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サブカルとサッカーの話題っぽい

【SS】めい"ろ"ろぼとホームシック

2009-10-20 | インポート

 俺の部屋の中は静かなものだった。
 この空間に存在する音は、シャーペンがノートの上を走る音と、椅子の軋む音だけ。これくらいの時間になると外も夜の静寂に包まれていて、たまに車やバイクの排気音が遠くから漏れ聞こえてくるくらいだ。
 もっとも、あまりに静かすぎると、かえって集中できなかったりするのだが、贅沢は言っていられない。
 俺は、勉強しなければならないのである。
 何故なら、もうすぐ定期試験がある。学生であるかぎり避けられない壁だ。
 べつに真面目ぶるつもりはないが、そこそこの結果を出すためには、そこそこの学習時間を割り当てる必要がある。普段からコツコツ努力を積み重ねるタイプでもなく、授業を聞いただけで高得点が取れるタイプでもない俺は、試験前になったらこうして悪あがきするしかない。
 そういうわけで、夕食を終えてから机に向かっているのだが、

 正直なところ、はかどっているとはお世辞にも言いがたい状況だったりする。
 初めは軽快だったシャーペンの音は、少し前から途切れがちになっていた。どちらかというと椅子の軋む頻度の方が高い。
 ありていに言ってしまえば、まったく集中できていないのだ。
 そわそわする。
 むずむずする。
 視線を感じる。
 どんなに気にしないようにしても、そりゃいくらなんでも無理ってものだろう。
 俺はとうとう我慢できなくなり、
「あのさ、シルファちゃん」
 椅子に座ったまま、くるりとベッドの方に身体を向ける。
 ベッドの上には、俺の枕を抱えたシルファちゃんが足を崩して座っていて、
「お茶のおかわりいるれすか?」
 身にまとったメイド服が飾りでないことを示すかのように、即座にご用うかがいを立ててくる。
「いや、お茶はまだ残ってるからいいんだけど」
「寝る前に食べると、あまりカラらによくないれすよ」
「いや、お茶菓子が欲しいわけでもなくてね」
「じゃあなんれすか」
「いや――」
 それはこっちの台詞というか。
 ――どうして用事もないのに俺の部屋にいるの?
 と、訊ねてみたいのは山々なのだが、というか訊ねないと話が先に進まないのは目に見えているのだが、どうにもその一言を口にすることができない。シルファちゃんの表情は、どこか切羽詰まっていて、大きな瞳には「理由は聞くな」という意志がこめられているようにも見える。
 そうなのだ。
 理由はわからないが、シルファちゃんは先ほどお茶を持ってきてくれてから、俺の部屋を出て行こうとしない。かといって話をするでもなく、ベッドに座ってじっとしているだけだ。
 単なる気まぐれだとしても、黙って背後にいられるとものすごく気になる。勉強なんてとても手につかない。……決して勉強が嫌だからって言い訳してるわけじゃないぞ。
「ご主人様」
 あれこれ考えを巡らしていると、シルファちゃんの方が先に次の言葉を発した。
 正面から向き合う格好になる。
椅子に座っている俺と、ベッドに座っているシルファちゃんに、高低差はほとんどない。
「あの……その……」
 シルファちゃんは、あちこちに視線を泳がせながら、もじもじと指先を動かしている。
 なにか言いづらいことを言おうとしているのだろうか。
 無理にうながすのも悪い気がして、黙って続きを待つ。
 するとシルファちゃんは、ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声で、
「お願いが、あるのれす」
「お願い?」
 お願いってことは、なにか頼み事があるってことだよな。
 基本的になにかをして欲しいと言わないシルファちゃんにしては珍しい申し出である。
 これを聞いてやらない手はないだろう。
 いつも世話になっている身としては、むしろもっとワガママを言って欲しいくらいなのだ。
「なんでも言ってよ」
 むせてしまいそうな勢いで、どん、と胸を叩いた。
 今にして思えば、ちょっとだけ俺はハイになっていたのだと思う。
 だって、シルファちゃんが俺に頼み事をするなんて、ホントに珍しいのだ。信じられなかったのだ。
 ヘタレヘタレと言われ続ける俺にも男としての矜持はあるし、女の子に頼られたら嬉しいに決まっていた。
 だから、まあ、
「ホントれすか?」
「うん」
 気分が大きくなっていたというのは否定できない事実で、
「じゃあ、……今日はここで寝てもいいれすか?」
「うん」
 ろくに考えることもなく即答してしまったわけで、
「あ、ありがとうございますれす! すぐにお布団持ってくるれす!」
「うん…………………………………………………………………………………ん?」
 俺がシルファちゃんの頼み事が具体的にどんな内容か、ということに気づいたのは、部屋の中に一組の布団が持ち込まれてからだった。


