「ご主人様。はるはるかられんわれす」
カリッと焼き上げたトーストに意気揚々とバターとマーマレードを塗りたくり、いざ口の中へ放り込まんとしたところで、俺はその動作を中断するハメになった。
出鼻をくじかれるとは、まさにこのこと。いわゆる〝おあずけ〟された犬というのは、きっと今の俺みたいな心境に違いない。
起き抜けで腹ぺこなのに、目の前にごちそうがあるのに、それを食べさせてもらえない。なんて残酷なんだろう。香ばしい匂いがただようトーストも、ほかほかと湯気が立ちのぼるスクランブルエッグも、こうなってしまうとすべてが恨めしく感じてくるのだから不思議なものだ。
「……おあずけを食らった犬ころみたいな目れこっち見るなれす」
受話器を差し出した格好で、エプロンドレス姿のシルファちゃんが言った。
的確に俺の表情を表した当の本人は、じとっとした目つきでこちらを見つめている。視線に込められているのは、急かし半分、呆れ半分といったところか。
「春夏さんかー。こんな朝っぱらからどうしたんだろうねー」
手放したトーストへの名残惜しさがそうさせるのか、口から出る言葉が棒読みになる。
「それが知りたければごちゃごちゃ言ってないれ早く代わってくらさい」
「ですよねー」
俺はそそくさとシルファちゃんに駆け寄り、曖昧な笑みを浮かべながら受話器を受け取る。
「もしもし? お電話代わりました。貴明です」
『あ、タカくん? ごめんね、こんな時間に』
「いえ」
妙だ。電話越しというのを差し引いても春夏さんの声が妙にくぐもって聞こえる。
これは、
まさか、
もしかして、
ひょっとすると……。
『あのね、私とこのみ、母娘そろってインフルエンザにかかっちゃったみたいなのよ』
やっぱり、と。こぼれそうになった言葉を内心に留める。
インフルエンザなあ……流行ってるもんなあ……最近……。
それにしても、元気印のこのみをダウンさせるだけではなく、肝っ玉母さん代表である春夏さんまで蝕むとは。今年のインフルエンザは本当に恐るべしだ。
「えーっと、なんていうか、その、大丈夫なんですか?」
病気の人に向かって「大丈夫」もないとは思うが、こんなときに気の利いたことなんて言えようはずもない。
『ええ。もうちょっとしたらふたりで病院に行くから、お薬をもらえば大丈夫だと思うわ。それでね、今日……しばらくこのみは休ませようと思うから――』
「はい、わかりました。お大事に……って、なにか俺にできることあります?」
『あら。……そうねえ。私たちのことよりも、タカくんはタカくんのことをしっかりしてくれるのが一番ね』
「え?」
『くれぐれもインフルエンザにかかったりしないように、ちゃんと手洗いうがいを忘れないでね。それでもし具合が悪くなったら、すぐにうちに電話するのよ? わかった?』
「あ……わかりました……」
『じゃあね、タカくん。いってらっしゃい』
「は、はい、いってきます」
かすかな笑い声を残しつつ電話が切れた。
参ったな。こっちが逆に心配されてしまった。
インフルエンザを自覚できるってことは、熱だってかなり高いだろうに、平然と受け答えしていたしな。さすが肝っ玉母さん代表。
「ご主人様……」
「あ、シルファちゃん。電話ありがとね」
俺は一度掲げるようにしてから受話器を置く。
と、シルファちゃんは僅かな間、受話器に視線を残してから、
「……はるはる、ろうかしたんれすか?」
そう言って、こちらを見上げるふたつの瞳は、不安な色に彩られている。
電話口で「大丈夫なんですか?」なんて話していれば、そりゃ気になるよな。
「いやあ、どうもインフルエンザにかかっちゃったみたいだね」
「イ、インフルエンザ!?」
「このみも一緒に」
「こ、このこのも一緒に!?」
まるで餅つきのような、小気味いいタイミングのおうむ返しだった。
「ふ、ふたりはらいじょうぶなんれすか?」
