常陸太田をぶらぶらと小径車で訪ね歩いてみた。
本当ならロードバイクで遠くまで出かけたいのだが、午後に子どもの送迎があり、午前中しか時間がないので、近場の歴史探索をすることにしたのだ。
出発点は、常陸太田市のこめ工房の下にある公園の駐車場である。
ここは便利である。
どうして便利かというと、駐車場がいつも空いているし、すぐ近くにセブンイレブンがあるからスタート前に補給食などの準備ができるからだ。
また、久慈川サイクリングコースの上流側の終点は山田川なのだが、山田川まで2kmくらいなので、この場所を起点にして久慈川サイクリングコースを下ることもできる。
ここから、坂を越えて西山荘方面に向かうことにした。
西山荘までは坂を越えていかなければならない。
坂を上りきり、坂の下りが始まるところに交差点があるので、そこを右折する。
しばらく下ると、山の神というのがあった。
道路から少し外れて丘の方へ歩いて上ると山頂らしきものがあり、そこに山の神がある。
山の神の詳しい歴史は調べないとわからない。
詳しいことがわからなくとも、古人が何かを感じ、崇拝してきたのだから、なにがしかの尊きものがあるのだろうと思う。
遠い昔に、思いを寄せて、手を合わせることにした。
山頂から遠くの見通しがきくので、しばし風景を楽しむ。
緑の木々が重なり、山になり、海が波打つように見える。美しい。
おそらくは、昔の人もこのような風景を見ていたことだろう。
山の神からさらに下ると、すぐ近くに白馬寺がある。
昔、中国へ渡った僧が建てた由緒正しい寺なのだが、詳しい歴史を知らない。
現在とは異なり、中国へ荒海を渡っていくのは大変なことである。
費用も莫大であったろう。そのような留学が許された僧はよほど優秀であったに違いない。
その時代にはよほど立派な寺であったはずだが、惜しいことに現在はその面影はない。
その僧がどのような思いでこの寺を建てたのか、その思いや生き様が伝わるものがあれば素晴らしいのだが、それがわからない。
手がかりのようなものが残されていれば、残された断片から物語をイメージすることができるのだが、残念だ。
歴史とは、あらゆるものを風化させてしまうものだ。
どんな物語であってもそれを語り継ぐものがなければ後世には伝わらないのだ。
白馬寺を過ぎると、舗装路から砂利道になる。杉林の中を過ぎると、集落に出る。T字路を左折する。
さらにy字路を左に。
すぐ左に鉄製の柵がありその中に山寺水道の記念碑があった。
山寺の水道とは、永田円水が作った施設であり、全長約2kmのトンネル式の水道である。
江戸時代に、岩盤をくりぬいてトンネルを掘るのは並大抵ではない。
現在のようにドリルがあるわけではないのだから、鉄のノミをガツンガツンと岩に打ち付けて穴を掘り進むしかなかったはずだ。
2kmというと気の遠くなるような作業だったに違いない。
土木のことは詳しくないので、わからないが、水を流すためには勾配が必要である。2kmもの距離で水が上から下へ流れるようにトンネルを掘るにはどのような技術が用いられたのだろう。
わからないことだらけだ。
永田円水は、この山寺の水道以外に、久慈川、那珂川、笠原水道などの工事も行っている。
どのような人物だろうと思って調べたら、鉱山開発技術者であったらしい。金山などを掘り当てる仕事をしていたらしい。出身は、甲斐の国だという。
甲斐の国といえば、武田信玄である。
現在の甲府であるが、盆地であるため、農地が少ない。米を作ろうと思ってもそれほど収穫量が得られない。しかし、武田は、軍事力で優れていた。武器を購入するには資金がいるが、その資金はどのようにしたのかというと金山であった。金山を掘るために、武田は数多くの鉱山開発技術者を召し抱えていたのだ。
その技術者は、武田が滅ぶとともに各地に散らばったにちがいない。
その一人が永田円水であろう。
鉱山技術をちょっと応用すれば、堰を造ったり、水道を掘ったりすることは容易いに違いない。
思わぬところで、武田とつながってしまった。
杉林の中の坂を下り、左に折れ、集落のはずれまで行くと、旧久昌寺跡が見える。
現在の久昌寺は、常陸太田二高の近くに移っているが、昔は、この付近に久昌寺があったという。
写真の真ん中付近に昔の久昌寺があったらしい。
当時、かなりの規模の寺であり、学僧がたくさんいたという。
なぜ、寺を移転したのか理由は調べていない。
ところで、久昌寺は、徳川光圀公の母が祀られている。
徳川光圀公は、当時、かなりの寺を整理したらしい。
そのために、取り潰された寺が相当あったということである。
永田円水の墓。
運動公園前の木造の橋。
元治甲子の乱の際に、天狗党から常陸太田の街を守るために戦死した二本松藩士の墓。トンネルの脇にひっそりとあった。
常陸太田は坂の街。昔ながらの坂がたくさんある。
坂の途中にある井戸。
坂を登り切ると、これも昔ながらの建物が残っている。昭和の街がひっそりと残っている。マンゴク醤油。昔からの醤油店。とてもいい雰囲気の店なので、立ち寄ってみたい。
この家の柱には刀傷があるという。
博物館。煉瓦造り。残念ながら閉館中。
途中で見かけた建物。
いかにも昭和風。
雰囲気がよい。飲食店のようだ。
明治、大正、昭和のいずれに建てられたものだろうか?
