ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

天狗党を追う~佐久、望月宿

2012-12-11 20:23:10 | 自転車
天狗党を追う旅の2日目後半
内山峠を越えて、坂をひたすら下り,佐久、望月宿へ。この日の宿泊は明治から営業しているという古い宿屋さんでした。

内山峠を下ると右手に奇岩が見えたのでちょっと休憩をした。
下りはやはり体が冷える。
下る途中,前腕部のあたりから冷たい空気が少しずつ入り込んできて,だんだんと胸のあたりまでくる。
グローブとジャケットのわずかな隙間から入り込んでくるのだ。
ジャケットの袖口がマジックテープで風が入らないようにぎゅっと絞めることができるので試みてみた。少しは冷たい風がはいるのが防げた。


途中の公園でかわいらしい夫婦の道祖神を見かけたので寄ってみた。石の状態からすると最近に作られたもののような気がする。
2人の顔も仕草からどことなく現代を感じる。夫婦の道祖神を集落の縁に置くのは魔除けのためだと聞いたことがある。
仲むつまじい夫婦の中を邪魔するような輩がいたなら,きっと思い切り蹴飛ばされ,近寄ることができない。
このような像を集落の周縁に置くことで集落に悪しきものが近づくのを防ごうということらしい。
長野の道を走っていると集落の終わり,境界付近に道祖神が建てられていることが多く,それぞれに個性があって興味深い。
この夫婦像を見て,穏やかな気分になった。
この像のすぐ側に岩肌を削って作った神社があったが,先を急いでいることもあり,遠くから手を合わせるだけにした。






平賀宿の表示が現れた。天狗勢が通過した約160年前もこのあたりに平賀村があったのだろう。昔の道を辿りたかったのだが,残念ながらどこが江戸時代に使われていた道なのか判然としなかった。天狗勢は平賀村泊まりとなった。



昔の雰囲気を残す建物がいくつかあった。



平賀宿を過ぎて佐久市の中心部へ向かう途中,右側に雪をかぶった浅間山が見えた。佐久市内を走っているときはいつも浅間山がどこかに見えていた。
佐久市は盆地であり,山に囲まれている。大きな山があり,それが毎日見えていれば,きっと山に見守られているという気持ちになるに違いない。
佐久市内を走りながら,どうしても山が気になり,何度も,浅間山がどこにあるのかを探してしまった。
そういえば,私が住んでいる茨城はほとんどが平地でたいした山が無い。茨城の人間が山というのは,ほんのちょっと小高い林のことをさしていることが多い。
友人が茨城を訪れて案内したときに,山がある地域で生まれた友人は茨城へ来てなんだか落ち着かないのは山が見えないからだと言っていた。
生まれ育った環境を意識することはあまりないかもしれないが,無意識のうちに刻み込まれていることは間違いないように思う。




千曲川である。この川が日本海側まで流れているのだ。そして、海の水となり、いつか蒸発して雲となり、空を行き、雨となり、川となる。水はこのように永遠ともいえる循環をしている。いま目の前にある水はいったいどのくらいの時間をかけて日本海に到達するのだろう。若い頃は自然を即物的に見ていたように思う。年齢を重ねるにつれて、次第に繋がりにも気づくようになった。因縁という言葉がある。因は直接的な原因、縁は間接的な原因のことらしい。因だけではなく縁まで拡げて観ると、世界が繋がって見えてくる。現代は即物的的に原因を求める考え方が流行っているので、すぐに関係ないと言いたがる傾向がある。繋がりを断ち切った人間はどこへ行くのだろうか。
千曲川といえば島崎藤村の歌があったことが浮かんだりした。残念だがどんな歌だったか全く思い出せなかった。



野沢村付近。このあたりも天狗勢が通過しているはずだが,今ではそれらしい痕跡はない。とりあえず,地名の標識を撮影した。
内山峠を越えて,空腹感を感じたので,コンビニに立ち寄ってジェルとリポDを補給した。
リポDは糖分とカフェインとタウリンが含まれているためか飲むと2時間くらいは活力がよみがえることがわかった。
天狗勢だが,11月18日にこのあたりで昼飯をとっている。