俺に詰め寄る――というほどの勢いではなかったが、よっぽどこのみと春夏さんのことが心配なのか、シルファちゃんはかなり動揺しているようだ。
「シルファちゃん、ちょっと落ち着いてよ」どうどう、と両手を下に向けて宥める。「春夏さんは大丈夫って言ってたし、あとで病院に行くとも言ってたからさ」
「ちゃんと治るんれすか……?」
「大丈夫、大丈夫」
シルファちゃんを安心させるために、努めて明るく言う。
たしかにインフルエンザは高熱が出るし、かかった本人はそりゃ苦しいだろうけど、ウイルス風情が〝あの〟柚原家を脅かせるとは思えない。病院で診察して薬をもらえば、明日にはケロッとしているような気すらする。ウイルスが消えるまで家に隔離されて、このみが暇を持て余している様子を簡単に思い浮かべることだってできてしまうくらいだ。
しかしシルファちゃんは、そこまで割り切ることはできないようだった。
「熱がれるのってオーバーヒートみたいなものれすよね……このこの……はるはる……」
こればかりは、いくら俺が口先で大丈夫と言ったところで、納得させるのは難しいに決まっている。
そうだな。だったらいっそのこと――
「シルファちゃんさえよかったら、春夏さんたちの看病をしにいってあげればいいんじゃないかな」
「ぴっ?」
「大丈夫とは言ってたし実際に大丈夫だとは思うけど、身の回りの世話をしてくれる人がいれば春夏さんも助かるだろうし」
うん。思いつきにしては良いアイディアじゃないか?
インフルエンザにかかったのがこのみひとりとか、春夏さんひとりだったらお互いで面倒を見れただろうけど、今回はふたりいっぺんにダウンしてしまったわけだし。
おじさんが留守にしていて、必然的に春夏さんが無理することになることを考えれば、しっかりと家事をこなせて、しかも感染ったりする心配のないシルファちゃんが看病を引き受けてくれるのは限りなくベストな配役であるように思える。
「シルファはべつに構わないれすけろ……ご主人様はそれれいいんれすか?」
「もちろん。さっきはああ言ったけど、いくら春夏さんでも熱があるときに動き回るのはキツいと思うんだよね。だからシルファちゃんが看病してくれるなら、俺も安心して学校にいけるよ」
「そ、それなら仕方ないれすね。ご主人様のめーれーに忠実なのが専属めいろろぼというものれす」
命令じゃなくてお願いなんだけど、細かいことは気にしなくていいか。
やる気満々で胸を張るシルファちゃんの気概に水を差すのも無粋だしな。
「じゃあ、よろしくね」
「了解れす」
シルファちゃんはこのみの真似でもしたつもりなのか敬礼を繰り出し、
「学校から帰ったら手洗いうがいを絶対に忘れないようにしてくらさい。ご主人様は、くれぐれもインフルエンザにかかったりしたららめれすよ」
先ほど春夏さんに言われたのと同じ台詞を、知ってか知らずか俺に向かって言い放ったのだった。
これは風邪ですか? いいえ、インフルエンザです
1
「よう、おまえもぼっちか」
通学路の途中、階段を上った先の待ち合わせ場所にいたのは、雄二ひとりだけだった。
「ぼっち言うな。……って、『も』ってことは、もしかしてタマ姉も……」
「鬼の霍乱ってやつだ。インフルエンザで今日は休むってよ。その言い草じゃ、どうやらチビ助もやられちまったらしいな」
「聞いて驚け。なんと春夏さんもやられたぞ」
「マ、マジかよ……。姉貴がやられたから、まさかとは思ったが……春夏さんまで」
「ああ。今年のインフルエンザは、かなりやばいぜ」
なんて。
くだらないやり取りができるのも、付き合いが長い者同士の特権だ。お互い妙に芝居がかっていたのは華麗にスルーして、肩を並べて歩き出す。
吐き出す息の白さが示すとおり、コートとマフラーで装備を固めてもなお寒い。今が一番冷えこむ時期だとわかっていても、春よこい、早くこい、と意味のない念仏を唱えたくなる。
「しっかし、タマ姉までインフルエンザとはなあ。受験は大丈夫なのか?」
