と密着しているが、リゾン・ゴンパは純粋に修行だけを目的としているため、人里から遠く離れた山中に忽然と出現する。1840年に建てられたラダックで最も新しいゴンパだが、厳しい修行が行われている。



 ゴンパの前から見える山並み。



 ドゥカンというお堂を訪れると、何と、丁度砂曼荼羅ができた所で、法要が執り行われており、私達も末席に参加することになった。



 こちらに写っているのは、全員が尼さんの卵。適当に出入りしたり、テキストを読んだりよそ見をしたり、落ち着かないが、まぁ子供なので愛嬌がある。



 これが砂曼荼羅。直径は1・5m位だろうか。金属の漏斗を使用して、着色した石英で描く。実際に見てみると、息を呑む程美しい。これが見られたのは、はっきり言って幸運以外の何物でもないだろう。砂曼荼羅の模様は、ゴンパによって違っていて、同じものはない。砂曼荼羅は、決まった日に作成されているわけではなく、大体1~2ヵ月に1度、1週間懸けて作成され、翌日壊される。







 さて、ここでは紹介していないお薦めのゴンパが2つある。有名なアルチ・チョスコル・ゴンパとマンギュ・ゴンパである。何故紹介していないかというと、文化財保護の観点から写真撮影が禁じられているからである。内容は、今から1000年程前のカシミールの仏画師が描いた極彩色の仏画や曼荼羅の数々で、地球上でもここにしか残ってないという代物。ラダックを旅して出会った日本人のタンカ師や仏像修復師の女性達も絶賛していた。素晴らしすぎる。

 個人的には、有名になってしまったアルチ・チョスコル・ゴンパよりも規模は小さいのだがマンギュ・ゴンパが一押しである。マンギュは、最寄りのバス停から歩くと2時間半程かかる山の中にある20軒程の小さな集落なのだが、こんな片田舎のごく小さな寺が世界レベルの仏教美術を蔵しているなんて、なかなか凄い話ではないか。興味ある人には是非直接、この目で見て欲しい。期待を裏切らない(と思う)。
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ラダックその2 上ラダックのゴンパ

2010-09-27 21:32:00 | 海外
 まずはラダックのゴンパ(僧院)巡りをやることにした。手始めに上ラダックの有名なゴンパを回った。
 ラダックは、インダス川流域沿いに栄えてきたのだが、レーより上流を上ラダックと言い、ラダック王国の古都シェイのゴンパ、ラダック最大のヘミス・ゴンパなど有名で大きなゴンパがある。

 一番最初に訪れたのが、レーからも近いシェイ・ゴンパ。シェイとは水晶の意味で、10世紀にラダック王国が成立してから15世紀までの都はここであったと伝えられている。ゴンパは、王宮跡の敷地内にある。1655年に建造されたシャキャ・トゥバ大仏が有名である。



 痛みは激しいが、壁画はなかなかのもので、特にセンゲダ(獅子吼観音)が見事である。



 次に、岩山に聳える僧院群で有名なティクセ・ゴンパ。



 このゴンパは、ラダック最大の高さ15mのチャンバ大仏で有名。英語の説明ではマイトレーヤ・ブッダということなので、日本では弥勒菩薩ということになる。しかし、日本とラダックではかなり違うのに驚き。



 壁画も良く保存されている。



 ヘミス・ゴンパは王家の庇護が厚く、ラダック最大かつ最も裕福なゴンパでもある。毎年6~7月に開かれるヘミス・ツェチェという祭でも有名。



 ここには、巨大なパドマサンバヴァ像がある。パドマサンバヴァは、8世紀頃にチベットに密教をもたらしたとされる人物で、グル・リンポチェという敬称でも知られる。



 これはツォム・ラカンというお堂。仏像の前に沢山懸けられているのはカタと呼ばれる布。参拝者が奉納したものである。その前には祭壇がしつらえられている。灯されているのはバター・ランプ。