めい"ろ"ろぼとホームシック



「ははあ、なるほど」
 俺の話を聞いたイルファさんは、ワケ知り顔でうなずいて、
「それはホームシックにかかってしまったのかもしれませんね」
「ホーム、シック」
 意味は知っているが、口の中で繰り返してみても実感が伴わなかった。というより、生まれてからずっと実家暮らしでは実感のしようもない。
「ようわかるな、そないなこと」
 イルファさんの隣で、瑠璃ちゃんが感心の吐息をもらした。
 俺たちは今、珊瑚ちゃんのマンションのリビングでテーブルを囲んでいる。俺とイルファさんが向かい合い、それぞれ隣に珊瑚ちゃんと瑠璃ちゃんが座っていた。昨夜、シルファちゃんの様子がおかしかったので、相談してみようと学校の帰りに寄ってみたのだ。
 しかし、見慣れたとはいえ、やはりとてつもなく大きなマンションである。このリビングだけ見ても、俺の部屋がふたつくらい入るサイズだ。
 そんな浮世離れした空間で、珊瑚ちゃんたちはおそろいのワンピースを身にまとい、イルファさんはお馴染みのメイドロボ用の服を着ている。
 イルファさんは、瑠璃ちゃんに柔らかな笑みを向け、
「姉妹ですから。瑠璃様と珊瑚様も、なんとなくそういうのってわかるんじゃありません?」
「そやなあ。たしかに、さんちゃんがなに食べたがってるかとか、なんとなくわかるわ」
「ウチもウチも。瑠璃ちゃんが貴明くると嬉しそうなのわかるよ~」
 出た。
 必殺、天然爆撃。
「そ、そないなこと、あるわけない! さんちゃんなにデタラメゆっとるの!」
「――で、イルファさん。瑠璃ちゃんをうっとり見つめるのはひとまず中断してもらって、話の続きをお願いしてもいい?」
「……はっ! も、申し訳ありません。顔を赤らめた瑠璃様があまりにも可愛らしくて、つい見入ってしまいました」
 口元をでっれでれに緩ませていたイルファさんは、きゅっと表情を引き締め、素早く居住まいを正す。
 この人、どこまで狙ってるのかわからないよ、ホント。
「ええと、シルファちゃんがホームシックにかかってしまった、という話でしたよね」
 軽くうなずき、続きをうながすと、イルファさんはほっぺたに手をそえて、
「貴明さんは、シルファちゃんの様子が普段と違うからおかしいな、と思われたのですよね」
「うん」
 少なくとも、これまでシルファちゃんの方から一緒に寝ようなんて言い出したことはなかった。うちにきたばかりのとき、お化けが怖いとかなんとかって話をして一緒にリビングで寝たことはあるが、あれも俺が無理矢理やったことだったし。
「シルファちゃんが同じ部屋で寝たいって言い出すなんて、普通ならありえないからさ」
 過去の記憶と照らし合わせながらそう言うと、イルファさんは珍獣を眺める目つきで、
「……はい、まあ、そういうことにしておきましょう。鈍感とか、にぶちんさんとか、そういうのはこれと直接関係のないお話ですし」
「どういうこと?」
「いえいえ、お気になさらずということです」
 そこでイルファさんは、こほん、と咳払いをして、
「たしかに、あまのじゃくがイヤーバイザーをつけて歩いているようなシルファちゃんが、そんなふうに直接〝お願い〟するなんて珍しいですからね。鋭いです。さすが貴明さんです」
 さっき鈍感って言ってなかったっけ。
「実はこの前、電話がきたときからなんとなく感じていたんですけど、貴明さんのお話を聞いて確信しました」
「電話って、シルファちゃんから?」
「はい。最近は近況報告もかねて電話することがあるんですけど、そのときにちょっと……」
 イルファさんの視線が、一瞬だけちらりと俺の隣に向けられる。
「こちらの様子を聞かれたんですよね。これまで、あまりそういったことは口にしなかったので、少し気になっていたんです」
 なるほど。それでホームシックという発想に繋がったわけか。
 考えてみれば、シルファちゃんはうちが〝実家〟というわけではない。あまりにも馴染みすぎていて忘れてしまうが、あくまでも〝実家〟はべつのところなのだ。
「って、シルファちゃんの出身地は研究所になるのかな? それともここ?」
「いえ」
 イルファさんは、ゆるゆると首を左右に振り、
「たしかに私たちは来栖川の研究所で生まれましたし、あそこが生まれ故郷というのは間違いありません。ですが、そういう場所の問題ではないと申しますか、シルファちゃんが恋しがっているのは、おそらく――」
「――珊瑚ちゃん?」
 イルファさんの視線の先には、ぽやんとした顔の珊瑚ちゃんがいる。
「ウチ?」
「そのとおりです。シルファちゃんは珊瑚様に会いたいのだと思います。私たちのふるさとは、私たちを生み出してくださった珊瑚様ご自身に他なりません」
 もっとも私の心のふるさとは瑠璃様ですけど、とわざわざつけ加えるあたり、イルファさんに隙はない。その言葉を受けて、瑠璃ちゃんはさりげなく距離を取ろうとしていたが、離れたぶんだけイルファさんは距離を詰めていた。完璧に捕捉されている。南無。
「でも、シルファちゃんは珊瑚ちゃんのことを怖がってるんだよね?」
 俺の記憶違いでなければ、かつてイルファさんはそう言ってたはずだ。
 造物主である珊瑚ちゃんに自らの存在を消されてしまうと思いこんでいて、だからシルファちゃんは珊瑚ちゃんを恐れている、と。
 怖がっているのに会いたい、という矛盾も『複雑な気持ち』なんて言ってしまえばそれまでだが、なんとなく腑に落ちない。
「そうなんですけど……貴明さん、覚えてらっしゃいませんか?」
 イルファさんは、珊瑚ちゃんを気にする素振りを見せながら、
「ずっと前に、シルファちゃんはマザコンだってお話したことがあったと思うんですけど」
「……あー」
 崖に指一本でぶらさがっているような、かなり心もとない記憶ではあるが、春先にそんな話を聞いた覚えがあった。出会いのインパクトが強すぎて、今まで完全に忘れていた。
 しかし、だとするとおかしくないだろうか。
 一般的にマザコンといえば、いつまでも乳離れできない人のことを指す。言葉遊びをするなら、畏怖の念を抱くのもマザコンに含まれるのかもしれないが、どうしても単語から受けるものとは正反対なイメージを抱いてしまう。
 どういうことかと首をひねっていると、
「シルファちゃん、珊瑚様にだけは懐いていたんです」
 イルファさんの言葉は過去形だった。
 ふと気になって横目を向けると、心なしか珊瑚ちゃんの笑顔には力がないように見える。
「シルファちゃんの喋り方は、コミュニケーション不足が原因という話はしましたよね」
「そうだったね」
「ヒトの赤ちゃんも初めは喋ることができません。成長するにつれ、コミュニケーションを重ねるにつれ、徐々に色々な言葉を覚えていきます。言葉による意思疎通ができるようになります」
 イルファさんは、そこでひと息つき、
「では、まだ上手く喋ることのできないヒトの赤ちゃんは、自分が喋れないことを気に病んだりするでしょうか」
「――あ」