今日明日の話ではないとはいえ、そう遠くないうちに人生の一大事があるのに体調を崩してしまったというのは、やはり気にかかる。
「ま、少なくとも俺らに心配されるようなタマじゃねえだろ。姉貴なら40度の高熱だろうが試験程度でヘマこいたりはしねえよ」
雄二はいかにもつまらなそうに吐き捨てたが、裏を返せば自分の姉の実力を信じているということなのだろう。そしてそれは俺も同じだった。
「でもさ、それを言ったら、そもそもタマ姉はどんなときでも体調を保ってそうなイメージがあったんだけどな。インフルエンザのウイルスなんて、初めから寄せつけないんじゃないかと思ってたよ」
「イメージねえ……」雄二は魚の骨が喉に引っかかったような表情を浮かべる。「自業自得とはいえ、もう少しか弱いところも見せておくべきだったと思っちまうねえ」
「? なんの話だ?」
「いや、そっちの話」
「はあ?」
そっちの話ってなんだ。こういうときの常套句は「こっちの話」だろうに。
「おまえの日本語おかしいぞ」
「おかしくねーんだな、これが」
だって俺には関係ねーし、と。
とても無関係だと思っているようには見えないニヤニヤ笑いをこちらに向け、雄二はポケットから出した手をひらひらと振ってみせた。
なんとなく腑に落ちないが、こんなふうにトボけたこいつを追求しても無駄なのは、これまでの経験でわかりきっている。
「……まあ、せいぜい気をつけろよ。家族がインフルエンザになったら、一緒に暮らしてるおまえもリーチがかかったみたいなもんなんだからな」
「へっ、ぬかせ」
負け惜しみじみたことを言う俺に対し、雄二は余裕綽々な態度で鼻から息を吐き出し、びしっと親指を立てて一言。
「こんなこともあろうかと、俺はしっかり予防接種を受けているんだぜ!」
「…………」
いや。
たしかにそれは最高の予防策だし、偉いと思うんだけど。
決してかっこよさげに勝ち誇れることではないというか。
ポーズまでつけて決め台詞風に言ってしまうと、むしろ間抜けというか。
「雄二って、わざわざ予防接種まで受けたのに流行るインフルエンザの型が違って、油断したところでばっちりその年のインフルエンザにかかるタイプだよな」
「なんだよその具体的に嫌なタイプ!? 俺はピエロかよ!?」
「向坂雄二はピエロタイプ」
「言い直すな!」
「じゃあ、イメージってどう? ピエロイメージ」
「言い換えても一緒だろうが! つーか生々しすぎて笑えねーよ!」
正直なところ、雄二が予防接種を受けたなら、タマ姉も受けてそうだしな。それでなおインフルエンザにかかったというなら、やはり予防接種したのとは違う型が流行ってるってことだと思うんだが。
「そう遠くないうちに結果が出るだろう」
「予言みたいに言うな。ちくしょう。もしインフルエンザにかかったら、絶対おまえにうつしに行ってやる」
こんな感じで馬鹿な会話をしながら登校した。
男ふたりで騒いでいたせいであまり気にならなかったのだが、通学路が普段より閑散としていた理由を、俺たちは間もなく知ることになる。
2
「少なっ」
先に教室のドアをくぐった雄二が、見たままの感想を口にした。
俺も思わず左手の腕時計と、教室に備えつけられた時計を見比べてしまう。時計は狂っていないし、登校時間はいつもと変わらない。にも関わらず、いつもよりクラスメイトたちの姿がまばらだ。座席は三分の一も埋まっていない。
「なあ、雄二……」
「ああ。こりゃひょっとするとマジで学級閉鎖になるんじゃねえか? ちょいと他のクラス覗いてくるわ!」
「あ、おい」
引き留める間もなく、雄二は回れ右して、再び廊下へ飛び出していく。
せめてカバンとコートくらい置いていけばいいのに。
だが気持ちはわからないでもない。昨日までふたりしか欠席していなかったのに、いきなり学級閉鎖がリアルに頭をチラつく状況に直面したわけだからな。ここだけの話、不謹慎だとわかっているのに、台風がきたときみたいに少しワクワクしてきた。