たぶん野沢村のあたり。自信は無い。


八幡宿の手前、中込村のあたり。天狗勢が通過したらしい。
そのとき天狗勢を見物する者の中に怪しい者がいたので捕らえると偵察を命じられた小諸藩の足軽だった。彼らを縄をかけて望月宿まで連行している。


中山道の標識。ここから中山道を走ることになる。中山道を歩く人のための案内板が充実しているので有り難い。


八幡宿。古い感じの建物が残されている。


中山道の一里塚。
一里は約4kmである。なぜそうなのか走りながら突然ひらめいた。
たぶん,徒歩の人が1時間で歩ける距離なのだ。一里だと1時間,四里だと4時間と歩く場合の目安が立てやすいのだ。
尺貫法もcmで表記すると中途半端な数字になる。しかし,人を基準にすると実に合理的な計測法だといえる。
たぶん同じような発想なのだろう。


なんとなく秋の中山道の道らしさを感じた。


峠には必ず道中の安全を祈願する石仏などが置かれている。


自転車を置いて,休憩。
自転車のちょっと先のほうに左へ下る小道がある。そこが旧中山道であり,細く傾斜がある山道だった。


望月宿へ下る前に西の方を眺めてみた。午後3時を過ぎると日光に勢いがなく,晩秋の夕暮れがもうすぐ迫っていることを感じる。


望月宿の入り口の長坂橋の近くの断崖に建てられていた寺院。



天狗勢は,11月18日に望月宿に宿泊する。
望月宿は現在も古い宿の建物が何軒も通り沿いに残っており江戸時代を感じさせてくれる。
望月宿は,wikiによると
「天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で宿内人口は360人であった。」
そこへ約1000名もの天狗勢がやってきたのだから宿の手配は大変であったろう。

ここが私が宿泊した宿。


本陣跡にある資料館。残念ながら月曜日であったので休館で入れかなった。


旅籠「大和屋」の真山家は問屋も兼ね、名主だったという。


宿泊先の宿の玄関を入ったところ,明治の造りだそうで,なかなか風情がある。この日は私の他に1組の客しかいなかった。
木造三階建てで,隣部屋との仕切りは襖,廊下とは障子。プライバシーはほとんどない部屋の造りである。
暖房は石油ストーブに,電気毛布であった。



内山峠を越えて望月宿までの天狗勢は,途中で下仁田の戦闘で傷ついた者を治療したり,近くの豪農豪商から献金をさせるなどの行動を取っていた。
望月宿に入った天狗勢は,天狗勢を追う幕府軍や先に待ち構えているだろう松本藩、高島藩が夜討をかけてくるかもしれないと警戒し、篝火を焚き、見張りをたたせ、偵察を馬で四方に放ち、また各宿では襲撃に備え畳を裏返し、武具を身につけたまま寝たという。

旅館の人に天狗党の話しをすると,天狗党がこの周辺の地域の人に無理に献金をさせたためあまり水戸に対する印象が良くないのだと聞かされた。
野沢村から500両、平賀村から200両、八幡宿から200両の献金があった。
幕末の頃の1両はいくらか。
諸説有るようだが,明治大学の小野正弘教授が年代別に割り出した「幕末の貨幣価値」によると1863年当時の1両は14,800円だそうである。
天狗勢はおよそ1300万円の献金を受けたことになる。
ここで「献金」とはいうものの天狗勢から呼び出され協力を求められたときに逆らえば何をされるかわからない,献金の実質は強請りとも言える。
天狗勢の主張は尊皇攘夷であり,横浜閉港にあった。
尊皇攘夷の志が高くとも,現実に行動するには資金が必要で,そのために多くの人に迷惑をかけてしまったのだ。
話しは変わるが,発展途上国において独裁者に抵抗するゲリラ組織が富豪に献金を要求し、薬物を売り、ひどい時には誘拐して身代金を要求するなどのやり方で資金を獲得することが行われる。
そして,革命などが起こると新しい権力は美談を作り上げてしまうが、実際にはかなり酷いことが行われてしまうのだ。
歴史の転換が行われた際に,悪い権力者を弱い者が倒したのだというストーリーが語られるが,善悪と単純にものごとを単純に割り切ってしまうのはあまりに安易すぎるような気がしてならない。

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