 ピンときた。
「そうなんです。たしかにD.I.A.を搭載した私たちは、普通のメイドロボとは異なったプロセスを経て成長します。けれど、一から十までヒトと同じ成長過程を歩むわけではありません。ある程度の行動プログラムや一般常識はプリインストールされます。ですから、自我の芽生える早さはヒトの赤ちゃんとは比べものになりません」
 ようするに、精神の成長する速度と、身体機能が成長する速度が合っていなかった、ということだ。シルファちゃんは、十分なコミュニケーションを取って普通に喋れるようになるよりも先に、劣等感なんていう複雑で面倒な感情に目覚めてしまったのである。
「私とミルファちゃんは、そのあたりの問題はクリアできたのですが、シルファちゃんはすごく人見知りでしたので……」
 クリアできなかったのだ。
「あとはもう、負の連鎖です。そうやって一度芽生えてしまった劣等感が更なる劣等感を呼び、研究所でもお手上げになってしまいました」
「じゃあ、珊瑚ちゃんのことも」
「はい。あのコ、本当は珊瑚様の傍にいたいのに、欠陥品の自分では嫌われてしまうと思いこんで距離を取ってしまったんです」
 ようやく『恐れている』と『マザコン』のふたつが繋がった。
 とはいえ、思っていた以上に問題は根深い。なにせシルファちゃんは、珊瑚ちゃんに会いたいと思っている一方で、間違いなく珊瑚ちゃんを恐れてもいるのだ。
 会いたいけど会えない、ではなく、会いたいけど会いたくない、というのは厄介だ。どちらもシルファちゃんの気持ちひとつでどうにでもなる問題だけに、他人が口出したところで解決に結びつくとは思えない。
 ただでさえシルファちゃんは、意地っ張りで、あまのじゃくで、まったくもって素直じゃないコなのである。
「――でも、きっとだいじょうぶですねっ」
「……えええ?」
 イルファさんの気楽な物言いに、張り詰めかけていた空気が一瞬で緩む。
 いやいや、あれだけ深刻そうに話を振っておいて大丈夫って、そんな無責任な。
「結局、シルファちゃんが自分に自信を持てるようになればいいだけの話です。自分が欠陥品じゃないと思えるようになれば、珊瑚様にも大手を振って会いにくることができます」
「自分に自信を持つって……それが一番難しい気がするけどなあ」
 思わず反論すると、イルファさんは井戸端会議のネタを見つけた若奥さまみたいな顔をして、
「ふふふ、それはご主人様次第ですよ。ふふふ」
 まずい。
 イルファさん、ヘンなスイッチ入ったかも。
「もう、この前の電話もすごかったんですから。ああしたらご主人様が褒めてくれたとか、こうしたらご主人様が喜んでくれたとか。参っちゃいますよね。あれでは報告に名を借りたおのろけです」
「そ、そんなこと言ってたの? あのシルファちゃんが?」
 にわかには信じがたい。
 完璧に家事をこなしても涼しい顔をしているシルファちゃんが、俺の反応に一喜一憂しているなんてこと、ありえるのだろうか。たしかにお礼を言ったときそっぽ向くのは、照れ隠しだとは思っていたけど。
 いや、この際、真偽のほどはともかくとして、それをイルファさんの口から間接的に聞かされると、ある意味直接言われるよりも照れくさいということの方が問題だ。楽しげなイルファさんの表情は、からかっているだけのようにも見えるし、それだけではないようにも見えた。
 視線を横に逃がすと、瑠璃ちゃんが、しらっとした目つきで俺を眺めている。
「あはは……」
 たまらず愛想笑いをすると、
「……ジゴロ」
「ぐ」
 瑠璃ちゃんがぼそっとつぶやいた言葉が、俺の柔らかいところに深く突き刺さった。
 心に負った傷が癒える間もなく、イルファさんの口はくるくると回り続ける。
「それでですね、私が『シルファちゃんも立派になったわね』って返したら、なんて言ったと思います?」
「さ、さあ」
「あのコったら、『シルファはご主人様の専属めいろろぼらから、とーぜんなのれす』なんて自信たっぷりに言うんですよ? これにはさすがの私も、ちょっとだけヤキモチ妬いちゃいました」
 どきりとした。
 イルファさんの声真似はそれほど似ていなかったが、「とーぜんなのれす」というのは、いかにもシルファちゃんの言い草めいている。唐突に現実味が増して、なんだか本気で照れくさくなってくる。
 顔が赤くなっているのをどうやってごまかそうかと目を泳がせていたら、
「ダーリン、お待たせ~」
 しばらく姿を見せなかったミルファちゃんが、お盆を抱えてリビングに戻ってきた。
「粗茶で~す」
 言うが早いか、ミルファちゃんはテーブルの上に三人ぶんの湯飲みを並べ、
「ねね、ダーリン、飲んでみて飲んでみて? 瑠璃ちゃんとお姉ちゃんに色々教わって、美味しいお茶いれられるようになったんだよ?」
「そ、そうなんだ?」
 勧められるがまま、湯飲みを口に運び、
「うわちゃ!?」
 温度もよく確かめずに飲もうとしたせいで、思いっきり舌をヤケドした。
 いくら焦ってるからって、迂闊すぎるだろ、俺。
「ダーリン! だいじょうぶ!?」
「う、うん、口内炎にならないといいんだけど……って、ミルファちゃん?」
「ん~?」
「なんで俺の顔を押さえてるの? 目を閉じて唇を突き出してるのはどうして?」
 頭を両脇からミルファちゃんの両手でガッチリと固められ、動かすことができない。
 息がかかるくらいの距離に、ミルファちゃんの顔がある。
 あるだけじゃなくて、どんどん近づいてくる。
「ヤケドしたときって、耳たぶに触ったり、ヤケドした場所を口に含んだりするでしょ? だからぁ、ダーリンのベロ、あたしが舐めて治してあげようと思って」
「いやいや、さすがにそれはないから」
「耳たぶの方がよかった?」
「うん、そういう問題じゃなくてね。そんなふうに耳を差し出されても、俺、咥えたりしないからね?」
「うう~、ダーリンってばつれないんだから」
 すごく残念そうに唇を尖らせつつも、ミルファちゃんはことのほかあっさりと俺を解放してくれた。
 助かった。
 今日のミルファちゃんは、イヤーバイザーこそ装着していないものの、イルファさんと同じ服を着ている。制服でくっつかれるより、この服でくっつかれる方が緊張するのはどうしてだろう。
 慣れの問題だろうか。それともスカート丈の問題?
「瑠璃様瑠璃様、くれぐれもヤケドしないように気をつけてくださいね」
「期待のこもった目でウチを見るなっ! アホイルファ!」
 そんな俺たちを尻目に、テーブルの反対側でも似たような光景が繰り広げられている。
 こっち側に座る珊瑚ちゃんは、リビングの様子をにこにこと幸せそうに見守っている。
 賑やかな空気を肌に感じながら、色々と思うところはあるのだ。
 本当にイルファさんとミルファちゃんはそっくりだなあ、とか。
 ああやって迫られて瑠璃ちゃん毎日大変なんだろうなあ、とか。
 まったく動じない珊瑚ちゃんはやはりただものじゃない、とか。
 でも、このとき俺が一番強く心に思い描いたのは、