ぽつぽつと席に着いているクラスメイトに朝の挨拶をしつつ、自分の机に辿り着く。カバンを机の脇にかけ、コートを脱いで椅子に座ってひと息ついた。
何気なく教室を見渡すと、斜め前にある草壁さんの席も、教壇の傍の小牧さんの席も空いていた。ふたりとも俺より早く登校するので、この時間になってもいないなら、休んだ可能性が高いってことになる。
うーん。
改めて考えてみると、このみやタマ姉に限らず、草壁さんや小牧さんみたいな比較的よく話す女子には、あまり学校を休むイメージがない。いうなれば健康優良児イメージ。少なくとも誰かさんのピエロイメージよりは随分マシに違いない。
とはいえ、まさか全員が全員、皆勤賞をもらえるほど極端に頑丈ではないだろう。ただでさえ風邪をひきやすい時期だから、こうやってインフルエンザが蔓延すればそろって学校を休むことだってありえなくはないのだ。
「おいおい貴明。すごいことになってるぞ」
あれこれ考えていたら、いつの間にか戻ってきた雄二が、息を弾ませながら俺の机に手をついた。
「どんだけはしゃいでるんだよ。ちゃんと汗の始末しないと、おまえまで風邪ひくぞ」
「男に心配されても嬉しくねーよ。それより、他もうちと同じような状態だったぜ。学級閉鎖どころか学校閉鎖になるかもな」
「マジかよ」
なんだか思っていたよりも大事になっているらしい。
「ちなみに長瀬と笹森もきてない。あと珊瑚ちゃんと瑠璃ちゃんもきてなくて、久寿川先輩もきてなかったぞ」
「…………」
「ん? どうした、妙なツラして」
「いや……べつに……」
雄二のやつが女子の名前の後に「きてない」をつけて連呼すると、なんだか背筋が寒くなるんだが、どうしてだろう。
みんなが「きてない」ってのは、単に「学校を休んでる」という意味なのにな? 俺が悪いことをしたみたいな気分になるのはおかしいよな? ハハハ。
「そ、それだけ欠席者が多いと、さすがに心配というか、不安になるなと思ってさ」
「たしかに委員ちょと優季ちゃんの姿も見えねーしな。ふたりもきてないのか?」
「…………ああ、たぶん欠席なんじゃないか? ふたりとも欠席なんじゃないかな」
「なんで二回言うんだ?」
「大事なことだから、だ」
俺の精神安定にとっては、とてつもなく。
「そういや、るーこちゃんもきてないな」
「欠席、だな。……え? るーこもいないのか?」
「ああ。ほら」
振り返る。雄二が指さした左斜め後ろの席は、たしかに誰も座っていない。
るーこまでいないのか……。あいつはタマ姉以上に、体調を崩して寝込んでいる姿が想像できないな。
「こんだけ休んでるやつが多いと、最悪でも午前授業にはなりそうじゃねーか?」
「まあなあ……」
あまりに欠席者が多いと授業を進める意味がなくなってしまうし、他のクラスも同様の状態なら尚更だ。これ以上インフルエンザが広まるのを抑えるという意味でも、おそらく何らかの処置をとるのは間違いないと思う。
もっとも、仮に午前授業なり学級閉鎖なりになったところで、実際は休みが増えるのではなくて春休みあたりを前借りすることになるんだろうけど。でも、最終的にはプラマイゼロになるとしても、やっぱり少し得するような気がしてしまう。人間というやつは、目先の利益にとことん弱いのである。
「帰りにどっか寄ってこーぜ」
「気が早いやつだなあ」
「善は急げ、ってな」
呆れる俺を尻目に、本当に嬉しそうに笑いながら、雄二は自分の席に戻っていった。
そろそろ予鈴が鳴る時間だが、今後の方針を話し合っているようなら、担任がやってくるのは少し遅れるかもしれない。
クラスメイトたちは雄二と似たようなことを考えているらしく、まだ始業前だというのに教室には放課後のような弛緩した空気が充満している。これで「今日は平常授業にします」なんてアナウンスが流れたら大ブーイングが起きそうだ。言うまでもなく俺も加わる。
