ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

甲府 歴史ポタリング 五山を訪ねて

2013-10-15 05:13:31 | 自転車
午後1時を回っていた。
住宅街の中を走っているせいか飲食店やコンビニが見当たらない。
お腹がすいているのだが我慢するしかない。
日差しはまるで夏のように照りつけて、暑い。

次は、信玄公の父である武田信虎公の墓所のある大泉寺を目指す。
住宅街の細い路地を通って、どうやら大泉寺の横のマンションのあたりにたどり着いた。
目の前は大泉寺である。
しかし、敷地の境目に鉄線があり、自転車を担いでも、そこは乗り越えられない。
目の前にありながら、迂回しなければならなくなった。
iPhoneの地図アプリで、どこから行けばよいのか調べたが、わからなかった。
それで、道路工事のガードマンのおじさんに大泉寺への道順を尋ねた。
おじさんも詳しくは知らなかったが、
「詳しいことはわからないのですけど、地図によるといったん上の方へ行って右へ曲がるとお寺に着きますよ」
にこやかにこれから先の道順を指さしながら教えてくれた。
こんな暑いのにもかかわらず、親切な対応に感謝し、教わったとおりに上へ、そして右へ右折してみた。
そこも住宅街だった。
どうも、大泉寺の墓地のあたりに出たらしい。
しかし、入口がわからない。うろうろと墓地の周辺をうろついて、やっと民家の隣の50cmくらいの道を見つけた。
たぶんそこだろうと目星をつけて、中へ進む。
墓地だ。たくさんの墓石が立ち並ぶ。
相当広い。どうも、お寺の裏の山にある墓地に出てしまったようだ。
やっと階段を見つけたので、自転車を担ぎながらゆっくりと下りた。
寺の裏側から入ってしまった。
すぐに信虎公の墓所が見つかった。




信虎公といえば、信玄公に追い出されており、親子の不仲が有名である。
事件の背景には諸説あるらしい。
wikiによると、
信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の信繁を偏愛しており、ついには廃嫡を考えるようになったという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたというものまで伝わっている。
いずれにせよ家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。
また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。

現在でも父と子の不仲はあるが、当時は現在のような家庭環境で父と子が一緒に暮らしていたわけではないので、同じように考えてはいけないだろう。
どこかに書いてあったか忘れたが、当時は子どもが生まれると乳母の元で育てられたので、乳母やそれを支える者たちの影響を強く受けるらしい。
それにしても、世代間で意見があわないので、先代に引退を迫るというオーナー企業の事例はよくある。




裏の墓地から寺に入ったので、山門は最後出るときに見たが、立派だった。



さて、次は甲府五山の寺を回る。
甲府五山とは、何か。
Wikiによると
臨済宗に帰依した武田信玄は、京都と鎌倉の寺院で構成される五山制度にならい、甲府に五山制度を定めるために、甲斐国の古刹を府中(甲府)城下に集め、これらの寺院を臨済宗妙心寺派に改めた。通常の五山制度では1位から5位までの格付けがされるが、甲府五山においては順序、格付け等の明確な規定も資料も残されていない。

室町、戦国時代のころは武士の時代なので、禅宗が流行っていたのだ。その後、徳川の時代になると禅宗よりも浄土宗が力を持つようになる。


次の寺を目指すのだが、お腹がすいてたまらないのに、まったく飲食店が見当たらない。
だんだんと身体がだるくなってきた。
いくら何でもそのうち、どこかで食べ物を補給できるだろうと自分を騙しながらペダルを踏む。


長禅寺
甲府五山の筆頭にあげられる名刹だ。
ここには、信玄公の母である大井夫人の墓所がある。
長禅寺の開山時の住職である岐秀元伯は、大井夫人が招いたという。
岐秀元伯は、信玄公の師であり、人間形成に大きな影響を与えたらしい。
信玄公に「晴信」から「機山信玄」という法号を与えたのも岐秀元伯とのこと。

まるで京都の寺かと思うくらいにでかい。








この五重塔は、昭和になってから築かれたものとのこと。
昭和になってから五重塔を建てられる財政基盤があるなんて驚きだ。
このお寺山には、いったいどういう檀家さんがいるのだろうか?

信玄公の母の墓所。



長禅寺の拝観を終えて、腹ぺこのせいでひどく疲れてきてしまった。
台風の影響で、風も強くなってきたようだ。

次は、能成寺だ。
地図アプリでは、線路脇の道路が標示されていないが、車1台がやっと通れるくらいの幅だが線路沿いにどうにか進めそうな気がした。
途中まで行って引き返すのも悔しいので、たまたまた通りかかった女子高生に聞いてみた。
「この道はずっと行けますか? のうせいじという寺に行きたいのですが?」
セーラー服を着た女子高生は、一瞬、固まったような気がしたがすぐにこちらに他意がないのを見て取ったらしく、親切に答えてくれた。
「ええ、行けます。でも、そのお寺は知りません」
おかしいな。甲府五山で有名なはずなのに、まあ、女子高生は寺に興味がないから寺のことは知らなくても当たり前かと納得。
感謝の言葉を述べて、線路沿いに走った。
途中のT字路を左折。

能成寺(のうじょうじ)
この寺は、のうじょうじと呼ぶのだ。
知らなかった。高校生が知らぬのも当たり前だ。
ここには芭蕉の句碑があった。
寺は小山の麓の傾斜地にあった。自転車を降りて、歩く。
寺の横や後ろにはブドウ畑が広がっていた。
ブドウ畑とお寺。
組み合わせが自分の中でいま一つフィットしないが、斜面一面に広がるブドウ畑は異国的でいい感じだ。