 この場所にシルファちゃんもいたらいいな、ということだった。

 うん。
 そうしたら、絶対に楽しい。
 そしてそれは、そう遠くない将来、必ず実現する未来予想図。
 たぶん、難しいことではないのだ。
 イルファさんが言うとおり、「きっとだいじょうぶ」なのだ。
「ところで、さっきはなんの話してたの?」
 そこが定位置とばかりに、ミルファちゃんは背中から俺に覆い被さっている。どんなにどいてと言っても聞いてくれないので、いつのころからか諦めてしまった。どうやら、俺の頭にしがみつくのは、ミルファちゃんにとってアイデンティティに関わる問題らしい。
 柔らかい感触を後頭部に感じながら、
「家族の和解について、かな」
 幸いにして明日は休みである。
 行動を起こすならできるだけ早い方がいい。
「ふうん。よくわからないなぁ、家族なんて仲がいいのが当たり前なのに」
 あっけらかんとしたミルファちゃんの言葉が、このうえない励みになったのは言うまでもない。

*****

 俺の部屋には、カーテンを開け放った窓から朝日が差し込んでいた。
「……ミルミルがくるれすか?」
 布団をたたんで隅に寄せるシルファちゃんに声をかけたら、振り返ることなく背中で返事をされる。心底嫌そうとまではいかないが、明らかに機嫌のグレードが一段階ダウンしたように感じた。
 俺はできるだけ明るい口調を装い、
「ほら、もうじきテストでしょ。ミルファちゃん、今回も赤点ギリギリみたいだから、勉強教えて欲しいって泣きつかれちゃってさ」
 嘘は言っていない。
 本当のことも言っていないけど。