昭和スタイルだろうか。
オシャレな雑貨店とその左側に昔風の煉瓦造りの建物。ここでは、ミニコンサートなどが行われる。
途中で見かけた薬屋さん。懐かしい雰囲気が漂っている。
スポーツ用品店。
本屋さん。
醤油屋さん。
最後は幼稚園。
常陸太田は、明治から昭和の建物がそっくり残っている。
空襲されなかったためだ。
残念ながら、自動車の時代になってからは商店街は坂の上から下へ移り、ひっそりとした雰囲気が漂っている。
たまに自動車が通るくらいだ。
それゆえ、タイムスリップした気持ちになる。
坂の街ではあり、上りは押して歩かなければならないかもしれない。
しかし、
いろいろな建物が昔のままに遺されているので、昭和を味わいたい人にはお勧めである。
なお、常陸太田市観光好協会のHPに史跡巡りのコースマップがあり、参考になる。
常陸太田駅に、電動アシスト自転車のレンタルがある。4時間200円で3台ある。
遠くの人はこれを活用すると楽チンだ。
http://www.kanko-hitachiota.com/wp/hitachiota/おすすめモデルコース/ひたちの歴史探訪コース/
本当ならロードバイクで遠くまで出かけたいのだが、午後に子どもの送迎があり、午前中しか時間がないので、近場の歴史探索をすることにしたのだ。
出発点は、常陸太田市のこめ工房の下にある公園の駐車場である。
ここは便利である。
どうして便利かというと、駐車場がいつも空いているし、すぐ近くにセブンイレブンがあるからスタート前に補給食などの準備ができるからだ。
また、久慈川サイクリングコースの上流側の終点は山田川なのだが、山田川まで2kmくらいなので、この場所を起点にして久慈川サイクリングコースを下ることもできる。
ここから、坂を越えて西山荘方面に向かうことにした。
西山荘までは坂を越えていかなければならない。
坂を上りきり、坂の下りが始まるところに交差点があるので、そこを右折する。
しばらく下ると、山の神というのがあった。
道路から少し外れて丘の方へ歩いて上ると山頂らしきものがあり、そこに山の神がある。
山の神の詳しい歴史は調べないとわからない。
詳しいことがわからなくとも、古人が何かを感じ、崇拝してきたのだから、なにがしかの尊きものがあるのだろうと思う。
遠い昔に、思いを寄せて、手を合わせることにした。
山頂から遠くの見通しがきくので、しばし風景を楽しむ。
緑の木々が重なり、山になり、海が波打つように見える。美しい。
おそらくは、昔の人もこのような風景を見ていたことだろう。
山の神からさらに下ると、すぐ近くに白馬寺がある。
昔、中国へ渡った僧が建てた由緒正しい寺なのだが、詳しい歴史を知らない。
現在とは異なり、中国へ荒海を渡っていくのは大変なことである。
費用も莫大であったろう。そのような留学が許された僧はよほど優秀であったに違いない。
その時代にはよほど立派な寺であったはずだが、惜しいことに現在はその面影はない。
その僧がどのような思いでこの寺を建てたのか、その思いや生き様が伝わるものがあれば素晴らしいのだが、それがわからない。
手がかりのようなものが残されていれば、残された断片から物語をイメージすることができるのだが、残念だ。
歴史とは、あらゆるものを風化させてしまうものだ。
どんな物語であってもそれを語り継ぐものがなければ後世には伝わらないのだ。
白馬寺を過ぎると、舗装路から砂利道になる。杉林の中を過ぎると、集落に出る。T字路を左折する。
さらにy字路を左に。
すぐ左に鉄製の柵がありその中に山寺水道の記念碑があった。
山寺の水道とは、永田円水が作った施設であり、全長約2kmのトンネル式の水道である。
江戸時代に、岩盤をくりぬいてトンネルを掘るのは並大抵ではない。