 一番遠かったヘミス・ゴンパでもレーから45kmなので、この3つのゴンパは1日で回ることができた。チベット密教は極彩色の世界で、周りは見渡す限りの木の生えていない山、遠くには高く聳える雪山といった光景ととても対照的である。また、日本の寺とは違って、四角い積み木を組み合わせたような建築であるのも大きな違いである。日本の仏教とも共通する仏や観音菩薩、守護神が、どういう風に表現されているのか、その違いを見ていくのも興味深かった。


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ラダックその1 空路でレーへ

2010-09-24 12:06:00 | 海外
 9月19日、北インドはラダックへの旅から帰ってきた。インドを旅行するのは10年振り、とは言っても、今回旅してきたラダックは、地形的にいうとインドの一番北にあるジャンムー&カシミール州に属し、東西に細長い形をしていて、南側をヒマラヤ山脈(の端の方)、北側をカラコルム山脈(K2があることで有名)に挟まれている。
 陸路で行くとなると、ヒマーチャル・プラデーシュ州のマナリからラダックの中心地レーまでは1泊2日のバスで5000m前後の峠を3つも越えなければならない。もう少し若ければなんていう台詞は吐きたくないのだが、期間も短いことから、デリーから空路でレーへ飛んだ。僅か1時間のフライトである。

 9月5日にエア・インディアで成田空港を発ち、同日夕刻にインディラ・ガンジー国際空港に着。10年前の記憶を辿ると、深夜未明に着、照明は薄暗く、空港の外へ出ると怪しげな客引きがわんさかと押し寄せてきて、バスを尋ねると全然違う車に乗せられそうになったり、何故か空港内に野良犬がいたり、ついて早々大変な思いをしたので、警戒していたのだが。





 いきなり拍子抜けである。このオシャレなインド現代アートの数々は一体? 到着ロビーに全面絨毯が敷き詰めてあるのには驚いた。最近、空港を全面的に建て替えたようで、現在も工事は続いている。当然、怪しげな客引きは一掃。

 空港近くのホテルに投宿して、翌朝は3時起きで国内線ターミナルへ。



 国内線は初めて使ったのだが、これも曼荼羅をデザイン化したような長い垂れ幕がそこここにかかっているオシャレな空港。ジェットエアウェイズでレーへ。
 ラダックが近づくと、この地球の皺のような見事な地形が眼下に広がる。人間が住めるのは、氷河や雪が溶けて川となる所にできた僅かな扇状地に過ぎない。





 レーは、かつてここにあったラダック王国の首都、現在もラダック地方の中心である。人口は、約25000人で、ラダック全体の15%を占めている。この時期の気温は、昼間は20度を超えるが、夜は10度以下となる。高度は3500m前後で、富士山で高所順応を試みたものの、到着した初日は少し歩くと息が切れたり、また猛烈に眠くなったりした。

 街は、観光業が主体なのだが、今年の8月上旬に発生したインダス川流域の大洪水の爪痕もまだ生々しく、今シーズンの観光客は激減してしまったようだ。この洪水の原因は、この地域の温暖化で氷河が溶けた量が例年より多かったためとされているらしい。

 これがレーにある王宮。チベットのラサにあるポタラ宮は、この王宮をモデルにしたとのこと。



 街は観光客相手の店であふれかえっている。



 所々、「free tibet」とか「tibetan refuge(難民)」との横断幕が掲げられたチベット難民の人達がやっているらしい市場がある。品揃えを見てみると、やはり仏像やシンギングボール、法具などが多い。店をやっている人は様々で、みんながみんなチベットからの難民というわけではないし、かなり商売っ気が強い人もいた。まぁ、よく値段の駆け引きをしながら買い物を楽しんだ。



 これが一番の大通り、メインバザールで、五色の旗タルチョがはためいている。タルチョの向こうにちょこっと見える白い建物はモスク。ラダックでは、チベット密教が多数派だが、ラダック全体ではイスラム教徒も15%程度いて、レーではその比率は高い。



