『A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)
この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
本文は、今回で終わりそうと思いましたが、文字数制限の関係でその11までになりました。
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王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
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序 p15 (その1)
本の制作 p18 (その1)
伝統的なイランにおける芸術家 p22 (その2)(その3)
イラン絵画の技法 p28 (その3)
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4)
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42
-----(その5)-----
○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
-----(その6)-----
○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て
○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合
○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
-----(その7)-----
○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
-----(その8)-----
○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
○ビフザドの晩年
○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
-----(その9)-----
○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
○画家アカ・ミラク
○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
-----(その10)-----
○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
○青年期以降のタフマスプの精神的問題
○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
-----(その11)-----
○タフマスプの気鬱
○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
○中年期のタフマスプの揺れる心
○晩年のタフマスプ
○タフマスプ治世最晩年の細密画
○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死
○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
タフマースプの絵画に対する姿勢は、未熟な少年がヘラートで触れたビフザドの様式に感心したことに始まる。タブリーズに戻ると、まだ多感な王子は、父親が庇護する全く異なる流派を知ることになる。この2つの流派が出会い、融合して、後にカムセとシャー・ナーメの傑作となる総合的なスタイルに昇華したのである。やがてシャー・タフマスプは、技術的に完成され、知的で、繊細で、新しい考え方に抵抗のある芸術、つまりアカデミックな傾向のある芸術を賞賛するようになっていった。タフマスプが少年時代に没頭した絵画は、かつて彼の個人的な欲求を満たすためのものだった。しかし、青年になると、絵画を愛するパトロンになる必要はなくなった。彼の感情には、別の出口が必要だったのだ。
スルタン・ムハンマドは絵画の創造性によって真の満足を得たが、王はそうではなかった。未熟なときの彼は、自分の感情を芸術の流派の形成に注ぐことができたが、苦悩と挫折を伴った成熟への課程は、彼に完全な幸福をもたらすことはなかった。彼の道は、恐怖を愛に変えることができる、歓びに満ちた庭園の輝く宮殿に至るのではなく、砂と灰に行き着くのである。シャー・タフマースプは、人間も芸術も、生者も死者も愛せなかった。彼の人生の中で最も幸福で、自信に満ち、創造的であったはずの年月は、かえって苦いものとなってしまった。彼は正統派[十二イマーム派]に帰依した。すべての人に与えられている自然な愛が、彼の中で枯渇してしまったのだ。憎しみと欲望だけが残り、それをコントロールするには、厳格な自己規律と死を招くような自己監禁をするしかなかった。
1556年[42歳]以降、タフマースプ王は一度だけガズヴィーン[1555-1598の間のサファビー朝の首都]の王宮の周辺を離れたことがある。もともと彼は生涯を通じて罪の意識に苛まれていたが、中年期には更にワインやその他の快楽を断つことが多くなった。また、悪夢にうなされることもしばしばであった。このような不幸は、おそらくずっと前に負った心の傷からきているのだろう。彼の人生は、世俗的な権力は十二分に与えられたが、幼い頃に愛を否定された男の悲劇であった。
○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