『――だったら、あたしもダーリンに協力する!』

 昨日、あのあとシルファちゃんの話をすると、ミルファちゃんは一も二もなく俺の考えに賛同してくれた。
 珊瑚ちゃんのマンションにシルファちゃんを連れて行く。
 つまり、珊瑚ちゃんとシルファちゃんを対面させる。
 そして、〝みんな〟の輪の中に、シルファちゃんも加わって欲しい。
 顔を合わせればケンカばかりしているミルファちゃんではあったが、不幸中の幸いと言うべきか、一番シルファちゃんとの距離が近い存在でもある。できれば今日中に実現したいミッションの心強い味方。それがミルファちゃんなのだ。……心強い、よな?
「ご主人様」
 気づくと、シルファちゃんが目を細めて俺を見つめている。
 まずい、なにか企んでるって感づかれたか?
 冷や汗が脇の下をつたう。
「おばかなミルミルを甘やかさなくていいのれすよ。らくらいしても自業自得なのれす。そもそも、ご主人様も平均点より少し上くらいれすし、ミルミルに足を引っ張られて一緒にらくらいしないようにして欲しいれす」
 どうやら疑っているわけではなく、いちおう俺のことを心配してくれてるらしい。
「だ、だいじょうぶ。人に教えると、自分の復習にもなってちょうどいいし。だからその、いいかな?」
「べつにシルファの許可は必要ないと思うれす。ここはご主人様の家なんらから、ご主人様の好きにすればいいんらもん」
 そこはかとなくトゲがあったが、さすがに拒否されることはなかった。
 シルファちゃんは腰に両手を当てて、
「十分くらいしたら着替えておりてくるれすよ。らめっこご主人様は、ちゃんと勉強れきるようにカロリーを補充するれす。朝ご飯は大切なのれすよ」
 メイドロボというより母親みたいなことを言って、そのまま部屋を出て行った。
 閉じたドアを見て、胸を撫でおろす。
 よくよく考えてみれば、ミルファちゃんがうちにくるのは日常の延長線上だ。シルファちゃんが訝しむ理由はない。
 意識しすぎるとかえって不自然になる。自然に自然に、それとなくシルファちゃんを里帰りさせる方向に誘導するようにしなければ。
 とりあえず寝間着を脱ぎ捨て、ジーパンとシャツに着替える。
 シルファちゃんは十分くらいしたらなんて言ったが、男の身支度なんて数分あれば十分だ。
 それから脱いだ寝間着が裏返ってないかチェックして、思わず苦笑した。裏返したままにしておくと、シルファちゃんに「ららしないれす」とか言われるのだ。ホントに躾されてるみたいだな、俺。
 着替え終わり、特にすることもないので、朝食を作ってくれるまでリビングでテレビでも見ようとドアノブに手をかけ、
 玄関のチャイムが鳴った。
 誰だろう。
 ミルファちゃんにしては、ちょっと時間が早い。このみか春夏さんあたりだろうか。
 俺はノブを回し、廊下に出て、
「俺が出るよー!」
 階下に向けて声を張りあげる。
 たぶん聞こえたはずだ。
 かなり改善されてきたとはいえ、シルファちゃんの人見知りは治ったとは言いがたい。それこそ、このみや春夏さんなら普通に応対できるのだが、郵便配達だとギリギリセーフで、新聞の勧誘あたりだと完全にアウトである。いつか慣れなければいけないとは思うが、せめて俺が家にいるときくらいは無駄に神経をすり減らせたくない。
 足早に階段を下り、
「はいはーい」
 サンダルをつっかけ、玄関のドアを開けると、
「えへ、きちゃった」
 ミルファちゃんが立っていた。
 どこぞのトレンディドラマのヒロインのような台詞が、妙にぴったりハマっている。
 今日は休日だから、当然ミルファちゃんは私服で、デニムスカートとクリーム色のパーカーが陽気に映える絶妙なコーディネートで――って、
「早いよ!?」
 まさか最初に排除した予想が的中しているとは思わなかった。
 登校する時間に比べれば遅いが、まだ朝食すら食べていない。
 ミルファちゃんは笑顔で、まったく悪びれず、
「だって、待ちきれなかったんだもーん」
「待ちきれなかったって……」
 俺は誰に聞かれているというわけでもないのに、ミルファちゃんの耳元に口を寄せ、
「今日の目的、忘れてないよね?」
「……あっ、ん」
「なんでそんな声出すの」
「ダーリンの熱い息が耳にかかって……あれ? どうして離れちゃうの?」
 仕切り直し。
 俺はミルファちゃんに向き合って、ひそひそ話のトーンで、
「今日の目的は?」
「ダーリンとラブラブお勉強のついでに、ひっきーをさんちゃんと引き合わせる」
「不正解。回答権は残り二回です」
「……ひっきーをさんちゃんと引き合わせるついでに、ダーリンとラブラブお勉強?」
