ブログよりも遠い場所

サブカルとサッカーの話題っぽい

【小説】愚者のエンドロール

2012-07-27 | 小説
愚者のエンドロール (角川文庫) 愚者のエンドロール (角川文庫)
価格:¥ 560(税込)
発売日:2002-07-31

 読了。

 1巻同様、アニメを見てから読みました。今回はイマイチだったかなあ。アニメのほうもイマイチでしたし。面白くなかった作品についてダラダラ語ってもしょうがないので、要点をザックリと二点に分けてまとめてみます。

 第一に、僕が『愚者のエンドロール』を楽しめなかったもっとも大きな理由は、登場人物たちのアンフェアさが引っかかったということです。この登場人物というのは、奉太郎をはじめとした古典部の面々も含まれます。
 なんつーかなー、身も蓋もない言い方をすると、コレって「奉太郎を勘違いさせて、鼻っ柱を折ること〝だけ〟を目的とした話」ですよね。僕はべつに「常に主人公はいい目を見るべきだ」とは考えていませんが、持ち上げて落とすことを主目的にしたような描かれ方をされたキャラたちを見ていると不愉快です
 チャットで入須に「踊ってくれるやつはいる」なんて言い方をする奉太郎の姉をはじめ、無関心な素振りで対案の揚げ足取りばかりする奉太郎も、無責任な物言いばかりの古典部の部員たちも、自分の都合のいいように周囲を動かそうとする入須も、内部のゴタゴタを外に持ち出す二年生たちも、どいつもこいつも不愉快すぎてなあ……。ぶっちゃけ、キャラが不愉快に感じる物語って基本的に面白くないですよ。

 第二に、それでもアニメよりは原作小説のほうが面白かった、というか、いくらかマシだったのは間違いないかなと。何故か。それは原作のほうが〝行間を読む〟ことができる作りになっているからです
 これは僕の個人的な感想ですが、『氷菓』アニメにおいて、原作2巻にあたる『愚者のエンドロール』は、(皮肉なことに)上記した第一の問題点に書いた「奉太郎に勘違いをさせて、鼻っ柱をおること」にスポットを当てて再構成された脚本になっていた、と思います。
 原作小説では、喫茶店で入須と二度目に対峙した奉太郎は、比較的感情を抑えて言葉を紡いでいます。ところが、アニメの同じシーンでは、演技、演出過剰に感じるほど、奉太郎は激情に任せて入須に言葉をぶつけていました。また、喫茶店を立ち去るときの映像を見る限りでは、「奉太郎は心から信じていた人に裏切られた」といったような絶望感すら伝わってくる演出になっていました。
 や、正直、アレはやりすぎですよね。原作では、奉太郎は憤りや怒りの感情より、諦観のほうを強く抱いていたように読み取れますので、あんなふうに入須を強く糾弾するような形にしてしまったら、あのシーンの持つ意味、ひいては奉太郎というキャラクター像が歪んでしまうような気がします。
 で、行間を読むことができる、という話がコレとどう繋がるかというと、僕は真の意味で原作を再現するのであれば、奉太郎と入須のやり取りではなく、入須と本郷、そして入須と奉太郎の姉のチャットでのやり取りを強調すべきだったと思うのですよ。最後の数ページに書かれた、あのチャットログこそが、『愚者のエンドロール』におけるキモだったのではないかな、と。
 どういうことかというと、あのシーンにおける入須に対する奉太郎の姉の指摘は、古典部OBが発するモノとしては最大限の皮肉になっていて、「プロジェクトを成功させなければならなかった」と弁解する入須にとっては完全に足場を崩される一言でした
 入須にとってのプロジェクトの「成功」というのは即ち、「出来の良い映画を完成させること」でした。しかし、それはあくまでも入須個人の価値観でしかなく、本郷をはじめとした二年F組の面々にとっての「成功」は異なるものでした。そして、その「成功」というのはおそらく、本郷がチャットに打ち込んだように「皆で完成させて万歳すること」ではなかったでしょうか。その部分に関しては、えるが言うところの〝良い人たち〟である二年F組の思惑は一致していたと思われます。
 ですが、実際に二年F組がどういう状況だったかといえば、入須に出来が悪いと判断されて切り捨てられた本郷は、半ばハブにされたような形で苦い文化祭の思い出を作ってしまうハメになりました。他の数名の生徒も、まったく無関係の古典部に茶々を入れられて外注した脚本に沿った映画を撮るハメになりました。
 こんなの、いくら映像の出来がよくても「良い文化祭の思い出」にはなりません。これは1巻のときに解き明かされた過去の古典部の歴史をなぞるような出来事です。誰かの犠牲の上に成り立つプロジェクトの「成功」……すべてを見通す奉太郎の姉には、こうした絵図が見えていたハズです。
 だからこそ、あのシーンで奉太郎の姉は「女帝」に釘を刺した、というふうに僕には読み取れました。無言でチャットルームを退室したのは、「あたしに言い訳しても、あんたのやったことは償えないでしょう」という意思表示だった気がします。
 結局、『愚者のエンドロール』が示すところの「愚者」というのは誰だったのか、と。
 アニメでは奉太郎が「愚者」だったということが強調されていました。原作では行間を読むことで、入須もまた「愚者」であったということが明確に示されているとわかります。このさじ加減の差によって、僕はアニメよりも原作のほうが上手いことまとまっているというふうに思えたわけです。

 なんか短くまとめるつもりが長くなりましたが、文化祭の話は面白いので続きも読んでみようと思いますということで一つ。


コメントを投稿