甲府の街、歴史探訪のポタリングはさらに続く。
台風通過のためか、甲府盆地はすっかり晴れ上がり、まるで夏に逆戻りしたかのように気温が高くなってきた。
今回は、街中ポタリングのつもりなので、すぐに水も食べ物も手に入るだろうと考えて持参しなかった。
急峻な要害山から下りたときには、昼を過ぎてしまい、お腹がすき、喉が渇いていた。
どこかに食堂はないかと探しながら要害山からの街へ戻る坂を下っていったのだが、店はなかった。
やっと見つけたのは、飲料水の自動販売機。
ジリジリとした暑さに喉が渇いたので炭酸飲料を飲むことにした。
自転車を止めて、デカビタCを買う。
自販機近くの手頃な石の上に腰を下ろして座り込み、キャップをねじり蓋を開ける。まずはひと口。
シュワーッという音と一緒に甘さとパチパチした刺激が舌の上を通り、喉にしみる。
溜息とともに疲れを吐き出し、午後の行き先を考えてみた。
生誕地の次は、埋葬地だろう。
そして、信玄公の父、妻、子どもたちの墓所だろう。
甲府には甲府五山といわれる禅寺が点在しているらしく、そこも回ってみよう。
最後は、やはり甲府城だろう。
おおざっぱなプランニングを終えて、出発した。
今朝、お参りした武田神社へ戻り、神社の前にあった甲府歴史の街の案内板を見て、行き先の場所をおおざっぱに頭にいれた。
次は、円光寺。甲府五山の一つ。現在の本堂は昭和になってから建て替えられた。
1時前には着いたが、人影は見当たらなかった。
信玄公の奥方の墓所がある。1570(元亀元)年に亡くなった武田信玄の正室三条夫人の菩提寺。
三条婦人は五摂家の方であるらしく、武田家よりも家の格は上であった。
仲人は、どうも小田原の北条氏らしい。
京都のお公家のお嬢様がどうして甲府へ嫁入りしたのだろうか。
おそらくは、財政的な問題が背景にあったに違いなく、武田家側としては都にコネを持ちたいという願望があったにちがいない。
三条婦人の人柄について、境内内に看板があり、「西方一美人 円光如日 和気似春」とあった。
これによると、美人でお日様のように光を放つがごときであり、そばにいると春のようなほんわかした気持ちになってしまう性格であったらしい。
さて、円光寺の次は、信玄公の墓所である。
信玄公は、天正元年(1573年)4月12日、甲斐へ引き返す途中の三河街道上で死去、53歳の生涯を閉じた。
今の時代ならすぐに公表するのだが、戦国時代であるため信玄公が亡くなったことを周囲の大名が知れば攻め込んでくるに違いない。
そう考えた信玄公は、混乱を避けるため、その死を3年間秘密にするよう遺言を残したという。
正式な墓所は、塩山の恵林寺にある。遺言通り3年間秘匿した後に葬礼を行い、埋葬されたのだ。
では、亡くなってから3年間どうしていたのかというと、この場所に埋葬されていたらしい。
河尻塚
織田家臣の河尻秀隆が埋葬された場所らしい。
信玄公の墓所のすぐ近くに河尻塚があった。まったく予備知識はなかったが、案内の看板があったので立ち寄ることにした。
場所は、ゲートボール場と民家の間のきわめて狭い場所にあった。どうしてこんなひどい場所にあるのだろうと疑問を感じた。
天正十年(1582)3月11日、織田軍に追い詰められた武田勝頼と嫡子信勝は自害。
甲斐武田氏は滅亡。織田信長は、河尻秀隆に河内地方を除く甲斐と信濃諏訪郡を与える。そして、秀隆は、躑躅ヶ崎館には入らずこの河尻塚のあたりに館を構えたらしい。
その後、本能寺の変が勃発。
信長が死んだことを知った甲斐国内には一揆が発生し始め、6月18日、河尻秀隆は一揆に襲撃される。
織田は徹底した武田の家臣狩りと寺などを焼き払うなどのため甲斐の住民に相当に恨みを買っていたらしい。
ついに、秀隆は三井弥一郎に討取られ、逆さにして埋められた。それがこの河尻塚なのだという。
甲府の人間にとって、河尻秀隆は許すまじき人物で憎むべき存在なのだろう。それゆえ、このようなひどい扱いなのだろう。
現代で置き直すと、買収した会社へ単身赴任して頑張ろうとしたが、徹底したリストラなどがあり買収された側の従業員などの恨みが深かった。ちょうど、そこに買収した側の会社の経営が危うくなった。それをチャンスとみた従業員や役員などが反乱して、追い出したという感じになるのだろうか。
入口がまったくわからないような状況。かろうじて、ゲートボール場側のフェンスに入口がある。
あたりをうろうろとしていたら、ゲートボールを楽しんでいたご老人たちからフェンスのドアは開いているから自由に入りなさいと声をかけられた。
中に入ると、狭い。
すぐ後ろには民家が迫っていて、トタン板の錆が茶色に流れているのが印象に残った。
河尻塚を後にして、次は、信玄公の父である信虎公が埋葬されている大泉寺へ向かうことにした。
しかし、腹が減った。
民家は数多くあるのだが、食堂がまったくない。
売店もない。市街地だからどこにあるだろうと思っていたが、寺があるような場所ははずれにあるから、店がないのもしかたがないのだろう。
