採集生活

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その5

2022-07-07 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
ある程度作業が進んだ状態で公開しはじめたのですが、続きの進捗よりも公開スピードの方が早いようで、貯金分がだいぶ減ってきました。
しかも内容が、歴史や地理、イスラム文化に関することになってきて、ムツカシイ感じに・・・。
最後の長い章が終わったら、目当てだった、それぞれの絵の解説があるので、なんとか進めたいものです・・・・。


私が書き込んだメモ的なものは、[]でかこってあります。

a-kings-book-of-kings

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王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 
(この章はあまりに長いので、勝手に小見出しのようなものをつけました)
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死


●シャーイスマイルとシャータフマスプ時代の写本(p42)
○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
ホートンの写本は、イラン王朝の芸術様式とその発展を、日誌のように正確に記録している。
そのページを通して、芸術家やパトロンに代表されるサファヴィー朝時代のエートスの発展をたどることができる。

この巻の制作は、長大で複雑なプロットと数百人のキャストからなる叙事詩に例えることができる。
ここでは、最初の2人のサファヴィー朝支配者、数人の芸術家、そして1、2人の廷臣という主要な人物だけを取り上げることにする。

シャー・イスマイルは、アゼルバイジャンのアルダビル[現イラン。タブリーズからカスピ海側に200km。wiki]のスーフィー・シェイク、サフィ・アル・ディン[wiki]の子孫である。
彼はイスラム神秘主義の一派であるサファヴィー教団を結成し、1334年に死んだ。サファヴィーはトルコ語を話すが、おそらくクルド人出身で、シェイク・サフィ・アルディン自身はイスラム教のスンニ派に属していたと思われる。しかし、彼の後継者は過激なシーア派となり、アゼルバイジャン、イラク、アナトリア、シリアのトルクマン族に多くの改宗者を得た。15世紀半ば、教祖の孫の死によって、宗派は保守派と過激派に分裂した。保守派はアルダビルに平和的に留まり、過激派はアナトリアやシリアに移り、教団はますます軍事的な性格を強めていった。当初、サファヴィー教団は白羊朝トルクマンの指導者ウズン・ハサン[wiki ハイダルの叔父/伯父にあたる]によって守られていたが、1478年にウズン・ハサンが亡くなると、サファヴィー教団過激派の軍事的性格が不穏に鮮明になってきた。白羊朝指導部の後継者Ya'qub Beg[ヤクブ・ベグwiki]とサファヴィー朝指導者ハイダル[wiki]の衝突で、Haydarは殺害された。

ハイダルの息子であるスルタン・アリ[wiki]、イブラヒム、そして後にシャー・イスマイル[wiki]となる幼児は、南部のファールス州にあるイスタクルの城に幽閉された。その後、ルスタム・アク・コーユンル(1492〜97)の時代に、彼のいとこであるサファヴィー教団の王子たちが釈放され、教団兵士の軍を率いてルスタムの敵に対抗することになる。
次の展開として、ルスタムはスルタン・アリと敵対し、サファヴィー教団は白羊朝との戦いで敗れた。幼いイスマーイールはカスピ海のギラン州に逃れ、1499年までそこに潜伏し、12歳のときに権力の座を狙ったのである。アナトリアでは、部族を含む多くの改宗者が加わり、サファヴィー朝軍の基礎となった「赤い頭」(Qizil Bash)[wikiクズルバシュ]は、ターバンを緋色の直立物に巻き付けた独特の頭飾りから名づけられた。

1500年、イスマイルはサファヴィー朝にとって伝統的な敵である白羊朝のファルーク・ヤサールを倒し、殺害した。1年後、イスマーイールは白羊朝の共同統治者であったアルヴァンド[Alwand bin Yusuf bin Uzun Hasan]を倒した。その後まもなくタブリーズを占領し、シーア派を国教とすることを宣言し、自らを国王とした。1503年にはシラーズを占領し、かつての広大なアク・コユンル[白羊朝]帝国の南部と西部を支配していたムラドを粉砕した。その後、東に向かい、1510年にメルヴで、遊牧ウズベク[シャイバーニー朝]の指導者、シェイバニ・ハーン[wiki]を破り、殺害した。
シェイバニ・ハーンは、1506年にスルタン・フサイン・ミルザ[フサイン・バイカラとも。wiki]の死後、ティムール朝からヘラートを奪っていたため、その支配地域を引き継いで、ヘラートとホラーサーン地方全体がイスマイルの支配下に置かれることになった。