 少し不満げなミルファちゃんに対し、親指を立てる。
 グッジョブだ。
「でもさ、ホントにちょっと早いんじゃない?」
「あたしもそう思ったけど、お姉ちゃんができるだけ早い方がいいって言うんだもん。あたしとしては一日中ダーリンにくっついてたいくらいだから、だったら行っちゃえーって」
 イルファさんが?
 ひょっとして、またなにか企んでるとか?
「イルファさん、他になにか言ってなかった?」
「ううん、べつに。貴明さんに可愛がってもらってきなさいとは言ってたけど、それはいつものことだし」
 なんだそれは。
 火が燃えてたらガソリンをぶっかけるタイプなんだろうか、あの人。
「あーっ! ミルミル!」
 家の中から鋭い声。
 後ろを振り返ると、両手にそれぞれしょうゆの小瓶とマーガリンの容器を持ったシルファちゃんが、ずかずかとこちらに近づいてくる。鼻の頭についてるのはトマトの皮だろうか。あとで教えてあげよう。
「もうきたんれすか!」
「ふっふーん、おっはよー。ごきげんいかが? 地味妹」
「おはようもなにも早すぎれす! じょーしきなさすぎれす!」
「そっかなぁ? 時は金なりって言うでしょ。貴重な休日の時間は有効に使わなきゃ」
 そこでミルファちゃんは、自分の腕を俺の腕に絡める。
 うわ。
 肘に、胸が、胸が。
「ダーリンはぁ、きちょ~うな休日の時間を、あたしのために割いてくれるんだもんね~?」
「ミ、ミルファちゃん、あんまりシルファちゃんを挑発しないで」
 もはや機嫌のグレードがひとつ下がったとか、そんな生易しいものではない。
 シルファちゃんは肩をぷるぷると震わせ、
「う、う、う、ご主人様から離れろれす!」
「ヤだもーん。そんなにくっつきたかったら、シルファもくっつけばいいじゃない」
「うぐっ」
 ミルファちゃんは、ほれほれ、と見せつけるように俺と組んだ腕を揺らす。
 言葉に詰まったシルファちゃんは、つり上がった目をミルファちゃんから俺にスライドさせ、
「ご、ご主人様もろうしてそんなに嬉しそうにしてるれすか!」
「えっ、それでこっちにくるの?」
「こっちもそっちもないれす! えろえろなご主人様はエサ抜きれす!」
 ああ、これが生殺与奪を握られた者の悲しさよ。
 ふーふーと息を荒げるシルファちゃんは、最後の切り札とばかりに、俺の鼻先にしょうゆの小瓶を突きつけた。しっかりと人差し指を突き出しているあたり、器用というか小技がきいている。
 俺の腕にしがみついたまま、やり取りを眺めていたミルファちゃんは、きょとんとした顔をして、
「ダーリン、朝ご飯まだなの?」
「あ、うん」
「じゃあ、これからあたしが作るね」
「……え」
 唇を尖らせて顔を背けていたシルファちゃんが、ミルファちゃんの発言を受けて弾かれたようにこっちを向いた。
 ミルファちゃんは、横目でシルファちゃんの反応をうかがいながら、実に晴れがましい口調で、
「シルファが作ってくれないっていうならしょうがないよね。ダーリンを飢え死にさせるわけにはいかないもん」
「あ、え、う……」
 言いたいのに言えない。
 そんな空気が、シルファちゃんの方からひしひしと伝わってくる。
 怒りに彩られていた表情が、みるみるうちに絶望一色に塗り変わっていく。
 こんなの本心をダダ漏れにしているのと全然変わらない。
 あれこれ言葉を並び立てるより、かえってわかりやすいくらいだ。
「――ごめん、ミルファちゃん。せっかくだけど、シルファちゃんが作ってくれてるからさ」
「ぴっ……!?」
 シルファちゃんは、大きく目を見開いて、ものすごく意外そうな顔をしていた。
「ふーんだ。ホント素直じゃないんだから」
 ミルファちゃんは、猫みたいな口をして、やっぱりそうかという顔をしていた。
「そういうわけで、俺、シルファちゃんの作ってくれた朝ご飯食べたいんだけどダメかな」
 シルファちゃんに向き直る。
 さっき俺の部屋を出て行くときにあと十分と言っていたから、もう朝食はできているはずなのだ。両手に持ったしょうゆとマーガリンは、その証拠でもある。
 シルファちゃんは戸惑いながら、俺の顔を見て、ミルファちゃんの顔を見て、もう一度俺の顔を見て、
「も……もうれきてるれすよ。もたもたしてると洗い物が終わらないから、とっとと食べて欲しいのれす」
 すごくそっけない台詞は、ものすごく嬉しそうに聞こえた。
 こうして、ひとまずこの場は上手く収まって、
「じゃあ、ダーリンに食べさせる係は、あたしってことで」
「そんな係はじめからないれす!」
 ……上手く収まったんだよな、たぶん。