その代償として、彼は芸術に目を向けた。この献身的な活動を証明する最も説得力のあるものは、彼のかかわった絵画そのものである。そして更に、文献による記述もある。もちろん、これらは適切に評価されなければならない。作家の中には、特にサファヴィー朝に仕えた作家にとっては、お世辞が目的であったかもしれない。また、時に嫉妬深く、常にライバルであった弟のサム・ミルザのコメントのように、才能や興味を認めただけの言葉は、過小評価であると考えられる。
カディ・アフマッド[ペルシャの作家・書家。1547-?。wiki]は、おそらく正直な報告者であろうが、「この高貴な陛下は、自分がマスターしているこの不思議な細工の芸術に大いに傾倒していた......」と伝えている。 「シャー・タフマスプは、最初はナスターリク文字と絵画の習得に没頭し、それらに時間を費やした。彼は、図面と絵画のすべての芸術家の上に立つ比類のないマスターになった......。(そして)10万の賞賛と賛辞に値する」。
16世紀後半の芸術家であり、芸術に関する著述家でもあるサディキ・ベグ[wiki]は論争好きでかなり反抗的な性格の持ち主で社交辞令のために真実を曲げたりしない人物と思われるが、次のように語っている。
「絵画の分野での彼の能力は非常に高く、図書館の主要な巨匠たちは、陛下の修正と承認のために作品を提出するまでは、最後の仕上げをすることができなかったのである」。
オスマン帝国の文人であるアリは、競合する勢力の宮廷人として、素直に感心して書いている。その中には、情報を提供するためというよりは、サファヴィー朝の支配者をけなしして自分のパトロンを賞賛するためという意図の発言もあったが、シャー・タフマスプを「名画家(naqqash-i-mtad)、その芸術性は創造性においてビフザド的」と書いたことは間違いなく偽りのない見解であっただろう。「これは、彼がアブド・アル=アジズ[ʿABD-AL-ʿAZĪZ B.]のもとで修行したことに起因すると同時に、絵や絵画の優れた目利きから得た自然な喜びでもあるのだ」と書いている。
さらに、国王の甥であるもう一人のパトロンについて、こう述べている。1556年から65年にかけて制作された『ハフト・アウラン』の制作者であるスルタン・イブラヒム・ミルザ[wiki]について、アリは、彼とシャー・タフマスプを「さかのぼっては、栄光のジャライル朝[1336年 - 1432年。イルハン朝の解体後にイラン西部からイラクにかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配したモンゴル系のイスラーム王朝。最終的には黒羊朝やティムール朝、白羊朝の間で埋没していった。wiki]を継ぐスルタン・ウヴェイス・バハドウル[ジャライル朝の第2代君主で、実質上の建国者(在位:1356年 - 1374年)シャイフ・ウヴァイス一世のことか。この時期の首都はタブリーズ。wiki]と、ティムールの系統を継ぐミルザ・バイスングール[ティムール朝第三代君主の息子。wiki]といった芸術における王子の先駆者にのみ与えられていた稀な功績を有する」と評している。「サファヴィー朝の王子たちが芸術の領域で見せた洗練された技術と比類なき偉業は、まさに唯一無二のものとして世界的に認められているのです」。
○青年期以降のタフマスプの精神的問題
また、オスマン帝国の作家は、国王の芸術性を心から賞賛しながらも、噂話をしないわけにはいかなかった。彼は、国王のお気に入りの小姓の一人が、国王の絵画の師匠であるアブド・アル=アジズとその弟子のアリ・アシュガーに連れ去られた逸話を語っている。王室印章の盗難、偽造文書への使用、逃亡と追跡、犯人の逮捕と投獄、そして激怒した王自身の手によるアブド・アル=アジズの鼻と耳の切断という陰惨なエピソードである。少年は許され、アブド・アル・アジズの芸術性が発揮された。彼は自分で木彫りの新しい鼻を作ったが、それは王室のナイフで失ったもとの鼻より立派なものであったと言われる。
この事件については、王の弟サム・ミルザも1550年[タフマスプ36歳]に言及しているので、それより前のことである。この頃までには、シャー・タフマースプの芸術に対する目利きに関するこの弟のコメントは、過去形で語られるようになっていた。他の作家は、彼が徐々に芸術への関心を失い、拒絶するようになったことを語っている。
例えば、カディ・アフマドは、シャー・マフムード・ザリン・カラーム[ザリン・カラームは黄金の葦ペンの意]という書家に関連して、彼の心変わりに言及している:
「しばらくの間、彼は首都タブリーズに居住していた。... 書道と絵画の分野に飽きたシャー・タフマースプが、国の安寧と臣民の平穏という重要な国務に専念するようになると、マウラーナ(師)は許可を得て聖地マスハドにやってきた。そこで彼は20年ほど暮らした。」
カーディ・アフマドも、この書家が1564/65年にマシュハドで亡くなったと伝えているので、国王が心変わりしていったのはその20年前、1544/45年頃[タフマスプ30/31歳]であったのだろう。
○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
シャー・タフマースプの治世に現存する最後の大写本であるフリーア美術館所蔵の『ハフト・アウラング』[七王座]は、彼のために作られたものではないが、これが制作された1556年から65年までの彼の精神が多くの点で反映されている[タフマスプ42-51歳]。この写本のシェイフ・ムハンマドによる細密画は、この時期の様式をよく表している(図16)。
図16 メジュヌンがライラを訪れる シェイク・ムハンマド画
ジャーミの『ハフト・アラン(七王座)』 1556-65年作
フリーア美術館蔵[F1946.12.253。画像はwikidataより。是非どちらかで拡大画像を見てみて!