シャー・イスマイルの強烈な個性は、今の時代でも感じられる。
この赤毛の強者は、「少女のように愛らしいが、どの廷臣よりも強力である」と同時代の旅行者が言っている。彼は、同じく武勇、陽気な楽観主義、無情な冷酷さ、文学・芸術・音楽への愛を兼ね備えた征服者、バーブル[ティムール朝ほぼ末代君主、のちにムガル帝国の初代君主 wiki]を思い起こさせる存在であった。
イスマイル王は、戦地でないときはタブリーズのアク・コユンル宮殿に住み、1514年以降は事実上ここで隠棲していた。1518年にタブリーズを訪れたベネチア人によると、「このスーフィーは民衆から神として愛され尊敬されており、特に兵士の多くは、主人であるイスマイルが戦場で見守ってくれると期待して、鎧を着ずに戦場に入る」。
イスマイルはカリスマ的存在であった。それ以上に、彼は詩人であり、空想家であった。恍惚とした詩の中で彼は自分自身を神と呼んだ。彼は生々しい異端的な詩を書いた。「私はファリドゥン、ホスロー、イスカンダル、イエス、ザハークだ」「私はモーゼの杖だ」「ノアの印が私の中に現れ、洪水がはじけ飛んだ」...。彼の詩を過激派兵士への意図的な檄文ととるかどうかは別として(多くの詩は戦乱の時代に書かれた)、それらは国王の性格の重要な一面を表し、初期のサファヴィー朝宮廷の精神が反映されている。

○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
シャー・イスマイルの幻想的な詩は、我々が知っている最古のサファヴィー朝絵画、すなわちウプサラ大学の図書館にあるモハンマド・アサフィーのDastan-i Jamal u Jalal[ジャマール・ウ・ジャラール この作品のあらすじについて調べたけれど著者名すらwikiにもなく詳細不明]を飾る絵画と精神的に似ている[Uppsala U., O Nov. 2 もとの画像はハーバード大のHOLLIS Imagesから。文字数の都合でその11末尾に全画像リストをつけました]。
1502/03年の奥付には、この写本の所在をヘラートとし、書写はスルタン・アリであることが明記されている。このスルタン・アリは、より有名な名前のスルタン・アリ・アル=マシュハディではなく、スルタン・アリ・カイニと推測される人物である。Sultan Ali Qayiniは、ヘラートで書かれた他の写本からも知られている。ジャマール・ウ・ジャラールの細密画のうち2枚には年代が記されており、1枚には1503/04年、もう1枚には1504/05年に相当する日付が記されている。

なぜ、ティムール朝の首都ヘラートで、サファヴィー朝時代の細密画を含む、この最初期の写本が作られたのだろうか。この巻の最初の絵は、様式的には他の多くの絵と似ているが、サファヴィー朝のバトンターバンを巻いていない人物が描かれている。おそらく、ヘラートで地元の後援者のために描かれたものと思われる。残りの絵は、ヘラートの作品では描かれなかったであろうサファヴィー朝時代の被り物をしている人物が多く、おそらくサファヴィー朝領内で追加され、未完成の写本はその領内へ行ったに違いない。
この説明は、この時期のヘラートの政治状況を考慮すれば、もっともなことである。ティムール朝を統治していたスルタン・フサイン・ミルザ[フサイン・バイカラとも。wiki]の息子たちは、毎年のように内戦を起こし、父親と対立していた。そのうちの一人は、1504年にマザンダランに出陣したサファヴィー朝に協力し、シャー・イスマイルと行動を共にした。このとき、「ジャマール・ウ・ジャラール」は未完成のままイスマーイールに持ち込まれ、画家たちとともにサファヴィー朝のアトリエに集結したものと思われる。

 

f57bJalal-before-the-turquoise-dome

図7 トルコ石のドームの前のジャマル、1502/03年のDastan-i Jamal u Jalalから。
この絵は、1504/05年の日付(扉の上の碑文)。
ウプサラ大学図書館、ウプサラ、スウェーデン
Dastan-i Jamal u Jalal (Uppsala U., O Nov. 2)Image Title: f. 57b: Jalal before the turquoise dome 17932397
[解説本(デジタルデータはなし):Mohammed Asafi, The story of Jamal and Jalal, an illuminated manuscript in the Library of Uppsala University by Karl Vilhelm Zetterstéen