 ラダックの観光は、ゴンパ(密教寺院)巡りやトレッキングが主なものとなる。今回、トレッキングは日程の都合、そして予想以上に高所が厳しかったので断念した。体は慣れるには慣れるのだが、連れ合いは階段などちょっとした登りでも息が切れていたようでしんどそうだった。そこで、旅の前半はゴンパ巡りとなった。
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秩父観音霊場結願

2010-09-02 07:31:00 | 
 今年の2月、旧正月から始めた秩父観音霊場霊場札所巡りが、のべ7日間をかけて結願
した。札所巡りは、24番光智山法泉寺辺りから山寺の雰囲気を見せるが、今回2日間をかけて回った札所は、岩場の寺ということができるだろう。

 28番札所石竜山橋立堂。このお寺は、大岸壁の下に立っていて、秩父観音霊場の中では唯一馬頭観世音を本尊とする。観音堂が立っている辺りからは縄文遺跡が出土している。また、奥の院が橋立鍾乳洞となっていて、見学することもできる。なかなか大きな鍾乳洞である。



 31番札所鷲窟山観音院。ここを訪れた時の衝撃は筆舌に尽くしがたいものがある。四国霊場45番の岩屋寺を思い起こした。これは岩屋寺。

http://wind.ap.teacup.com/applet/fujino/20090709/archive

 そしてこれが観音院。60mある岸壁の下に立っている。周囲は全て岸壁で、行者が水垢離をした滝もある。観音堂は昭和に再建されたコンクリート造りなのだが、周囲の光景が凄すぎて、古いとか新しいとかそういうことを感じさせない。



 左手岸壁には沢山の石仏群。そして、磨崖仏。弘法大師が爪で彫ったと言われているが、詳細は定かではない。実際には室町時代のものではないかと言われている。この寺は、かつては修験堂の一大道場だったので、修行者が彫った可能性もある。



 これがハイライトだったなと思いながら32番札所般若山法性寺に向かった。この寺は、東国花の寺としても有名なのだが、ここの観音堂もやはり岸壁。斜面なので懸崖造りになっている。



 奥の院へは、裏山を500m程登るのだが、参道ではなく、普通の山道である。そのつもりで行かないと厳しいだろう。
 登り詰めると、尾根が、



 この様に、何と全長200mの岩になっていて、船の形をしている。頭の方には聖観世音菩薩、尾の方には大日如来が祀られている。これは頭の方。ここからの眺めは最高だが、気を付けて行かれたい。
 この岩のため、この寺はお船観音とも呼ばれている。

 そしていよいよ結願の寺、34番札所の日沢山水潜寺。この寺は、秩父観音霊場のみならず、坂東と西国を合わせた日本百観音の結願の寺にもなっている。



 ここも背後は岸壁で、岩屋から長命水と呼ばれる清水が涌き出しているのだが、巡礼は、この水で体を清めて俗世界に戻っていったと言われている。そこから寺の名前となった。

 やっと秩父観音霊場巡りを終えることができた。終わってみればのべ7日間。通しではなく、空いた時間を利用してやったのだが、忙しい中で気持ちを持ち続けるということが意外に難しく、正直しばらく忘れていたこともあった。そんな中で、物事をやり遂げるということはとても充実感があることだと思う。また、巡礼を始めた当初に考えていた色々な思いや悩みが、巡礼をしていく時間の中でゆっくりと熟成していく。その過程を見つめていくことが、最後の方になればなるほど楽しいことになっていた。昔の人達も、こんな風にゆっくり時間をかけて人生を見つめ直し、そして新しい出発をしていったのだろう。

 今週末からは、連れ合いと北インドのラダックという場所を旅して来ます。ラダックは、チベット文化圏に属しているヒマラヤの麓の高所。山と寺にゆっくり抱かれてきます。
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