台風通過のためか、甲府盆地はすっかり晴れ上がり、まるで夏に逆戻りしたかのように気温が高くなってきた。
今回は、街中ポタリングのつもりなので、すぐに水も食べ物も手に入るだろうと考えて持参しなかった。
急峻な要害山から下りたときには、昼を過ぎてしまい、お腹がすき、喉が渇いていた。
どこかに食堂はないかと探しながら要害山からの街へ戻る坂を下っていったのだが、店はなかった。
やっと見つけたのは、飲料水の自動販売機。
ジリジリとした暑さに喉が渇いたので炭酸飲料を飲むことにした。
自転車を止めて、デカビタCを買う。
自販機近くの手頃な石の上に腰を下ろして座り込み、キャップをねじり蓋を開ける。まずはひと口。
シュワーッという音と一緒に甘さとパチパチした刺激が舌の上を通り、喉にしみる。
溜息とともに疲れを吐き出し、午後の行き先を考えてみた。
生誕地の次は、埋葬地だろう。
そして、信玄公の父、妻、子どもたちの墓所だろう。
甲府には甲府五山といわれる禅寺が点在しているらしく、そこも回ってみよう。
最後は、やはり甲府城だろう。
おおざっぱなプランニングを終えて、出発した。
今朝、お参りした武田神社へ戻り、神社の前にあった甲府歴史の街の案内板を見て、行き先の場所をおおざっぱに頭にいれた。
次は、円光寺。甲府五山の一つ。現在の本堂は昭和になってから建て替えられた。
1時前には着いたが、人影は見当たらなかった。
信玄公の奥方の墓所がある。1570(元亀元)年に亡くなった武田信玄の正室三条夫人の菩提寺。
三条婦人は五摂家の方であるらしく、武田家よりも家の格は上であった。
仲人は、どうも小田原の北条氏らしい。
京都のお公家のお嬢様がどうして甲府へ嫁入りしたのだろうか。
おそらくは、財政的な問題が背景にあったに違いなく、武田家側としては都にコネを持ちたいという願望があったにちがいない。
三条婦人の人柄について、境内内に看板があり、「西方一美人 円光如日 和気似春」とあった。
これによると、美人でお日様のように光を放つがごときであり、そばにいると春のようなほんわかした気持ちになってしまう性格であったらしい。
さて、円光寺の次は、信玄公の墓所である。
信玄公は、天正元年(1573年)4月12日、甲斐へ引き返す途中の三河街道上で死去、53歳の生涯を閉じた。
今の時代ならすぐに公表するのだが、戦国時代であるため信玄公が亡くなったことを周囲の大名が知れば攻め込んでくるに違いない。
そう考えた信玄公は、混乱を避けるため、その死を3年間秘密にするよう遺言を残したという。
正式な墓所は、塩山の恵林寺にある。遺言通り3年間秘匿した後に葬礼を行い、埋葬されたのだ。
では、亡くなってから3年間どうしていたのかというと、この場所に埋葬されていたらしい。
河尻塚
織田家臣の河尻秀隆が埋葬された場所らしい。
信玄公の墓所のすぐ近くに河尻塚があった。まったく予備知識はなかったが、案内の看板があったので立ち寄ることにした。
場所は、ゲートボール場と民家の間のきわめて狭い場所にあった。どうしてこんなひどい場所にあるのだろうと疑問を感じた。
天正十年(1582)3月11日、織田軍に追い詰められた武田勝頼と嫡子信勝は自害。
甲斐武田氏は滅亡。織田信長は、河尻秀隆に河内地方を除く甲斐と信濃諏訪郡を与える。そして、秀隆は、躑躅ヶ崎館には入らずこの河尻塚のあたりに館を構えたらしい。
その後、本能寺の変が勃発。
信長が死んだことを知った甲斐国内には一揆が発生し始め、6月18日、河尻秀隆は一揆に襲撃される。
織田は徹底した武田の家臣狩りと寺などを焼き払うなどのため甲斐の住民に相当に恨みを買っていたらしい。
ついに、秀隆は三井弥一郎に討取られ、逆さにして埋められた。それがこの河尻塚なのだという。
甲府の人間にとって、河尻秀隆は許すまじき人物で憎むべき存在なのだろう。それゆえ、このようなひどい扱いなのだろう。
現代で置き直すと、買収した会社へ単身赴任して頑張ろうとしたが、徹底したリストラなどがあり買収された側の従業員などの恨みが深かった。ちょうど、そこに買収した側の会社の経営が危うくなった。それをチャンスとみた従業員や役員などが反乱して、追い出したという感じになるのだろうか。
入口がまったくわからないような状況。かろうじて、ゲートボール場側のフェンスに入口がある。
あたりをうろうろとしていたら、ゲートボールを楽しんでいたご老人たちからフェンスのドアは開いているから自由に入りなさいと声をかけられた。
中に入ると、狭い。
すぐ後ろには民家が迫っていて、トタン板の錆が茶色に流れているのが印象に残った。
河尻塚を後にして、次は、信玄公の父である信虎公が埋葬されている大泉寺へ向かうことにした。
しかし、腹が減った。
民家は数多くあるのだが、食堂がまったくない。
売店もない。市街地だからどこにあるだろうと思っていたが、寺があるような場所ははずれにあるから、店がないのもしかたがないのだろう。