*****

 朝食を終えて、俺とミルファちゃんは二階にあがってきた。
 俺の部屋で試験勉強するという体を保ちながら、シルファちゃんに話を切り出すタイミングをうかがうためだ。
「あ~っ、ダーリンの部屋にくると、帰ってきたーって感じがするぅ~」
 ドアをくぐるなり、ミルファちゃんはラジオ体操のように伸びをして深呼吸する。
「帰ってきたってのは違う気がするけど」
 べつにミルファちゃんは、うちに住んでたりはしないわけで。
「そんなことないもん。この匂いを嗅がないでいると、あたしもホームシックになっちゃうんだもーん」
 それはつまり、ミルファちゃんにとっての俺が、シルファちゃんにとっての珊瑚ちゃんみたいな存在だという告白であり、
「……自分では無味無臭だと思うんだけどなあ」
 当の俺としては、情けないことに、そんな反応を返すことしかできない。まともに受け答えしたら、のぼせて勉強が手につかなくなりそうだ。
 内心をごまかすように、脇に置いてあったガラスのテーブルを部屋の真ん中に持ってくる。
 それほど大きくないが、ふたりで勉強するならこれで十分だろう。
「あれ? ダーリン、その布団どうしたの?」
「ふと……ん……?」
 ミルファちゃんが指さした方に顔を向け、固まった。
 やっばい。
 こんなに早くくると思わなかったから、シルファちゃんが使った布団を出したままだった。無闇にミルファちゃんの神経を逆なでする必要もないと思って、ここ数日シルファちゃんと同じ部屋で寝てるという話はぼかしてあるのだ。
 どうしよう。どうすればいい。どうすべきか。
 これじゃあまるっきり、浮気相手をクローゼットに隠して靴を出しっぱなしにしておいた人妻の心境である。
 いや、知らないけど!
 ひょっとして俺、めちゃくちゃ動揺してる?
「ダーリン、もしかして――」
 たたんだ布団を眺めていたミルファちゃんが、俺の方に振り返る。
 固まった俺は目をそらすこともできず、ミルファちゃんと正面から向き合うことになる。
 生唾を飲みこんだ音が、やけに鮮明に聞こえた。
 ミルファちゃんは眉根を寄せた深刻そうな面持ちで、
 ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 唇を動かして、
「――保健体育の勉強するつもりだったの?」
 ミルファちゃんの頬が、にへっ、とだらしなく緩む。
 それに合わせて脱力。
 その場にへたりこまなかったのは上出来だと思う。
 ミルファちゃんは、鋭いのか鈍いのかホントによくわからない。
「……ちょっと来客用の布団を干そうと思って出しておいただけだよ」
「なーんだぁ。ようやくダーリンがその気になってくれたと思ったのに」
 肩を落とすミルファちゃんを尻目に、机の上からテーブルにテキストとノートを移す。
 ミルファちゃんにクッションを渡し、テーブルの脇に腰をおろして、
「えっと、じゃあどうしようか。ミルファちゃんって得意な科目はあるの?」
 シルファちゃんを珊瑚ちゃんのところに連れて行くのが主目的とはいえ、ミルファちゃんが勉強しないといけないというのも事実である。小テストのたびに撃沈を繰り返しているから、これで定期試験の結果もふるわなかったら本気で留年してしまう。
「うーん……なんとかなりそうなのは……国語かなぁ」
 そうきたか。たしかに現国はもっとも日常生活と密着しているし、古文も出題パターンさえ覚えてしまえばなんとでもなるしな。
「世界史とか日本史って、丸暗記するわけにはいかないの?」
 歴史系は流れを把握しないとあとで困るが、定期試験で得点を取るだけなら範囲を絞って覚えてしまえばいい。メイドロボのイメージ的に、暗記物は得意そうだと思ったのだが、
「頭がパンクしちゃうよぉ……」
 クッションに座ったミルファちゃんは、まだテキストも開いていないのに、ぐでーっとテーブルに突っ伏した。どうやら俺のイメージが間違っていたらしい。人に近い頭脳という意味ではよくできている。
「やっぱり現国から手をつけるのがいいかもね。数学とか物理は俺も自信が……むぐ」
「しっ」
 手元のテキストを見比べていたら、突然ミルファちゃんがテーブルの上に身を乗り出してきた。しなやかな指をそろえ、俺の口を塞いでいる。反対の手の人差し指を口元に当てているのは「静かに」というジェスチャーで間違いないと思う。なんだ? 一体。
「ダーリンはちょっと静かにしててね」
 ワケもわからず首を縦に動かすと、ミルファちゃんは言うが早いか、
「……ダ、ダーリン、本気?」
 前触れもなく、めちゃくちゃ艶っぽい声を出した。
 驚きで目を丸くする俺に、ミルファちゃんはいたずらっぽい笑みを向けながら、
「あたしはいつでも準備オッケーだから嬉しいけど、下にシルファがいるのにいいの? え? ダーリンはそっちの方が興奮する?」
 ヘンな嗜好を捏造しないで欲しい、という思いは、
 ドアの方から聞こえてきた、ごちん、という音にかき消された。
 うわ。
 これってまさか、廊下に、
「うん、あたしはいいの。何度でも言うよ。あたしはダーリンを愛してるから」
 ミルファちゃんの〝熱演〟は止まらない。
 これは正直、たまらない。恥ずかしいなんてもんじゃない。
 手品の種が明かされたとはいえ、なんとなくわかってしまうのだ。たとえミルファちゃんにべつの思惑があるとしても、口にしているのが本心と変わらない気持ちだというのが、わかってしまうから照れくさくてしょうがないのだ。
「ダーリンが望むなら、あたしはすべてを捧げます」
 ミルファちゃんは、不自然なくらいハッキリした声音で最後の一言を口にする。
「さあ! どうぞ召し上がれっ!」
「――粗茶れす!!」
 ドアが吹っ飛ぶのではないかと思った。
 それくらいの、ものすごい勢いだった。
 ドアが開いたときの風圧が、部屋の反対側のカーテンを揺らすというのは、どういう現象だろう。
 ミルファちゃんは、お盆を持ったシルファちゃんが飛び込んでくる一瞬前に、テーブルの反対側で居住まいを正している。言うまでもなく、その顔には油性マジックで「してやったり」と書いてあった。
 振り向くと、シルファちゃんはぷるぷると肩を震わせていたが、頭の中で思い描いていたであろうものとは異なった光景に、目を大きく見開いて、