これらのサファヴィー朝初期の絵画(図7)は、ビフザドによって指示されたスルタン・フサインによるティムール朝の工房のものとは、様式的に全く異なっている。細部はほとんど描かれておらず、丸顔の人物、平坦な建築物や風景、東洋風にアレンジされた乱れた雲や植生を含む。

○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
『ジャマール・ウ・ジャラール』の絵は、イブン・フサームの叙事詩『カバランナーメ』[The Book of the East。内容写本]の、最も古い挿絵写本[制作年代1476-87頃]に見られる様式を都市化したものである。『カバランナーメ』のテキストと細密画の多くは現在テヘランの装飾芸術博物館に所蔵されている。[ゴレスターン宮殿図書館MS 5750。115 のイラスト][他何カ所かに分散所蔵されておりMETにも5点ある模様

イランの研究者ヤヒヤ・ヅカは、シーア派の聖人アリの戦争と活躍を描いたこの『カヴァランナーメ』写本は、メヴレヴィー派[旋舞教団 wiki]の修道院のために描かれたとする説を唱えている。これは、写本に時折見られる宗教的熱狂と一致する。さらにヅカは、いわゆる舞踏団の拠点がコンヤやホラーサーン北部にはあったが、南部にはなかったことを指摘している。彼は『カヴァランナーメ』をヘラート地方とし、『ジャマール・ウ・ジャラール』に近い様式を持つことと整合的であるとしている。『カヴァランナーメ』には1477年の日付があるが、その細密画の多くは10年以上にわたって描かれたものと思われる。その中で最も幻想的なページ(図8)は、私たちが再現したページを含め、『ジャマール・ウ・ジャラル』の大部分を描いたのと同じ巨匠による初期の作品であると思われる。
この作品は、サファヴィー朝芸術の新たな総合的な形成において、もう一つの重要な要素を例証している。サファヴィー朝美術は、イスマーイールの征服によってもたらされた多くの絵画の中心地から生まれたといえよう。

Gabriel-announcing-the-apotheosis-of-Ali

図8 アリの神格化を告げるガブリエル
スルタン・ムハンマド作 1477年制作 Khavaran-nameh から。
個人蔵
[画像引用元:https://openresearch-repository.anu.edu.au/handle/1885/208951

○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
1481年にタブリーズのアク・コユンル王家のために制作された壮麗なカムセーについて、その細密画が「征服者のイスタンブール・アルバム」の絵と関係があることはすでに述べた。タブリーズを占領したイスマイル王は、王室図書館の残りの部分とともにこのカムセーを所有することになった。その未完成の細密画は、「ジャマール・ウ・ジャラール」の制作を指揮した画家の指示のもと、王の若いアトリエで完成されたようである。
例えば、「白い館のバフラム・グール」(図9)は、「ジャマール・ウ・ジャラール」と、その制作の最初の時期にカムセのために描かれた白羊朝の様式的要素を組み合わせている。後期細密画のここかしこに、人形のような顔、自然主義的というよりは表情豊かなプロポーション、大胆なスケール、ヘラート・カヴァラン・ナームの熱情と、白羊朝トルクマンのもとでのタブリーズ派の最高レベルの洗練された要素が混在しているのが見て取れる。

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図9 白い館のバフラム・グール(スルタン・ムハンマド作) 16世紀初頭。
1481年版ニザーミのカムセよりfolio 196r。
イスタンブール、トプカプ・サライ美術館図書館、H. 762
[Hollis Images 16198928
[この写本の全挿絵リストを、文字数の都合でその11末尾につけました]


○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
このイディオムの集大成が、大英博物館所蔵の未完成のシャー・ナーメ細密画『眠れるルスタム』(図10)であることがわかる。この絵は、シャー・イスマイルの個性である幻視的な面をそのまま表しており、彼の恍惚とした詩にも表れている。この画家は、『ジャマール・ウ・ジャラール』の挿絵を担当し、このトルクマン写本がシャー・イスマイルの手に渡ってから『カムセ』に加筆した工房の責任者であったに違いないが、彼の主要画家の初期の発展における最高点として見ることができる。この画家の成長の初期段階は、Khavaran-namehの細密画に見ることができる。ガブリエルの絵ではやや生硬でぎこちなかった作風が、眠れるルスタムでは達者になっているが、いずれにも画家の個性が光っている。何よりも表現にこだわっている。風景と動物との関係や、ルスタムが昼寝している空飛ぶじゅうたんのように見えることからわかるように、彼は現実の空間にはほとんど関心がない。それよりも、物語のすばらしさで感動させ、舞台の魅惑で驚かせたいのである。