天幕へり布の大胆な幾何学模様と細かなアラベスクの対比がすごい・・・]
科学者が悪性組織の完璧な標本を顕微鏡で覗き込むように、私たちは慎重にこの絵に近づく。この絵は、この種のものとしては素晴らしいものであることは間違いない。だが、物語の筋書きは混乱を極め、たくさんの猥雑なエピソードの中で迷宮入りしているように見える。貞淑な王女、邪悪な召使いと女中、堕落した少女や少年たちが出演しているのだ。駱駝は化粧をした娼婦のようであり、馬は悪魔の愛人にしか似合わない馬である。この偉大な芸術家の輝かしい作品は、苦悩しているとはいえ、プルーストの雰囲気のようなものを呼び起こさせる。この作品にはウィットがあり、それは登場人物にぴったり合っている。鋭い観察眼を持つ廷臣のウィットであり、道徳家であり、宴の参加者でもある。彼はワインが酢であることを指摘したが、それを飲んだ。
○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン』(1556-65作)の比較
驚くにはあたらないが、この絵は最終的に、[サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)で]スルタン・ムハンマドが描いたアリの神格化を告げるガブリエルの絵(図8)と同じように、ほとんど同じ手段で私たちを感動させるのである。先の絵の空間(運河と木々の関係に注目)は、馬やラクダがどこからともなく飛び出してくるこの絵と同様、論理的な空間ではないのである。どちらの絵でも、人物は互いに不可能な関係で立っており、プロポーションも奇妙なほど一定していない。両者とも、知的さと静謐さは同じ程度に欠落しているか、あるいは存在している。しかし、先の絵が単純で無邪気で、頂上に向かって上昇する意欲に満ちているのに対し、後の絵は複雑な罪悪感に苛まれ、意図的に忘却の彼方へと向かっているのだ。共感を呼ぶ身体感覚は取り戻されているが、それは健全さよりもむしろ苦痛をもたらすようになった。ガブリエルは明るく新鮮で未熟な生々しさを、マジュヌンでは黒が混じり、不潔で過熟なほろ苦さを与えているのだ。
この2つを形式的に比較すると、また別のことがわかる。前者は構成が頑丈で、よく編み込まれ、筋肉質で、事実上若々しい。後者はのびやかで、弛緩した老成したものである。テント柄には目を見張るような激しい菱形、斜線、縞模様があるが、全体の効果は外側に回転する運動のようなものである。デザインの要素は、ガブリエルのように集まっているのではなく、分散しているのだ。芸術はもはや盛りを過ぎて種となっており、この絵に見て取れる渦巻く力は、その種をまき散らす風の象徴といえるかもしれない。運が良ければ、数粒の種が肥沃な土地に降り立ち、育まれる。これは芸術の自然な再生産の一つである。このような細密画から、また新しいサイクルが始まるかもしれない。
■■参考情報
■シェイク ムハンマド:画家ダスティ ディヴァネの生徒であり、シャー タフマースプのシャーナメに取り組んだ最年少のアーティストの 1 人であった
■フリーア美術館にある1556年から65年までのJamiのHaft Awrangの写本(302ページ)の挿絵
この写本は、サファービー朝写本のベスト5入りかつ最後の大作のようです。
確かに、挿絵の数が多いし、見惚れるものが沢山。特にテントの色使いが大胆で素敵。
あと、よくわからないけれど、テントや服など布の描写が、他と違う気がします。ふっくら感や布のヒダが、比較的リアルです。
Haft awrang(7つの玉座)からのSilsilat al-dhahab(金の鎖)
F1946.12.10(賢い老人は愚かな若者を叱る)
F1946.12.30(堕落した男は獣姦を犯し、サタンに殴られる)
F1946.12.38(素朴な百姓は、セールスマンに自分のすばらしいロバを売らないでほしいと懇願する)
F1946.12.52(父親が息子に愛について助言する)
F1946.12.59(修道士は最愛の人の髪をハマムの床から拾い上げる)
F1946.12.64(盗賊がエイニーとリアのキャラバンを攻撃)
Haft awrang(7つの玉座)
F1946.12.100(アジズとズライカがエジプトの首都に入り、エジプト人が彼らに挨拶するために出てくる)
F1946.12.105(ユースフが井戸から助けられる)
F1946.12.110(ユスフは群れの世話をする)
F1946.12.114(ユスフはズライカの庭で娘たちに説教する)
F1946.12.120(幼い証人はユスフの無実を証言する)
F1946.12.132(ユスフは彼の結婚を記念して王室の宴会を開く)
F1946.12.147(グノーシス主義者は、天使が光のトレイを詩人サディに運ぶというビジョンを持つ)
F1946.12.153(ピルはプレゼントとして持ってきたアヒルを拒否する)
F1946.12.169(アラブ人がゲストを非難する)
F1946.12.179(町人、村人の果樹園を襲う)
F1946.12.188(ソロモンとビルキスは一緒に座り、率直に話し合う)
F1946.12.194(サラマンとアブサルは幸せな島で休む)
F1946.12.207(ミューリドはピルの足にキスをする)
F1946.12.215(亀の飛行)
F1946.12.162(気まぐれな古い恋人は屋上から落とされる)
F1946.12.221(東アフリカ人は鏡で自分自身を見る)
F1946.12.231(Qays(Majnun)レイラを初めて見る)
F1946.12.253(Majnun は Layli のキャラバンのキャンプに近づく)
F1946.12.264(Majnun は羊に変装した Layli の前に来る)
F1946.12.275(預言者の昇天)
F1946.12.291(Khusraw Parrizand Sirin は魚屋と取引する)
F1946.12.298(イスカンダルは鼻血に苦しみ、休息する )
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