鴻池副長官が辞表提出=女性問題で引責
鴻池祥肇官房副長官は、麻生太郎首相あての辞表を提出した。理由は「病気」としているが、13日発売の「週刊新潮」に自身の女性問題が掲載されたことから、事実上の引責辞任とみられる。鴻池氏は今年1月にも女性問題が週刊誌で報じられたが、首相は河村建夫官房長官からの厳重注意にとどめており、麻生政権に打撃となるのは必至だ。
麻生政権の大臣には、なんとお粗末な人が多い事だろう!
二月の中川財務大臣の辞任理由は、酔っ払っての、朦朧会見
そして今回のは議員パスを使っての浮気旅行。
小沢さんは、恐らく麻生政権の依頼を受けた検察の、捜査権濫用による引き摺り下ろし作戦によっての辞任だから、
これら麻生政権の閣僚達とは、次元が違う。
同じ頃に辞めた人なので、つい比較したくなってしまった。
やっぱり権力者になって、栄耀栄華を享受したいというのが、
政治家になり、政治家を続けている唯一の理由の人と、
国民の為に一肌脱ごうと、頑張っている人との違いだろうか。
一口に政治家と言っても、栄耀栄華を極めるために政治家になっている人と、
民主主義の理念に沿って、国民の代表として、国民の為の政治を実現しようと頑張っている人とでは、
その政治家になった動機がまるで違う。
動機が違うだけに、その理想としている事柄も、全然違うものになるだろう。
いわゆる正義とする事柄も、双方ではかなり違ったものになるのではないだろうか?
昨日、
お玉おばさんでも分かる政治の話に、右翼信奉者と見える人に対して書いたコメント、
平和主義者と右翼の論争がどうして、キリが付きにくいかについての、私の考えを書いたので、ここを訪問してくださる方にも見て頂きたいと思いここにコピーする事にした。



昔石橋湛山元総理の自伝(湛山回想)を読んだ事があるのですが、その中で、若い頃早稲田大学の学長選をめぐって対立が起きたときのことを回想されて、「世の中の紛争の多くの場合がそんなものであるが如く・・・・・・・しかし、かかる実情は私も後になって気づいたのであって、表面に働いた当時にしてみれば、全く正義の戦いであったのである。」と言う一節があります。
正義と言っても、一方の正義である。
これがディベートを可能にしている理由だろうと思います。
要するに一方の正義、又は利益を護る為に、 ここの人も一生懸命に論を張っているのではないでしょうか?
護憲派は、自分たちが権力者のいろいろな思惑に引きづられて、戦争に巻き込まれるのを阻止したいと言う一心で、他の国民も庶民であるなら、被害者になる確率が高いのだから、貪欲な権力者の餌食になるような馬鹿な真似はおよしなさいと言っているのだと思います。
しかし一口に庶民と言っても、昔から大名に仕える足軽もあれば、村役人も居りますし、その人達にとっては権力が安泰の方が、生業が立つと言う事になるでしょうから、只権力に搾取されている人達とは違う立場になるでしょう。
そういう立場の違う人が議論して、ディベート能力を駆使し続けたら、永遠に結論は出ないでしょう。
説得できるのは、利害、又はある集団に対して縁故、愛着の全然ない人達だけになるのではないでしょうか。
ですから反対論の説得に時間を取る事を省くのは、いたし方のないことだと思います。
外交は人間関係を築く事から初めて、勿論経済の関係も利用されるでしょうし、複雑怪奇で、素人が議論してもあまり意味がないと思います。
只国(国民)の為の政治家に採用された外交官か、某国の手先に採用された外交官かで、やる事はかなり違ってくるでしょう。
だから政治改革を私たちは願っているし、憲法は絶対に変えてはならないと思っているのです。
権力と縁故のないのが、大部分の国民なのですから、政界の全体像が認識できさえしたならば、国民の為の政治を選ぶに決まっていますから,国の将来は国民の目覚めにかかっているのではないでしょうか?(改憲派が伸びるとは限らないと言う意味で)
自己宣伝になりますが、私のブログで書きました「
恐竜を育ててしまったアメリカ」ご覧頂ければと思います。