そんなふうに緩んで、油断しきっていたから。
勢いよくドアが開け放たれた音で、教室中の誰もが飛び上がるほど驚いた。
バン、とか、ドン、とかではなく、ズドン、みたいな。
教室の床から振動が伝わってくるのではないかと思えるほどの、凄まじい音だった。あれでドアに備えつけられたガラスにヒビが入らなかったのは奇跡ではないかとすら思う。トイレを我慢してなくてよかった。我慢してたら、間違いなくチビってた。というかあんな音が出るんだ、あのドア。
「ダーリン! 無事だったんだね!」
スタングレネードを食らったかのごとく時間の静止した教室を、ピンク色の弾丸が貫く。
迷いなく。
まっすぐに。
俺の方に向かって。
「……ちょっ、ま、は」
――ちょっと待った、はるみちゃん。
声にならなかった言葉が駆け抜けた頭の片隅で、俺は思った。
万が一ちゃんと言葉を形作れていたとしても、眼前に迫りつつあるはるみちゃんを押し留めることは不可能だったに違いない、と。
ムリ。
絶対。
3
「ごめんねごめんね、ダーリン」
「……いや、そんなに気にしないでよ」
座ったまま腹を押さえる俺を、制服姿のはるみちゃんが心配そうに覗き込んでいる。
顔が近い。
はるみちゃんのフライング・ボディプレスの威力は相当なものだった。しばらく息ができなかったし、声を出すこともままならなかった。プロサッカー選手のシュートを至近距離からみぞおちに食らったらこうなるんじゃないかという感じ。
でもまあ、そんな深刻になるほどのことではない。
どちらかというと、ずっと平謝りされていてバツが悪いことのほうが困る。
「もう平気だからさ」
白状するとまだ少し苦しかったが、十分も経てばさすがに普通に喋れるしな。
あれからすぐに担任がやってきたが、出席を取るとすぐに職員室に戻っていった。おそらく俺たちの期待通り、早めに授業を切り上げる算段をする手はずになっているのだろう。明言こそしなかったが、これだけ空席が目立つなら、職員室の電話は欠席の報告で鳴りっぱなしだっただろうし、教室にやってきたのは確認程度の意味しかなかったんじゃなかろうか。
「ホントに? ホントに平気?」
「うん、ホントホント」
「そうそう。ラブコメ主人公が打たれ強いってのは、大昔からのお約束なんだぜ?」
適当なことを言いながら雄二が近寄ってくる。
先生が戻ってくるまでちゃんと席についていろよ――なんてことはもちろん言わない。あるいは小牧さんがいれば注意していたかもしれないが、雄二に限らず、ストッパー不在のクラスメイトたちは完全に緩みきって雑談にふけっている。
本来ならSHRも終わり、一限の授業が始まっている時間だが、教室に充満した放課後の気配は更に濃くなっていた。これじゃあ「今日は平常授業」どころか「今日は午前授業」でもブーイングが起きそうだ。
「え? でもダーリンよりゆーじくんのほうが打たれ強いよね? ゆーじくん脇役なのに」
「……貴明ぃ。俺、泣いてもいいよな?」
もう泣いてるじゃん。
悪意よりも無垢さのほうが人を傷つけるという実例を目撃してしまった。
「雄二の場合は打たれ強いっていってもタマ姉に潰され慣れてるだけだから、一般的なお約束が当てはまらないんだよ、きっと」
「なるほどー」
「追い打ちかけるなよ! 慰めろよ!」
「おまえが人のことラブコメ主人公とか言うからだろ」
意味はよくわからなくても、からかおうとした意図はしっかり伝わってきたからな。自業自得ってやつだ。
もっとも、表情が冴えなかったはるみちゃんの気は紛れたみたいだし、それに関しては雄二に感謝していいかもしれないけど。
「……そういえば」肝心なことを聞いてなかった。「はるみちゃんさ、さっき俺が無事でよかったとか言ってたけど、あれってどういうこと?」
「あ、うん。実はさんちゃんと瑠璃ちゃんがインフルエンザにかかっちゃったみたいで、お姉ちゃんが看病してるんだけどね」
「え。珊瑚ちゃんたちも? 大丈夫なの?」
