いったりきたり

いつも通りの日をまじめに過ごしながらにっこりしたりきゅんと身にしみたり

しまなみ海道

2009-06-27 | Weblog
『鯛そうめん』
どんなん!?って思ったら、これは鯛とそうめんやん…
1580円也―この金額をどうとるか。

「大山祇神社(おおやまずみ)」鶴姫伝説
今から400年前の戦国時代。
鶴姫はしまなみ海道の大山祇神社の娘。
瀬戸内の平和を守ることを龍神から告げられていました。
ところが、周防(現在の山口県)の大内氏が勢力を広げ、瀬戸内海の制覇に乗り出してきます。
神のお告げを伝える神官の家ではありますが、島が侵略されそうになると一族の代表者を出して出陣させるのがしきたりとなっていました。
鶴姫の兄は大内陣を撃退するも戦死、17歳の鶴姫が一族を率いることに。
戦乱の中、鶴姫の右腕で恋人の越智安成も討死にしてしまいます。
鶴姫は戦いの連鎖を断ち切るために残存の兵力を集結させて最後の反撃に向かいます。
「いつか平和になり弓矢を折る日が来たら、鎧に白い花を飾ろう」
不意を突かれた大内軍は撤退し、鶴姫らは勝利を収めます。
しかし鶴姫はこの戦の後に兄や恋人を想い、18歳で海に身を投げ自殺したと伝えられています。
辞世の句は「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」

「耕三寺」
昭和初期、大阪で成功をおさめた耕三寺耕三が亡き母の弔いのために建てたお寺です。
飛鳥から江戸の代表的な仏教建築の様式を取り入れ35年もの歳月をかけて復元したもの。
(ここに入園すれば全部網羅することできるの!?)と狐につままれたような気持ちでやってきました。
来て見てびっくり、正門から寺院にしては過激と言えるほどのド派手ぶり!
お寺というより‘浄土的テーマパーク'か…なんとなく面白がる気持ちウキウキ。

「法宝蔵」では近代美術展が。
川上拙以 『車海老』が印象的。青が綺麗だし車海老が主役の絵画ってめずらしくない!?って思いました。

「千仏洞地獄峡」
地下約15mに全長350mにもなる洞窟が掘られています。洞窟内は滝が流れていたりしてひんやり。石のお地蔵さんやら仏像がうねるようにいます…
地獄極楽絵図が貼られていて「地獄行き~」や「大往生」のさまを見ることができます。
嘘をついたり、人の物を盗んだり、人を殺めたりしたら間違いなく「地獄行き~」です。地獄では怖い鬼が逃げる人間を容赦なくひっつかまえて足をもいだり、クビを刎ねたりしていました…
『火の車』は地獄でない現世でも身にしみている人がたくさんいるはず…と。

「未来心の丘」
広さ5,000平方メートルにもおよぶ白い大理石の庭園です。
一面雪よりも白く…まぶしい…照り返しコワイ。
丘にそびえ立つ様々な形をしたモニュメントや広場、道…
『風の四季』風天の屏風だそうです。
『光明の塔』日天が放つ光、希望の塔とのことです。

坂の上の雲ミュージアム

2009-06-27 | Weblog
小説『坂の上の雲』
司馬遼太郎さんが40代のほぼすべてを費やして完成させた作品。
松山出身の秋山好古、真之兄弟と正岡子規を中心に近代国家をめざす明治の日本が描かれています。
初めて国民意識の中で資格さえとれば博士にも軍人にもなることができた時代。
子規は新聞記者になり俳句、短歌で、好古は陸軍で騎兵を育て、真之は海軍で近代戦術の基礎を確立、日露戦争が勃発する激動を駆け抜けていきます。

ミュージアムでは毎年テーマを新たにした企画展をしています。
今回は「秋山好古」です。
司馬遼太郎が明治の典型のひとりとして捉えたといえる、好古の実像にせまっていきます。

好古自身の言葉を引用してこう紹介しています。
「若い頃はなにをしようかということであり、老いては何をしたかということである、というたったひとことだけを人生の目的としていた」と。
自らの人生を「簡単明瞭」に過ごすことつとめましたが、10代後半に小学校の教師になり、のちに陸軍士官学校の騎兵隊の育成に力を尽くし、晩年は故郷松山で中学校の校長の仕事をしました。
当時、陸軍大将という地位まで登りつめた人が地方の中学校の校長をつとめるのは異例なことだったそうです。

ミュージアムは地上4階、安藤忠雄さんの設計です。
(松山すごいの建てちゃったな…)
明治時代に関わる書籍、茂木ヒデキチ画の「絵でみる好古物語」。
明治日本の特徴の資料や映像での解説、ナポレオン1世からうけた勲章。
宮中晩餐会の料理の再現、30年式乗鞍など時間を忘れるほどの展示です。

また松山は日露戦争で29箇所の捕虜収容所が国内に設けられた最初の収容所でもあります。
当時の捕虜たちの日常生活の写真パネル展示があり、写真の中には道後温泉で唐草模様の浴衣を着てビールなんか飲みながらまったりしてるのもあります。
(なんか笑える)
他には、道後公園の自転車競走の写真があったり、選手たちは練習を重ね、当日に臨んだそうです。捕虜や市民3000名が見物し、最終的には日露対抗だったとか。
(松山初の国際スポーツ交流だったんだ)

これまで世界の戦争捕虜の中で、もっとも人道的に扱われた1つの重要なケースとして歴史を刻んでいます。