「……ろ、ろういうことれすか」
 怒りの波はすぐに引き、返す波が運んできたのは戸惑いだ。
 ミルファちゃんは、わざとらしく咳払いをして、ゆっくりと立ち上がる。
 それから平手で口元を覆い、
「――あれあれあれぇ? どうしたのシルファ? どうしてあんなに慌ててたのかなぁ?」
「っ!?」
 ミルファちゃんのからかうような仕草で、シルファちゃんはすべてを察したようだ。
 ミルファちゃんにハメられた悔しさからか、戸惑いの浮かんでいた表情が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。お盆を取り落とさなかったのは、メイドロボとしての最後のプライドだろうか。
「ぷぷぷ。ひょっとして、盗み聞き? まさかねぇ~、家政婦ロボじゃなくてメイドロボなのに、そんなことするわけないよね~」
 家政婦とメイドって違うんだろうか。というか、家政婦なら盗み聞きをしていいという道理はないはずなのだが、そんなことはどうでもいいらしい。シルファちゃんはなにも言い返すことができず、黙ってうつむいてしまっている。
 普段はシルファちゃんにやり込められることが多いせいか、ミルファちゃんは完全に雌雄が決した状況を心ゆくまで満喫しようとしていた。やりすぎると、それこそイジメになりそうな状況だった。
 だから、そのとき家の中に鳴り響いた呼び鈴は、救いの鐘にも試合終了を告げるゴングにも聞こえた。
「お、俺が出るから!」
 少しでも場の雰囲気を和ませようと、大げさに挙手しながら立ち上がってはみたものの、
「ふふーん」
「ううー!」
 にらみ合うふたりは火花を散らすばかりで、呼び鈴の音を無視している。
 お邪魔ですか、そうですよね、と勝手に結論づけ、そそくさと部屋を出て階段をおりる。
 決して、断固として、あの場から逃げ出したかったわけではない。
「……はーい、今開けますよー」
 サンダルをつっかけて、なんだか今日はもうダメっぽいなあ、と半ば投げやりな気分でドアノブを回すと、
「貴明さん、おはようございます」
「――はい?」
 一瞬、本気で目の錯覚かと思った。
 爽やかな笑顔を浮かべ、イルファさんが立っている。その佇まいがあまりにも爽やかすぎて、現実感が追いついてこない。
 しかも、
「るー、貴明ー」
 その後ろには、珊瑚ちゃんと瑠璃ちゃんまでついてきていた。三人とも昨日と同じ服を着ている。
 こちらとしては、陸に打ち上げられた魚のごとく、口をぱくぱくと動かすしかない。ホントに言葉が出てこない。
「すべてが上手くいけば、シルファちゃんを珊瑚様のところに連れてくることはできたと思うんです。でも、それは難しいですよね、やっぱり」
 イルファさんは頬に手を当て、ふう、と物憂げなため息をもらしてから、
「シルファちゃんは意地っ張りですし、ミルファちゃんはおぽんちですし、ふたりは顔を合わせるとケンカばかりですし」
 ですから、と一呼吸を置いて、
「珊瑚様の方からシルファちゃんに会いにきて頂くことにしちゃいました」
 ひときわ愛らしい仕草で、ぽん、と両手を胸の前で合わせた。
 しちゃいました、というのは、たぶん誤りだ。
 おそらくイルファさんは、最初からそのつもりだったに違いない。
「で、でも、イルファさん」
 ようやく声帯が正常に機能しはじめる。俺は小さくかぶりを振りながら、
「珊瑚ちゃんが会いにきても、シルファちゃんは逃げ出しちゃうんじゃ……」
 そうなのだ。
 それができるのであれば、最初からあれこれ考えずに、珊瑚ちゃんをうちに連れてくればよかっただけなのだ。
「そのへん抜かりはありません」
 しかし、イルファさんは余裕の笑みを見せる。あまりにも余裕がありすぎて空恐ろしい。
「イルイル!?」
 上から声が聞こえた。
 肩越しに振り返ると、階段の途中でシルファちゃんが硬直している。
 俺が戻ってこないから、不審に思って見にきたのかもしれない。
「しっちゃん」
「ぴひゃ!?」
 シルファちゃんの身体が、面白いくらいに跳ね上がった。
 イルファさんの後ろから珊瑚ちゃんが顔を出して、にこやかに手を振っている。
 シルファちゃんの瞳に、判別できない複雑な感情の色が現れる。
 すぐさま、シルファちゃんは目に見えない未練を断ち切るように、おさげとスカートを翻し、
「シルファちゃん!」
 俺の呼びかけにも耳を貸してくれない。
 やはり逃げてしまうのか。
 玄関がふさがれていても、シルファちゃんの身体能力なら二階の窓から外に逃げることだってできる。
 しかし、
「――いいんですか? ここで逃げたら貴明さんがどうなっても知りませんよ?」
 階段を駆け上ろうとしたシルファちゃんの足を止めたのは、張りあげているわけでもないのによく通るイルファさんの声だった。
「今、貴明さんのお宅にはミルファちゃんがいます。ミルファちゃんひとりだけでも猛獣に餌を与えたのと同じなのに、そこに私と珊瑚様、そして隠れ貴明さんすきすきすきーの瑠璃様までいらっしゃるんですから」
「最後のは言わんでええ!」
 いや、突っ込むのそこでいいの?
「貴明さんの貞操を守れるのはシルファちゃんだけです。それなのにシルファちゃんが逃げてしまったら……ああっ、哀れな貴明さん……せめて最初は優しくしてさしあげますからね」
 身体をくねらせながら、迫真の台詞回しを続けるイルファさん。
 冗談でも怖い。
 ていうか、冗談ですよね?
「まあ、それでもご主人様を見捨ててどこかに行ってしまうというなら、私は止めません。むしろそっちの方が私たちは……ね?」
「こっちに振らないでよ」
 なんというか、もう、本当にどうしようもない。
 段取りもなにもあったもんじゃない。
 めちゃくちゃで、デタラメで、どこから突っ込んでいいのかわからない口上だった。
 いくらシルファちゃんでも、こんなやり方に引っかかったりはしないと思っていた。
 が。
「ご」
 玄関に背中を向けたシルファちゃんが、迷いなくこちらに向き直ったのは、絶対に目の錯覚なんかで


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