「えーと……たぶん?」
「たぶんって」
言葉を濁したはるみちゃんの様子に違和感を覚え、胸の奥がざわつく。
まさか肺炎とか、他の病気を併発した――なんて。
「あ、ううん、そんなに心配しなくても、すぐにお医者さんを呼んで診てもらったから大丈夫だと思うよ? よくわからないのは、あたしがちゃんと最後までお医者さんの話を聞かなかっただけだから」
考えてることが顔に出たからか、はるみちゃんが説明してくれた。
ホッとすると同時に、当たり前のように「お医者さんを呼んで」というあたりにブルジョアっぽさを感じる。しかも今より早い時間だと確実に診療時間外だろうに。
というか、医者の話を最後まで聞かないってのがいかにもはるみちゃんらしくて、思わず口元が緩んだ。
「あー、なにか失礼なこと考えてる」はるみちゃんが頬を膨らませる。「だってダーリンもインフルエンザにかかってないか心配だったんだもん」
「俺? 俺は今のところは大丈夫だよ」
「それはもうわかってるけど! お医者さんの話を聞いてるうちにダーリンのことが心配になったの! なのに電話したらひっきーが出ないんだもん! だからダーリンに何かあったんじゃないかと思ったんだよ!?」
「そ、そっか……」
ずずいっと詰め寄ってきたはるみちゃんの圧力に、思わず尻で後ずさるが、椅子の背もたれがあるためこれ以上距離をとることはできない。
「いやあ、愛だねえ」
横では訳知り顔の雄二が、腕組みをしてこちらを眺めていた。
「そうそう。あたしはダーリンへの愛で溢れているのです」
はるみちゃんは雄二のからかいにも照れたりせず、むしろ誇るように胸を張る。
離れてくれたのはありがたいのだが、俺としては普通に照れる。愛とか大声で言われると恥ずかしいことこの上ない。このくらいは聞き慣れたのか、クラスメイトたちが騒ぎ立てたりしないのがせめてもの救いだ。
全く関係ない話だが、この角度だとはるみちゃんを下から見上げることになり、驚くべきことに大きな胸の膨らみのせいではるみちゃんの顔が見えなかったりする。これは目の得……いや、目の毒だ。
さりげなくはるみちゃんから顔を背け、咳払いをひとつ。
「し、心配かけてごめん。シルファちゃんはこのみんちに行ってるんだ。このみと春夏さんもインフルエンザになっちゃったんだってさ」
「そうなの? ……そういえば、人少ないね」
今気づいた、というふうに、はるみちゃんはぐるりと周囲を見回した。
「マジで貴明のことしか見てないのな」
雄二が肘で突っつきながら、俺だけに聞こえる声で囁く。
やめてくれ。
照れるから。
照れ死する。
「んー……ん? ねえ、ダーリン」
「な、なに?」
いきなり目の前に回り込まれて心臓が跳ねた。
一瞬、頭の中を読み取られたかと思ったが、いくら高性能なメイドロボでもそんなことできるはずがない。
「それじゃあ、ひっきーは今ダーリンの家にいないってことだよね?」
「うん」
「愛佳と優季とるーこもお休みしてる……の?」
「そ、そうみたいだけど?」
「ふむ……」
質問をするはるみちゃんの仕草は、どこか探偵然としていて、口を動かしながらもあれこれと考えを巡らせているようだ。はるみちゃんには悪いが、普段の五割増し賢そうに見える。
「ちなみに十波と笹森が休みってのは確認済みだぜ。あと久寿川先輩とチビ助とそれに――姉貴もな」
「――っ!!」
はるみちゃんが雄二のほうに身体を捻る。雄二の言葉を聞いて、はるみちゃんの目の色が変わったのがわかった。
それこそが知りたいと思っていた答えだった、というような反応だった。
「こ、これはチャンスだよね?」「少なくとも邪魔は入りにくい」「今日中に既成事実作れるかな?」「それは頑張り次第だろうなあ」「ちなみにこれは抜け駆けになると思う?」「俺は中立だからノーコメント」
俺を挟んで、雄二とはるみちゃんが意味不明なマシンガントークを繰り広げる。興奮気味のはるみちゃんを雄二がたしなめるという、非常に珍しい構図だ。