現在のようにドリルがあるわけではないのだから、鉄のノミをガツンガツンと岩に打ち付けて穴を掘り進むしかなかったはずだ。
2kmというと気の遠くなるような作業だったに違いない。
土木のことは詳しくないので、わからないが、水を流すためには勾配が必要である。2kmもの距離で水が上から下へ流れるようにトンネルを掘るにはどのような技術が用いられたのだろう。
わからないことだらけだ。
永田円水は、この山寺の水道以外に、久慈川、那珂川、笠原水道などの工事も行っている。
どのような人物だろうと思って調べたら、鉱山開発技術者であったらしい。金山などを掘り当てる仕事をしていたらしい。出身は、甲斐の国だという。
甲斐の国といえば、武田信玄である。
現在の甲府であるが、盆地であるため、農地が少ない。米を作ろうと思ってもそれほど収穫量が得られない。しかし、武田は、軍事力で優れていた。武器を購入するには資金がいるが、その資金はどのようにしたのかというと金山であった。金山を掘るために、武田は数多くの鉱山開発技術者を召し抱えていたのだ。
その技術者は、武田が滅ぶとともに各地に散らばったにちがいない。
その一人が永田円水であろう。
鉱山技術をちょっと応用すれば、堰を造ったり、水道を掘ったりすることは容易いに違いない。
思わぬところで、武田とつながってしまった。
杉林の中の坂を下り、左に折れ、集落のはずれまで行くと、旧久昌寺跡が見える。
現在の久昌寺は、常陸太田二高の近くに移っているが、昔は、この付近に久昌寺があったという。
写真の真ん中付近に昔の久昌寺があったらしい。
当時、かなりの規模の寺であり、学僧がたくさんいたという。
なぜ、寺を移転したのか理由は調べていない。
ところで、久昌寺は、徳川光圀公の母が祀られている。
徳川光圀公は、当時、かなりの寺を整理したらしい。
そのために、取り潰された寺が相当あったということである。
永田円水の墓。
運動公園前の木造の橋。
元治甲子の乱の際に、天狗党から常陸太田の街を守るために戦死した二本松藩士の墓。トンネルの脇にひっそりとあった。
常陸太田は坂の街。昔ながらの坂がたくさんある。
坂の途中にある井戸。
坂を登り切ると、これも昔ながらの建物が残っている。昭和の街がひっそりと残っている。マンゴク醤油。昔からの醤油店。とてもいい雰囲気の店なので、立ち寄ってみたい。
この家の柱には刀傷があるという。
博物館。煉瓦造り。残念ながら閉館中。
途中で見かけた建物。
いかにも昭和風。
雰囲気がよい。飲食店のようだ。
明治、大正、昭和のいずれに建てられたものだろうか?
昭和スタイルだろうか。
オシャレな雑貨店とその左側に昔風の煉瓦造りの建物。ここでは、ミニコンサートなどが行われる。
途中で見かけた薬屋さん。懐かしい雰囲気が漂っている。
スポーツ用品店。
本屋さん。
醤油屋さん。
最後は幼稚園。
常陸太田は、明治から昭和の建物がそっくり残っている。
空襲されなかったためだ。
残念ながら、自動車の時代になってからは商店街は坂の上から下へ移り、ひっそりとした雰囲気が漂っている。
たまに自動車が通るくらいだ。
それゆえ、タイムスリップした気持ちになる。
坂の街ではあり、上りは押して歩かなければならないかもしれない。
しかし、
いろいろな建物が昔のままに遺されているので、昭和を味わいたい人にはお勧めである。
なお、常陸太田市観光好協会のHPに史跡巡りのコースマップがあり、参考になる。
常陸太田駅に、電動アシスト自転車のレンタルがある。4時間200円で3台ある。
遠くの人はこれを活用すると楽チンだ。
http://www.kanko-hitachiota.com/wp/hitachiota/おすすめモデルコース/ひたちの歴史探訪コース/