Sleeping-Rustam

図10 眠るルスタム スルタン・ムハンマド作 16世紀前半
大英博物館 1948-12-11-023 著作権:大英博物館
[画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sleeping_Rustam.jpg
[大英博物館の当該サイト(キュレーター解説あり):https://www.britishmuseum.org/collection/object/W_1948-1211-0-23

「眠れるルスタム」のパワーは強烈で、まるで爆発を封じ込めたようだ。どこにも休まるところがない。葉や蔓の一本一本、曲がった木の幹や炎のような奔流が、乱れたリズムで振動している。緑、赤茶、ジンジャー、ピンク、赤、紫など、熱帯の森を思わせる豊かで新鮮な色彩と、信じられないほど緻密なテクスチャーが気分を昂揚させ、Khavaran-namebのページの約束が実現されている。
タペストリーのような緑の鮮やかなフォルムなど、これまでの絵も見応えがあったが、この絵はそのすべてを受け継いでいる。物語が最も愛情深く語られている。私たちは、青々とした下草の中を散策するように促される。すると、大蛇が小鳥を飲み込んで満足げにほくそ笑んでいる。さらによく見ると、もっと幸運なウグイスのペアが激しく抗議しているのに驚く。そして、少し右上に目をやると、岩に隠れて微笑んでいる虎の霊が、蛇の食事を身をもって喜んでいるように見える。また、眠っている主人公が、休息を邪魔されたことに苛立っている様子も、ウィットに富んだ描写で描かれている。そして、主人公の馬。獰猛な目をしたラクシュの電気を帯びたたてがみを描き、ライオンのあごがラクシュの足首にかかる音を感じさせるのは、よほどの巨匠でなければできないことだろう。

『眠れるルスタム』は、その性質がよく似ているシャー・イスマイルの宮廷で最も代表的な様式であったと思われるが、ヘラートのビフザードのイディオムのタブリーズ版も存在したのかもしれない。ボルチモアのウォルターズ美術館にある1512年制作のハフィズのディヴァン[W.628]は、その一例である。このような絵の流れは、正統派にこだわったシャー・イスマイルと完全に一致する。彼は1508年(最も異端的な詩が書かれた年)に、サイイド(預言者の家系)からの子孫を証明するために文書を偽造し、偽の系図を含む大胆な欺瞞に走らせたのであった。



■参考情報
1
図9の、1481年頃の『カムセ』写本について
パトロンは、ティムール朝の王族で、大ホラサン地域の領主 アブー・カシム・バブール・ミルザ(治世1449–1457)(父親はやはり芸術のパトロンのバイスングル)(wiki)と、
白羊朝5代君主、スルタン・ハリル(治世1478年1月-7月)(wiki

2
今回イスラム世界の歴史が出て来て、何か解説がほしいと思って探し当てたのが、
「イスラーム史」(全14回)(農三世界史チャンネル)
イスラム教の誕生から現在のイスラム世界まで、どわーっと勉強できます。
講義で使っているプリント(懐かしい用語ですね)もダウンロードできます。

この前、ニンニクを編みながら全編聴講!
(見入ってしまって、手がとまる・・・)



これは、東京農大第三高校の世界史の先生(関先生だったかな?)による動画。
おそらくコロナの自宅学習期間をきっかけに作られたのではないかと。
この先生の専攻が中近東関係(トルコ?)だったようで、アラビア語も書けるのです。
(他にも中国史やヨーロッパ史などどっさり講義があります。生徒なしの講義動画のほか、授業風景動画もあって、なんか生徒たちに慕われてる感じが伝わってきます)

高校生向けの受験世界史の動画は沢山ありますが、いくつか見た中では、一番パワフルで、面白いです。
(熱感が伝わってくる!)
そして、現代・未来を生きていく若者たちに、歴史を血肉にしてもらって、この先の長い人生を乗り越えて欲しい、というあたたかい気持ちがじんわり伝わってきます。
人生たそがれの中高年夫婦ですが、すっかり忘れてた高校世界史の授業、
「いやあ、勉強になるよねえ。基礎知識はやっぱあった方がいいよねえ」
と楽しませて頂いています。
(いまは中国史聴講中)

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