その間にも漏れ聞こえてくるのは「略奪」とか「覚悟」とか「貞操」なんていう不穏当な単語ばかり。俺にできるのは、右の耳から入ってくる音を左の耳へとスルーし、話しているのが自分と関わりのない内容であってくれと祈ることくらいである。
「ダーリン!」
「は、はい!」
大きな声で名前を呼ばれると、自然と背筋が伸びてしまう。
はい、なんて返事しちゃったよ、俺。
頬を紅潮させたはるみちゃんは晴れがましい笑顔を浮かべて、
「あのね、今日これから学校が終わったら時間ある?」
「え、いや、学校が終わったら雄二と一緒にどこか寄っていこうかと――」
「俺、パス」すかさず挙手する雄二。
「は?」
なに言ってるんだ、こいつ。
「ダーリンは、今日これから学校が終わったら時間ある?」
まるで英会話のテープレコーダーのように、はるみちゃんが同じ台詞を繰り返した。
「いや、だから……おい、どういう、」
雄二に向かって非難がましい視線を送ると、「てめえはもっと男として大切なものを身につけろ」と言わんばかりの視線で返された。こんなアイコンタクトが可能なのは、幼なじみならではだろうな。
「今日、これから、学校が終わったら時間ある?」
更に同じ台詞を口にするはるみちゃん。笑顔は笑顔でも、ブレない笑顔を見せつけられるとちょっと怖い。
でも、これでさすがにピンときた。どうやら雄二とは、放課後の予定について話していたらしい。
「……時間はあるみたいだよ」
横目で雄二に「これでいいんだろ」と語りかけると、小憎たらしくも親指を立てていた。
どこか寄っていくなら三人で行けばいいのにな。俺はどちらでも構わないというか、雄二が納得しているなら敢えて口出ししようとも思わないけど。
「やったー! 今日は久しぶりにふたりきりでいられるね、ダーリン!」
その場でくるくると回りはじめたはるみちゃんは、本当に嬉しそうだ。目の前で短いスカートの裾が翻りそうになったので、またしても俺は顔を背けた。
そういえば、一緒に住んでるシルファちゃんはともかく、他の女の子とふたりきりになる機会って最近なかったかもしれない。
ふたりきり……ふたりきりか……。
なんだか改めて言われると、意識してしまうというか。
はるみちゃんのスキンシップなんかには慣れたと思っていたけど、少し緊張するかも……。
「――くっくっく。チミたち、誰か忘れていないかね?」
そのとき、俺の耳に不吉な声が聞こえた。
ざわついた教室にいるというのに、何故かその声だけが喧噪を貫いてきたようだった。
見れば、雄二も、はるみちゃんも、他のクラスメイトたちも一点を――声の聞こえてきた方を見つめている。
皆の視線に引き寄せられるように、俺もその方向、廊下に面した教室の入り口を見た。
そこに立っていたのは、
白い、
白い、塊。
「あっはっはー! あたしの目の黒いうちは、まともにラブコメできると思うなよぉー!」
というか、全身が着ぶくれしたまーりゃん先輩だった。
しかも、超鼻声。
顔が出ているから辛うじて判別できるだけで、身体は雪だるまみたいな状態。詳しく説明すると、身体が布団で覆われている。というより、布団が紐で巻き付けられているのだ。
簀巻きにされた下から足が出ているから動けているが、あれでは両手は完全に使えないだろう。上から出ている顔も、半分は白いマスクで覆われていて、本当に出来の悪い雪だるまのコスプレのように見える。
「……なにしてるんですか、まーりゃん先輩」
俺が突っ込まないと皆が見て見ぬ振りをしそうだったので、仕方なく話しかけてみる。
できれば俺もスルーしたかったよ。
「見ればわかるだろう」
「いや、見てもわからないです。すごい鼻声ですね」
「おう。インフルエンザの野郎にやられてるからな」
うわあ……。
タチの悪い人がタチの悪いウイルスにやられたんだなあ。
ホントに今年のインフルエンザは無敵なんじゃないか?
