藤野から世界へ

神奈川県の北端、藤野町に住み始めた夫婦が山里の暮らしの中で感じたり、考えたりしたことをつれづれに綴ります。

現代の神楽

2011-09-29 23:07:00 | 
 観音堂で始まった旅は、神仏習合の山を経て、最後は神社で終わった。旅の最後は、上田市の別所温泉にある別所神社神楽殿でのGOCOOのライブである。今年のひかり祭りではスタッフで見ることが出来なかったので、とても楽しみであった。

 別所神社は鎌倉時代初期の創建で、熊野本宮大社より勧請したので、元々は熊野神社といった。明治に入ってから別所神社と名前を変えている。神楽殿では、様々なイベントをやっているそうである。
 ライブが凄すぎて写真をとっている場合ではなかったので、さわりだけしか紹介できないが、これが神楽殿。前面の壁と内部の天井がないため、大きな梁が見られるのが特徴。 



 ライブの1シーンを一応撮ってみたが。ライブの凄さを言葉で伝えることはあまりにも難しいので、一言。ぜひ、ライブに行って、その場の空気を吸って感じて下さい。



 ライブ終了後はキャンドルでライトアップ。子供たちが周りに。平和としか言いようのない光景である。



 最後は上田が誇るファイヤーユニット、ゴロピカの登場。この方、連れ合いの出た高校の遠い後輩のようである。


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様々な信仰の形

2011-09-29 22:21:00 | 
 布引観音の翌日は、筑北村にある修那羅の石神仏群を見に行く。上田市の西にある青木村と筑北村の境の修那羅峠、その近くの山中に安宮神社がある。安宮神社を創建したのは修那羅大天武という人物。

 修那羅大天武は1855(安政2)年、この地に住み、土地の人の熱望により雨乞いの法を修して信頼を得る。古くから鎮座する大国主命の社殿を修し、筆神楽という占いで予言を行ったという。修那羅大天武は、新潟県妙高村大鹿の生まれで、9歳の時に天狗に従って家を出て、60年間白山や立山などで修行したという。安宮神社裏の山中には800体とも言われる石神仏が立ち並んでいる。まさに圧巻である。

 安宮神社拝殿の堂々たる構え。この脇から裏の山中へ歩を進める。



 すると、このように石神仏が立ち並んでいる。



 一体何を模した物なのか?



 「ハアハ神」「ホクコク神」と刻んであるが、そのような名前の神様がいたっけ?



 「魂を入れ替える」と書いてあるように見える。



 風雨に晒されて溶けてしまった仏像?



 思い思いの形の神仏が立ち並ぶ。



 行って見て驚いたのだが、まさに自由奔放な人々の意識で溢れ返ったような場所である。唯一取り決めがあるとすれば、「石に自分の思いを刻むこと」それだけではないだろうか。
 恐らく、修那羅大天武という人物が真の意味で自由奔放な人だったので、そこに集う人たちも、自分達で既成観念に囚われずに神様や仏様を創ったり、あるいは元々その土地にあった神様を誇りに思うことが出来たのだろう。既成の宗教からしてみれば、出鱈目であるとか、時には脅威に映ったかもしれないが。
 人によって感じ方は違うだろうし、私の見方が必ずしも当たっていないかも知れないが、またそれがこの石神仏群の奥の深さとも言えるだろう。

 

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牛に引かれて善光寺参り

2011-09-26 22:12:00 | 
 この週末は、軽井沢に泊まって近隣を旅するという贅沢な機会に恵まれた。美味しい蕎麦を食べたり、温泉に入ったり、イベントに参加したり、名所を巡ったりしたのだが、強く印象に残ったものを紹介したい。

 旅の基点は、長野県小諸市。ここには、「牛に引かれて善光寺参り」で有名な布引観音がある。知っている方も多いと思うが、ざっとおさらいまで。
 
 昔、無信心なお婆さんが白い布を木にかけて千曲川で洗濯をしていると、急に現れた牛が、角に布を引っかけて走り去ったので、慌てて追いかけて布を取り返そうと引っ張ると、そのまま牛に引きずられてしまい。気がつくと長野市の善光寺まで来てしまった。善光寺で牛は突然消え、お婆さんはその牛が仏様の変わり身だと気づき、無信心だったお婆さんはその日から、心を入れ替えて信心深くなった。
 ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ると、岩角にあの布が吹付けられているではないか。老婆は何とかして取り戻したいと思ったが、断崖絶壁で取るすべもない。一心不乱に念じているうち、布とともに石と化してしまったという。布引山の断崖には今も白く布の形をした岩肌が眺められる。

 寺伝によると、奈良時代に行基が開き、現在は天台宗布引山釈尊寺というのが正式名称である。千曲川沿いの無料駐車場から20分ほど登る。

 参道沿いには滝やら岩やら、石仏やらが次々に現れる。これは牛岩。
 


 これは善光寺まで通じているといわれる善光寺穴。善光寺が火事になった際には、ここから煙が出てきたと伝えられている。



 登りきったところにはまず本堂。観音堂に向かう途中、室町時代に建てられた白山社が岩壁にめり込むように立っている。



 観音堂に至る道。



 観音堂遠景。見事な土台があるのだが、撮影は困難だった。



 先月の北向観音と合わせて、図らずも善光寺に縁のある寺にお参りすることになった。私は昨年参詣したのだが、その内、また善光寺に赴くことになるのかも知れない。
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藤野に縁のある力士

2011-09-03 18:02:00 | 
 8月後半に高野山に出かけた。物心付いてから、今回で6回目の高野山参拝だが、行く度に新たな発見があって面白い。今回は、奥の院へと続く参道で、こんなお墓を発見した。



 追手風と言えば、藤野の、甲州街道は関野宿の出身の力士である。追手風とは、相撲の年寄名跡の1つだそうだが、藤野出身の力士は4代目喜太郎、その彼が育て上げた横綱が、このお墓を立てた5代目追手風(雲龍久吉)である。

 4代目は、幼名を松次郎と言った。松次郎が力士への道を歩むようになったのは、9歳の時、同郷出身の力士で叔父にあたる追手風小太郎が長崎巡業の折り、松次郎の家に立ち寄ったことから始まる。この時、松次郎は親の止めるのも聞かずに小太郎の後を追い、弟子入りしたそうである。敬神祟祖の念に厚く、関野宿に今でもある竜渕山増珠寺には五具足・燭台などを寄贈し、氏神の三柱神社には、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の幡を献納している。その生家は現存しているので、地元によほど誇りにされた人物だったのだろう。



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