禅寺らしく清楚な感じで掃除されていて気持ちがいい。






東光寺
ここは庭園が有名だ。
知らずに行ってみてびっくりした。失礼だが、甲府にこんな寺があるなんてと驚いた。
蘭渓道隆の作庭とされる池泉鑑賞式庭園。石庭も素晴らしい。
しばし、空腹も忘れて、庭を鑑賞した。











国の重要文化財の仏殿。




東光寺には圧倒されてしまった。素晴らしい庭園が無料で拝観できるとは。なんと懐が広いのだろうと感嘆しながら、次を目指す。

この付近には、普通にブドウ畑があり、庭先で直売している。

庭先をかすめながら細い道を走っていたら地元のさびれたスーパーを発見。
やっと食べ物が買える。

店の中に入ると、誰もいない。
「こんにちわ」
何度も大声で呼びかけるが反応がない。
それで奥のほうへ向い、大声で呼びかけてやっと店主が出てきた。
店はあまり流行っている感じではない。おそらくは20年以上前がピークだったのでは、客もごく近所の人だけなのだろう。品揃えは豊富ではない。
カロリーメイトかジェル系のものが欲しかったのだが無かったので、そのようなものがあるはずもない。やむなく、あんパンと牛乳を買った。

店の外へ出て、駐車場においてあった古タイヤの上に座り、ゆっくりと食べる。
牛乳が喉を通り、胃袋に入ったのが冷たさでわかった。
ほっとした。

時計を見ると午後3時30分を過ぎていた。これからまだ回るところがある。6時までにホテルに帰れるだろうか。

予定を考えながら、善光寺へ。
東光寺から東へ向かうと善光寺がある。

甲斐善光寺
甲府五山ではないが、長野の善光寺とゆかりがある。
本堂は、東日本最大の木造建築物らしい。
これもwikiによるが、
信玄は信濃侵攻を行い越後の上杉謙信と衝突し、現在の長野県長野市南郊において五次に渡る川中島の戦いを行うが、弘治元年の第二回合戦では戦火が信濃善光寺に及び、信玄は自分の領国である甲斐へ本尊などを移したといわれ、以後、川中島の戦いの戦火は善光寺方面へ及んでいない。上杉謙信もまた領国の春日山城下に本尊以下を遷しており、善光寺別当栗田氏も武田方と上杉方に分裂している。



甲斐善光寺には、日本一の泣き龍と戒壇めぐりがある。
さっそく、龍を試してみた。ここで手をたたくともっともよく響きますという場所にたち、手を打った。
反響音が重なり、龍の鳴き声に聞こえなくも無い。なるほど納得。

2回試してから、ご本尊の裏側へ回り、戒壇めぐりに挑戦をした。
真っ暗な階段を下り、何も見えない空間を左手の壁に触れる感触だけを頼りに進んでいく。
ちょうど腰のあたりにカギがあるらしく、これに触れたら良いことがあるらしいというので、ゆっくりと進む。
幸運なことに途中で左手にカギが触れた。
瞬間、家族の健康と幸せを祈った。
入口はこちら


その後、展示されていた地獄絵を見て回った。文字が読めず、映画もテレビもない時代に民衆を教化するためにはこのように分かりやすい絵が有効であったろう。今なら地獄絵は大迫力のスペクタクルな3D映画のようなものだろうか。絶対的な善悪の基準が揺らぎ、経済的な損得でしか物事を考えなくなっている現代人ははたして幸福なのだろうか。

宝物殿も見学したかったのだが、もうすでに閉まっていた。残念だ。

あと二カ所を回らなければならない。


甲府城趾
工事中のところもあったのだが、天守閣跡まで上ってみた。
そこから、甲府の街や甲府盆地を取り囲む山々が一望できた。すばらしい眺望だ。
芝生の上に座り、次第に、太陽が黄色から赤くなっていくのを眺めた。
観光客もほとんどいないので、江戸時代などへタイムスリップする空想にふけることができた。
この場所に立ち、同じような景色を眺めた古人の気持ちはどのようなものであったろうか。



素晴らしい石垣。武田神社の石垣と比べると、石を積む技術の進歩がわかる。





ほぼ唯一の建物といえる櫓。


要害山や武田神社との位置関係を確かめることができる。


外堀まで出て、ぐるっと回ってさきほど上から見ていた櫓を下から見上げてみた。





法泉寺

ここには、勝頼公の墓所がある。
法泉寺のHPによると、以下のとおりだ。
信玄公が世を去って後を継いだ勝頼公からも引き続き保護を受けましたが、長篠の戦い以後武田家は衰運に向かい、ついに天正10(1582)年、織田・徳川連合軍に追いつめられた勝頼公は天目山(現在の甲州市大和町田野)の地で自刃し、武田家は滅亡してしまいました。そして勝頼公の首級は織田信長の命で京都六条河原にさらし首となったのです。
 しかしこれを知った当山三世の快岳禅師は、妙心寺の南化和尚の力を借りて、勝頼公の首級(歯髪ともいわれている)をもらい受け、当山に持ち帰り手厚く葬ったのです。







お参りを終えて、山門のところへ戻ったら、近所の子どもたちが遊んでいた。
こんにちはと声をかけたら元気よく返事が返ってきた。

子どもたちはもうちょっとだけ遊ぼうとか帰ろうとか話し合っていた。
そこに、犬を連れたご老人が現れた。
夕日は赤くなり、山の向こうに沈みつつあった。
子どもたちは、じゃあまた明日遊ぼうと言って手を振りながら自宅へ駆けていった。

夕暮れが迫っていた。
そうだ、帰ろうと私も知らずに呟いていた。



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