「だったら家で大人しくしてましょうよ」
「なにか面白いことが起こりそうな気配がしたからな! じっとしてなんていられるか!」
「叫ぶと喉痛くないですか?」
「龍角散のど飴を舐めてるから大丈夫だ!」
あー。
いるよなー、こういう人。
「えっと……」
しかし、これはどうしたものか。
べつに自分がラブコメしていたとは思わないが、たしかにまーりゃん先輩が登場してからガラッと雰囲気が変わってしまった。全部持っていかれたというか、ありていに言うと台無しというか、そんな感じ。
なんとなく様子をうかがってみると、あのはるみちゃんですらぽかんと口を開け放ったまま固まっている。一応とはいえ、普通にやり取りできてしまっている俺ってなんなんだろう。
「――まーりゃん先輩!!」
果たしてその人は、まーりゃん先輩と同様に、そしてまーりゃん先輩とは似つかない格好で俺たちの前に現れた。
誰もが想像だにしなかった、ナース姿の久寿川先輩である。
……ナース?
「熱が40度もあるのに走り回るなんて、なに考えてるんですか!」
「も、もう追いついてきたのか! さーりゃん! なんてかっこだ!」
「まーりゃん先輩がこの格好で看病しないと大人しくしないっていうから着たんです! こうなったら絶対に約束は守ってもらいますからね!」
「ち、ちくしょう……だが、あたしを倒しても第二、第三のあたしが……」
「はい! 帰りますよ!」
ナース久寿川先輩に、ずるずると引きずられていく雪だるまーりゃん先輩。
皆さんも手洗いうがいを忘れずに、できれば手は消毒して、外出のときにはマスクをつけてくださいね、と。そんな本物のナースみたいなことを言って、久寿川先輩はまーりゃん先輩を運んでいった。
嵐というか。
荒しのようなふたりだった。
間違いなく言えるのは、まーりゃん先輩と久寿川先輩が切っても切れない間柄だということと、決して久寿川先輩が押されっぱなしではないということ。そして、おそらくテンションが高かったせいで色々と無茶をした久寿川先輩が、正気に戻ってからものすごく後悔するであろうということくらいである。
あとでフォローしておこう。
受験と卒業を控えた時期に自由登校とはいえ登校拒否になったりしたら、泣くに泣けない。
たぶん多少フォローする程度じゃ、あの衝撃は消えないだろうけど。
「いやあ、すごかったな」雄二が俺の内心と同じ感想を漏らす。「久寿川先輩のナースコスプレ最高だったな!」
「…………」
いや、後者は違う。
違いますよ?
「……ダーリンもああいうかっこ好きなの?」はるみちゃんのジト目に晒されてふるふると首を横に振る。「でもガン見してたよね」
否定した意味がなかった。
時が動き始めた教室の中でも、誰もが久寿川先輩の格好について話していて、まーりゃん先輩の存在がなかったことになっている。
これはちょっと、さすがに可哀想だと思わなくもない。
ほんの少しだけだけどな。
後日談というか、今回のオチ。
予想通り、いや、期待通りというやつで、この日はそのまま放課になった。状況を見てという話だったが、少なくとも今週中は全て休みになるそうで、思わぬ連休が降って沸いてきたことに教室中が歓喜した。
俺はといえば、はるみちゃんとふたりで寄り道をして、楽しく遊び、そして帰宅した。シルファちゃんがこのみたちにつきっきりになるかもしれなかったので、夕食まで作りにきてくれた。
この日は、本当にそれだけ。
というか、これもある意味予想通りだったんだけれど、夜になったら熱が出たのだ。
こんなのは考えてみれば当たり前の話で、このみやタマ姉、ましてやまーりゃん先輩までをも蝕んだウイルスに、俺ごときが抵抗できるはずがなかったのである。予防接種も打ってなかったしな。
俺の様子がおかしいのに一早く気づいたはるみちゃんが、そのまま看病を買って出てくれたのは本当に助かった。だから、明け方まで熱にうなされ、まどろみに片足を突っ込んだ状態でナースの幻を見たのは、オマケみたいなものだったと思おう。
次の日から学校閉鎖が空ける日まで、看病に関してあれこれ問題があったのだが、それはまた別のお話ということで。
おしまい
でもまあ、OVAも普通に出来がよかったし、ホントに二次創作を書く題材としては飛び抜けてるんだよなあ。どんなネタでもいける裾野の広さが素晴らしい。
というわけで、読んでくださった方はどうもありがとうございました。